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 ホースから飛び出した水たちが、太陽の光を反射させキラキラ光っている。

 庭に育つ何輪ものバラたちは、水を浴びて生き生きと背を伸ばしていた。

 なんてことはない、一般的な二階建て築十二年の我が家では、バラたちだけが違う空気をまとっていた。気品があって、美しい。本当にこの家にはもったいないくらいだなと思った。

 白いTシャツにじんわりと汗がにじむ。体にかかる水しぶきが心地よかった。蛇口を閉めホースを巻き付け、ベランダから部屋へと続く窓を開けると、リビングから一斉に冷たい風が流れ込んできて僕の体に触れた。太陽が照り付ける外の世界からエアコンの風が包む部屋の中に入った時の快感。ああ、夏ってこの瞬間のためにあるんだなと、心の中でひとり呟いた。

「健―、水やりありがとう」

 リビングと向かい合う形でキッチンからお母さんが声をかけた。

「うん。あ、そうめんにしたの?アメリカ帰りだから和食かラーメンかと思った」

「なんだか先週からずっとそうめんが食べたくてさー。持ってって」

 僕はガラスのボウルに入れられた白いそうめんを受け取った。ひやっとした感覚が手のひらから伝わり僕の全身を駆け巡った。

「でも久しぶりだね、こうして健と二人でお昼ご飯を食べるのは。麦茶に氷入れる?」

「うん、たっぷり入れて」

 お母さんが職場であるニューヨークから日本に帰ってきたのは僕が高校二年生の冬以来なので半年ぶりだった。お母さんが海外にいる間はだだっ広いこの一軒家で一人暮らしをしていた。先日突然帰ってきたのでびっくりしたが幸い今は夏休み、僕は家で受験勉強をする以外の予定はなかったので、こうして二人で食卓を囲んでいた。

「いただきます」

「いただきまーす」

 ボウルの中から水に浮かぶ白い麺を救出する。

「ありがとね、毎日バラの水やりしてくれて。元気だった?」

「真ん中あたりにあるバラが一本、弱ってたよ」

「あちゃ、夏の暑さにやられちゃったのかな」

「かもね」

 そうめんをすすりながら、そういえばあのバラ僕が小学生のころからずっとあるな、ということに気付いた。気になったので、聞いてみることにした。

「でもなんで、バラなんて育てようと思ったの?なんというか、うちが育てるには高貴すぎるっていうか、敷居が高すぎるような気がして」

 あのバラは僕がまだ九九を覚えていない頃から家にあった気がした。

「あれ、健知らないの?」

 母は口をもぐもぐさせながらとぼけた口調で言った。

「何を」

「あのバラ、もともと健のだって」

「僕の?」

 確かに僕は草食系男子の代名詞と呼ばれてはいるけれど、草木や花を愛でる趣味はない。

「健のっていうか、健のもらい物と言った方が正しいのかな」

 身に覚えがなかった。僕は眉間にしわをよせることで、母親に「そんなものもらった覚えないよ」と合図を送った。

「ほらあの子よ、確か小学校の頃すぐ転校していっちゃったかわいい女の子・・・そう、なっちゃん!思い出したー」

 その名前に、僕の心がドクンと高鳴る。

 なっちゃんが?

「いつ?」

「え?健が小学校二年生の時だっけ?」

「そうじゃなくて!もっと具体的に!」

 思わず強い口調になる。頭に血がぐるぐる回る。自分の中では、あの子のことを忘れたつもりでいた。でも、彼女の名前が出ただけでこんなに冷静でいられなくなるなんて、どうやら僕はまだ彼女への想いを捨てきれずにいるみたいだ。

「えっと・・・。あの子が転校する日、当日だよ。でも健、家にいなかったから」

 嘘だ。だってあの日は、僕は。

 あの子に会いに、

 あの子と別れる前に、最後に、

 あの子に僕の想いをを伝えようと、

 あの子の家へと走ったんだ。

 会えなかったらそういう運命だったのだと、きっぱり諦めようと、覚悟を決めて走った。

 結局あの子には会えなかった。

 それで僕とあの子の物語は終わったのだと、

 ずっとそう思っていた。

 なのに、なんで。

「健が急に我が家を飛び出したと思ったら、その十分後くらいかな、なっちゃんが息を切らして家の前にやってきたの。それも、たくさんのバラを抱えて」

 頭が真っ白になった。なのに、胸のドキドキだけは止まらない。

 僕たちは、入れ違いになっていた?

「それで、どうしたのって聞いたら、『ケン君、ケン君を呼んでもらえますか』ってお願いされて。でも健、十分前に家を飛び出して行っちゃったから、ごめんね、健出かけちゃったんだって言ったの。そしたらなっちゃん、泣きそうな顔で『このバラを、ケン君に渡してください』って、それだけ言って走って行っちゃったのよね」

 そんな。結局は僕の片思いだったんだって、せっかく諦められたのに。どうして君は。

「でもそのあとまだ続きがあって・・・」

「えっ!」

 いや、やっぱり諦めきれてなんていなかった。もし諦めきれていたら、僕は「続きがある」という少しの可能性に期待したりしない。初恋の相手を忘れられるはずがなかった。

「なに?」

 僕は期待をこめて尋ねた。

「そのあとなっちゃん、一度止まってくるりとこっちを振り返ったの。


『好きです。私、ケン君のことが大好きです』


って、大声で叫んだあと、帰っちゃった」

 あの子が、

 なっちゃんが、

 俺のことを、好き?

 顔が、今まで感じたことのないほど熱い。今すぐあの子の手を取って、僕も大好きだよと伝えたい。

 でもあの子は、もうこの町にはいない。

「どうして、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ!それこそ、あの後僕が帰った時に!」

 母にあたってもどうしようもないことはわかっていたが、どうしてもあふれ出すいろいろな感情を抑えることができなかった。

「だって健、帰った後に私が『なっちゃんが』って言おうとしたら、『その名前をもう、ださないで』って二階に上がっていっちゃったじゃない。私てっきりなっちゃんが走って行った後、二人が合流してなっちゃんの想いも全部知ったんだとばかり思ってたから、いままで健の前であの子の話をするのはよそうって気を遣ったつもりだったんだよ。ごめんね」

 いや、待ってよ。そんな、全部僕のせいだったなんて。心が通じ合っていても別れなければいけない辛さを想って、お母さんなりに気を遣ってくれていたのだろうが、違うんだ。そもそも僕たちは心が通じ合う以前に、ずっとすれ違ったままだったんだ。

「でも私、感動しちゃって。それでついつい花壇にバラを植えちゃったの。なんだか、その命を途切れさせちゃいけない気がして・・・って健」

 僕は。

「どうしてあんた、泣いてるのよ・・・」

 自然とこぼれ落ちた涙を、抑えることができなかった。

 一度会えなかっただけで諦めて、

 あの子は想いを伝えようとしてくれたのに、

 僕はなにも応えることができなかった。

 僕は、僕は。

「ちょっと健、どこいくの?」

 気付けば僕は立ち上がっていた。

「あの子を、なっちゃんを探しに行ってくる」

 庭ではバラたちが、水を浴びてキラキラ光っている。

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