Turning Point-1-
薄暗い実験室の中を、緑色の培養液で満たされた無数に並べられたシリンダーが照らす。
シリンダーの中にはピンク色に蠢く肉のようなものが胎動し、それが生物であることを訴えていた。
灰色のスーツに身を包み、その上から白衣を羽織った初老の男がそれらの中でも一際大きなシリンダーの前に立つ。このラボの中にあるものは全て彼の実験の成果、そして今この男が目の前に立っているシリンダーの中身は、彼が現状作り得る最高傑作の一つであった。
男はシリンダーに手のひらをかざし、撫でるように動かした。
唐突に彼の後ろにあるラボの自動ドアが開き、一人の若い男がやってくる。
黒いジャケットに身に付け、薄暗い室内であるにもかかわらずサングラスを掛けたままの男に初老の男が問いかける。
「随分遅かったじゃないか」
初老の男が振り向きながらそう答える。
「おかえり、ヴィクセン。どうだい?体の調子は」
「悪くない。とは言ってもアレは使わなかったが」
サングラスの男……ヴィクセンは両手をジーンズのポケットに突っ込みながら近くにあったパイプ椅子に腰掛ける。
「術後の経過は良好、と……彼に会ったんだろう?どうだった、デュエルアリーナの元トップランカーの実力は」
「アリーナなどというお遊びの選手としてはそれなりだが、戦場じゃあ使い物にならない。」
「ほう?その割にはえらく苦戦していたようだが」
男が意地の悪い笑みを浮かべ、ヴィクセンを煽るように言う。
「直前になってあんたが"殺すな"なんて言うからだ。それにPMCの横槍がなけりゃあのまま消し飛ばしてやったさ」
男の一言で不機嫌になったヴィクセンが静かに反論する。
「それは困るな、彼は私が知る数少ないサンプルの一人なんだ。まさかあんな所で、しかもCDFのアサルトナイトに乗ってやってくるとは思わなかったけどね」
初老の男が再び目の前のシリンダーに向き直る。ヴィクセンは男が見つめるシリンダーの中に入った少女を一瞥し、言いようのない不快感を覚えた。
つい数週間前まで彼もまたシリンダーの中で目覚めを待つ彼の実験体の一人であったからだ。
「奴は本当に先天性適合体なのか?その割には変異能力も変異化も使わなかったが」
「本当だとも、私が確認したんだ。ただ彼が気づいていないだけさ。まぁ、変異化はともかく変異能力については私も知らないんだが」
男はシリンダーの横にあるもう一脚のパイプ椅子に腰掛けてそう答えた。
「何にせよ、彼にはまだ伸びしろがある。生かして捕えたいところだが……暫くは様子見だね」
そうかい、と言ってヴィクセンは椅子から立ち上がりラボの出口へと向かう。
「おや、もう行くのかい?もっとゆっくりしていってもいいのに」
「悪いが、お喋りに付き合っている暇はない。俺を再び戦えるようにしてくれたことには感謝してるが、この部屋はどうにも薄気味悪い」
そう言ってラボを出ていくヴィクセンの後ろ姿を眺めながら、男は溜息をつく。
「やれやれ……君の先輩はどうにも気難しい男のようだ、我が娘よ」
シリンダーの少女に問いかけるが、少女は目を瞑ったままであった。
日本都市防衛軍、千代田総司令部……通称『霞ヶ関』。
その霞ヶ関の長官室でCDFの統合幕僚長である女性、『七原 ミラ』は書類を見ながら頭を抱えていた。
一昨日、新宿で起きた所属不明のアサルトナイトによる無差別テロ事件は一般人の死者二十七名、行方不明者十三名という近年の日本で起きたテロ事件の中でも稀に見る被害を出していた。
事件の後、新宿は一時立ち入り禁止区域に指定され今現在も復興整備中、戒厳令が出された日本では国民は原則外出禁止、CDFも全国の主要都市でテロに備えて警備体制を続けている。
CDFはあの事件で精鋭部隊である特殊機動隊のメンバーから複数の殉職者を出した。中でも第三特殊機動隊が出した被害は大きく、重症ながらも辛うじて生き残った一人を除いて全滅……、同様にテロリストと交戦した第四特殊機動隊も人的被害こそなかったが、ディバイドを二機も失った。
あの時、私が政府の命令を無視してでも第一特殊機動隊を出していれば……
CDF第一特殊機動隊……エリート揃いの特殊機動隊の中でも特に優れた隊員が配属される部隊。中には元傭兵という特異な経歴を持つ隊員も存在し、彼らが鎮圧に当たっていれば被害は今よりもずっと少なく済んだかもしれない、そんな思いをミラはこの二日間ずっと胸中に抱いていた。
ミラはその優秀さから若くして、女性という身でありながらCDFという国家を守る組織のトップを努めていた。
最初は女だからと部下からも舐められ、陰口を叩かれることも少なくなかった。しかし、彼女は持ち前の忍耐力と自分に与えられた仕事に真摯に取り組む姿勢によってそんな批判的な声を除々に黙らせていった。
そう、彼女は優秀だった。
優秀過ぎたが故に型にはまった行動しか取れず、政府にブロッサム隊の出動要請を断られたときもただマニュアル通りに行動することしかできなかった。
国民一人守れずに何が二本都市防衛軍だ。
そう心の中で自嘲したミラは椅子の背もたれに身を預け、左手の甲で目を覆う。
「結局、未熟なのは私も、か……」
静かにそう呟くと、長官室のドアがノックされた。
ミラは新たにやってきた面倒事に備えるべく机の上に並べられた書類を整理し始めたのであった。