昼の廃病院には行くな。
高校のときの話。
よくある廃墟探索で行ったのは廃病院。
でも、お前ら、もし肝試しか何かのつもりで廃病院に行くつもりなら、絶対にやめとけ。
どうしても行くっていうなら、夜に行け。真昼には絶対行くな。ほんと。
おれが住んでるのは田舎なんだが、町の中心は普通に賑わってるけど、車で三十分も行けば、山のなかで人っ子一人住んでないようなところがたくさんある。
高1の夏休みのとき、地方都市の退屈さをもてあましたおれと友達のAとB、それに昔からよく俺たちとつるんでた帰省中の大学生のAの兄さんは誰が言うともなく肝試しをしようということになって、隣町の廃病院に行くことになった。
その病院はなんというか、重病の人間のための療養所みたいな感じで市街地から離れた山のなかにあって、戦前からあるらしい。
いつ廃業したのかはよく分からないが、とにかく今は廃墟になっている。
治すための病院というよりは余命を静かに過ごさせるための病院みたいな感じだから、そこで死んだ患者の数は普通の病院より多いとのことで、たくさんの幽霊がそこにいるってので評判になっていた。
Aの兄さんが運転免許を持っていたので、兄さんの運転する車でいざ隣町へ。夜になるとがらんとする隣町の大通りを見ただけでなんだか肝試し気分が高まってくるっていうか、じりじり怖いというか。
おれもAもBもAの兄さんも内心びびってるのは間違いないけど、この手の肝試しをやるやつの例にもれず、お互い怖がってないふりをしてた。車が山の道へと入り、ろくに舗装もされてない道をどんどん山の奥へと入っていくにつれ、みんな口数が少なくなった。
問題の病院は山の尾根のあいだの平らな狭い土地に立っていた。真っ暗で全体は見えなかったが、車のライトに照らされた部分だけ見る限り、古い建物らしかった。
とにかく入る。窓ガラスはみな割られ、受付の奥には棚が倒れてる。何か踏みつけたと思ってライトで照らしてみると、『報医國帝』と赤い横文字のある色あせた雑誌があった。どうも『帝國医報』と読むらしい。
いかにも戦前のものらしいものを見つけたおれたちはテンションが上がって、その雑誌を記念として、それにほんとに廃墟に行った証拠として持ち帰ることにした。
おれたちは必要以上にハイテンションに騒いだが、今思うとビビりの裏返しだった。
そんなときにおれたちはあの落書きを見つけた。
それは右に矢印が描かれていて、『コッチ』とスプレーで書いてあった。
やめとけばいいのにおれたちはその矢印に指示に従って歩いた。しばらくすると左右に走る廊下の突き当りについた。
また、そこの壁に矢印が描かれていて『コッチ』と書いてあった。
しばらく矢印に従って歩いていくうちに病院の地下に下りていた。
月や星の光がないだけ地下は真っ暗だった。手術室みたいな部屋が並んでいて、おれたちは次の矢印が見つかるまで、地下廊下の奥をトコトコ歩いていった。
すると、Bが気分が悪いと言い出した。おれたちは何だビビってるのかよー、と内心自分たちもびくびくしてたのを隠して、いや、気を晴らそうとして必要以上に騒いだ。Bはいわゆる見える人だったらしく、たぶんおれたちの知らない何かを感じていたんだろう。
途中でやめようと言えばいいのに、まだ変な見栄を張って、おれたちは矢印の後を追ってる。Bも気分が悪いし、矢印の指す先に行きたくないけど、一人で置いてかれるのはもっと嫌でなけなしの精神力を動員して、おれたちについてきた。
そのうち廊下は行き止まりになった。矢印はもうない。
ああ、これで終わりなんだと思って、おれたちがどんなにほっとしたことか。
そして、それをすぐに打ち砕かれたときの恐怖と言ったら。
そこの壁には矢印はなかった。ただ、赤いスプレーで、
『イマ アナタノ ヒダリ ニ イマス』
そして、ひた。ひたひたひたひたひた、という足音みたいなもの。
それで張りつめていた糸みたいなものが切れた。
恐ろしいのと頭がいかれそうなので絶叫しながら、来た道を走って逃げた。手首にリングを通しておいた懐中電灯がめちゃくちゃにふりまわされて、光がでたらめに飛び交った。
とにかくここから出たい。
その一心で、ひどいとは思うが、他の連中がどうなってるのかも全く気にかけないまま、全速力で逃げた。
まあ、体調を崩し始めたBも含めて、ほとんど一列に並ぶようにして逃げていたんだが。
外に停めてあった車に飛び込むと、とにかく全員がいることを確認して、後は山道を猛スピードで走って逃げた。
今思えば、よく事故らずに済んだもんだ。
そのうち隣町のがらんとした大通りまで来ると、なんていうか人里のありがたみを思い知った。
人通りはないし、この時刻だと車も走ってないけど、通り沿いの民家に電気がついてるってことはそこに人がいるってことだ。
車でおれたちが住んでる町まで戻り、コンビニの駐車場で停めたところで、Aの兄さんが、
「何か見たか?」
と、たずねた。Bがうなずいて、
「見た」
と、こたえ、震えだした。
Bが言うには左の壁を絶対に見てはいけないと思ったらしいが、Bはそいつが壁から出てこようとしてるのを見てしまったという。壁に真っ黒い人影があって、壁からそいつの腕が伸びていたそうだが、それが皮を剥がれたみたいに真っ赤な腕だったとか。
結局、その夜はファミレスに行って、徹夜した。寝るのが怖かった。ただ、ファミレスに行く前に持ち帰った雑誌をバケツに放り込んで焼いた。あそこから物を持ち帰った自分たちの愚かさを噛みしめ、あの廃墟から『ナニカ』を持って帰ってしまってないかと不安でしょうがなかったが、かといって、この雑誌をまたあの病院まで持ち帰る勇気はなかった。
そこで何か幽霊に関するものを焼いて供養する、お焚き上げっていうのか、あれをすることになった。
Aの家の裏のコンクリートを敷きつめた駐車場で二つバケツを用意し、一つには水をいっぱい入れて、もう一つのには例の雑誌を入れて、ライターで火をつけた。
もともとボロボロになっていたので、雑誌はあっという間に燃えて灰になったが、そのあいだ、おれたちは一心不乱に手を合わせて、何に対してか分からないが祈った。
それからの三日間、ろくに眠れなかった。
廃病院で肝試しをしてから四日目、突然、Bから連絡があった。
「あの病院に行こう」
「お前、何言ってんだよ」
「あれからお前、眠れるか」
「眠れない」
「おれもだ。でも、冷静に考えれば、おれたちが見たのはホントに幽霊か何かだったのか?」
「どういうことだよ?」
「廃墟って、なんつーか、不法に占拠してるホームレスが住んでたりするらしいじゃんか。おれたちが見たのも、そういうのだったんじゃないかって話だ」
「でも、壁から化け物が手を伸ばしてるのを見たってのはお前だぞ」
「うん」
「それでもまたあの病院に行くのかよ?」
「別に夜に行かなくてもいい。ただ、真っ昼間に行くんだ」
真っ昼間に病院に行く。
それがいいアイディアなのか、ちょっとよく分からなかった。
でも、あれ以来、AやB、Aの兄さんとは会ってないし、心が休まるときがない。
結局、おれたちはまたAの家の前に集まったが、みんなの顔を見て、驚いた。
みな憔悴しきって、充血した目をうつむかせ、頬が少しこけていた。
あとできいたら、おれ自身もそういうふうに見えたらしい。
このままじゃいけない。なんていうか、とり殺されるかもしれない。
また四人でAの兄さんの車に乗って、隣町へ。そして、山道へと入ったが、思ったより日差しが強く、夜に見た不気味な道とは印象が全然違った。
これはいけるんじゃないか? なにがいけるのかよく分かっていなかったが、でも、あの晩に起きたことを克服しなければいけないってのはみな頭の片隅にあったのだと思う。
やがて、あの病院のある山間の平地まで来た。蝉の声がやかましく、クーラーのきいた車内から出ると、全身からぶわっと汗がにじんだが、何も暑さのせいだけではなかったかもしれない。
「待て。みんなこれをもっていけ」
そういってAの兄さんがトランクから持ち出したのはゴルフクラブだった。リサイクルショップで一本三百円で売られていたのをいざというときの護身用のつもりで買ってきたらしい。
なんだか笑いたくなったが、自分の喉から出たのは、ヒクッという痙攣みたいなものだった。
それでも雲一つない快晴の下で廃病院を見て、Aが、
「これならいけるんじゃね?」
「いけるってなにが?」
「分かんねえけど、いけそうだ。Bはどう思う?」
「いける。ゴルフクラブだってあるし」
「なんだよ、それ。意味分からねー」
夏の真っ昼間に入った廃病院は驚いたことに怖さよりも、なにかノスタルジーみたいなものを感じさせた。蝉の鳴き声はなかに入ってもきこえてるし、そばの藪が風にざわめくのもきこえる。だが、何よりも明るいのだ。そんななかで見える例の矢印はただの悪質な落書きにしか見えない。
おれたちは問題の地下に行ったが、驚いたことにそこにもうっすらではあるが、日差しが差しこんでいた。天井近くにガラスブロックがはまっていて、そこから光が入ってくるのだ。
そして、あの文字のところに来る。
『イマ アナタノ ヒダリ ニ イマス』
左を見た。
そこにあったのはペンキで黒く塗られた大きな人影で人体模型の手が接着剤か何かでくっつけてあった。
それを見たおれたちが腹を抱えて大笑いしたのは言うまでもない。
「つまんねえイタズラしやがって!」
「なんだよ、まったく!」
「あー、あほらし。ハラいてえ」
夜にはよく見えなかったものが、昼にははっきりと見える。
この三日間、おれたちを悩ませてきたものがこんなくだらないイタズラだと分かると、恥ずかしさよりも前に嬉しさが出てきた。
「あちー。はやく帰って、クーラーきいた部屋で脱衣麻雀しようぜ」
「男だけでんなことしても誰も幸せになれねえだろが」
おれたちはすっかり気を取戻し、そんな軽口を叩きながら帰ろうとしたときだった。
Aが壁から突き出た人体模型の腕をゴルフクラブでちょっと小突いた。特に意味があってのことではなく、こんなのにビビってたのが馬鹿らしいと思って、ただ軽くつっついたのだが、その模型の腕が下に九十度曲がって、圧縮した空気が抜けるみたいなプシューって音がした。
それから例の壁が開いたのだが、そのなかの部屋を見て、おれたちは絶句した。
ピカピカしたエレベーターだった。ルルルル、と駆動音が鳴り、B1からB12までの各階のボタンはスマホの画面みたいになっていて、なんていうか最新式の設備、それは戦前の廃病院にちっとも似つかわしくない。
何か見ちゃいけないものを見てる気がしてきたおれたちは隠し扉みたいになった壁を元通りにした。
さっきの気勢は折れた。おれはもう二度とこの病院には足を踏み入れない、いや、他のどんな廃墟にも入らないし、肝試しもいかないと心に誓った。
そして、階段を上りかけたときだった。
ひた、ひたひたひたひたひたひた。
地下室の奥から音がした。〈そいつ〉は近づいてきている。
地下室には誰もいなかった。部屋があるだけでそこにも誰もいない。
ということは〈そいつ〉は例のエレベーターから現れたに違いない。
おれたちはパニくってまた駆けだした。
背後から追ってくるそいつの音がガタンガシャンと騒々しいものに変わったころにはもう生きた心地がしなかった。
病院を飛び出て、また車に飛び込むように乗ろうとしたとき、おれたちは真昼の空の下ではっきりと〈そいつ〉を見た。
金髪がぼさぼさな裸の男がこっちに向かって走ってきていた。
男の肩から腕のかわりに肉の爛れた大きな翼みたいなものが伸びていた。
「タスケテクレェ!」
カタコトで叫ぶ男目がけてゴルフクラブを投げつけて、おれたちはわあああ!と叫んで逃げた。全員乗り込んで車が発進したとき、おれは後部座席から転がった。そして、立ち上がったとき、見た。
男の後ろに白い手術着にガスマスクみたいなものをつけた男が何人もいて裸の男を取り押さえようとしていた。
真昼だからはっきり見えた。
もし肝試しか何かのつもりで廃病院に行くつもりなら、絶対にやめとけ。
どうしても行くっていうなら、夜に行け。真昼には絶対行くな。
夜ならよく見えないものが、昼にははっきりと見える。