12 「嬉しかったんです」
12
「・・・ん、ここ、どこ?」
後ろを振り向くと小学高学年くらいに若返った夏芽さんがまぶたをこすりながらこちらを見ていた。
「夏芽さん!」
僕は思わず大きな声を出してしまう。夏芽さんが目覚めてくれたことが嬉しかった。
「大丈夫ですか!?身体でおかしなところはありませんか?・・・っていっても全部おかしくなってるんだけど、そうじゃなくて!ここが痛いとか、ここに違和感があるとか」
「・・・あの、あなた、誰?」
僕は全身が凍り付くような感覚に襲われた。夏芽さんが僕のことを覚えていないことは、彼女のおびえた瞳と震える肩を見れば明らかだった。夏芽さんは身体とともに記憶も若返ってしまった。
「私、誘拐されたの?」
「夏芽さん・・・」
唯一の希望だった、夏芽さんの記憶は維持されているという可能性は潰えてしまった。頼れる先輩はもういない。また僕一人で若返り解除薬を創らなくちゃいけない。そんなの無理だ。
「な、夏芽ちゃんは誘拐されたんじゃないよ!わたしはちなみ。このお兄ちゃんは健さんって言うの。わたしたちは夏芽ちゃんのご両親のお友達なんだ。お父さんお母さんたち急にお仕事が入っちゃって、出張に行かなくちゃいけなくなったの。それでわたしたちが預かることになったんだ。急にこんなことになっちゃってごめんね」
すかさずちなみちゃんが事前に考えておいた「もし夏芽ちゃんの記憶も子供に戻ってしまっていたら」の言い訳を夏芽ちゃんに話してくれた。両親が共働きだということは昔夏芽さん本人から聞いたことがあった。
「いつ帰ってくるの?」
「え、えっと、実は二人とも遠くに行っちゃって、しばらく戻ってこられないらしいんだ。寂しい思いさせちゃって本当にごめんね」
夏芽ちゃんは黙ったままだったので、泣いてしまうんじゃないかと思った。でも違った。
「・・・もう、パパとママったら、ほんとに世話が焼けるんだから。でも私、聞き分けのいい子どもだから、わがまま言わないよ。今日からよろしくお願いします。ちなみさん、タケルさん」
想像以上にこの状況を素直に受け入れてくれたので僕はびっくりした。
「う、うん、よろしく」
「あ、そうだ夏芽ちゃん、オムライスがあるんだけど食べる?もうこんな時間だからおなかすいたでしょ?」
「うん、食べる!オムライス大好きなの、私」
時計を見ると間もなく時計の短針は12を指そうとしていた。夏芽ちゃんが人見知りをしない女の子で良かったと思いながら僕は夏芽ちゃんと目を合わせた。
「ねえ、タケル」
「ん、どした?」
呼び捨てなのは気になったが、夏芽ちゃんだし別にいいかと思った。
「どこかで見たことある顔してるけど・・・気のせいかしら?」
大学生のころの記憶が少し残っているのかなと思ったけれど、違うかもしれない。僕も同じようなことを考えていたからだ。
「僕も、見覚えあるんだよね。懐かしいというか、なんというか」
それは、夏芽さんの幼い姿だから、という訳ではなく、いつか遠い昔、どこかであったことのあるような、そういう懐かしさを夏芽ちゃんが持っていたからだった。
「他人の空似ってやつ?」
「難しい言葉知ってるんだね、すごいね」
「私、賢い子どもだから。その辺のお子様と一緒にしないでね」
小学生の頃の夏芽さんは大人びていて、賢くて、少しプライドの高い女の子だった。
「オムライスできたよー」
「わあい、やった!」
食べ物に目がないところとかは、やっぱりまだまだ子どもだけど。
「いただきます!」
夏芽ちゃんは元気よく合掌すると、パクパクとレンジで温めたオムライスを食べ進めていった。
「うん、すっごくおいしい、これ」
「そう言ってくれると嬉しいな」
ちなみちゃんは夕ご飯を食べている夏芽ちゃんの姿を嬉しそうに眺めていた。
「ねえ夏芽ちゃん、いきなり変なこと聞くんだけど、眠ってしまう前のことって覚えてる?」
僕は尋ねた。記憶が少しでも残ってくれていれば、若返りを戻せる方法がないか知っているかもしれない。
「・・・そう言われてみると覚えてないかも。あれ、どうしてだろう?」
覚えてないか、さすがに。それでも僕は諦めず携帯電話を開いた。
「この場所に見覚えはない?」
僕は部室の写真を夏芽ちゃんに見せた。けれど夏芽ちゃんは首をかしげるだけだった。ほかにも大学の校舎の写真や大学の最寄り駅、吉祥寺駅付近の写真を見せたけれどどれも見覚えのないものばかりだったらしい。
「ところで、夏芽ちゃんは今何歳?」
「11歳、小学5年生だよ」
小学高学年くらいだろうという僕の予想はあらかた当たっていた。きっちり十年分若返ったんだ。
「そういえば学校へはどうやって行ったらいいの?私のランドセルもないみたいだけど・・・」
僕とちなみちゃんは顔を見合わせて「しまった!」という表情を浮かべた。若返り薬のことで頭がいっぱいでそこまで考えてなかった!僕がどうしようと焦っているとちなみちゃんが助け船を出してくれた。
「が、学校は休み、そう、お休みだから!明日あさっては土日だからお休みなの。その間にランドセルとか学校の道具、届けてもらうから安心してね」
「そっか、良かった」
僕はありがとう、というサインを目で送った。しかし、これでごまかせるのはあさってまでになってしまった。月曜日になれば学校が始まってしまう。それまでに若返りをもとに戻す薬を完成させなければ、夏芽ちゃんは鋭い子だから気付いてしまう。僕は締め切り間近の漫画家のような気分を嫌でも味わうはめになりそうだ。
夕ご飯を食べ終え、コンビニで買ってきた歯ブラシを夏芽ちゃんに渡し歯磨きを完了させた。
「じゃあそろそろ寝よっか」
僕は夏芽ちゃんをベットへ連れていった。
「えーもう寝なきゃなの?お昼寝いっぱいしたから眠くないよ!」
昼間から約8時間も睡眠をとっていたのだから無理もないか。
「健さん、明日も朝早いんですから健さんは部屋に戻って寝てください。私が夏芽ちゃんを寝かせるので」
気を利かせてちなみちゃんが言ってくれた。
「ありがとう。じゃあ夏芽ちゃん、また明日だね。おやすみ」
「・・・タケル、どっか行っちゃうの?どうして?」
部屋へ帰ろうとする僕の服の裾を引っ張られ、僕は引き止まった。
「僕は僕のおうちに帰らなきゃいけないから」
「どうして?だってタケルとちなみさんって夫婦でしょ?ならここが自分のおうちでしょ?」
僕は暑くもないのにサウナに入った後のように体が火照るのを感じた。
「なっ、なに言ってるの、夏芽ちゃんっ。わたしたちが夫婦なわけないよ」
「じゃあカップル?」
「そうでもなくて・・・!わたしと健さんはただの先輩後輩だよ!」
ただの・・・と言われたことに若干ショックを受けつつも、僕も作り笑顔を浮かべた。
「じゃあ、パパとママはただの先輩後輩な関係の二人に私を預けたの?それっておかしくない?」
「えっと、それは・・・」
痛いところをつかれたと、ちなみちゃんは苦い表情を浮かべた。どうごまかすべきか。僕は苦し紛れに声を発した。
「ぼ、僕とちなみちゃんは付き合ってるんだ。ちなみったら恥ずかしがって嘘ついただけなんだ」
僕は嘘をつくことにした。夏芽ちゃんの言うことももっともだったので、今はこうするしかない。
「結婚を前提に?」
なんでそんな言葉知っているんだよと思いながらも、僕は「そうそう、結婚を前提に」と半ばやけくそで言った。
「じゃあおうち帰らなくていいね。今日は泊まっていこう、タケル!」
「うっ・・・!」
夏芽ちゃんは、姿は小学生でも中身は変わってないんだ、そういう計算高いところ。僕にはもうどうすることもできなかったので、観念してちなみちゃんの方を向いた。
「じゃあ・・・泊まっていっていいかな?」
「そうですね・・・。今日も泊まっていってください、健さん」
ちなみちゃんも良い言い訳が思いつかなかったようで、どういうわけか、僕はちなみちゃんの家に泊まることになってしまった。
夏芽ちゃんの言葉にまんまと乗せられ、僕は自分の部屋へ行きパジャマに着替え、またちなみちゃんの部屋へとやってきた。
「本当にごめんね、こんなことになっちゃって」
「健さんは悪くないですよ、謝らないでください」
そう、悪いのはこの先輩だ。勝手に薬を飲んで、勝手に若返って。本当にこの先輩はどうしてこうなんだろう。
「あっ、でも、夏芽さんを責めないであげてください」
表情が曇る僕に、ちなみちゃんは優しく声をかけてくれた。
「夏芽さんもなにか目的があって若返り薬を飲んだはずです。それに、なんの確証もないのにいきなり自飲実験なんてしないですよ。もとに戻れる方法が必ずあるはずです。だから、諦めずに頑張りましょう!」
まあ、夏芽さんのおかげでこうして一目ぼれした女の子と一緒にいられるわけだし、一応感謝しておいてあげるか。僕は夏芽ちゃんの頭をポンポンと叩いた。
「じゃあ僕は床で寝るから。二人はベットで寝て」
「ええっ、それは悪いですよ!先輩を床で寝させるわけには・・・」
「かといって夏芽ちゃんと僕が二人でベットっていうのもあまりに申し訳ないよ」
「だったら三人で一緒にベットで寝ましょう」
目線を下げると夏芽ちゃんがニヤニヤしながらこちらを見ていた。まさか、この子僕たちの本当の関係に気付いてわざと・・・?
で、なんだかんだで夏芽ちゃんを僕とちなみちゃんが挟む形で、川の字で寝ることになりました。なんだこの状況。
「じゃあ電気消しますね」
「はーい、おやすみなさい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
もちろんこんな状態、緊張して寝られるはずもなく、目がギンギンに冴えていた。対する夏芽ちゃんはあっという間に眠りについて、今はすーすーと寝息を立てている。さっきの眠くないよ!という発言は何だったのか。
「ねえ、健さん」
「どうかした?」
暗闇の中、ちなみちゃんが僕の方を向いて話しかけてきた。
「どうして私の小さいころのあだ名、知っていたんですか?」
ちなみちゃんは夏芽ちゃんを起こさないよう、小さな声で言った。
「それは・・・。僕も、小さいころバラを届けられたことがあって。その女の子のあだ名がなっちゃんだったんだ」
ちなみちゃんがどういう表情をしたのかは分からない。でも驚いていることは暗闇の中でもはっきりと分かった。
「そして、僕の初恋の相手がその女の子、なっちゃんだった」
きっと、こんな状況でなければこんなこと言えなかった。顔なんて真っ赤で、目は泳いで体が震えていて、今が暗闇で本当に良かったと思う。
「・・・健さんは今でもその子のこと、好きなんですか?」
ちなみちゃんは「その子ってもしかして、わたしですか?」なんて聞かなかった。ちなみちゃんがあの女の子であることはほぼ間違いない。僕が大学で一目ぼれした君が、十二年前の初恋の相手だったなんて、ロマンチックじゃないか。僕が「うん」と答えさえすれば、もうなっちゃんと夏芽さんとちなみちゃん、三人の間で悩む必要もない。答えは明らか。そのはずだった。
「・・・分からない」
なのにどうして、どうして夏芽さんの姿が浮かぶんだ。せっかく初恋の相手に会えたっていうのに。彼女の言葉が、記憶が、声が、僕の想いを邪魔する。
「・・・そう、ですよね」
返す言葉が見つからなくて、永遠とも思える静寂が暗闇を包んだ。
「わたしは」
静寂を切り裂く声が聞こえた。
「その男の子のこと、今でも好きです。きっと、これからも」
そう言われた僕は、どんな顔をしていたんだろう。
「明日も朝早いですし、寝ましょうか。おやすみなさい」
「・・・うん、おやすみ」
寝られるわけもなかったけれど、僕は体の向きを変え目を瞑った。
次の日の朝。
「夏芽ちゃん、健さん、朝ですよー。起きてくださーい」
優しく肩をゆすられていることに気付き、僕は薄目を開けた。
「おはようございます、健さん」
ちなみちゃんの笑顔に、一瞬昨日の夜の出来事が夢だったんじゃないかと思った。あまりにもちなみちゃんが自然に僕を起こしてくれたからだ。
「あははっ、寝ぼけてるんですか、健さん?早くしないとご飯冷めちゃいますよ?」
テーブルの上を見ると、食パンとサラダ、ベーコンの上に乗せられた目玉焼きがきれいに三人分並べられていた。ちなみちゃんは、昨日の僕の言葉をどう受け取ったのだろうか。僕の初恋の相手がもしかしたら自分かもしれなくて、けど今は好きかどうかわからないと言われ、彼女はどう感じたのだろうか。彼女の顔を見る限り、気にしていないようだけれど。
「こんなもので良かったですか?」
「もちろん、朝はパン派だから嬉しいよ。いや、そんなことより手伝わなくてごめん!」
「いいですよ、わたしが勝手にやったことだから。私もパン派だから、一緒ですね」
なんだかちなみちゃんはいつもより元気だった。昨日の今日でぎくしゃくするものかなと思っていただけに、ちなみちゃんの反応は意外だった。
「んー、おはよう。タケル、ちなみさん」
夏芽ちゃんも目を覚ましたところで、僕たちは朝ご飯をいただくことにした。
「いただきます」
窓から朝日が差し込む食卓で、僕たちは手を合わせた。
「あ、半熟だ!固焼きより好きなんだ」
「良かったー。どっちにしようか迷ったんです。塩と醤油とソース、どれがいいですか?」
「お醤油で」
「タケルー次私にもちょうだい」
「はいよ」
「ドレッシングこっちにあるから取ってほしかったら言ってね」
なんだろう、この空間。ちなみちゃんがいて、夏芽ちゃんがいて、三人で食卓を囲んでいる。初めてなのに、まるでこんな日々が当たり前だと錯覚してしまうほど、自然だった。僕はちなみちゃんの方をちらと見る。
「私嬉しかったんです」
「・・・?」
「だって健さんの初恋の相手がわたしだったかもしれないんですよ?あの時は離れ離れになっちゃったけれど、今こうして再会できたなんて運命的だなって思って。健さんが今その子に対してどう思っているかは分からないけど、それでも、こうして再び会えたことが嬉しいんです。だから、ポジティブに捉えようって、思ったんです」
僕が目を合わせると、ちなみちゃんが照れくさそうに微笑み返した。僕は顔面から湯気が吹き出すような気持ちになって顔を伏せた。世界中の妬みや憎しみを全て排除してくれそうな笑顔は十二年前のなっちゃんそのものだった。彼女の中で何か決意のようなものが芽生えたように思えた。もう顔を長い前髪に隠して恥ずかしがっていた内気な彼女はいなかった。僕も決断しなくては、と思った。
ふと、朝ごはんを食べながら、どうして名前が「ちなみ」なのに「なっちゃん」というあだ名になったのかという疑問が僕の頭上に上がった。しかし、直接聞けばいいか、と思ったところでタイミング悪くポケットのケータイが震える。パンを口の中に詰め込み「ごちそうさまでした」と告げケータイを開くと、メールが一件届いていた。左上のメールボタンを押すと、お母さんからだった。
『健、元気ー?ご飯はちゃんと食べてる? 近々大きな仕事が片付いたら、久しぶりに日本へ帰れそうなんだ〈えがお〉 もしかしたら健の家に行くかもだから、隠しておかなきゃいけないものとかあると思うし、準備しておいて~〈ニヤニヤ〉 じゃあね!』
メールに返信するのが面倒で、すぐに画面を二つ折りにした。会えることが嬉しくない訳ではないが、こちらが緊急事態だというのに能天気なので、なんとなく返信するのが億劫だった。
「それじゃあ、いってらっしゃい」
「いってらっしゃい、タケル」
「行ってきます」
僕はちなみちゃんと夏芽さんを家に残し学校へ向かった。一刻でも早く若返りをもとに戻す薬を創らなくては。大丈夫、僕一人でもできるさ。
・・・と意気込んだあの時を遠くに感じる。部室に注ぎ込む太陽もあと数時間したら沈んでしまうのだろう。僕はソファに倒れこんでいた。ソファに染みついたホコリと薬品臭さにも慣れてしまっていた。
横になりながら過去の夏芽さんが残した若返り薬の研究ノートを何度も読み返した。科学者たちの若返りに関する文献を読み漁った。しかし若返りする方法の考察はあまたと出てきても、若返りを解除する薬の考察は一切出てこなかった。
気休めに薬品を調合して攪拌機にセットしたものの、良い結果が出るとは思えない。結果は24時間後に出るのだが期待はできない。頑張ってはみたもののどうにもならなかった。
もうどうしたらいいんだよ、夏芽さん!僕は頭を掻きむしった。
ソファの上で身もだえているとふと、ソファに違和感があるのを感じた。背もたれ部分の隙間に何か挟まっているようだった。
「これは・・・。夏芽さんのスマートフォン?」
話題の最新機器で、夏芽さんが大切にしていたものだった。もしかしたらちなみちゃんが夏芽ちゃんのぶかぶかになった服を着替えさせるときにポケットから落ちてしまったのかもしれない。そういえば『もし私がスマホをその辺に放り投げたまま忘れてることがあれば教えてくれ』と言われていたっけ。そんな会話をしたのがはるか昔のことのように感じる。
そんなことより、もしご両親から連絡がきていたら大変だ。夏芽さんには悪いと思いながらも電源をつけた。良かった。着信もメールも来ていないようだ。僕は安心してスマホを閉じようとした、そのとき、待ち受け画面に異変を感じた。以前見たときは青い海の写真だったはずだが、今はメモか何かの写真が待ち受け画面に設定されているようだった。僕は文字を目で追いかけた。
『ケンへ。急に自飲実験をして迷惑をかけてしまってすまなかった。ごめん。
でも若返りは二日後には自然と効果が切れるように調節してあるから、君は心配しなくていいよ。
それじゃ、二日後に』
僕は茫然とした。
若返りは自然と効果が切れる、のか。二日後に。
「はあーよかったあー!」
僕は誰もいない部室で一人安堵のため息をついた。このまま夏芽さんがもとの姿に戻れなかったらどうしようかと心配で仕方なかった。本当に良かった。
安心すると、今度は次第に怒りがふつふつとわいてきた。
なんで携帯の待ち受け画面というわかりづらい場所にメッセージを残すかな?
いや、あの人のことだ。「若返った後もとに戻れるってすぐに分かってもハラハラしないじゃないか。もとに戻れないかも、どうしようって焦った後ネタバラシした方がスリリングだろう?」などと言いかねない。本当にいつまでも迷惑な先輩だ。スマホを必要以上に自慢し、若返り薬が完成した日にも画面を見せつけてきた。すべては僕がスマホのメッセージに気付けるようにだったのかもしれない。
この待ち受け画面を先日撮ったとして、そこから二日後ということは、次の日には夏芽ちゃんはもとの姿に戻れるというわけだ。とりあえずは一安心して、僕はちなみちゃんにメールで夏芽さんがもとの姿に戻れることを伝えた。
自転車で家に帰るその道中、家から徒歩一分程度で行ける公園から僕を呼ぶ声が聞こえた。
「おーいタケル!おかえりー」
「あっ、夏芽ちゃんにちなみちゃん。ただいま。こんなところにいたんだ」
公園の手前で自転車を停めると夏芽ちゃんはブランコから飛び降り駆け寄ってきた。
「タケル、お土産は?」
僕が手に持ったアイスを差し出すと夏芽ちゃんは嬉しそうに袋の中身を覗いた。
「やった!ありがとう。ちなみさんはどれ食べる?」
「健さん、私の分までありがとうございます。夏芽ちゃんから好きなの選んでいいよ」
ちなみちゃんはまるで本当の母親のように優しい笑顔を浮かべた。僕もアイスを選ぼうと二人に近づくと、いきなり「ダメー!」という叫び声が放たれた。
「えっ、どうした?」
「足元!」
そういわれて目線を下へやると、砂の地面に整った字で「木下夏芽」と書かれていた。
「きれいに書けたから消されたくないみたいですよ」
ちなみちゃんはクスリと微笑みながら僕の方へ近づく。
「へー、小学生にしてはきれいに書けているね」
「なんならタケルよりうまいかも」
「そっ、そんなことはないよ」
夏芽ちゃんの字はなかなかに綺麗だったので、僕も丁寧にゆっくりと自分の名前を木の枝で書きあげていった。
「・・・どうだ」
僕は「濱田健」の文字を見つめる。本気で書いた割には小学4年生とさして変わらない気もするけどそこは気にしないでおこう。
と、僕は夏芽ちゃんの反応を待っていたが、なぜか彼女は困惑した表情を浮かべていた。
「どうかした?」
「ハマダケン・・・どうしてケンくんの名前をタケルが知ってるの?」
彼女の言葉の意味が分からず僕は小首をかしげた。簡単な方の浜田、ではなく小学校では習わないはずの濱田、が読めたのも違和感だった。
「・・・あ、そうか!だから見たことある顔だなって思ったんだよ!タケルってケンくんのお兄さんなんでしょ?」
僕は眉をひそめた。
「えっと・・・。この漢字は、健って書いてタケルって読むんだ。ケンじゃない。夏芽ちゃんの言っているケンくんって子と僕がたまたま似ていただけじゃないかな?」
「そんなはずないよ。だってそっくりだもん!まるでケンくんの十年後の姿がタケルなんじゃないかって思うくらいそっくりで・・・。だから私、タケルと初めて会ったとき、あなたの顔に見覚えがあったんだ!」
混乱した様子のちなみちゃんを横目に、僕は頭を回転させた。
「もしかしたら」
僕はちなみちゃんに向けてぽつりと呟いた。
「夏芽ちゃんも会ったことがあるのかもしれない、小学生のころの僕に。それで、夏芽ちゃんは小学生の時の僕しか知らないから、大学生になった僕のことを小さいころの僕、ケンくんのお兄さんだと勘違いしているんじゃないか?」
なるほど、とちなみちゃんは頷きながらも、まだ釈然としない様子だった。彼女は膝を折って夏芽ちゃんの方に向き直した。
「・・・夏芽ちゃんはケンくんと仲良しだったんだ?」
すると夏芽ちゃんは純粋な笑顔で答えた。
「うん!ケンくんからはいつも『なっちゃん』って呼ばれてて、よくお花屋さんで遊んだりするんだ!」
僕は胸に刀を差されたような衝撃を受けた。隣でちなみちゃんが目を大きく見開いている。
「どういうこと・・・?なんで、私のほかになっちゃんがいるの?」
夏芽ちゃんには聞こえないような小さな声でちなみちゃんは呟いた。
「ねえ夏芽ちゃん、ケンくんのこともっと教えてくれないかな!」
「ちょっとちなみちゃん、落ち着いて」
「いいけど、二人とも顔怖いよ・・・?」
二人とも冷静でいられる状況ではなかった。公園の木々たちが風に吹かれざわざわと音を立てた。
「・・・健?」
困惑する中、公園の外から懐かしい声が聞こえるのを感じた。
「・・・お母さん?」
目線の先に、いぶかしげな表情を浮かべ立ち尽くす僕の母の姿ががあった。
思いがけない人物の登場に、僕の頭で赤いサイレンが鳴った。
「久しぶりー健!驚かせようと思っていきなり来ちゃった」
「仕事は?ニューヨークにいたんじゃなかったの?」
「ちょうどひと段落してね。かなり遅めの春休みをもらって帰ってきたんだけど、メール見なかった?」
「見たけど、当日来るとはおもわないじゃん・・・」
そうだ、僕は母さんがこういう人だってことを忘れていた。僕の父親が死んで海外へ働きに行くと相談されたのも一週間前だったし、やることが突拍子もなくて、それでいていつも一方的だった。だから、僕の家に行くかもっていうメールをもらった時点でいつ来てもいいよう身構えておくべきだった。けれど「後で悔やむ」と書くから後悔なんだ。来てしまった以上はどうすることもできない。
「えーっと、それで、どういう状況これ?」
僕はこの状況を客観視してみる。幼女の肩に手をのせる僕と、その隣にはまだ大学生くらいの女の子が立っている。あ、この状況は傍からみたらとんでもない誤解を生みかねない。僕は急いで訂正する。
「ち、違うんだ!これは誤解でっ!」
「そこまで焦られると逆に怪しく感じるわね」
「本当に違うんだって!」
なっちゃんが二人いるというややこしい状況の中で、余計この状況をややこしくさせる人がやってきてしまった。どうしよう、夏芽さんのことも確かめたいが、先に母さんの誤解を解くべきか?
・・・いや、両方解決する方法があるじゃないか。母さんの訪問は厄介ごとが増えただけのように思えたけれど、むしろこれはチャンスかもしれない。
隣でちなみちゃんと「息子がご迷惑をおかけしてしまって」「いや本当に誤解なんですお母さん!」ともめているお母さんに僕は夏芽ちゃんを近づかせた。
「お母さん!この子に見覚えはない?特に、僕が小学生のころとか・・・」
母さんは夏芽ちゃんの顔を一瞥すると、険しい顔で僕の方を見た。
「話をそらさないで、ちゃんと説明して」
僕を諭すように母さんは言う。話をそらしているつもりはなかったので僕も譲らず「あとできちんと話すから、この子の顔、しっかり見てくれない?」と言った。
母さんは観念したようで「分かったわ」と言って夏芽さんの顔をじっと見つめた。
「・・・なっちゃん?」
僕は目を見開いた。予想外の答えが返ってきたからだ。
お母さんは僕にバラを届けてくれた女の子に実際会っている。つまり、バラの女の子、なっちゃんの顔を知っている。その母さんが、幼くなった夏芽さんを見て、なっちゃん?と言った。それが意味することは・・・。
母さんは夏芽ちゃんの肩に手を置いて言う。
「あの時バラを届けてくれたなっちゃんそっくりだよ」
そんな、馬鹿な。
僕は背中に鳥肌が立つのを感じた。
バラを届けてくれたあの女の子、それは夏芽さんだった。