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ゾンビの顔色  作者: Nemuru-
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ゾンビの顔色2015年6月8日夜叉邸編

2015年6月8日(後半)夜叉邸にて



 迎えの車で4時に夜叉の家に着くと、昨日の門根とジョガー警察官が待っていた。警察官が身分証をチェックして、こう尋ねた。「火浦瑞生君、要請に応じて自分の意志でこの家に入る事を確認するよ。いいね?」

 瑞生は頷いてみせた。ジョガー警察官がマイクに呟いて指示を待っている間、門根が瑞生に手持ちの除菌スプレーを噴霧した。防犯カメラに全身が映されるような向きで立った後、ドアが開けられた。

 鍵の閉まる音がして、「ようこそワンダーランドへ」背後から門根に言われた。


 目の前に、ロックスターの豪邸内部が広がっているはずだった。しかし瑞生が立っているのは、エントランスをカーテンで即席に仕切った懺悔室のような空間だ。門根といるだけで狭苦しいのに、カーテンの向こうからもう1人入ってきた。

 「どうも、コスモスミライ村アンチエイジングセンター免疫学主任の森山修です。荷物はない? 身元確認は済み? じゃ計測するね」と空港のテロ防止検査みたいなパネルの前に立たされた。森山がモニターのデータを見て頷くと、門根がポンポンと体を触って持ち物検査をした。

 クローゼットの向こうには、大理石の白っぽいエントランスが広がっていると思っていたのだが、意外とシンプルなラウンジだった。「ここで、どうでもいい客に一杯やってもらってとっととお引き取り願うための空間だ」門根が説明してくれた。

「ああ、それで居心地のよさそうなソファがないんですね」瑞生が言うと、門根は「君のぼけっとしていそうで鋭いところ、侮れないな」と笑った。


浅い作りのラウンジの奥が本当の夜叉の家と言えるものだった。

「この家は住む予定じゃなかっただけあって、1階はだだっ広いだけなんだ。急遽パーテーションで仕切って部屋数を確保し、用途で使い分けている」せかせかと歩く森山は中肉中背、さらさらおかっぱ頭の年齢不詳の童顔だ。

エントランス左手に二階に上がる階段があるのを指で示し、立ち止まって「1階右側はキッチン他要するに水回り。上りの階段の下に地下室に下りる階段が隠れてる。左側は区別がつきにくいからアルファベットを貼ってある。Aは君で、B~Dは僕とあと二人の医師の控室というかオフィスだ。今後はまずAの部屋で体重を測り、一緒に面会室に入る医師と打ち合わせをする。いつも僕とは限らないからね」と説明した。左側の小部屋群は仮とは言ってもベージュのドアがちゃんと嵌めてあって、黒の床とかっこいいコントラストになっている。森山はAのドアを開けて瑞生と門根を招き入れた。


 「体重を測る意味はわかるな? やばい物を持ち込ませないためと持ち出させないためだ。わかったら変な気起こすなよ。塵に戻して浄化させるとか言って、灯油で夜叉を焼こうとか。ヤフオクで売るために燭台を持ち出すとか。必ずばれるからな」銀のフレームを光らせて門根が凄んだ。ヤクザみたいな言い方をすれば大人しく従うと思っているのだろう。

 「そんな威圧的な言い方って、門根さん、子供相手に大人気ない。この子に来てもらうのだって、あなたが東京に帰れるようにするためもあるのでしょう? 彼を大事にしなきゃいけないのは、あなたじゃないですか」森山が窘めると、門根は開き直った。

「冗談じゃない。夜叉の我儘に毎日付き合えるかってんだ。そろそろゾンビになった自分に慣れて1人暮らしが出来ないでどうする。話し相手を見つけてやったんだ。解放されなきゃ気が狂っちまう。マネージメントはするし葬式もしてやるが、ゾンビの時間潰しに付き合うなんて無理だ」

「それで、なんで僕なんですか? 僕は高1だし、夜のバイトは禁止されてる…」“ゾンビのお守り”と聞いて焦った。

「安心しろ、身の安全は保障する。君が夕方から夜にかけてあいつといてくれると、俺は東京で普通の会社員生活ができる。見飽きた事務方相手じゃ話す気も起きないから、新鮮さを求めて窓から見えたお前を指名したんだと思うぜ」門根はどんどん砕けて、夜叉→あいつ、君→お前、になっている。

 この間も森山は体重を記録し写真を撮り、気忙しく瑞生のマスク手袋キャップの装備を確認していて、最後に「これは任意なんだけど、面会中の心拍数を記録させてもらえる?」と聞いてきた。瑞生はきっぱりと拒絶した。夜叉に対面してドギマギした心拍の記録を他人に見られると思うだけで癪に障る。


 「じゃ、行こうか。衝立で隔てヘッドフォンで耳も塞ぐけど僕も同席するから」森山が歩き出しながら瑞生に声を掛けた。

 門根が背中に言葉を投げつけてきた。「何言われても我慢しろよ。お前は日本人代表で夜叉に面会するんだから。ゾンビと話ができるなんて栄誉金輪際ないぞ。法外なバイト料がかかってるしな!」

「信じられないな。あんたはこの子に『酷いことを言われても我慢する必要はない。君にはなんら非はないんだから』と言うべき立場だろう!」森山が童顔を紅潮させて声を荒げた。

だが門根はポケットから車のキーを取り出して瑞生たちが出たドアとは反対側に歩いていくところだった。

 「まるでチンピラだ」吐き捨てるように言うと、森山は瑞生に向き直った。「聞こえたろうけど、理不尽なことに耐える必要はないから。そりゃ夜叉はロックスターでゾンビで我儘だから、常識外れな事を言うかもしれない。少しは合わせてあげてほしいけど、君の人格を否定するような事を言われたら我慢しなくていい。服を脱げとか性的な要求は断固拒絶。すぐ衝立を叩いて僕に合図して。お金をあげるからなんて、下種な手に乗っちゃだめだ。君の家はこの村にあるのだから、お金に困ってはいないだろう?」

覗き込んでくる森山の二重の大きな瞳に、瑞生は苛立ちを覚えた。

 綺麗事と別に、お金は必要になるだろう。この村から出て自立するために。


 階段を上がっていくと、2階は異なる趣で統一されていた。外からこの家を見て、ポルターガイストの出る古びたお屋敷のようだと思った通りの、イギリスだかフランスだかの中世風の重厚な絨毯やカーテンが待ち受けていた。

 森山について歩く廊下には、古びた絵やシカの剥製が飾られていそうだったけど、何も掛かっていなかった。

「絨毯とカーテンはこう見えて新品なんだ。壁に掛かってた剥製やアンティークは撤去された。本当に古いと色んな黴がいるだろう? 夜叉の体にどんな悪さをするかわからないから」森山が瑞生の心を読んだように説明する。

 階段でぐるっと一回りし上りきった正面の部屋のドアをノックする。中から物音が聞こえ、森山はドアを開けた。




 瑞生の予想に反して、夜叉はベッドにはいなかった。点滴の管もつけておらず、普通に起きて、高級そうな大きな椅子に座っていた。近づくように指で促され、森山を見ると頷くので、瑞生はやむなく夜叉に近づいて行った。

 夜叉は顔を寄せて、瑞生をつらつらと見ると、森山に言った。

「もういいよ。外してくれ」

「え? いや、ご両親との取り決めで、医師が立ち会うことになってますから…」

「いいだろ。モニターで見てるんだから。変態なことなんかしないよ。医者用だけじゃなく、勝手にドキュメンタリーを編集して売り飛ばすために門根が撮ってる隠しカメラもあるはずだ。二方向から見てたら何の危険もない。両親だってクレームつけてはこないだろう?」

 傍若無人な発言内容の割に、夜叉の声はびっくりするほど小さかった。稀代のボーカリストの声にしては蚊の鳴くようなボリュームだ。夜叉の声を聞きとるために部屋は静まりかえっている。

「でも…」食い下がる森山を夜叉は相手にもしなかった。


「それと、この茶番な格好をやめさせろ」

夜叉の指が瑞生を指していた。考えてみれば、一緒に入った森山は、雑菌を持ち込まないための除菌スプレーをしていたが、自分を守るための抗菌服やマスクの類は一切していない。さっきまでと同じ格好だ。ウィルス感染が心配なら、夜叉の部屋に入るには装備が必要なはずだ。こう思う一方、瑞生は夜叉の意外にぽてっとした指に見入っていた。

 森山が困って瑞生を見た。また『決めるのは君だから』『自己責任で頼むよ』だ。『20歳になったら、自分の行動に大人としての責任を負う』って言うくせに、とっくに20歳を過ぎてるこいつらは、誰も責任を取ろうとしないじゃないか。

 

 瑞生は森山越しに夜叉を見た。背丈は森山同様、大きくもなし小さくもなし。白っぽい布を巻きつけた、ジェダイになる前のルーク・スカイウォーカーの服みたいなのを着ている。手前にいる森山の平凡すぎる存在が、夜叉と同じ視野にいるというだけで、ごみレベルにまで下がった。

 瑞生は返事の代わりに、マスクを外し、動きにくいレベル4対応の抗菌服を脱ぎ始めた。




 2人きりになった。夜叉は瑞生に手振りで椅子を勧め、自身はゆったりと歩いて部屋の奥のドアを開けて出て行ってしまった。

 残された瑞生はすぐにテーブルの上のメモに気付いた。


『今までの人生で一番悲しかったこと。一番頭にきたこと。一人殺したい奴。答えられるよう考えておけ』

 瑞生はメモを手にしたまま、困惑して席を立とうと腰を浮かせたところで考えた。今自分を見ている森山はどう思うだろう? 森山のいささか丸投げ的な態度に腹が立ったのもあるが、夜叉と2人きりで面会することを密かに望んだのは自分だ。夜叉の望みに応ずるという形をとって。

 同じ部屋にいるだけで、自分を惹きつけて止まないカリスマと、一対一で向き合いたくなったのだ。

 だから、早々に森山を頼って監視下に戻るのは回避せねば。瑞生はそのまま座り直すと、メモをテーブルに戻し、内容を吟味することにした。

 ゾンビになって生きているロックスターが、15歳の一般市民から聞こうと思うのだから、綺麗事や受け狙いで誤魔化せるとは思えない。本気で聞いているのだ。

   

 一人殺したい奴は誰だ?


 瑞生は考えた。悲しかったことも頭にきたことも、山のようにある中で、たった一つ選ぶとするならどれを選ぶだろう。たった一人殺せるとしたら?

 夏至間近の日暮れが訪れ、屋敷の窓に西日の淡い残光がやがて消えるまで、瑞生は15年の自分史の中を彷徨っていた。



 気が付くと、夜叉が座ってこちらを見ている。部屋の至る所にあるランプに淡い光が灯っていた。

 「あ…」

 「一番悲しかったことはなんだ?」

 

 インタカムが鳴った。

:時間です:森山の声がした。腕時計を見ると7時。面会の終了時間がきたのだ。夜叉は何も聞こえていないかのように、もう一度繰り返した。「一番悲しかったことは?」

:不味いですよ、初日から延長は…、瑞生君、聞こえてるんだろ? もう終了していいから…:

 「森山さん、話が中途半端じゃ、帰れません。家にはそう伝えてください。僕からもLINEしますから」

:…わかった。必ず君からも連絡いれてくれよ。監禁みたいに思われたら困るから:森山の不承不承引き下がる感を目いっぱい出した言葉の終わらぬうちに、瑞生は伯母に『心配しないで下さい。話が一区切りつくまで延長します。帰る前にまた連絡します』と送った。下校時以外に伯母に連絡するのは初めてだ。伯母から速攻で返信がきたのには驚いた。きっと気を揉んで待っていたのだろう。『困ったら、何でもいいから連打して』

 伯母の普通の親みたいな心配ぶりに、思わず口元がほころんだ。


 しかし直後に夜叉の視線で現実に引き戻された。この部屋の中を“現実”と呼んでいいのか戸惑わなくはないけれど。瑞生は目の前にいる、普通に生きていたら驚くほど美しいであろう、中年に差し掛かったとは思えない程整った顔立ちの、今はゾンビーウィルスに支配されて全てがほの蒼く光る身体の、一人の男を見つめた。

 

 「一番悲しかったのは、父を火事で失ったことです」

夜叉は無反応だ。何となくわかっていた。これは瑞生が、話し終わったと思えば終わりなのだ。逆に話しきれていない、まだ心の中にわだかまりが燻っていると感じる限り終わりにはならないのだ。


 「父の雪生は、僕とは血が繋がっていないと聞きました。僕は母の奈津美が野添完治にレイプされた時できた子だと。強姦され妊娠して、自殺を決意した母はその前に憧れの雪生に会いに行き事情を話しました。雪生は、結婚して生まれる子供の父親には自分がなるから死ぬのはやめるよう、言ったそうです。雪生は学生結婚を反対され勘当されて、奈津美の家の養子になり、工場を継ぎました。高校中退の母は、『雪生とのでき婚』というウソで工場主の父・火浦六郎を説得したのです」

「…続けていいですか? さらに複雑なことに、母・奈津美を強姦した野添完治は祖父火浦六郎が奈津美の婿にして工場を継がせようと考えていた人物でした。野添は母の高校卒業を待っていれば手に入るはずの母を襲い、結果失ったわけです。祖父にしてみれば、雪生に憧れ続けた娘の若すぎるでき婚を無理して許したのも、娘・奈津美が可愛いゆえです。祖父は金属加工のヘラ絞り技術では有名な人で、野添を後継者にと願っていたのに。母にしてみたら、大好きな雪生と結婚できたのは強姦という悲劇のおかげです。生まれた子供の実の父親が人でなしでも、雪生は父親になってくれたのですから、それなりに幸せなはずでしょう? 雪生は自分の実家を捨てて、小工場を継ぎ、六郎とも同居してくれたのだし」

「でも母は幸せじゃなかった。雪生が職人に馬鹿にされたのも理由の一つでしょう。僕は小さい頃職人に言われました。『あんたの父さん・雪生さんが素人なのは仕方がないとして、やる気がないのが致命的だった。心ここにあらずで仕事してたから。親父さんも工場の借金を返すどころか増すばかりだって、嘆いていたのさ』とか『でき婚と言っても、奈津美ちゃんが雪生さんに一方的に夢中でさ。雪生さんとしてはほだされて抱いたものの子供ができちまって責任取ったはいいが、大学は中退、こんな小さな工場で、自分の将来が萎んじまったんじゃないか』って。…どうも父雪生と母奈津美は結婚した時からうまくいっていなかったようです。母はともかく、父は泣きつかれて同情しただけですから。母に愛情が元々なかったのだと、今では思います。逆に、何故父が同情からでも赤の他人の犯罪で生じた子供の父となることを引き受け、家も将来も捨てたのか、不思議でしょうがありません」

「でも母を狂わせた最大の理由は…火事で死んだから本人に問い質したわけじゃないけど、たぶん僕です。生まれた僕が、人でなしの野添完治に似ていたから? 半分は母の遺伝子なのだから救いはあるはずです。…でも、僕は、どちらにも全く似ていなかった。母にも野添にも祖父六郎にも似ていなくて、何故か血の繋がりのない父・雪生に似ていたんです」


 夜叉が紙をよこした。瑞生は意味を察して、人物の相関関係を図に書いた。

「母奈津美は、自分の親族に似た人がいるのでは、とアルバムを借りに回ったそうです。母は職人言うところの“下町の太陽”なんだそうで、美人だけど庶民的で色黒でした。他の親族も。…そして僕が2歳位の頃、母はついに野添の元を訪ねたのです。野添のアルバムを見せてもらうために。野添もその一族も色黒で細目で縮れ髪で…、僕は誰とも似ていなかった。中学に入った頃、酔った母から聞かされました」

「母の母である祖母はずっと昔に亡くなっていて、母の唯一の肉親は祖父六郎でした。その祖父は母に似ていない僕を孫として可愛がってくれた。父雪生似だと思っていたのだから当然です。でも母にしたら雪生の遺伝子など欠片も入っていないはずの僕が雪生そっくりであることが受け入れられなかった。愛する六郎に腹を割って自分の疑問を打ち明けられないのが苦しかった。それに…子供の僕が言うのもなんですが、父の雪生は母を愛していなかっただけでなく、指一本触れなかったのだと思います。思い出すどのシーンでも、父は上手に母を避けていた。食器を洗う時も靴を履く時も、するっと避けてしまう。母はいつも唇を噛み締めて耐えていた。存在を無視されることに。何年後かわかりませんが、母は野添と関係を持ちました。よりを戻した、というのは正しくないでしょうが、愛人関係になったのです。野添は本気で母を好きで、強姦事件で母に疎まれ父と結婚されたのに、罪滅ぼしか母への未練か知りませんが、独り身でいましたから。野添は母から聞いたのでしょう。時々馴れ馴れしく接してきました。虫唾が走りました…」

「父雪生は母を無視する一方、僕を溺愛しました。母奈津美にはそこが解せなかったでしょうね。父に対する不満や疑問を直接父にはぶつけられず、慕う気持ちはそのまま、ストレスの矛先は僕に向かいました。でも父も祖父もいるので、ネグレクト…つまり、僕の食事とか、世話をしなかったんです。全て覚えているわけじゃないけど、トイレも歯磨きも、パジャマのたたみ方も父に教わったのを覚えています。…僕が小学校に上がる前、祖父六郎が心筋梗塞で突然亡くなりました。母はそれから僕に牙を剥くようになった。6歳の時アイロンを押し当てられた。7歳の時湯船に投げ込まれ頭を抑えつけられた。死にかけた僕を救ったのは野添です。『お前、自分の産んだ子を殺そうって、どういう根性しとるんじゃ、ぼけぇっ』…野添の声、今でも思い出す…。野添も死んだんだ。あの火事で。あの女が野添を罵って、きっとあの時みたいに…」

「もう、いい」夜叉が言ったのに気付かなかった。

「野添は溺れかけた僕を抱き上げて『可哀想に。こいつが何した。子供やぞ』って髪を撫で擦った。『こんな可愛い子に、酷いことすんな』…それを聞いて母は逆上した。風呂場の桶も蓋も、椅子も何もかも投げた。鬼みたいな顔。ううん、人間じゃない何かの顔だ。野添も身を守るので精一杯で、警察が来て…。きっとあんな風に暴れて、憑りつかれた怪物みたいな顔で、野添を殺したんだ…」 

 涙が溢れた。急に膝から力が抜けてテーブルに手をついて体を支えた。涙と鼻水が一丸となって流れるものだから、啜り上げきれずに酸欠で頭がどうにかなりそうだった。でも、何かが気管をせりあがってきている…。

「…あの女を殺したかった…。僕の、お父さん、を、殺した、あの女を殺したい…。勝手に、死にやがって…、許さない。絶対許さない。勝手に産んどいて。…アイロンなんかどうでもいい。僕の、一番大切なお父さんを、奪った。絶対に許さない…」

自分の内に抱え込んでいた感情を吐き出した途端、酸欠で崩れ落ちた。



 霞む目に見えたのは、蒼く光る手がゆっくりと近づいてくる…ほの光るぽってりした指。「触っちゃだめだ、夜叉!」叫ぶ森山の声。


 瑞生に蒸しタオルを渡す時、森山は怒った目をしていた。

「歩いて帰すわけにいかないから、僕が自転車で送るよ」先ほどの話には一切触れずに、瑞生に帰り支度を急かせた。涙の痕をタオルで拭いたものの、夜叉にどう思われたか気になって帰りにくかった。思い切って夜叉を見ると、相変わらず蒼かったが、瑞生に少し微笑んだように見えた。

「森山、さっきのビデオ、今ここで消せ」夜叉が小さな声で言った。「正式のと門根のと両方。今」

異議を唱えると思ったのに、森山は無言でパソコンを開いた。夜叉が「目の前で」と指示すると、夜叉の方に移動して、操作してみせた。「門根のはどうやる?」夜叉の質問に、森山は初めて笑顔で「門根は、自分では頭がいいつもりですけど、たいしたことないですよ。ちょちょいっと、これでオーケー。今度からこちらのコマンドで録画を中止できるようになります」と答えた。


 瑞生はドアの前で振り返り、夜叉に会釈した。

「また、明日おいで」夜叉は椅子に座り、両腕を組んだまま言った。やはり少し微笑んでいるように見えた。


 キコキコと漕ぐ度に軋んだ音を立てる、年季の入った自転車に揺られながら、森山にお礼を言った。「ありがとうございます。あんな話、人に知られたら…」

「正直、君のようなアイドル顔の男の子が、あんな凄絶な体験をしているなんて、言葉を失ったよ。録画を消したのは、3つの理由からだ。1つ目は君のプライバシーは守られるべきだからだ。2つ目は録画を残せばあの門根が“夜叉最後の日々”とか題をくっつけて発売するだろうから。幸いそれではカットされていても、そのネタで商売しかねない。3つ目は録画を消去するという行為に意味があるからだ。いくらゾンビで研究対象とはいっても、医学的資料に該当しないデータは保存する必要はない。夜叉を実験動物レベルで隠し撮りなんて、酷いじゃないか。データは転送させずに、こちらが選別して残すべき物のみ残せばいいんだ。だから、録画データを消去すれば、安全は確保される。わかった?」

中肉中背の背中に答えた。「わかりました。やっぱりありがとうございます」

 暫くキコキコだけが響いた。10時を回った村の中に人影はほとんどない。

「あの家の窓を見上げる君を見て、夜叉は何かを感じ取ったのだろうね。そうでなきゃ…お、着いた。心配されてただろうから、挨拶していかないと」森山は自転車を止めた。その途端、後方をつけていた車両がブレーキをかけた微かな音が聞こえた。

「守ってると言うより威圧してるみたいだね」森山が笑いながら、八重樫家の階段を上がった。


 気を揉みすぎて血圧が上がってしまった宗太郎に、挨拶もそこそこに二階に上がり、瑞生は勉強に取り掛かった。夕食抜きになってしまったが、伯母は何も言わずにそっとしておいてくれた。

「勉強を手放してはダメだ…」うわ言のように呟きながら、いつも通り深夜まで机に向かった。



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