14 「私には自信なんて」
14
お母さんがやってきた次の日の朝。夏芽さんが若返ってから三日でもとの姿に戻れることが分かったので、薬の効果が切れるのを待つことにした。夏芽さんとちなみちゃん、どちらがなっちゃんなのか、本人に聞くのが一番早いと思ったからだ。いや、僕の中であらかた真相は見えていた。たぶん二人いたんだ、なっちゃんは。
そう気付いたのはお母さんの言葉があったからだった。
お母さんが夏芽さんのことをなっちゃんだと告げた日、お母さんがちなみちゃんの方を見ながら『健、この子はお友達?』と尋ねてきた。
『部活の後輩のちなみさんだよ。本名は山口菜美花だっけ?』
『はい、ご挨拶が遅れてすみません』
『やっぱり!会うのは久しぶりだね、小学校以来?』
この一言がきっかけで、僕らは十二年前のことを思い出せた。なっちゃんは二人いたと気付いたときには、僕は二人に対する罪悪感で踏みつぶされそうになった。
あとは夏芽さんがもとの姿に戻るのを待つだけだった。なぜ夏芽さんは若返ったのか、本人の口から真実が知りたかった。部屋のインターホンが鳴り僕が部屋の玄関を開けると、ちなみちゃんの後ろに夏芽さんが立っていた。小学生ではなく、もとの大学生の姿で。
「おはよう、ケン」
「おはようございます、夏芽さん。・・・大丈夫?ちなみちゃん」
僕がそう声をかけたのは、ちなみちゃんの目が真っ赤だったからだ。
「・・・夏芽さんから話を聞きました。若返った理由も、全部。健さんも二人で話せた方がいいと思うので、私はこれで失礼します」
そう言って彼女は階段に向かって去っていった。
「・・・かわいい後輩をいじめたんですか?」
「ちっ、違うよ!私が泣かせたわけじゃなくて、いや、私の話を聞いて泣いたんだから結果的に私が泣かせたことになるのか・・・?いやともかく、あがらせてもらうよ」
夏芽さんは若返ったことなどなかったかのように、いつもと変わらない様子でずかずかと僕の部屋に上がりこんだ。
「お母さんは大丈夫なのか?」
「はい。誤解は解けましたし、もともと今日の朝出発する便を取っていたみたいで、朝起きてすぐニューヨークに戻っていきましたよ」
前の晩はお母さんがうちに泊まることになったので、小学生の夏芽ちゃんをちなみちゃんに預けた。お母さんは僕の一人暮らしの部屋で夜を明かした後、あっという間に旅立っていった。忙しい中僕のことが心配で時間を縫って来てくれたそうだ。いい母親だ。
「なら良かった。・・・まずはその、すまなかった。君に黙って薬を飲んだりして」
言いたいことは山積みだった。少しくらい相談してくれてもよかったじゃないですか、とか、ケータイの待ち受けなんてわかりづらいところにメッセージをのこさないでください、とか。でもそれ以上に聞きたい事があった。
「・・・どうして夏芽さんは若返ったんですか?」
僕は夏芽さんの瞳を逸らすことなくじっと見つめた。夏芽さんは何も答えない。
「それに、どうして十年分も若返れたんですか?マウス実験ではそんなデータ、出なかったはずです」
それは、科学者として純粋な疑問だった。マウスの寿命は長くて四年。だから、十年分若返ろうと思ったら実験とは別の、新たな若返り薬を創らなくてはならないはずだ。
「・・・セレンディピティーという言葉をケンは知ってるかい?」
「幸福な偶然によって、思いがけない発見をする潜在的な力、でしたっけ?まったく予期しなかった結果や失敗がもとでとんでもない大発見をする、みたいなことでしたよね。・・・まさか」
夏芽さんは大きくうなずいた。
「そのまさかだよ。マウスではせいぜい数か月分しか若返らなかったあの薬が、人間だと十年分も若返ったんだ。私がしばらく部室に顔を出さないことがあっただろう?あの間、私はあふれ出る好奇心を抑えることができなくて、ひとり自宅で自飲実験を行った。マウスと人体における薬の効果の差を試したかったが、君に相談すれば絶対に反対されると思って一人でやった。そしたら十年も若返るから、両親も困惑してたよ。両親には迷惑をかけてしまったけど、おかげであの薬は十年も若返らせることができると分かった。まさにセレンディピティーだろ?」
夏芽さんはしたり顔で言った。
「偶然実験が成功したから良かったですけど、どうして自飲実験なんてリスクの高いことを・・・」
「単純だよ。私とケンが創った薬だよ?自信があったから、絶対に失敗しないと思った。結果は予想に反して十年分若返ってしまったけどね」
天才というのは、まさしく夏芽さんのことをいうのだと思った。自信があったからって自分で薬を飲むなんて、馬鹿げている。
「じゃあ、僕らの前で若返り薬を飲んだのは?ただ薬の効果を試したかった訳じゃないんですよね」
僕は改めて夏芽さんに問いかけた。しかし相変らず夏芽さんは答えようとしない。
「これは僕の推測でしかないけれど、夏芽さんは十二年前のこと、すべて覚えていたんじゃないですか?」
夏芽さんが珍しく動揺の色を示していた。
「覚えていたからこそ、若返ったんじゃないですか?僕とちなみちゃんに十二年前のことを思い出させるために」
夏芽さんは観念したかのように、「さすがだね」と頷いた。
「驚いたよ。君がそこまで勘付いているなんて」
窓から立ち込める朝日が夏芽さんをまぶしいくらいに照らし出した。
「話をしようか。ある男の子を十二年間追い続けてきた少女の話を」
僕たちは学生マンションをあとにして部室へと向かった。薬品やら実験用具やらで散らかった部屋ではあったが、二人にとっては思い出の場所だった。
「若返った私を着替えさせるとき、重さでスマホに気付くと思ったんだけどね。いやあまさかソファに挟まって見つからないとは予測できなかったよ。おかげで余計な心配かけてしまったね。ごめんごめん」
悪びれる様子もなく夏芽さんはソファに座り足を組んだ。
「そのことを知ってるってことは、若返っていた間の記憶もちゃんと残っているんですね」
「うん、すべて覚えているよ。二人に囲まれてオムライスを食べたこと。三人で川の字で寝たことも、君の初恋相手が誰なのかも、全部」
僕は返す言葉が見つからなかった。三人で一緒に寝たときも狸寝入りだった、ということか。
「若返っている間は大学生の時の記憶とかは残ってなかったんだけど、元に戻る分には記憶は保持できるみたいだね。論文に追記しておかないと」
そう言いながらも夏芽さんが実験のために若返り薬を飲んだわけではないことに僕は気付いていた。僕も夏芽さんと向かい合う形でもう一方のソファに座った。
「早速ですが、教えてもらえませんか?どうして若返ったのか」
「そう焦らないで。時間はたっぷりあるんだ。十二年前のこと、最初から説明したほうが分かりやすいと思う。だから長い話になるよ」
「構いません。僕も十二年前の夏芽さんのこと、いや、なっちゃんのこと、知りたいです」
夏芽さんは目を閉じ、昔のことを思い出しているようだった。
「初めて君と出会ったのはちょうど十三年前、私が小学3年生で、ケンが1年生だった時。放課後、学童保育に預けられていた私は初めてケンと出会った。私は預けられてから三年目ってこともあってあの環境には慣れていたんだけど、初めて預けられたケンはどうしていいか分からなかったみたいで、おどおどしてたよね。それで話しかけたんだ」
『そこの少年、一緒に遊ばない?』
『ううん、いいよ。僕本読んでるから』
『そうなの?さっき君を見たとき、【お母さんの仕事が忙しくてこんなところに預けられたけれど、どうしたらいいかわからない子】って顔をしていたから声をかけたのだけど』
『そんな顔してないし!』
聞き覚えのあるやり取り、まさか。
「入学式、夏芽さん似たようなセリフで僕に部活勧誘してきたのって・・・」
夏芽さんは呆れたように微笑んで「ようやく気付いたか」と言った。
「私はケンがこの大学に入学してきたあの日、一目見てあのケンくんだって気付いたよ。初めて会った時と同じ言葉回しを使えば私があの頃のなっちゃんだって君に気付いてもらえると思ったんだけどね。想像以上にケンの記憶能力はポンコツだったらしい」
言い返すこともできず、僕は一言「すいません」と呟いた。
「まあいいよ、話を戻そう。最初は警戒されてたみたいだけど次第に仲良くなっていってね。もともとクラスのみんなからなっちゃんって呼ばれてたから、ケンくんにもそう呼んでほしいって言ったんだ。半年くらいしてかな、家をリフォームしてお花屋さんとマイホームを一体化させることになって、私は学童保育を卒業することになったんだ。でもみんなと別れるのが悲しくて、最後の日に泣いちゃったんだ。そしたらケンくんが『お別れしても、お別れじゃないから!お花屋さん、絶対行くから!』って言ってくれたんだ。嬉しかったなあ・・・。きっとそれが、私の恋の始まりだった」
僕ははっとして夏芽さんを見つめた。夏芽さんの頬がほんの少し紅潮しているのがわかった。あの時から、だったんた。
「そしてさらに半年たって、ケンくんが小学2年生に進級したとき、うちのお花屋さんに女の子を連れてきたんだ。その前から『なっちゃんに会わせたい子がいるんだ!早く紹介したいんだけど、僕もまだ仲良くなくて、だから待っててね!』とは言われてたけど、まさか女の子だとはね。ケンくんが紹介してくれた女の子はとても背が小さくて、お人形さんみたいにかわいらしい子だった」
『あ、えっと、山口菜美花、です。先月引っ越してきて、前の小学校ではなっちゃんって呼ばれてました。よ、よろしくね・・・』
『か、かわいいっ!菜美花ちゃん、こちらこそよろしく!』
「同じあだ名ということもあって私たちはすぐ仲良くなったよ。ケンはどっちのこともなっちゃんって呼んでたから覚えてないかもだけど、紛らわしいからちなみちゃんには『お姉ちゃん』って呼んでもらうようにしてたんだ」
自分で呼ばせていたのか・・・。まあ、夏芽さんらしいといえば夏芽さんらしい。というより、さっきから菜美花って、一体誰なんだろう。
「ちなみに、ちなみってあだ名は私が考えたんだよ」
「あだ名って、ちなみは本名なんだからあだ名も何もないですよ」
「は?」
僕は真面目に突っ込んだつもりだったのに、夏芽さんに白い目を向けられてしまい面喰った。
「ちなみの本名知らないで今まで過ごしてきたの?山口菜美花。やまぐ、ちなみ、か。名前が菜美花だから君もなっちゃんって呼ぶようになったんだろ?」
僕は目を丸くした。驚きが最初に来て、それを追いかけるようにして恥ずかしさがやってきた。本名を知らないなんて、失礼すぎる。
「し、知らなかったです。大学で会ったときも『ちなみって呼んでください』って言われたので、てっきり本名だと思ってました・・・」
ちなみさんの家には表札もなかったし、フルネームを知る機会もなかった。夏芽さんはすっかりあきれ顔だった。
「信じられない・・・。まあ私自身、ちなみが今でもそのあだ名を気に入って使ってくれてるなんてびっくりだったけどね」
なんという奇跡。巡りあわせとはこのことを言うのだろう。打ち合わせなく十数年ぶりに再会した友人が、昔自分のつけたあだ名を使ってくれているというのは夏芽さんにとっても嬉しかったことだろう。
「でも夏休みに入って後半あたりからかな、三人で会う回数が減っていって、最初は二人とも家族旅行でも行っちゃったのかなって思ってたんだ。そんな中、夏休みが残り一週間ほどになったころ、ちなみがお母さんと一緒にお店までやってきて、来週引っ越すことになったことを告げられた。せっかく仲良くなれたのに、と思ったけど私が弱音を吐くわけにはいかないからね。『お別れしても、お別れじゃないから!』って言ってあげたよ。ケンくんにも引っ越すことを伝えたのか聞いてみると、予想外の答えが返ってきた」
『言うには言ったんだけど、あの時、その・・・。ケンくんと、ち、ちゅーしちゃって。それ以来会うのが恥ずかしくなっちゃったんだ・・・』
「驚いたよ。今の関係を壊したくなくて一年間私がもたもたしている間に、二人の関係がそこまで進んでいたなんて・・・。ちなみちゃんより告白するチャンスはあったはずなのに、私は何もできなかった。あの時の後悔は今でも忘れない。ああ、先を越された!って」
確かに僕はちなみちゃんの方のなっちゃんにキスされていた。しかし、僕を好きでいてくれたのはちなみちゃんだけではなかったんだ。今も昔も鈍感なところは変わってないなと思った。
「まあ、あの時の後悔があるからこそ今こうして積極的にアピールしてみたんだけど、結局いつも恥ずかしくてごまかしちゃってたんだ。ごめんね、ケン」
いや、夏芽さんの気持ちに気付かないふりをして自分の心に蓋をしてしまったのは僕のほうだ。夏芽さんは何度も想いを伝えてくれたのに、おちょくられているだけだと夏芽さんと向き合おうとしなかったのは僕だ。
「ううん、こちらこそごめん」
「謝らなくていいよ。それから、引っ越し当日になっても進展ないみたいだったから、しびれを切らした私がちなみちゃんにバラを持って告白したら?ってアドバイスしたんだ。お母さんのアドバイスをマネしただけなんだけどね?」
「マネ?」
「私のケンくんに対する気持ちに気付いてたんだろうね。ある日お母さんが言ってくれたんだ」
『赤い薔薇の花言葉は【あなたを愛しています】。夏芽にも赤い薔薇を渡したいと思える相手が現れたらいいね』
「その話を聞いて、私もいつか、ケンくんに赤い薔薇を渡すんだ!って決めたんだ。それなのにちなみに同じことアドバイスしちゃうなんて、私は馬鹿だ」
きっと夏芽さんには僕への恋心と同じくらい、ちなみちゃんとの友情も大切だったのだろう。
「・・・でも、待ってください。僕のお母さんは若返った夏芽さんを見て、『あの時バラを届けてくれたなっちゃんそっくりだよ』と言っていました。それって、どういうことなんですか?」
夏芽さんは考える人のように顎に手を当て、しばらくしてから覚悟を決めたように顔を上げた。
「ケンに隠していたことがあるんだ。十二年前、ちなみから『ケンにキスした』ってことは聞いてたから、てっきり私は二人が恋人同士になったとばかり思っていたんだ。だから、引っ越しの日、ちなみのもとにケンが来ていなくてびっくりしたよ。
『お別れだね、夏芽ちゃん。せっかく仲良くなれたのに残念だなあ』
『私も。せっかく同じなっちゃん同士なんだから、これからもずっと一緒が良かったんだけどな。・・・ところでケンくんはどこに行ったんだ?』
『・・・いやあ』
ちなみは笑顔でごまかそうとしてた。
『いやあって、いいの?ケンくんと会えなくて』
『わたしも引っ越しの日は伝えたんだけど、こられなかったみたいだね。しょうがないよ』
『しょ、しょうがないって・・・。ケンくんとちなみは恋人同士なんだよね?なのに会わないなんておかしいよ』
『ちち違うよ!ちゅーしたのは勢いというか、この前も言ったけど、ちゅーしてから気まずくなっちゃって。わたしも、どうしたらいいかわからなくて・・・。だから付き合う以前の問題なの』
私は呆れて声も出なかった。
私は、ケンくんのことが好きだったけれど、君がちなみと結ばれるならそれでもいいと思った。なのに、付き合うどころか、二人はまだ仲直りすらしてなかったんだ!
なんだかだんだん怒れてきちゃって、無性に腹が立った。確かに、このままちなみが引っ越してしまえば私にチャンスが回ってくる。でも、そんなのを望んでいる訳じゃない!私の恋心を馬鹿にすんな!って思った。ちなみにはきちんと想いをぶつけてほしかった。
『このままでいいの?ちなみちゃんはケンくんとこのままお別れで本当にいいの?もう一生会えなくなっちゃうかもしれないんだよ?それでも後悔しないの?』
もし作り笑いを浮かべて自分の本当の気持ちに蓋をするようなら、今度こそ本当に怒ってやると思った。でもちゃんと私の言葉はちなみちゃんに伝わったみたいだった。
『・・・いやだ、このままなんて嫌だよ!』
ちなみちゃんはようやく自分のこころに向き合ってくれた。「いい子だね」ってちなみちゃんの頭を撫でたことを覚えている。いつの間にかちなみちゃんの本当のお姉ちゃんになった気分だったよ。
『わたし、ケンくんのことが大好きだよ!でも、もう想いを伝えるには時間がない・・・』
出発の時間まであと十分を切っていた。走っても健くんの家へ行って帰ってくるには時間が足りなすぎた。
『私が伝える』
そんなことしても、自分のチャンスが減るだけだって分かっていた。でも、それ以上に、ちなみは私にとって大事な友達だった。
『ケンくんに、ちなみの代わりに私がその想い伝える』
『でもどうやって・・・?』
『・・・そうだなあ。お花を届けるなんてどうだろう?そうだ、バラだ。いっぱいのバラをケンくんに届けるんだ!これがわたしの気持ちですって。ロマンチックじゃない?』
自分でも馬鹿だなあと思う。せっかく私がずっと考えてた告白の仕方を他人に譲るなんて。
でも仕方ないよ。それだけちなみちゃんは私にとって大切な存在になっていたんだ。
『お願いしてもいいの・・・?』
『がってんしょうち!任せてよ』
私は自分の想いを胸の奥にしまい込んで、自分の胸をトンと叩いて言った。
『菜美花、そろそろ出発だよ。車に乗って』
ちなみのお父さんが優しく肩を叩いて言った。
『うん。・・・夏芽ちゃん、任せちゃってごめんね。ありがとう・・・!必ずまた会いにくるから!』
『約束だよ?』
『うん!』
車窓から手を振るちなみの姿がどんどん小さくなっていった。
あーあ、なんであんなこと言っちゃったんだろうって後悔はあったけど、やるしかないよねって思って、私はお花屋さんへ急いだ。
この日の言葉のためにバラのことはよく調べていた。バラはね、送る本数によっても意味が変わってくるんだ。私はちなみちゃんになったつもりで、あえて9本君にバラを送ることにしたんだ。意味くらい自分で調べてよね。
まああとは君の知っての通り、健は家にいなかった訳だけど、まだケンが知らないことがあるんだ。
玄関から出てきたケンのお母さんに向かって言った。
『これ、なっちゃんからです!このバラを、ケンくんに渡してください!』って。
ちなみの代わりに告白しただけだったんだけど、まるで自分が告白してるみたいですごく恥ずかしくって、逃げ出したくなって走って帰ろうといたんだ。
―でも、このままでいいのかなって。
自分はちなみに「このままで後悔しないの?」って聞いておいて、自分自身が後悔する道を選ぼうとしてる。
ちなみは間接的ではあるけれど、自分の想いを伝えた。
じゃあ私はどうだ?
何もせずこのままケンとちなみちゃんが結ばれて、本当に後悔しないのか?
このままなんて嫌だ。
私は走るのをやめて振り返った。
のどがやたら乾いて、蝉の声が煩くて、心臓のドキドキが止まらなくて。
でも、伝えなきゃって思った。
『好きです。私も、ケンくんのことが大好きです』
ちなみの代理でバラを届けるのと同時に、あの時私も想いを告げていたんだ」
そういうこと、だったのか。
たとえどんな想いを持っていたとしても、それを伝えることが出来なかったら意味がない。だからこそ夏芽さんは今も昔も、僕に想いを伝えようとしてくれたんだ。
お母さんは勘違いしていた。「これ、なっちゃんからです」という言葉。幼い子特有の、自分のことを名前やあだ名で呼ぶ子。だから母さんはあのバラを、あの時バラを持っていたなっちゃん、つまり夏芽さんからのものだと思ったんだ。それがすれ違いを生んだのだ。
そして、その後の、「私も、ケンくんのこと大好きです」の中の、私も、という部分を聞き逃した。だから、あの告白が、ちなみちゃんと夏芽さん、二人からの告白だったと気づかなかったんだ。母さんは勘違いしたまま、僕の不機嫌な様子をみて、僕が夏芽さんを振ったのだと思い違いを重ねた。
事実を整理するのに必死な僕をよそに、夏芽さんは話を続けた。
「ちなみが引っ越してから一週間後くらいしてからかな。学校が始まって、私はケンを呼び出した。それで、なっちゃんのことを聞こうとしたら、君が急に『その名前を出さないで!』っていうからびっくりしたよ。『もう会おうと思っても会えないんだから、こんなに辛い想いをするなら忘れた方がいい』って言われて、その時の私は言い返せなかった」
僕はお母さんだけでなく、夏芽さんにもそんなことを言っていたのか。
「ごめん、二人が告白してくれたなんて思ってもみなかったから、必死に忘れようとしてた。ガキだった、ごめん」
「いいんだ。私だってガキだよ。本当はケンくんが落ち着いていつものケンくんに戻ってくれたら、もう一度バラのことを話そうと思ってたんだ。けどね、ちなみに代わりに告白する!なんて言っておきながら、ちなみにケンを取られるのが怖くて、もう一度ケンくんに面と向かって告白するのが怖くて、結局卒業まできちんとあの日のことを話せなかった。
・・・ちなみに対して、ケンに代理で想いを伝えるという約束をきちんと果たせなかった罪悪感が、心から離れなかった。でもそれ以上に、ケンくんに直接想いを伝えられなかったことが、ずっとどこかで引っかかってたんだ。何もしないで後悔するより、何かして後悔したい。もしまたケンと再会できることがあれば、そのときはちゃんと言葉にして伝えようと決めていた。あれから十二年経った。運命だと思った。だって、ケンくんに会えたんだよ?ずっと会いたかった、君に、会えたんだ。だから私は・・・」
いつもの、冗談めかして終わらせる夏芽さんはいなかった。本気で僕のことが好きなんだってことがひしひしと伝わってきた。
「でも君は何一つ覚えていなかった。そこでようやく君が、当時バラの話を聞いていなかったことを知った。そして、失恋したと思い込んでいた君は、過去のことを忘れようとして、その結果私とちなみを混同していた。チャンスだと思った。きっと本当のことを話せば私は嫌われると思った。だって私のせいだから。私がきちんとケンにちなみの想いを伝えられていれば、こんなすれ違いは起こらなかったんだから。でも忘れたふりをしていれば、私にもチャンスは回ってくるんじゃないかと思った。だから今まで十二年前のことを知っていながら黙っていたんだ。ごめんね、最低な先輩で」
彼女は切なさを飲み込んだ表情を見せた。
「それに私は、たとえケンが好きだったなっちゃんが私であっても、そうでなかったとしても、今の私をきちんと好きになってもらいたかった。嘘偽りなく、純粋な気持ちで、過去の思い出とか記憶とか関係なく、まぎれもない今の私を好きになってもらいたかった」
夏芽さんはいい加減で、いつもテキトーで、無茶苦茶なことをして僕を困らせて、でも、嘘はつかない人だった。
夏芽さんは僕に振り向いてもらうために、想いを伝え続け、そばに居続けてくれた。いつまでも僕が答えを出さなくても、彼女は木下夏芽という、まぎれもない彼女自身を好きになってもらうため、僕と向き合い続けてくれた。
「馬鹿なんだ、私は。ほんとは君にストレートに想いを伝えられなくちゃいけなかった。恥ずかしいからって茶化したりせず、まっすぐ想いを伝えなきゃいけなかった。でも・・・ちなみちゃんが南大に入学した。また私は同じミスを繰り返してしまったんだ」
僕自身、初めてちなみちゃんを見たときにあの時のなっちゃんだなんて少しも気付かなくて、ちなみちゃんに一目惚れをした。きっと夏芽さんはちなみちゃんがあの子だって一瞬で気付いたことだろう。
「ちなみが部室に初めて部室にやってきて、すぐに十二年前のあの子だって気付いたよ。でも、二人とも昔のことは覚えていなくて、こうして部室に来てくれたのも偶然だと分かって、私は混乱で頭がおかしくなりそうだったよ。でも、ケンが恋に落ちたってことだけは、ケンの表情や様子を見れば明らかだった。それで察したよ。ケンは過去のことを覚えていないけれど、きっと初恋の相手はちなみだったんだろうなって。そうだよね?」
僕はどう答えていいか分からず、でも嘘をつくわけにはいかず、黙って頷くことしかできなかった。
「もともとはケンに私のことを好きになってもらうことが目的だったけれど、ちなみと再会した瞬間、自分が果たすべき使命のようなものを感じたんだ。本当は私が十二年前、ケンくんに直接私とちなみの想いを伝えていれば、ケンが二人のなっちゃんを混同して覚えるなんてことにはならなかったんだ。全てはちなみとの約束を破った私のせいだ。だから、私はその贖罪をしなくては、と思った。ケンとちなみはお互い好き合っているのにお互いのことを覚えていない。私のとるべき行動は一つ、ケンとちなみちゃんの記憶を取り戻し、二人をくっつけることで、あの日の贖罪をすることだった」
夏芽さんの想いを知って、一つの疑問が生まれた。
「分かりません。どうして直接十二年前のことを話そうとしなかったんですか?わざわざ若返り薬を飲むなんてリスクを背負う理由がわかりません」
夏芽さんを責めるつもりはなかった。もとはと言えば十二年前のことをすっかり忘れてしまった僕らが悪いのだから。でも、僕らに過去のことを思い出させることが目的ならば、若返り薬を飲むなんてまどろっこしいことをせず、直接話す方が手っ取り早いと思った。
「私は一つ嘘をついた。さっきは自信があったから若返り薬の自飲実験をしたと言っただろ?でも本当は真逆だったんだ。私には自信なんて何一つなかったんだ」
どこかで聞きおぼえのある言葉だった。
「マウス実験が成功した三日後、『私はケンのことが大好きだけどね』と言ったのを覚えてる?最後にしようと思ったんだ。最後に想いを伝えて、それからきちんと十二年前のことを話そうと思っていた。そして、君は何も答えてくれなかった」
僕は胸を締め付けられた。言葉にできない僕は、自分の気持ちと向き合おうともせず、また答えを先延ばしにした。それが彼女を追い詰めたんだ。
「恥ずかしいんだけど、実はね、あの時私泣きそうになっちゃって、結局十二年前のことを話せず家に逃げ込んだ。こんなに想いを伝えているのに何も進展しないのが悲しくて、悔しくて、もう全てを忘れたかった。だから私は、半ばやけくそで若返り薬を飲んだ。そしたら予想に反して十年も若返るものだから、両親を困らせてしまったよ」
はははと声を上げる夏芽さんの笑い声がむなしく部室に響いた。
「このままずっと若返ったままもとに戻れなかったらどうするつもりだったんですか」
「それでもいいと思った。でも運よくその薬の効き目は三日間だった。本当に偶然だったんだ。十年若返れたのも、効果が三日間だったのも。そして家で若返りから元の姿に戻って、薬の効果を知って、今回の計画を思いついた。最後の最後まで私は踏ん切りがつかず、ケンに本当のことを話せなかった私は薬の力に頼ることにしたんだ。小学生の姿の私を見ればさすがのケンでも過去のことを思い出してくれると思った。ちゃんと思い出せて良かった」
夏芽さんはずっと十二年前のことを忘れたふりをして、話せずにいた。だから薬に運命を託すことにしたんだ。
「過去のことを思い出せば、ケンもちなみも結ばれて、私の後悔を晴らすことが出来る。だから三日前、私は二度目の若返り薬を飲んだ。それが、真相」
夏芽さんは頭が良くて、大人で、悩みなんてないような人なのだと思っていた。でもそうじゃなかった。夏芽さんは他の人と同じように友達を作って、恋をして、悩んで、苦しんで、後悔して、努力して、生きてきた。
何も知らない僕たちの裏で、苦しみながら、自分の気持ちを心の奥に押し込めながら、僕とちなみちゃんが結ばれるために動いてくれた。
「夏芽さんは僕たちのために、ずっと頑張ってくれてたんですね」
「・・・ううん、違うね。私は、ほんの少しの可能性にかけたかったんだ。ケンの初恋相手がちなみだってことはケンの態度を見れば明らかだったけれど、もしケンの初恋相手が私なら、そのわずかな可能性にかけたかった。私が若返ればすぐに気付いてくれるだろうと思った。だから私は若返り薬を飲むという行動に逃げたんだ」
僕は息を呑んだ。そうだ、僕はずっと夏芽さんとちなみちゃんを混合して記憶していた。だから夏芽さんは僕の初恋の相手が自分なのか、ちなみちゃんなのか推測はできても断定できなかった。
「最低だろう?結局私は自己中心的な人間で、自分のことしか考えていない。もしケンくんの初恋相手がちなみなら、ちなみの代わりにケンに想いを伝えるという約束を破った、その贖罪をしたかった。私は君たちに直接言葉で伝える勇気がなかった。だから薬に運命を委ねた。だからこれは、自分のためにしたことなんだ。私は自己中で研究しか能がない、ダメ人間なんだ」
「そんなこと・・・!」
その時僕は思い出した。
大学一年生の秋、僕が天文部に入部して半年経ったときのことだった。
順調に若返り薬の開発を進める夏芽さんの横で、ミスばかりしている自分に嫌気がさしてこの部活を辞めようと思っていたときのことだ。
あの時も彼女は似たようなことを言っていた。
『やあ。紅葉がきれいだね、といいたいところだけど、ここまで枯葉が舞っていると風情のかけらもないね』
その日は風が強い日だった。どうやら夏芽さんは西門の陰で講義を終えた僕を待ち伏せていたらしい。きっと二週間近く部活に顔をだしていなかった僕を気にかけてくれたのだろう。
『ごめんなさい、今日は部活出られなくて』
『ラーメンが食べたい!麺固め、野菜マシマシ大盛りで!付き合ってよ』
『えっ・・・』
かつての僕なら夏芽さんに流されてそのままラーメンに付き合っていたことだろう。でもそんな日々をもう終わりにしたかった。
『今日はいけないです。それと部活辞めたいです』
あまりに脈絡がなくて唐突だったと思う。冷静な判断ができないくらいに僕は思い詰めていたんだと思う。
『・・・話を聞かせてくれないか。アルバイトが忙しいとか、学業との両立ができないとか、そういう建前はいらないから』
つまりは本音を話せ、ということなんだと思った。部活に来なくなった僕を心配して、僕の変化にも気付いていたのかもしれない。
なかなか言い出せなかった。本心を飲み込んでしまう僕だ、本当のことを話すまで、かなりの時間がかかった。それまで夏芽さんは何も言わず待っていてくれた。それから永遠とも思える時間が流れて、実際には1分くらいだったのだろうけど、僕は口を開いた。
『・・・僕なんていないほうがいいんじゃないかって思うんです。僕は夏芽さんの背中をただ見つめるだけで、研究の役に立てるわけでもない。それどころか薬品の調合とか保存方法を間違えて作業を大幅に遅らせちゃったり、夏芽さんの足を引っ張るばかりで自分は邪魔なんじゃないかって思うんです。僕なんていないほうが教える手間も省けるし、作業もはかどるだろうし、夏芽さんにとって僕は障害でしかないんです』
要するに逃げ出したかったんだ。夏芽さんの背中を追いかけるばかりで、できない自分に嫌気がさして、部活の忙しさを言い訳に講義も休みがちで。何をしてるんだろう。
すべてやり直したかった。やり直せば、僕も真人間になれるんじゃないかと、ありもしない希望を抱いていた。
『自分なんていてもいなくても同じなんじゃないかって、そう思うんです』
夏芽さんは僕をじっと見つめていた。失望されたんだと思った。それでもいいと思った。
『私は・・・ずっと後悔してたんだ』
ぽつり、と夏芽さんが声を漏らす。
『私も大学に入ったばかりのころは楽しいキャンパスライフに胸躍らせて、なんとなく面白そうだからって理由で天文部に入った。そしたら部室はほとんど物置で、活動なんてほとんどしてなくて、ああ騙されたんだと思った』
急に何でそんな話をするんだろうと思ったけれど、夏芽さんが自分のことを語るなんてそれまでほとんどなかった。僕は夏芽さんの話を黙って聞くことにした。
『自分で言うけど私は天才なんだ』
『は?』
黙って聞いているつもりだったけれど、口を挟まずにはいられなかった。
『なんですか、自慢ですか?』
『違うよ。講義も退屈で、実験もみんなより何分も早く終わっちゃって、周りのみんながなんで分からないのか分からなかった。教授には褒められたけど、私の周りには誰も近寄ろうとはしなかった。今まで漫画じゃなくて科学書を読んでいたような人間だ。今更どう人と仲良くなればいいのか分からなかった。私の憧れたキラキラしたキャンパスライフは夢物語でしかなかったんだと悟った』
それまで部室で会うことが多くて気付かなかったけれど、思い返してみれば夏芽さんはいつも部室でお昼ご飯を食べていたし、キャンパス内ですれ違っても誰かと一緒にいるところを見たことがなかったし、夏芽さんから自分の友達の話を聞いたことはなかった。
『確かに研究は楽しいし、天文部の先輩が引退してからは部室を研究スペースとして自由に使えて不便に感じることはなかった。でも、それ以外にもやれたことがあったんじゃないか。研究以外にもっと大切なものがあったんじゃないか。ずっと悩んでた』
知らなかった。僕はそれまで明るくて自由奔放で気ままな夏芽さんしか見てこなかった。だから、夏芽さんがこんな悩みを抱えているなんて少しも思わなかった。
『そんな風に大学で二年間を過ごして、もう自分が何を目指しているか分からなくて。そんな時に君と出会ったんだ。まさか若返り薬を創りたいなんて夢を持った奴に出会えるとは思わなかったなあ』
僕だって夏芽さんみたいな変な人がいるとは思わなかったです。
『私は君に憧れてたんだ。私はただ才能があるからって周りの大人にもてはやされて薬を創っていただけだったから、明確に『人の病気を治したい』っていう目標を持った君のことを、素直に尊敬したよ。若返り薬で病気の人を助けたい。そのまっすぐさに憧れてた』
僕が夏芽さんを尊敬することはあっても、僕が尊敬されているとは思わなかった。何一つ夏芽さんに勝てるものはないと思っていた。
『ケンはいつもそばにいてくれて、私のくだらない冗談にも付き合ってくれて、初めて大学生活が楽しいと思った。私が行き詰ったとき勇気づけてくれた。研究がうまくいき始めたのもケンがデータを管理してくれるようになってからなんだ。私にはこまめにデータを書き留めたりそれをまとめて考察なんてできなかったから、君がいてくれて本当に助かった』
『そんなことないです』
『私が言うんだからそうなんだよ。私はデータを取るのも苦手だし、人付き合いもできないし、研究しか能がないダメ人間なんだ』
『そんなことない!』
思わず大きな声を出してしまった。僕が尊敬する夏芽さんを貶されたことが悔しかった。ショックだった。夏芽さんは眉をハの字にさせ、悲しそうな顔で答えた。
『そんなことあるんだ。たとえ才能があったって、終わった時に周りに何も残っていなかったら何の意味もないじゃないか。たとえ若返り薬を完成させることができても、その時喜びを分かち合える人がいなかったら何の意味もないんだ』
『どうしてそんなに自分を悲観するんですか。夏芽さんは確かにだらしないし、いつもテキトーだし気まぐれで何考えてるか分からないけど、夏芽さんが才能の上であぐらをかいているんじゃなくて、ちゃんと陰で努力していること知ってます。研究だって自分でできることでも一から僕に説明してくれるし、何気に僕の体調も気遣ってくれるし、自分のことだけじゃなくちゃんと周りを見てるなあって思います』
『そんなことないよ』
『どうして!』
『だって私には自信なんて何一つないから』
初めてだった。夏芽さんが弱音を漏らすのは。知らなかった。いつも僕の先を行く夏芽さんが本当は悩んでいるなんて。
『ケンがいなかったらきっと私は若返り薬の研究を諦めてた。自分を見失って途方に暮れていたんだと思う。ケンがいなかったら・・・想像すらできない。だからさ、私にはケンが必要なんだ』
僕の前に新しい風が吹いた。僕がいてもいいのだろうか・・・?
『これまで私はケンにたくさん救われてきたんだ。だからケンがなんと言おうとも私は諦めたくない。ケンがいないとダメなんだ』
自分なんていてもいなくても同じだと思っていた。でもそうじゃなかった。僕の夢をすごいと言ってくれる人がいる。僕が必要だと思ってくれる人がいる。
『絶対に後悔させない。だから、一緒に来てくれないか』
その瞬間、他の悩みだとか不安だとかが、すべてどうでもよくなった。夏芽さんの言葉は、僕が一番欲しかった言葉だった。
僕は夏芽さんの言葉を信じてみようと思った。
僕は部室から見える欅の葉を黄色から緑に戻した。
あの時のことがあったから、僕は今もこうして天文部にいる。そして、夏芽さんとともに夢を叶えることができた。
僕は夏芽さんの言葉に勇気づけられた。励まされた。
だから今度は、僕が。
「夏芽さんはダメ人間なんかじゃない!自分のためと、自分勝手なのは全然違うよ。もしかしたら夏芽さんは自分の罪悪感を消すために若返ったのかもしれない!でも、それでも、夏芽さんのなかに、僕とちなみちゃんに幸せになってほしいっていう、そういう気持ちがあったはずだよ」
僕が夏芽さんへ抱いていた感情が爆発する。イライラとか、憧れとか、ドキドキとかモヤモヤとか、この一年間夏芽さんとほとんどの時間を一緒に過ごしてきて抱いた感情があふれ出てきた。
「自分の恋が叶わなくても、二人が幸せになってくれればそれでいいって、そういう気持ちが夏芽さんの中に絶対あった!自分のために生きることの何が悪いんだ!自分も幸せになって、ほかのみんなにも幸せになってもらう、そういう生き方ができる人だよ、夏芽さんは!」
ずっと自分の気持ちが言えなかった。何も考えてない訳じゃないけれど、自分の考えとか気持ちとかは、メロンソーダの炭酸みたいにしゅわしゃわと空気に溶けて消してしまう。
でも気付いた。何も言えないのは何も考えてないのと同じなんだって。
それじゃダメなんだ。ちゃんと想いを伝えられなくちゃ、何の意味もない。
「夏芽さんは、もっと自分のために生きたっていいんだよ」
他人からどう思われても、自分が傷つくのが怖くても、伝えなくちゃいけないんだ。
「どうして・・・。どうしてケンはそこまで言ってくれるんだよ!」
「夏芽さんのことが好きだからだよ!」
それは、自然と僕の口からこぼれた言葉だった。
あれ、おかしいな。せっかく一目ぼれした女の子と十二年ぶりに再会できて、いい感じの雰囲気になれたのにな。
夏芽さんは整った顔をしているし、いざというとき頼りになる先輩だったけど、がさつでわがままで、なのに変なところで他人に気を使いすぎて自分を犠牲にしてしまうような、ただのやかましい先輩だったはずなのにな。
でも、パッと出た答えが、「夏芽さんを好きだ」ということだった。
夏芽さんのことが好きだって思いが、身体の奥底から、自然と流れ出た。
『夏芽さんのことどう思ってるんですか?』と聞かれてすぐ返せなかったのも。
ちなみちゃんに『今でもなっちゃんのこと、好きなんですか』と聞かれて「うん」と答えられなかったのも。
全部、夏芽さんのせいだ。
こんなときに好きだなんて、何言ってんだろう。でももういいや、この際思っていることを全部吐き出してしまおう。僕はすうっと息を吸った。
「夏芽さんは自分に正直なようで本当は自分の想いに蓋をしてしまうような人だから、何を考えているのか分からなかった。僕のことを好きだって言ってくれているのも、本心からなのか、僕のことをおちょくっているのかよく分からない!それに、いつも僕の先を歩いていて、僕がいくら走ろうとも全然追い付けなくて、僕の何百メートルも先で余裕そうにしてるのが嫌だった。いっつも僕は助けられてばかりで、僕からは何も返せない。他人のことで精いっぱいになって、ほんとは全然余裕じゃないのに平気そうなふりして歩いて。僕は、支えられるだけじゃなくて、夏芽さんがつらい時は僕が支えたかった!」
何を言っているのか自分でもよく分からなかった。僕の目の前には、茫然と僕を見つめる夏芽さんがいた。でももうここで立ち止まるわけにはいかなかった。夏芽さんに僕の想いを伝えることが、後悔しないための選択だった。
「どうして何も言ってくれなかったんだよ!辛いって、苦しいって、どうして言ってくれなかったんだよ!僕にだってできることがあったはずなのに、どうしていつも全部一人で解決しようとするんだよ!一人ですべてやるなんて不可能だよ。でも夏芽さんはいつも一人で抱え込んで、失敗して、自分を責める。もっと僕のことを頼ってほしかった!僕も一緒に、夏芽さんと同じ道を歩んでいきたかった!」
ちなみちゃんに天文部のことを伝えるべきか悩んでいたとき、彼女は「自分が後悔しないと思える選択なら、それでいいんだよ」と言ってくれた。
僕が部活を辞めたいと打ち明けたとき「絶対後悔させない」と言ってくれたのも夏芽さんだった。
僕が困ったとき、夏芽さんはいつもそばにいてくれた。
「僕は、夏芽さんのことが嫌いだよ!いい加減で、自分勝手で、一人で全部抱え込んで、そういうところが大嫌いだ!でも、単純に不器用なだけで、やり方が間違っているだけなんだ。夏芽さんは、他の人の幸せを一緒に喜んで、他の人が苦しんでいたら一緒に悩むことができる人だよ。そういうところが大好きなんだよ!」
ふわっと、彼女の周りに感情の色が咲いた。恥ずかしそうに顔を真っ赤にして、それを隠すように両手で顔を覆っていた。
「ケンは意地悪だよ、最低だよ。私がせっかくちなみ達のために頑張ったのに」
そして、声が次第に小さくなっていくのに気付いた。
「ばか、ばかあ・・・」
彼女の両手から、涙があふれ出ていた。
「ようやく諦められたと思ったのに、二人のために自分の気持ちを捨てようって決めたのに、どうして優しくするんだよお・・・。そんなこと言われたら、また好きになっちゃうだろお・・・!」
こんなに感情豊かな夏芽さんを、僕は初めて見た。弱いところをみせないようにする彼女だったから、その想いが、僕にも深く伝わってきた。
夏芽さんは顔から両手を離すと、強すぎるくらいに目をこすって、赤くなった目で僕を見た。
「私も好きだよ、ケン」
僕と夏芽さんの中で、大きな何かが変わる音がした。