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ゾンビの顔色  作者: Nemuru-
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2015年6月30日①

2015年6月30日



 テレビは朝から村のテロ続報と夜叉の死の真相で持ち切りだ。昨日の夜に司法解剖の結果として、「夜叉の死因はゾンビーウィルスによる細胞の活性化の終了に伴う自然死(!)」と判断され、「遺体はゾンビーウィルスの影響で通常の遺体とは異なる状態のため、すでに荼毘に付し、バンドメンバーとスタッフで見送った」と発表された。


 『コスモスミライ村の住人が夜叉及び犠牲者追悼のキャンドル灯す』というタイトルで自治会から写真が各局に提供された。ランタンやグラスにキャンドルを入れたもの、スワロフスキーのクリスタル煌く燭台もあった。村中が柔らかな灯りに照らされて、各家庭で夜叉のために祈りが捧げられたのだ。

 この写真は世界中に拡散され、好意的に受け入れられた。

:テロの被害を受けたミライ村ですが、住人の方の夜叉への想いが伝わってくる素敵な写真ですね:アナウンサーが笑顔で締めくくった。

 村のゲート前には相変わらずファンや報道陣はいるが、もうヒステリックな雰囲気はない。Woods!が出した献花台の上にはキャンドルが並び、その周囲や下には花が花畑のように供えられていった。テーブルには「後日、東京でお別れの会を開きます」とカードが置かれていた。自治会長の藤森は「いずれ夜叉邸を記念館にする予定なので、その時に皆さんの花で屋敷を埋め尽くしましょう」と発信し、これまたファンから歓迎された。



 瑞生も本永も、今日まで自宅(AAセンター)待機だった。他人から活動を制限されるのを嫌う年頃の本永は、「俺たちが逃亡や証拠隠蔽をするっていうのかよ」とぶつくさ言った。

瑞生は「僕は、あまり同級生の目を気にしたくないから、ここに居る方がいいや」と返した。「夜叉の気配が残るうちはここにいたい」

 本永はちょっとドキッとした顔をした。

「八重樫は、そのぅ夜叉を“感じる”のか?」

「…」返事に困る質問だった。瑞生にも自分が感じるのか、感じたいと言う願望で感じた気がするのか、わからない。一番正しいのは自分の中のウィルスが反応する、だろう。これを本永に説明できるのか疑問だ。

「もう少し待って。言葉が見つかったら説明するよ」


 

 「サニ、ウィルス解析センターはどうなるんだ? ゾンビーウィルス研究は立ち消えか?」と本永が質問した。瑞生も、「予定通り研究所を起ち上げると、まるでウィルスを採取できて保管しているみたいだよね。それはマズイのでしょ?」と聞く。

 夜叉が死ねば発火するとわかっていたのだから、センター内にウィルス解析センターを作ること自体、詐欺にも似た行動だ。

 サニは眉間に皺をよせ黙り込んでいる。ロドリゴが呟いた。

「ヤシャがセンターを買ったの、ミズオのためウィルスのため」


 この発言は思ったより衝撃的だった。瑞生は戸惑いを感じると共に自分の将来発生するかもしれない身体のトラブルのために逃げ込める病院を用意してくれたと思うと、壮大過ぎる贈り物に恐れ入ってしまった。


 ふと思い出して本永に訊ねた。

「キリノと話した時、通気口を見てたよね? あれは何故?」

「八重樫が夜叉に成り代わって話しただろ? 『優しい雨になってキリノに降るから』って。それは燃えて灰になり崩壊してもっと細かな粒子になり水蒸気と一緒に大気中を漂い、やがて雲粒になり氷晶を形成し雲となり、地表に雨となって落ちてくるという意味だと思った。つまり夜叉は燃えてどこへ行ったかというと、実際、リアルに通気口から外へ、大気中へと上がっていったのだなと思ったまでだ」

「ふうん」

「気の無い返事だな。夜叉が崩れた後どこに行ったか気にならない方がどうかしてる。物質はそう簡単には“無”にはならないぞ。そうだろ?」

「本永は夜叉の遺体が消えたことにトリックがあると思うの?」

「そうじゃない。事象は説明できるはずなんだよ。詩や夢みたいな言葉も案外現実的な事を指している…」言いながら瑞生の熱意の無い顔にげんなりきたのか、オチの無いまま口を噤んでしまった。


 そんな所に、門根が久しぶりに従来のノリでやってきた。キリノの病室に詰めているガンタとトドロキも呼んできて、袋から何かを取り出して見せた。

 「おお、カッコいい!」第一声が本永なのはどうよ、と思う。

「ん! いいね。夜叉らしい」

「いい出来だ。ゾンビらしさが出てるし、美しいし」ガンタもトドロキも口々に感想を述べる。瑞生は背が低い上に体格のいい3人に阻まれて門根の手元が見えず、出遅れた。「僕にも見せてよ!」

 ガンタが急に退いてくれたので目の前がさっと開けて、虚を突いて蒼い夜叉と目が合った。もちろんそれは門根の手の中の、アルバムのジャケ用写真だったのだが。

 それはまさにこの村にいた夜叉だった。蒼い蒼い皮膚も彫りの深い顔立ちの陰影も深みのある蒼さで、目じりと頬の辺りから血糊のような深紅の帯が顎まで降りてきている。初めて会った時と同じ、ルーク・スカイウォーカーっぽい布の服を着て、お気に入りの椅子に背を預けて、刺し貫くような瞳で、鬣のようになった髪がぼうぼうとしていて、ついこの間までの夜叉だった。美しい、美しさまで哀しい生き物。

 涙が込み上げてきて言葉にならない。

「そのままの…写真なんですね」本永が代わりに言葉にした。

門根が誇らしげに頷く。「ゾンビの真の姿を伝えたいと夜叉は思っていたから。盛らず修正せず。いいだろ? アルバムの出来も最高だし。The Axeのラストアルバムはロック界の金字塔となる! それにふさわしいジャケだ!」

 サニとロドリゴも嬉しそうに見ている。サニは何度も目を拭った。


 

 クマちゃんが真っ赤なスーツで現れた。

「凄い、指輪と合うね」瑞生の言葉に、嬉しそうに頷く。「衝動買いしちゃった。店員が『梅雨時は目の覚めるような色の服が周りも明るくしますものね』ですって。夜叉は喪服で哀しむ私なんて喜ばないから」

「クマちゃん、真っ赤な服いっぱい持ってるじゃ…」デリカシーの無い指摘は瑞生の肘鉄で阻まれた。


 「それより、瑞生君。今後の事、霞さんと話し合った方がいいと思うわ」クマちゃんはさりげなく切り出した。

「僕の方から話したい事はない」

「瑞生君、夜叉はあなたの事を一生守るだけの資産を残して逝ったけれど、あなたの親族は霞さんなのだから、村の家を出るなら霞さんの今いる実家に行くべきだと思うわ。このセンターに高校生が住むのは家庭環境とは言い難いもの、勧められない」

「伯母のところだって家庭環境とは言えないよ。僕は伯母と…今までのようにはいられない。離れている方がいい。目の前にしたら、なんて言ってしまうかわからないよ」


 クマちゃんはちょっと息を吐くと、額をこんこんと親指で叩いてこう言った。

「家庭の事情と言うのは多かれ少なかれどこの家にもあるもの。問題を抱えながらも生活を共にしているうちに育む絆もある。15歳にして住む家が他にあるからと、好き勝手に出来る暮らし方をするのはあなたにとっていいとは思えない。奢ってほしい友達に囲まれ身を持ち崩すのは目に見えている。瑞生君、あなたは未熟で甘ったれ。すぐに厳しいことを言う本永君とは離れてしまうわ。夜叉の遺産が仮に何億あっても、ものの数年で使い切ってしまうわよ」

「霞さんとは特別な問題があるとしても、暮らしていくうちに彼女がどんな人で何故ああなったのか、わかってくる。彼女にもあなたを今度こそ自分が守らなければならない事が身に沁みてわかる。互いに本当に知り合い、向き合わなくては。怒る・許すも相手あってのこと。雪生さんの事も、時間を掛けて霞さんと考えるべき」

「勉強、社会性、家庭を維持する技術、恋愛や趣味や部活が加わるでしょうけれど、学生生活というのはマルチに学ぶ期間。そういう事を経験して自立した大人にならないと、とてもじゃないけれど夜叉の後は継げないわ。夜叉の遺志を継ぐとはどうすることなのかを考えられる人間にならなければ。ウィルスを追う人や夜叉ブランドを狙う人にはどう対応すればいいのか。私や門根やサニがいつまでも傍にいて、無条件に味方だと考えるのは甘い。あなたもいつまでも“美少年”ではいられない。成人に社会の目は厳しい。自分で賢く立ち居振舞う必要があるのよ。それらをじっくり学ばなくては」

「あなたは愛のある2人の元に生まれてきた。その事実はあなたの在り様を根底から変えるはずよ。だから、目を背けないで、前に進みましょう」

 

 瑞生はきつく口を結んだ。たっぷり5分はそうやって感情のせめぎ合いをやり過ごした。

「クマちゃんの言う事はわかる。僕はそういう風に僕の事を考えて言ってくれるクマちゃんが嬉しい。伯母さんと暮らすしか選択肢がなければ…、そうする。僕もしがない15歳だっていう自覚位あるよ。ただ、その、よければ、間を取り持ってほしいな。僕と伯母だと、相手から言ってくるまでずっと待っていそうだから」

「おお、そういう所同じかもな」と本永が明るくしようとして場を凍らせた。

「わかった。今日中に連絡してみるわ。霞さんと方針を決めてから学校とも話をしないとね」

 

 クマちゃんは腕時計を見ると、待ち合わせがあると言ってサニと一緒に1階に降りて行った。。



 本永のスマホに外様から電話が入った。

「おお? どうした外様、八重樫もいるぞ」

外様がスピーカーにするよう頼んだらしい。瑞生にも聞こえるようになった。


 :俺、ラジオを聞くことにしたんだ。これが結構面白くて便利で、大概の情報は聞けるんだ。ミライ村で大変なことが起きて、夜叉が亡くなったのも知ったよ。八重樫も大変だったんだろうな。腹黒くて良くないけど、なんだか、人が大変だと元気が出てきて。外出できないと世間から置いていかれる気がして、ネットで繋がろうとするだろう? でもIT機器は目に負担を掛ける。焦りと不安で負の思考が堂々巡りでさ、何もかも嫌になってた。父親が調べてくれたんだけど、音声に対応するAIがどんどん進化してるらしい。俺との対話でAIが学習して、俺の興味ある分野を検索し知識を蓄積するんだ。それを音声で聞けるんだから、目は楽だし自由に情報を得られるのがいいよな。俺、学校で皆が俺を受け入れようと考えてくれて本当は嬉しかったんだ。みんなのいるクラスに戻りたいよ。授業は重要教科に限定して受ければ集中力も持つと思う。どうかな、皆に打診してくれるかな?:

 本永の肩が震えている。

「おお、聞いといてやる。『合唱は不参加だけどいいか?』ってな」




 部屋の中は植物の蒸散作用でむっとするような湿度だった。

「少し、蒸していないか?」と本庄一馬が言うと、達也は「梅雨時は湿度管理が難しいんだ。どうしても温室状態になってしまう。ドライを掛けると冷気が当たる子が葉枯を起こすし。じゃあ、少しだけドライにしよう」エアコンの吹き出し口の角度を調整しながら父親に席を勧めた。

 「警察庁長官からお礼を言われたよ。お前の判断で知能犯の男を 緊急出入口から遠ざけたから、夜叉がAAセンターに入れたってね。この前もその男だったのだろう? 余程気に障った事をしたのかね? その、気になることを聞いたから…針を使ったのだって?」

 達也は遠い目をして考えた。「…あいつは邪悪な匂いがするんだ。結局僕は正しかったのでしょ? 1度目は医者、2度目は夜叉に悪さをしようとしていたのだから」


 「達也、針は使うな」本庄一馬は厳しい口調で命じた。


 達也はぼんやりとアジアンタムの葉を見ていた。

「パパ、僕が事件を起こして家に帰った時のこと覚えている? パパはたまたま帰宅が早くて、僕がいないからお手伝いさんや秘書が探していて、そこに手を血だらけにした僕が帰ったんだ」

一馬は無表情のまま達也を一瞥した。

「僕は誰が止めても聞かずにパパの部屋に直行して、なにもかもパパに話したね。パパは幾つか質問した。覚えてる?」

一馬は曖昧に首を振った。

「『何故腕と口を縫ったんだ?』『何故その女の家に呼ばれるまま行ったんだ?』『最初から縫い付けるつもりで行ったのか?』だった。僕は一つ一つに答えた。パパは溜息をつくと自分で受話器を上げて警察に通報した。『被害者の血が息子に付いているのだが、拭いてやっていいか? 証拠だからダメか?』そう訊いていた。それから秘書を呼んで、僕と一緒に警視庁に行くから車を運転するように命じた。秘書が出ていって、パパはこう言った。『セックスしたがるオバサンを黙らせるには欲しがるだけしてやればよかったんだ。お前は馬鹿だな』覚えてる?」

 達也の目から静かに涙が流れていた。「覚えてる?」


 一馬は口を大きく開けた。まるで息が吸えないためにより多くの酸素を招き入れるように。そして達也の目に13年前と変わらぬ絶望を見て、はっきりと頷いた。「ああ、そう、言ったな。…い、今思えばそんな下種な事を15歳のお前に…酷い言いようだ。まだそんな男女の…」

 「当時の僕の悩みは僕が同性にしか興味がない事を他人に知られる事だった。パパや家族や家に取材に来る政治部の記者に気づかれたらどうしよう、っていつも思っていた。…僕はテニス部の内山君が好きだった。あの女は僕を突け狙ううちに僕が内山君を見ていることに気づいた。それで脅してきたんだ。『あんたの趣味をお父さんにばらしてやる』って。それは僕には耐えられない事だった。パパに嫌われる。本庄家の男として見捨てられる。記事になったら、パパが党首に復活する可能性が無くなる…」

「達也、事情聴取ではそんなこと一言も言わなかったじゃないか」

「言えると思う? それを守るために縫い付けたのに?」

 はっきりと一馬は取り乱した。髪を掻きむしり襟元を緩く開けて、ダンディな服に似つかわしくない姿になった。達也の部屋は至る所に繊細な植物の鉢があるので、無軌道に歩き回るわけにはいかない。慎重にテーブルとパキラの間を縫って半周すると戻ってきた。

 「そうだったのか? そんなこと夢にも…」

「嘘。パパは警察を信じないから雇った探偵に僕の素行を調べさせたはずだ。そしてあのストーカーに関しては、本当に僕は加害者ながら被害者だと確信したでしょう? でも探偵は僕の本当の顔も露わにしたはずだ。猟奇的事件の上に同性愛者じゃ僕の“被害者的加害者”という立ち位置が危うくなる。それで僕を幽閉したのでしょ」

「違う。そういう報告はあったかもしれないが、私はそんなことは一時の気の迷いで、成人になれば普通に女の子を追いかける平凡な男になると信じていた。だからそのことで幽閉しようなどと思ったりはしない。自宅療養中に、ママが妹たちも自分も口煩いからいつか同じような目に遭うのではないか、と…」

「嘘。パパの頭には政権奪取しかなかった。ママや妹たちなんて他人任せで気にも留めていなかったじゃない」達也は笑った。

「た、確かに大臣の不祥事続きで思うに任せなかった政権運営に未練があった。もう一度党首になり第二次本庄内閣を作る機会を窺っていたのは確かだ。それなのにお前が…。いや、その処罰のつもりでここに入れたわけじゃ…」


 一馬の言葉は途切れた。震えながらテーブルに手を突き、崩れるように元の椅子に座った。

 「何も、何も始まっていなかったのか。お前と、私と私たち一家は。13年前ただお前を追い払って、沈黙の内に事件は忘却され、なかったことになると…思い込んでいただけだったのか」

 達也は目を逸らさない。「そうかもね。あなたたちにとっては僕がここに居る限り他人事だったのだから。僕にとっては13年間ずっとあの日の翌日だったんだ。あの女の血の匂いが滲みついた手で目覚める。留置場の窓。薄い布団。ここは百万倍マシだ。でも毎朝目覚めた時はあの時点に戻っている。沢山の植物の潤いとイオンで我に返る。この前パパが来た時は、この生活を続けていく事が僕にとってもベストだと思っていた。今更外に出ても、周りは皆敵に見えるだろうなと思っていた。でもちょっと変えたくなったんだ。僕は家に帰るよ」


 一馬は開いた口が塞がらない。「え?」

「もう、治療のプログラムは終了しているから問題ないでしょう。残り半年予備校に行って、高卒認定試験は合格しているから受験して医学部に行って精神科医になりたいと思って。あの事件を面接官がどう捉えるかは未知数だけど、結果は受け止めるよ。ここの先生方が推薦状を書いてくれるそうだし」

「ここから出るのも不安なのに、受験?通学?医者になる? お前は繊細過ぎる…」

「パパ、僕は今年のクリスマスで29歳だよ。今更過去を責めるつもりはない。ただ一緒に暮らすのにちょっと正したい所はあるけどね。あの喧しい双子の妹たちに言いたい事は山ほどあるし、逆に事件のせいで婚期を逃したとか言われそうだな。ともかく、僕も以前とは違うんだ」言いながら、プランターラックの後ろからノートパソコンとタブレット端末を出して見せた。院内のカメラ映像が映し出されている。

「僕はこの病院で社会勉強をさせてもらった。AAという金持ちの妄想に命を掛ける愚かな年寄りや、僕とは違う形で傷ついて閉鎖病棟にいる人たち。裏金作りに励む院長や愛人を連れ込む医長。夜叉が来てからがやはり抜群に面白かった。各人の思惑が入り乱れ、悪意が蠢く。“胎動”とはこの事かと思ったよ。何が生み出されるのか興味があった所に、当事者が飛び込んできた。車椅子の悪意の塊の男さ」

「ああ、お前がパソコンを取り上げて軟禁したという?」

「そう。僕が事件の話を繰り返し聞かせて遊んでいた時だ。夜中だったから9回目くらいかな。あの男が話を持ちかけてきた」

思わず一馬も身を乗り出す。「な、何を?」

 「『君は見どころがあるから、僕の後継者にならないか?』と。『見た所インターネットと無縁の生活のようだ。ITを使いこなせばここに籠っていても、外にいる、自分よりずっと価値の無い平凡な人間を動かし働かせ騙すことが出来るんだ。私はそうやってこの身体で財を築いてきた。甥っ子に継がせようと思っていたが、あいつは頭が悪くて無理だ。君は頭がよさそうだから、教えてあげてもいいよ。将来的には僕の資産を継げると考えてもいい』と言うんだ。僕は『代わりに何を望むの?』と訊いた。あの男はキューバから来た黒人の医師に毒を盛ろうとして失敗したばかりだったんだ」

「そうしたらあの男は『まず僕の弟子になってIT技術を磨かないと。その後どうすればいいかは指示するよ』と言った。そこで僕は『あなたに教えてもらうことなど何もないね』と言って10回目の話に入った」

「それで?」

「それきり。憮然とした顔をしていたけれど、それ以上言ってこなかったよ。僕の事を怖い者でも見るように見ていたから、“狂人”とでも思ったのじゃない?」

 冷静な息子に、一馬は自然と正面から向き合っていた。

 「それで僕も思ったんだよ。この男はこんなにも歪んだ自己愛に満ちて他者に害意を持っている。それでも世間では通用してきた。やり過ぎて今はそうでもないようだけどね。それに比べれば僕はまだ人間的にマシなのじゃないか。ちょっとは良心があるから鬱になり夢にうなされた。…だから自信を持とうと思ったんだ。僕はあの男ほど酷くない。あの男みたいに無関係の他人に自分から魔手を伸ばしたことはないからね」


 一馬は冷めた達也の淹れたウバを一息に飲み干した。一族中誰一人、無論一馬も、達也が帰宅するなど考えたこともなかった。

「準備の時間をくれないか。初めてだが、お前の視点で事件と私たちを考えてみたい。ずっと前にそうすべきだった事だが。…妹たちはお前の想像通り、2人とも結婚せずにうちに居るよ」ちょっとぎこちなく笑うと席を立った。

しかし何かが一馬の頭に引っ掛かっている。

 被害者家族は今どうしているのだったか。


 事件以降、4・5年一馬は被害者一家の動向を定期的に調べさせていた。元々離婚したがっていた夫が被害者を見捨てて去らないように転居先を監視する必要があったのだ。本庄家は被害者家族に莫大な“精神的苦痛に対する慰謝料”を支払っていた。『夫は向こう3年の間は離婚も別居もせず、妻の心身の回復を助ける事。妻にストーカー矯正プログラムを受けさせること』という条件をつけて。『ただし達也と同学年の息子にはその義務を課さない』とも。夫は年ごとに支払われる慰謝料欲しさに渋々遂行していた。その報告の際秘書の言った一言が引っ掛かっていたのだ。「支払終了と共に離婚しました。それが被害者からの希望で。なんでも『王子様が迎えに来るから』と言う理由で。複数回の顔面形成手術のためと称する治療費を支払ってきましたが、その中に豊胸手術もあるようでしたよ。本庄先生のお言い付け通り、施術内容には関知しないでよろしかったのですか?」と。


 一馬は自分が差し入れたアメリカンブルーの鉢を見た。その鉢以外に花を咲かせる植物は無いようだ。部屋中を埋め尽くす沈黙の緑“サイレントグリーン”の鉢はみな衛生的に管理され、黴や苔が生えている物はない。

 ゆっくりと立ち上がると、重力の強さにその場に崩れ落ちそうになった。一馬の内部で、今まで用意された事の無いタイプの“覚悟”が徐々に形成されつつあった。

13年前物静かで優しいが故に追い込まれて事件を起こした兄達也に対し、常に2人体制で傍若無人に振舞っていた双子の妹たちは、達也が立ち直れないような手紙を送り付けた。精神科医に見せられて慄然としたのを覚えている。母である妻は、手の掛からない長男を自慢していたが、この病院に『面会に行く』とは一度も言わなかった。我々はこういったツケを支払うことになるのだ。

 ここに身を引いてくれていた達也が遂に、ツケを支払えと、腰を上げるのだ。


 達也も立ち上がりドアまで送りながら言った。「僕の方もすぐには出られないんだ。あの男がここに要塞を作ろうと戻ってくるのを阻止しないとね。小賢しい手を使い警察病院を手こずらせて、ここに戻れるよう画策しているに決まってる。ハックの腕は僕の方が上なのにね。僕に対する苦手意識を植え付けてあるから、僕がここに居る限り戻れないはずだ。だから僕を排除しようと仕掛けてくるだろう。その証拠を掴んで、刑務所に逆戻りさせてやる」

 「見ものだなぁ。何年か先に、診察室にあの男が車椅子で入って来る。デスクチェアを回転させて振り向いた白衣を着ている僕はあいつに笑いかける。僕に気づいた時のあいつの顔…!」

達也は白い歯を見せて笑った。



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