13 バラの少女の真実
13
僕はちなみさんの家の和室で布団から飛び起きた。
なっちゃんは夏芽さんだった?
だったらちなみちゃんの記憶は一体何だったっていうんだ。
現実世界で僕が前の日、あのバラの女の子について話したとき、ちなみさんは涙を流した。はっきりと『ずっと探してたよ、ケンくん』と言っていた。
未来の世界でも、ちなみちゃんがなっちゃんであるという確証はないものの、彼女の初恋の話を聞く限り、ちなみちゃんがバラの女の子であると考えていいと思っていた。
なのに、どうして。
ちなみさんが嘘をついているようには思えない。僕のお母さんだって、嘘をつく理由がない。若返った夏芽ちゃんもそうだ。仮に夏芽さんがなっちゃんだとして、僕自身も若返った彼女と話した際、どこかで見覚えがあった。それは僕が小学生のころ夏芽さんと会っていたからだと考えれば辻褄が合う。
じゃあ一体誰がバラの女の子だって言うんだ?思い出そうとしても、断片的な記憶しか残っていなかった。なっちゃんが引っ越したあの日、彼女に会えなかった僕はショックから彼女のことを忘れようとしたせいで、はっきりとした記憶も想い出の品も残っていなかった。卒業アルバムを見ても引っ越した後なので彼女の写真は残っていないはずだ。
僕は一体何を信じたらいいのだろう?
しばらくして、ちなみさんのおばあちゃんが朝食を作ってくれた。あまり食欲はなかったけれど好意を無駄にすることはできず、トーストと半熟の目玉焼きを無理やり牛乳で流し込んだ。
いつまでもちなみさん達のお世話になるわけにはいかない。僕がリュックを持ち上げ「お世話になりました」と告げると「またいつでも来てくれ」とおばあちゃんが優しい笑顔で言ってくれた。駅までの道のりが分からなかったので、ちなみさんが送ってくれることになった。
「ごめんね、わざわざ駅まで送ってもらって」
「気にしないで。それより大丈夫?なんだか昨日より元気がないように見えたから・・・」
駅まで向かう道中、ちなみちゃんが心配そうに僕の顔を覗き込んだ。ボブカットの髪がふわりと揺れた。頭の中で夏芽さんとちなみちゃんとなっちゃんの姿がぐるぐると回って、とても元気でいられる状況ではなかった。蝉の鳴き声と、コンクリートから照り返す太陽の光で、目の前がくらくらしてきた。
「あのさ、僕たちって確かに十年前に会ってるんだよね?」
ちなみさんが表情を曇らせた。
「そうだよ。昨日話さなかったっけ?」
「そうなんだけどさ、ちなみさんから十年前の話聞いていないなと思って。気になっただけ」
するとちなみさんが肩を震わせたかと思うと、突然すごい形相で僕に詰め寄ってきた。
「ど、どうして今日になってそんなこと聞くの?『健くんの初恋の相手、なっちゃんって、本当に私なの?』って尋ねたとき『うん、間違いないよ』って答えてくれたよね?どうして今になって・・・」
僕は返す言葉がなかった。夢の中で「なっちゃんは夏芽さんのかもしれないという可能性が出たから」と答えるわけにもいかないし、前の日はっきりとなっちゃんはちなみさんだと明言しておいて確認し直すなんて、ちなみさんが怒るのも当然だ。
「健くんは、今でもその女の子に会いたいって思う?」
「・・・分からない」
本当は会いたい。でもそう伝えることができなかった。
信号が赤から青に変わる。けれどちなみさんは立ち止まったままだった。
「その女の子が夏芽さんだとしても?」
「・・・え?」
僕は耳を疑った。ちなみさんが夏芽さんのことを知っているはずがない。彼女が先輩と会うのは二年後なんだから。
しかし、聞き間違えではなかった。僕の鼓膜から、蝉の鳴き声や車が走る音、そのすべてが消えた。そして、ちなみさんの声だけが届いた。
「もしかして、健くんも未来が見えるの?」
どうしてちなみさんが、僕の未来投影のことを知っているんだ?いや、それだけじゃない、健くんも、なんて言い回し、それって。
「ど、どういうこと・・・」
訳が分からなかった。混乱する僕とは対照的にちなみさんは冷静だった。
「私にも未来が見えるってことだよ。その反応、やっぱり健くんにも未来が見えてたんだ」
実は一度、彼女も未来が見えるんじゃないかと考えたことがあった。僕がちなみさんのことをなんとなく分かるのが未来投影によるものだとしたら、僕のことがなんとなく分かるちなみさんも未来が見えるってことじゃないかと思ったからだ。
「席替えしてしばらくしてかな、私が入学した南大学に健くんがいて、夏芽さんがいて、天文部に入るっていう映像が頭のなかで流れるようになったんだ。でも健くんも私も夢の中でお互いのことを覚えてなくて、これが本当に未来の映像なのか確証できなかったんだ」
僕も時期は違えど、三年生に進級してから未来が見えるようになった。僕も夢の中で二人がまるで初対面みたいだったことがずっと引っかかっていた。
「そんな時、南大学でオープンキャンパスが開かれるって知って、あの映像が一体何なんか確かめるヒントになると思ったから、美咲を誘って行ってみることにしたんだ。そしたら健くんがいて、『あれっ?』って思ったんだ。いくら偶然とはいえ、同じタイミングなんてあり得るのかなって。それでもしかしたら健くんにも未来が見えるんじゃないかって思うようになったんだ。勇気が出なくてなかなか聞けなかったんだけどね」
「じゃあオープンキャンパスの後、ちなみさんが僕に部室棟に続く欅並木を歩いていた理由を聞いたのも・・・」
「健くんも未来が見えるんじゃないかって疑っていたからなんだ。もしかして健くんは天文部の部室に向かっていたんじゃないかと思った。ごめんね、鎌をかけるようなことしちゃって」
疑っていたのは僕も同じだので、僕は首を左右に振った。僕とちなみさんがお互いのことを分かるのが偶然ではなく必然だとしたら、同じ日に同じ大学のオープンキャンパスに行ったという偶然も、偶然ではないかもしれない思った。その考えは間違えじゃなかったんだ。
「オープンキャンパスに行ったあたりかな、夢の中で夏芽さんが若返って、わたしが初恋の話をしたら健くん、私の昔のあだ名を知っていて、もしこの映像が本当に未来のものだとしたら健くんが私の初恋の人なのかもって思ったんだ。でもそのあと、健くんのお母さんが帰ってきて、夏芽ちゃんがなっちゃんだって言われて、私自信がもてなくなったんだ」
ちなみちゃんも同じ夢を見ていたんだ。
「花火のとき、僕に初恋の話をさせようとしたのって・・・」
「健くんの口から、はっきりと十年前のことを話して欲しかったからだよ。花火に行く三日前くらいに、健くんのお母さんが東京に来る夢を見て、私がなっちゃんなのか分からなくなってた」
僕がその時の夢を見たのはついさっきのことだった。どうやら二人は未来投影という共通の能力は持っているものの、見えるタイミングはバラバラのようだった。
「不安だったんだ。確かに私が健くんの知るなっちゃんのはずなんだけど、もし違ったらどうしようって。だから昨日、健くんからなっちゃんのことを聞いたとき、ああ、私の片想いじゃなかったんだって分かって泣いちゃったんだ」
そういうことだったんだ。夢の中で僕のお母さんに「なっちゃんは夏芽さんだ」と言われ、ちなみさんは自分に自信が持てなくなっていた。だから花火の時、僕に念を押して『健くんの初恋の相手、なっちゃんって、本当に私なの?』と聞いたんだ。
ちなみさんがなっちゃんだと分かった今、いくつか疑問があった。
「ということは、夏芽さんと僕のお母さんが嘘をついていたってこと?」
「二人が嘘をついてるとは思えないよ。夏芽ちゃんは記憶を失っているし、なにより二人が嘘をついているとして、裏で話を合わせられるようなタイミングだってないはずだよ」
「・・・僕もそう思う」
誰も嘘をついているようには思えない。だとしたら夏芽さんとちなみちゃん、どちらが本当のなっちゃんなんだ?
「引っかかるのは、お花屋さんのことだよね。健くんはなっちゃんのこと、お花屋さんの娘だと思っているみたいだけど、私はお花屋さんで遊んだ覚えがないんだ。ただ単に忘れてるだけかもしれないけど」
ちなみさんは覚えていないようだったが、僕はしっかりと記憶に残っていた。そんなはずない。
「おかしいな、お花屋さんで待ち合わせをすることも一回じゃなかったし、なっちゃんがお花屋さんのことを知らないはずない」
そう言って後悔した。ちなみさんが悲しそうな顔をしていたからだ。
「・・・やっぱり私って健くんの言うなっちゃんじゃないのかな・・・。ただの記憶違いだったのかな」
「ごめん、そういうつもりで言ったんじゃ・・・」
「だっておかしいよ。夏芽さんも健くんのこと覚えているみたいだし、話が食い違っているところが多すぎるよ。なっちゃんが二人存在しない限り、辻褄が合わない」
その時、僕の記憶の奥底にある何かが、呼び起こされた感覚があった。
転校してきて、星のことがきっかけで仲良くなった女の子、なっちゃん。
よくお花屋さんで遊んだ、お花のことに詳しい女の子、なっちゃん。
その二人が、別人だったとしたら?
そうか、そういうことだったんだ。
真実が分かったと同時に、僕の体の中に罪悪感が流れた。
「そうか、なっちゃんは二人いたんだ」
「・・・二人?それってどういうこと?」
「ごめん、全ては僕のせいだ。・・・思い出したこと、全部話すよ」
信号が赤から青に変わり、僕たちは歩き出した。
僕たちは駅の近くにあった、最近できたばかりだというカフェに入った。
「あの、なっちゃんが二人いたって、どういうこと・・・?」
真相がわかった今、それをちなみさんに話すのは心苦しかったが、話さないわけにはいかなかった。
「ちなみさんが僕に出会ったのは小学2年生の時だったよね?転校してきて、星がきっかけで仲良くなって、毎週星を一緒にみるのが決まりみたいになって。でもすぐ引っ越すことになっちゃったんだよね」
「うん。健くんのおかげでクラスのみんなとも仲良くなれて、だから、クラスのみんなと別れるのも、健くんと離れ離れになるのもすっごく悲しかった」
「僕も覚えてるよ。心を開いてくれるまで時間はかかったけど、話しかけてくれるようになったときは嬉しかった。なっちゃんってあだ名も、ちーちゃんの名前が菜美花っていうことを聞いて、すごい偶然だって喜んでた記憶があるよ」
「偶然・・・?」
「夢の中でちなみさん、小学校で仲良くなった年上の女の子がいたって言ってたよね?」
「うん。その子が健くんにバラを届けたら?ってアドバイスしてくれたんだ・・・えっ、もしかして」
「きっとその子がもう一人のなっちゃんで、未来の夏芽さんなんだと思う」
バラバラだったパズルのピースが組み合わさる。ちなみさんは驚嘆していた。
「夏芽さん、だからなっちゃん。どうして夢の中で夏芽さんを見たとき気付かなかったんだろう・・・」
「一緒にいた期間が短かったからじゃないかな。半年も経たないうちに引っ越すことになったから、覚えていないのも無理ないよ」
「健くんはどうやってなっちゃん・・・夏芽さんの方のなっちゃんと知り合ったの?」
「シングルマザーってこともあって、僕のお母さんはそのころから仕事で忙しそうにしてた。だから僕は児童クラブに預けられていたんだ。その時に出会ったのが夏芽さんだったと思う」
僕もちなみさんと同じで社交的な方ではなかった。児童クラブで馴染めずにいた僕に声をかけてくれたのが夏芽さんだった。そんなことも忘れていたなんて、どうかしている。
「もともと夏芽さんは児童クラブでもなっちゃんって呼ばれてて、毎日遊んでいるうちに仲良くなったんだ。それでお休みの日も夏芽さんと会うようになって、その時に彼女がお花屋さんの子だって知ったんだ」
「お花屋さんの子・・・だんだん思い出してきたよ」
ちなみさんは口を顎にあて、過去の記憶を呼び起こしているようだった。
「それで十年前、ちなみさんと初めて会ったとき、前の学校ではなっちゃんって呼ばれていたことを聞いて、同じなっちゃん同士絶対に仲良くなれるはずだって思ったんだ」
「だから、すごい偶然だって喜んでたんだね」
「うん。ちなみさんが転校してきて、いつか夏芽さんの方のなっちゃんと会わせようって決めてたんだ。それで、一緒に星を見るようになってからちなみさんとも仲良くなれて、別の日に夏芽さんのことを紹介したんだ。そしたら二人ともすぐ仲良くなって。それ以来、三人でよく遊ぶようになったよ」
ちなみさんは小さく震えていた。十年前のことがだんだんとはっきり浮かび上がってきた。
「そっか。十年前に私夏芽さんと出会ってたんだ」
未来の世界でちなみちゃんは言っていた。血は繋がっていなかったけれどお姉ちゃんみたいな存在の子がいたって。その子に「バラを持って告白とかロマンチックじゃない?」と言われたのも、夏芽さんがお花屋さんの子供だったことを考えれば納得がいく。
なっちゃんは二人居た。同い年の、星を見るのが大好きな女の子、山口菜美花。それがなっちゃんで、未来のちなみちゃんだった。そして、お花屋さんの娘で、年上の女の子、木下夏芽。彼女もなっちゃんだった。僕はあろうことか、二人のことを混同させて記憶してしまっていた。
「なっちゃんが二人いたっていうことは分かったよ。じゃあ、健くんが好きだったなっちゃんって、どっちのなっちゃんだったのかな・・・?」
ちなみさんが不安そうに尋ねる。
「それはちなみさんで間違いないよ。なっちゃんのことが好きだったから、引っ越すってなった日、たとえ離れ離れになるといてもちゃんと自分の気持ちを伝えたいって思ったんだ」
「あ、ありがとう・・・」
ちなみさんが顔を真っ赤にして、そして嬉しそうに僕の方を見た。
「でもあの日、結局僕たちはすれ違っちゃって会えなくて、僕の初恋は終わったんだと思った。あの時の僕はショックで、なっちゃんのことを忘れようと思ったんだ。ふさぎこむようになって、ちなみさんがいなくなったことがきっかけで、夏芽さんとも遊ぶ回数が減っていった。何もないまま夏芽さんは小学校を卒業して、それ以来もう会うことはなかった。時が経つにつれて二人のなっちゃんのことも段々と忘れていって、結果二人のことを混同して記憶しちゃったんだと思う。本当に最低だ、ごめん」
僕は誠意を込めて頭を下げた。これで怒られても仕方ないと思った。嫌われても仕方ないと思った。僕はそれを受け止める覚悟ができていた。
しかし、恐る恐る顔をあげると彼女は怒るどころか口角を上げて嬉しそうにしていた。
「・・・よかったー。じゃあ私の記憶は間違いじゃなかったんだね!健くんの記憶の中に私もいたんだね!本当によかった・・・」
あふれ出る喜びをかみしめるように、彼女は笑っていた。
「・・・なんで喜んでるの?」
「だって、嬉しいに決まってるよ。あの時、私たちはちゃんと両想いだったなんて」
一瞬で目が熱くなるのを感じた。僕は嬉しさで、今までの罪悪感とか申し訳なさが吹き飛んでしまいそうだった。
ちなみさんがなっちゃんと分かった今、気恥ずかしさと再会できた嬉しさとで感情がおかしくなってしまいそうだった。
「ずっと謝りたかったんだ。勇気を出してバラを届けてくれたのに、勝手に恋敗れたと諦めて彼女の気持ちをないがしろにしてしまったこと、きちんと謝らせてほしい。・・・ごめんなさい」
「いいんだ、そんなこと。こうしてまた会えた、それだけで私は幸せだよ?」
目を潤ませた彼女は本当にかわいくて、もろくて、儚くて。
「ありがとう、なっちゃん」
「こちらこそ、健くん」
ようやく過去の真相がわかった。でもまだ問題が全て解決したわけではなかった。お母さんが夏芽さんを見て「この子がなっちゃんだよ」と答えた理由もわかっていない。それに・・・。
「どうしたの、健くん?険しい顔して」
「・・・怖いんだ。未来で僕たちがお互いのことを忘れてしまうのが。どうして何も覚えてないんだろう、未来の僕たちは」
明るかったちなみさんの表情が一瞬にして暗くなった。
「・・・ごめん、こんなこと言って」
「ううん、避けては通れない問題だよ。・・・どうしたらいいのかな」
それっきり、二人の会話は止まってしまった。ちなみさんが初恋の相手と分かったものの、目の前の問題を無視することはできなかった。
「ひとまず日記をつけてみない?そしたら忘れちゃっても思い出せるかも」
ちなみさんが人差し指をピンと立てて提案する。
「でももし日記をつけていたことすら忘れてしまったら?」
「そっか、そうだよね・・・」
ちなみさんのしゅんとした表情を見て、ようやく言い方が悪かったことに気付いた。
「ごめんね、せっかくアイデア出してくれたのに否定するようなこと言っちゃって」
「いいの、私も健くんのこと忘れたくないって気持ちは一緒だから。別の案を考えよう」
やっと再会できたんだ。
忘れたくない。絶対に、嫌だ。
できることはないのか。何か、一つでもいい。打開策はないのか。そんな時、ちなみさんが呟いた。
「夏芽さんがここにいてくれたらなあ。すぐにいいアイデアを出してくれそうなのに」
そうだ、夏芽さんだ!
「会いに行こう、夏芽さんに」
「えっ?」
「未来を変えるんだ」
今現在の行動によって夢の中で予知した未来を変えることができるということは、以前お母さんと電話したとき検証済みだ。だから、本来大学で再会するはずの夏芽さんと二年前に会っておくというイレギュラーな行動をとることで、未来のプロットを変えることができないかと思った。
「たとえ僕とちなみさんがお互いのことを忘れるということが避けられないとしても、今のうちに夏芽さんに事情を話しておけば、夏芽さんが覚えていてくれるかもしれない。それに、ちなみさんの言う通り、夏芽さんなら打開策を見出してくれそうな気がするんだ」
一番は僕たちがお互いのことを忘れないことだ。しかし、最悪なのは未来投影通りに時が進んでしまうことだった。忘れてしまうことが阻止できなくても、思い出すきっかけを作ることはできないかと考えた。そこで夏芽さんの力を借りれないかと思い立った。
「そっか・・・、そうだね。会いに行ってみよう!」
そんなことで未来が変わるかは分からない。でもできることは全部やり切りたい。
夏芽さんは未来で言っていた。
『自分が後悔しないと思える選択なら、それでいいんだよ』
後悔なんてしてたまるか。
だから、会いに行くよ。夏芽さん。
「それじゃあ早速明日にでも南大に行って天文部を覗いてみる?夏芽さんに会えるかもしれない」
僕が提案するとちなみさんは小さく首を横に振った。
「もちろんそれが手っ取り早い方法だとは思うんだけど、一応学校に連絡して夏芽さんのこと聞いてみない?住所とか個人情報は教えてもらえないとは思うけど、天文部に木下夏芽という人物がいるかどうかくらいは聞けるんじゃないかな」
確かにそうだ。前回オープンキャンパスに行った時も部室に夏芽さんは居なかった。いきなり押しかけても会える可能性は低い。
「そしたら僕が大学に電話してみるよ」
「私もひとつツテがあるんだ!」
ちなみさんは先生に向かって手を挙げる子供のように腕をピンとあげた。
「実はオープンキャンパスのとき、校舎を案内してくれた先輩に連絡先を聞かれて、進路相談にも乗ってあげるからって言われてアドレスを交換したんだ」
「それ絶対出会い目的だよ・・・」
「美咲にも同じこと言われて怒られたよ・・・。でもね、その人薬学部の2年生らしくて、夏芽さんと学年も学部も同じなんだ!だから、その先輩に夏芽さんのこと聞けないかな・・・?連絡するくらいなら危なくないよね?」
もしかしたら、ちなみさんは最初からこうするつもりで連絡先を交換したのかもしれない。思ったより抜かりないな、この子。
「分かった。そしたら先輩との連絡とり、お願いします!」
「お安い御用だよ!」
ちなみちゃんは力こぶのポーズを作った。
僕はインターネットブラウザを開き南大学について調べると、クラブ活動をサポートする学生生活課というものが存在することが分かった。僕は一旦席を離れ、カフェの外で電話をかけた。
「もしもし、来年入学を希望するものなのですが、部活動について一つ質問いいですか?」
『はい、何でしょう?』
「天文部に二年生の木下夏芽さんっていますよね?」
『・・・天文部?少々お待ちください』
それから保留音が流れて、本当に繋がっているのか不安になるくらいに時間が経ってから、ようやく声が届いた。先ほど電話に出てくれた人とは別の、お年寄りの声だった。
『もしもし、天文部に入部希望だったのかな?申し訳ないんだけど、うちの学校には天文部がなくて』
「ああ、いや学部じゃなくて部活です」
「うん、天文学部もなければ天文部も天文サークルもないよ」
聞き間違いかと思った。天文部がない?そんなバカな。だって夏芽さんは自分が大学一年生のとき先輩に勧誘されて天文部に入ったという。つまり、少なくとも前の年には天文部は作られているはずなんだ。それに、ちゃんと大学側が用意してくれた部室だってあるし、大学公認の部活であることは間違いない。
「そんなはずありません。目立った活動はしてないかもしれないけど、確かにあるはずです。部室棟の一階、手前から3つ目の部屋に」
『いや、そこはスキー部が使ってるよ。確かに五十年前くらい前には天文部があったんだけど、部員がみんな辞めちゃって廃部になったんだ。それ以来天体観測をするような部もサークルは出来てないよ。もしまた作りたいってなれば、作ることもできるけど』
天文部がない?確かに夏芽さんの天文部は天体観測といった活動はしていないけれど、「個人的に薬学の研究や実験を部室でやっている部活はあるか?」と聞いたところで、僕が求める回答は返ってこないと思った。
「じゃあ薬学部二年の木下夏芽っていますよね?その人って今何部に入っていますか?」
『・・・悪いけど、学生の個人情報は教えることが出来ないんだ。ごめんね』
「そんな・・・いえ、分かりました。ありがとうございます」
粘っても仕方がないと思い、僕は電話を切った。
困った。南大の部室棟に行けば夏芽さんに会えると思っていたのに、そもそも天文部が存在しないなんて。どうなっているんだ?
僕は意気消沈でちなみさんのいるテーブルへと戻り、電話の内容を話した。
「天文部がない?そんなはずは・・・。そういえば、私のおばあちゃんも南大学の卒業生だって言ってたから、天文部のこと聞いてみるね」
「ありがとう、助かる」
五十年くらい前にはあったという天文部のことも気になっていたので、昔のことを知る人物の存在はありがたかった。
「あっ、先輩から返信来たよ。ちょっと待ってね」
ちなみさんは眼を上下させて返信を読んだ。そして、顔を曇らせた。嫌な予感がした。
「嘘・・・木下って人も、夏芽って名前の人もいないって」
「そんな・・・。知らないだけじゃなくて?」
「私もそう思ったんだけど、入学したときに配られた文学部の名簿も確認してもいなかったって言ってる」
何がどうなっているんだ?天文部がない。夏芽さんが学校にいない。何かがおかしい。
「どうしよう、健くん」
真夜中の海岸を歩いているようだった。ちなみさんのことを忘れたくないのに、唯一の手掛かりもなくなってしまった。どこに向かって進めば出口が見えるのか、分からなくなっていた。
しかし、僕は知っている。
夜明け前の暗闇が最も深いと。
夜明けは近い。この違和感こそが、手がかりになってくれれば・・・。
僕は意識を集中させた。