閏時 ∼Leap at the time∼ 第1話
その時計は何もかも遅れている。真鍮で出来た鎖のついた懐中時計で、カレンダーがついていて、定期的にネジを巻いてやらなきゃ止まっちまう、電力は必要ないが特徴がいちいち時代遅れだ。
閏年や閏月、閏秒ってのがあるのを知ってるかい。一年を三六六日にしたり十三か月にしたり、一分を六十秒より多くしたり。アタシたち人間はそうやって、暦の上の季節と実際の季節とのズレを直しながら生きている。
もし、閏時ってのがあって、一回だけ、一日を二五時間に設定できたとしたら、お前さんだったらそれをどう使う?
もしもその時計でそれが出来るとしたらどうする?
別に押し売りゃしないよ。閏時に出来るのは一回きりだし興味も欲しくもなけりゃ買わなくたっていい。けどもし欲しけりゃ、お前さんの言い値で売ってやろうじゃないか。
それはな、見てくれの通り古いもんだが骨董的な価値は無ぇや。無名の変わりもんが作った代物だ、特段高く売る気も無ぇよ。ただな。人同士とおんなじように人と物にも縁ってもんがある。今日お前さんがウチの店に来てその時計が目に留まったのも何かの縁であることは間違いねぇ。
住谷達矢は買ってしまった。
店主の言ったことは要するに(彼の言ったことをそのまま信じれば)、達矢が一日を一時間多く使えるチャンスを得て、それをいくらで買うかということだ。たかだか一時間、されど一時間。分針は一回、秒針は六十回、文字盤を回る。『たった一時間』なのか『一時間も』なのかは人によって異なるだろう。達矢の場合は、後者だった。
――時はクリスマス・イヴ。オフィスの窓を見やれば外は雪景色。しかもおあつらえむきに、細かい雪がチラチラ舞っている。彼氏・彼女のいる者は、お互いのスケジュールを合わせて待ち合わせ場所で笑顔を見合わせて、それぞれデートに興じていることだろう。中には内心、今夜こそプロポーズを! などと意気込んでいる者もいるかもしれない。本来なら達矢も、そういった者の一人になる――はずだった。イヴの前日までは。
「は? 明日、残業? なんだってそんな急に」
外まわりの途中にかかってきた、上司からの一本の電話で達矢は、きよしこの夜に、仕事の遅い後輩のフォローをしなくてはならなくなった。
彼女と約束をしていたイヴの予定が一気に台無しになり、電話を切って肩を落としたそんな時だった。一軒の骨董屋(?)を見つけて、その懐中時計に目を留めたのは。
達矢にとっては通勤や外回りでよく歩く通りだからこそ断言出来るがこの辺りには、骨董屋なんてどれだけ探したって見つかりはしない。質屋や古道具屋なんてもっての外だ。しかし、確か馴染みのカフェだったはずのそこには今、令和の世にはおよそ似つかわしくない、むしろ昭和中期を感じさせるモダンな佇まいをした骨董屋が建っていた。
「こんにちは」
道行く人達がこの有り得ない変化をまったく意に介していないのを不思議に思いながら、おそるおそる、カウベルのついた古びたドアを押し開けて、店内を伺ってみる。薄っすら人の気配はする。けれども何の返事もない。
「こんにちは。お邪魔しますよ」
今度は返事を待たずに中に入ってみる。昼夜灯のオレンジ色の照明に照らされた店内には、日常に自然と溶け込む、どこかぬくもりを感じられる雰囲気のある家具や雑貨たちがところ狭しと飾られていた。大正時代のコーヒーテーブル、透かし絵の施されたガラスケース、レトロなグラス、照明器具、掛け時計、スツール、トランクなど。
ふと、達矢はその中に、本立ての陰で隠れんぼをするようにひっそりと置かれた懐中時計が目に留まった。その途端、まるでその時を待っていたかのように、店主だろうか、男性の声が「その時計は――」と、店の奥から聞こえてきたのである。
「――閏時、ねえ……」
「間違いねぇ」と言われたところまでで回想を一旦止めて窓から机に向き直り、スーツの内ポケットから懐中時計を取り出して、独り呟いた。
たった一度とはいえ、この時計で一日を二五時間に出来ると、店主は言っていた。具体的にどうするのかというと、実際には一時間増やすのではなく、戻すのだそうだ。達矢は回想を続けた。
店主の言葉に、興味と購買意欲が湧いてきて、具体的にどういうことなのか訊いたら、こういう応えが返ってきた。
お前さん、人生は一本道だと思うかい。正解の道はたったひとつだと思うかい。どうだかね。振り返ってみりゃ、そりゃ一本道に見えりゃあな。けどな、そりゃあいくつもの分かれ道でその度にどれかひとつを選択して来た結果だろ? お前さんがどう思っているかは分からねえが、人生ってのは連続した、複雑な迷路みたいなもんだ。分かれ道がいくつもあって、どん詰まりもありゃあ、出口もたったひとつじゃねえ。そしてその出口は、それぞれまた次の迷路の入り口に繋がってる――と。話が脇にそれちまったな。
一時間じゃ分かりにくいかもしれねえから三分で考えてみな。いまお前さんの目の前に味噌・塩・醤油、三つのカップ麺があったとする。どれもおんなじ量だ、どれを食べても空腹は満たされる。なに、味噌味は苦手だと? こりゃ例え話だお前さんの好き嫌いは脇へ置いときな。まぁ、だったら二つでもいいや、醤油と塩、二つのカップ麺があったとする。醤油味を食べようと思って、そっちの封を切って湯を注ぐ。ところが仮封をして三分経とうとした時に、やっぱり塩味にすればよかったと気が変わる。その時にその時計を使えば、お前さんは醤油味のカップ麺の封を切る前まで戻って塩味を食べられる。結果的に、お前さんは人より三分多く時間を使えたってそういう寸法だ。
閏時というものは、そういう呼ばれ方こそしないが現実にある。標準時の改正や夏時刻の実施にともなって、本来存在しなかった時が生じたり、本来存在した時が消滅したりすることが実際にあり、そうした時間は三十分やその他中途半端な時間である場合もあるが、一時間であることが多い。
店主の例え話の場合、本来存在した“醤油味のカップ麺を選び封を切ってお湯を注ぎ仮封をした時間”の三分間は消滅し、本来存在しなかった“塩味のカップ麺を選び封を切ってお湯を注ぎ仮封をした時間”の三分間が生じたことになる。この懐中時計で、本当に一時間も時を巻き戻せるのなら、明日の残業分を一時間、取り返せるかもしれない。達矢はますます、その懐中時計が欲しくなった。
「本当に、こっちの言い値で売ってくれるのか?」
「ああ、それで構わねえ。買ってくかい?」
「買ってく。だけど、会計はどこですればいいんだ?」
懐中時計を手に取ってぐるっと店内を見回したが、レジが見当たらない。
「お代は、夏音に渡してくれたらいい」
「カノン?」
頭に疑問符を浮かべた途端、背後から声がした。
「いらっしゃいませー♪ すめらぎ骨董店へようこそ♫ その懐中時計、いくらで買ってくれますか?」
「ぅわっ! ――びっくりした……。君がカノン?」
振り向くと、いつの間にそこに居たのか、達矢の目線の下に、小柄な女性が、黒いキャッシュトレイを持って笑顔で立っていた。
「ええ、『夏』に音色の『音』と書いて夏音です。年齢はお兄さんの想像に任せます♪」
さて何歳くらいだろう。光の加減か、肩より少し長い黒髪にはところどころに茶が混じり、小柄で童顔な見た目の通りであれば中高生であるように思える。が、アースカラーでまとめたコーディネートとどこか理知的な面差しが、二十代半ばであるようにも見える。いずれにしても、不思議な雰囲気を纏った女性だった。
「まあ、それは置いといて。その懐中時計、お兄さんならいくらで買ってくれますか?」
「三千と、二百四十円」
トレイに載せた三枚の野口英世の上に、六枚の硬貨を載せる。
「二百四十円?」
「消費税だよ」
「律儀ですねー、別にいいのに」
「こっちの言い値で売ってくれるんだろ?」
「それはそうですけど、きっちりしてるなーって思って。――毎度ありっ。箱やクリスマス仕様の包装はどうします?」
人あたりのいい笑顔で代金をトレイごと懐にしまって、小首をかしげる。
「プレゼントにするわけじゃないから、そのままで良いよ。それより――」
「いやいや、いま包装しないとしても持っておいたほうが良いと思いますよー、これで閏時を使えるのは“―――――”なんですから」
「それよりまだ使い方を教えてもらっていな―― なんだって?」
時計を夏音に渡して使い方を聞こうとしていたタイミングで夏音は、聞き捨てならないことを口にした。
「あれ?『言わなかった』か?」
夏音と店主の声が部分的に重なって聞こえた。
「【一回だけ、一回きり、一日を二五時間に出来る】としか聞いてない。だからてっきり、一個に一回の使い捨てな機能なのかと思ってたよ」
たった一度きりであったとしても、現代の技術では決して出来ない充分すごいことに変わりはないのだが、一個に一回ではなく、“―――――”となると話は変わってくる。
「そういうことなら、箱と包装ももらっておくよ」
専用の箱と包装材を夏音から受け取って、鞄にしまう。
「うん、その方が良いと思いますよ。説明不足のお詫びとして、それらの分はサービスさせてもらいますね」
「それは有り難い」
「それで、使い方ですけど――」
達矢から時計を受け取った夏音の説明によると、この懐中時計には、懐中時計としては珍しく、竜頭と呼ばれるつまみが、腕時計のそれと同じように文字盤の「Ⅲ」の横に付いている。その役割が、四つあるのだそうだ。ひとつは、ネジ巻き。もうひとつは、カレンダーの日付合わせ。それから、時刻合わせ。そしてもうひとつが、閏時を使うためだ。
その使い方は、ローマ数字表記の文字盤のデザインと同じく、シンプルなものだった。
「――説明は以上ですよ。何か質問はありますか?」
「店主はどうして姿を見せないんだ? というかそもそも存在しているのか?」
「あはは、ごめんなさい。おじいちゃん、照れ屋で人見知りなとこあるから」
夏音は困り顔で、指で頬をぽりぽりかきながらそう言った。
「こっちの勝手で、すまねえな」
「わかった。少なくとも、確かに存在はしてるんだな」
「ええ。そうじゃなきゃ、孫娘である私が存在していませんから」
「店主の孫娘だったのか。とにかく有り難う。いい買い物をしたよ」
「そうかい、そりゃあ何よりだ。じゃあな、お前さん。縁があったらまた会おう」
「ありがとうございましたー♪ メリークリスマース♫」
「メリークリスマス」
そして達矢は、二人の声に背中を押されるように店を出た。カウベルが鳴り、扉が閉まる。その途端、
「何となく予想はしていたけど、やっぱりか」
振り向くと、ついさっきまで骨董屋だったはずのそこは、馴染みのカフェに変わって――いや、戻っていた。にわかには信じ難いが、どうやら自分はなぜか、時空の狭間に招待されたらしい。
信じようと信じまいと、あの店で買ったものが手元にあるのが何よりの証拠だ。
社内の壁掛け時計を見ると、時刻は十九時を少し過ぎていた。回想を終えた達矢は、すでに残業を終えていた。正味一時間とかからなかったので、万が一戻った際に自分自身と遭ってしまってタイムパラドックスが起きないよう、時間つぶしのために昨日の出来事を思い返していたのだ。
オフィスには定時の十八時の時点で達矢以外みな退社していた。それでも一応、周りに誰も居ないことを確認してから、残業の成果を鞄に入れて、それを持って自分の席に座り、懐中時計を手にした。
スマホを机に置いて、夏音から聞いた説明を声に出しながら、懐中時計を操作した。
「ええっと、まず目をつむって、竜頭を最も外側まで引っ張り出す。で、カチッと音がするまで反時計回りに回す。そして、竜頭を押し戻す。すると、目を開けた時には時間が一時間戻って――るのか?」
夏音の話では、閏時を使う際、着衣や道具など、身につけているものや持っている物があればそれも一緒に時間を飛び越えることが出来ると言っていた。
ゆっくりと目を開いて、視線を社内にめぐらせる。自分以外誰一人いない。次に自らの身体にめぐらせる。ちゃんとスーツ姿だ。鞄を開けて残業の成果を確認する。消えたりはしていない。懐中時計を見る。針は七時六分を指していた。だが、掛け時計を見ると、六時六分を指していた。机に置いていたスマホのデジタル表示は、十八時六分を表していた。夏音の言っていた通り、着衣や手にした懐中時計と残業の成果は達矢と一緒に時間を飛び越えていた。無事に一時間戻れたらしい。しかし、なんというかその……いまひとつ実感が無かった。自分は本当に一時間前に戻れたのだろうか。
待ち合わせ時間は十九時だ。そこで手っ取り早く、彼女に電話をしてみることにした。スマホを操作し、柏木弥那の電話番号を呼び出すと、三コールくらいで繋がった。
「もしもし、弥那?」
「もしもし、お疲れ様、達矢。待ち合わせにはまだ早いよね。どうしたの?」
やさしく、やわらかな声。聴いているだけで癒やされるが、いまはうっとりしている暇はない。単刀直入に問いかけた。
「ぁあいや、ちょっと変なこと訊くけどさ、いま何時何分かな」
「え? 本当に変なことだね。午後六時七分。でしょ?」
「そう……だよな。いや、なら良いんだ、うん、ごめん、あとで説明するから。うん、ありがとう。じゃああとで」
「うん、あとでね」
短いやり取りのあと、電話を切る。
どうやら間違い無いらしい。未だに実感が湧かないが、この懐中時計は本当に閏時を使えるのだ。自分は本当に、きよしこの夜を人より一時間多く使えるのだ。
そうと分かれば早速と、達矢は懐中時計の時刻を掛け時計のそれと合わせ、骨董屋でもらった、この時計専用の箱に入れ、クリスマス仕様の包装を施してコートのポケットに入れて、退社した。
――時はクリスマス・イヴ。周りを見れば、雪景色とホワイトイルミネーション。しかもおあつらえむきに、細かい雪がチラチラ舞っている。彼氏・彼女のいる者は、お互いのスケジュールを合わせて待ち合わせ場所で笑顔を見合わせて、それぞれデートに興じていることだろう。中には内心、今夜こそプロポーズを! などと意気込んでいる者もいるかもしれない。
いろいろあったが達矢も、そういった者の一人になれた。付き合い始めてまだ日が浅いだけにプロポーズをするのは先の話だが、思いがけず、ひとつサプライズを用意できた。弥那が喜ぶかどうかはわからないが、少なからず、興味を惹くことは予想できる。どういうリアクションをするのか、弥那だったらコレをどう使うのか、楽しみだ。
***
「――言われた通りにしましたけど。あれを外の世界に持ち出させて本当に良かったんですか、先生」
「何を今さら。もしあれが悪用されようとしても、回収しようと思えばいつでも可能であるのだから問題はないよ。それに。あれのモニターを無作為に探して彼を招待したのは私だが、予定外に、あれのタイムリープ(時間跳躍)機能が“ひとり一回”使えることを彼に教えたのは君じゃないか」
「それはそうですけど……ただの勘ですけど、彼だったらあれを悪用したりはしないと思ったんですよ。実際彼は、ひとり一回しか使えないタイムリープ機能を自分のためではなく、残業をこなした上で彼女さんとの約束を果たすために使いました。それに見てください。いまだって、自分が買ったあれを、誰かに売りつけようとはせずに、彼女さんへのサプライズプレゼントにしようとしているんですよ?」
「なるほど。しかし彼がそうだったとして、彼の周りの人間もそうだとは限らないのではないかね?」
「う~ん……。類は友を呼ぶと言いますし、大丈夫ですよ。きっと」
「はっはっは。ずいぶんと大昔からの謂れを持ち出したな。だが、そう願いたいね」
「叶いますよきっと。聖なる夜の願いですから」
続