2015年6月5日
2015年6月5日
梅雨だから雨がよく降る。外様と本永に勉強をみてもらう事になった日から、勉強を核にしたタイムテーブルに組み替えた。学校から家に戻るとベッドでごろ寝しながらその日の授業ノートを見返し簡単な宿題を済ませ(自分が言うのもおこがましいけど簡単な宿題しかでない)、夕食後中学の復習課題をやって、入浴後高校生らしい応用問題(外様がチョイスしてくれた)を解くというハードスケジュールをこなしていた。
これはチャンスだ。
母が死んだ(父を失ったが)のが第一のチャンス。この村に来たのが第二のチャンス。本永たちに学力を取り戻す手助けをしてもらえるのが第三のチャンスだ。
ただ障害が取り除かれたラッキーにのっかったのでは本当のリスタートにならない。本永たちの申し出は、学校にも村の生活にも馴染めないまま日々をやり過ごす停滞の中で、初めて訪れた具体的な“とっかかり”だったのだ。
これは“リスタート”であって“リセット”ではない。“リセット”という言葉はIT機器を初期化する際のドライで機械的な響きを持つ。自分の人生は思い出すのもおぞましい、消去したい事がほとんどの15年間だったけど、お父さんを、お父さんと生きてきた時間を、なかったかのように初期化することは出来ない。
だから、このチャンスを無駄にはできないんだ。
1時まで勉強してから眠るのだが、何故か5時前には目が覚める。勉強習慣が始まる前は、ほぼ毎晩火事の夢を見てうなされ、明け方早々に起きていた。今は、15年間学習に使ってこなかった脳細胞が初めての刺激に喜びを隠せないのか、火事の夢を見ても目覚めはそう悪くない。でもベッドの中で高い天井を見ていると、ここがどこか、何故自分はここに寝ているのかを思い出し、たちまち居心地が悪くなる。そして家に居たたまれず、散歩に出かけるのだ。それは雨くらいでは怯まない、衝動にも似た逃避行動なのかもしれない。あの美しい家に居ることが苦痛なのだ。
気が付いたら、夜叉の家の前にいた。黒無地の傘から雨粒がはじけ飛ぶ。ふと視線を感じて、顔を上げ、クラシカルな窓を見上げた。窓越しに人影はない。
「ちょっと、いいかな」
視線を感じたのとは別の角度から自分を見つめる男がいた事に気付かなかった。静かな物言いからでも威厳を感じさせるスーツ姿の男に促され、瑞生は夜叉の屋敷から少し離れた場所に連れて行かれた。黒塗りの車の後部座席を勧められ、退路を断つように男が隣に座った。
「君は火浦瑞生君だね? このところ、夜叉の家の前まで早朝散歩するのを日課としている…。どうしてかな?」
「僕が子供だから、名乗らなくてもいいと思うんですか? 名前を言う必要はないにしても、身分というか所属機関くらいは言うべきでしょう?」
なんとなく負けたくなかった。ここ数日で大分賢くなった気がしていた。こういう思考回路そのものがお子様なのだろうが。
真横に座る男は黙って見ている。高校生如き歯牙にもかけず、『一応意気地を見せるわけか』的な一瞥だったのだが、それだけで、敵うような相手ではないと思い知らされた。
「失礼したね。私は警察庁の前島という者だ。知っての通り夜叉はVIPだからね。近づこうとする人間が安全かどうか、調査して判断しなくてはならない。高校生だってネットで洗脳されて、お手製の爆弾を腹に巻きつけてこないとは限らないだろう? これも仕事なんだよ」前島と名乗る男は、運転席の若い男から黒いファイルを受け取ると、瑞生に振って見せた。
「僕の事を調べたの…ですか?」一応敬語にした。
前島は、ファイルを開けるそぶりは見せず、手の中に収めたまま話し出した。
「君のご両親はお気の毒だったね。3月10日火災発生時の午後2時過ぎ、君は学校で、卒業生が学校に寄贈する工作物、今年は花壇周りのベンチだそうだが、その制作に参加していた。2時50分、消防車25台が出動中の火災現場に到着。自宅が炎に包まれていると知り、混乱の中最前線に行こうとした途中で爆風に煽られ、怪我をして入院している。…火元は野添板金工場の裏手の住宅。野添完治52歳と同居人火浦奈津美33歳の痴話喧嘩を止めに入った近所の住人数名で揉めているうちに天ぷら鍋をひっくり返し出火。消火に手間取る間に、隣の工場で杜撰に管理されていた溶剤に引火。火災防止条例違反、老朽化、法令違反てんこ盛りの工場に次々と延焼、結果6工場を焼き尽くし死者5名を出す大惨事になった…。この最初の火災原因が、お母さんたちの喧嘩とのことで、K県警から事情聴取を受けているね?」
「はい。…父も近所の人も亡くなったので、2人の関係を聞きたいと言われました」瑞生は前島を見ないで、前の助手席のシートを見ながら答えた。
「君とお母さんとの関係については? 聞かれた?」
驚いて前島を見ると前島は瑞生の反応が意外だったらしく、少し笑みを浮かべた。
「入院時の君の体の様々な傷痕を診た医師が、児童相談所の記録を取り寄せたんだよ。生後半年くらいから君のお母さんは家庭訪問した育児相談員に『育児放棄の疑いあり』と書かれている。児相にある君の分厚いファイルによると…『火浦瑞生君が“子供の家”に入所するまでの顛末。生後半年から始まったネグレクトは、母親の心理状態の不安定な振れ幅に連れ悪化した。夫婦関係に問題があると考え、カウンセリングを受けるように勧めたが、母奈津美が拒否。夫の火浦(旧姓笹宮)雪生と実父火浦六郎と同居していた間には虐待はなかった模様。瑞生君が2歳頃から、奈津美は同じ町内に住む野添完治と不倫関係に陥り、実家と野添の家とを行き来するようになった。ネグレクトだけでなく家事も一切していなかった。瑞生君が5歳の時、実父六郎が急死(心筋梗塞)、同時に瑞生君への虐待が始まる。6歳の時左肩に後ろからアイロンを押し当て火傷を負わせる。7歳の時風呂場で溺れさせようとした(未遂。野添完治に阻止される。警察も出動したが、野添に懇願され厳重注意にとどめたとの記述あり)』…。虐待は日常的だったのだろう? 大きな怪我が年に1回だったのは何故だ?…ああ、ここに書いてある。『虐待は、父の雪生が仕事中の不在時に、たまたま実家に奈津美が戻った時に、瑞生君が居合わせた場合に起こった。そのため頻度は少ない。風呂場の事件後児相の勧めもあり、瑞生君は児童保護施設“子供の家”と実家と学校を往復するようになった。奈津美も瑞生君を始終付け狙うほどではなく、2人きりになる事が引き金となると考えられたからだ』『父雪生による離婚の申し出を母奈津美は拒否。瑞生君自身逃げられる小学校高学年になると、虐待はほとんどなくなった。しかし、野添と喧嘩した八つ当たりで刃物を持って追いかけたり、トイレに閉じ込めたり、その都度奈津美は加害者でありながら大騒ぎをするために警察が出動した。こうした育成環境が瑞生君の精神状態に及ぼす悪影響を児相も憂慮した。』…こう書いてあると、今回の火災に、君が関与していないかを一応調べてみようという気になっても無理はないだろう?」
「…僕にはアリバイがありました。さっき自分でも言っていたでしょう? 刑事にも確認は取れていると言われました」瑞生は憮然と答えた。「こちらからあの2人に近づくなんてない。あの2人は始終喧嘩してた。いつも通り止めに入った近所の人とど突き合った拍子に鍋が…と聞きましたが?」
瑞生はあの2人が大嫌いだった。あのおやじ。自分の父親。下種な男、臭い息、母を甘やかした揚句持て余すダメ男。あの2人が両親だなんて。どっちとも全然似ていないのに。
むかつくのは、あの2人を思い出させた上に、瑞生の反応を想定済みの些末な作業のように、軽く確認しているこの前島という刑事だ。
「…まあ、こちらとしては、複雑な家庭環境で育った少年が反社会的行動をとらなければいいわけだが。火元の2人が死亡、隣の夫婦も死亡。その隣のマグネシウムの在庫を無許可で積んでた工場主は現在も入院中…補償問題も裁判もぐちゃぐちゃなようだ。しかし、両親の離婚が成立していて、不幸中の幸いだったかな。お父さんも亡くなって…負の遺産を清算して、晴れてこの村に来ることが出来たというわけだ」
瑞生は思わず咆哮すると、前島の方に向き直った。
ところが前島はにやりとすると、平然と言った。「警察はそこまで考えるんだ。虐待されて育った子供が人生のリセットを目論んだ時、どれほど冷徹な計画殺人を企てるか、とな」
「君がどれほど小賢しくても、犯罪が行われたのならば証拠を積み上げて立証してみせる。無実ならばそれが立証されるまでだ。それでなくても、君の生い立ちは興味が尽きないもののようだからなぁ」
口を開けたまま言葉も出ない瑞生の耳元に口を寄せて、こう囁いた。「戸籍上は“火浦”なのに、何故“八重樫”で入学したのか、とかね」
「それは、担任の先生の発案で『火災の事を検索できない方がいいから卒業までは…』って。聞いてもらえれば、すぐわかるはずだし…」説明しようと膝を乗り出すと、前島はにやけた顔のまま車のドアを開けて、身振りで降りるよう促した。「安心しなさい。君の事は引き続き見ているよ」
前島を乗せた車は、降りた瑞生を轢きかねない角度でバックすると、警察車両らしからぬスピードで居住地を突っ切って行った。瑞生は慌てて石を探したが整備された路上には見当たらず、近くの家のソーラーライトを引っこ抜いて、今更届くわけないけど投げつけようと振りかぶった手をがしっと掴まれた。
「やめとけ。もう届きっこないだろう。それに投げたところを見られたら痛い目に遭うぞ。ここの住人に窃盗でチクられるとか…。相手は怖いヒトなんだから」
こう言うと、右手からソーラーライトを取り上げて、元通り素焼きの小人の横に差し込んだのは、毎日すれ違うジョガー警察官だった。
前島のことを、ジョガー警察官は“怖いヒト”と呼んだ。前島は“警察庁の者”と名乗った。確かに現場の警察官とは違う佇まい、もっと冷血で偉そうな感じがした。…伯父の宗太郎ならば、何者か推測できるかもしれない。もしかしたら知っているかも。でも八重樫姓で高校に通っている事を突いてきた点は、伯父の機嫌を損ねるのに十分な気もする。
ごく当たり前に戸籍通りの名前で入学するつもりでいた伯母と瑞生の元を、突然訪ねてきたのは担任の榊先生の方だ。急遽決まった入学だから何事かと思えば、「火災の事を“火浦”で検索するとヒットしてしまいます。その遺児がミライ村の親族に引き取られたと知って瑞生君を中傷する者がでないとも限りません。卒業までの3年間伯父ご夫妻の姓を名乗っては如何ですか? 親子と思われれば、まず検索すらされませんし。瑞生君もご両親の事件には触れずに、ね?」
この時は、目立たずに済むのならそれがいい、と思った。あの火災、母が多くの人を巻き込んだ火災を引き起こした事を他人に知られるなどと考えるだけでぞっとした。それでなくても、あの熱風、全てが赤々と照らされた光景、目を刺す痛み、2日後に死んだニコ動男の体がのしかかってきた時の肉の厚み…、毎晩うなされていた。ミライ村にきて、少しでいいから静かに寝かせて欲しかった。
伯父と伯母は2人でこの提案を吟味し、乗ることにしたのだ。「伯母方の親戚の息子。18歳になったら正式に養子縁組する予定なので、高校も八重樫姓で通うことにした」という基本路線を学校と八重樫家で共有することになったのだ。
前島にはむかついたが、最後の囁きに少し違和感を覚えた。ファイルで持っているほど身上調査をしたのなら、八重樫姓を名乗っているくらい大した問題ではないだろう。卒業後に本当に養子にしたかを確認する者なんていないし、伯父や伯母には探られて痛む腹などないのだから。
本永は朝から元気がなかった。水曜日に目の不調を訴えた外様が昨日から入院してしまったからだろう。瑞生も今朝、前島に言われた様々な事が頭から離れず、空模様同様鬱々としていた。
そんな空気を読んでか読まずにか、鏑木が意気揚々と何かを抱えてやってきた。ドアを開けた時から教室内とは異質のオーラを振り撒きつつ鏑木が本永に1歩近づくたびに、本永の貧乏揺すりが速くなっていく。
「本永君」貧乏揺すりがピタッと止まった。瑞生は週番の仕事でホワイトボードマーカーを補充して席に戻るところだったので、鏑木の後ろ、本永の正面から見守る羽目になった。本永は顔を上げない。
「前のピアスは失敗しちゃったから。これ、いいと思うから、使ってみて」紙袋ごと何かを机に置く。そしてよせばいいのに本永が袋を開けるのをその場で待った。瑞生は自分の脇を冷や汗がつーっと流れるのを感じた。本永は鏑木の期待に抗しきれずに、右手で口を開けている袋を開いて中の物を半分ほど引っ張り出した。瑞生にもそれが何なのか見えた。
「あのね、何か心を…」
鏑木がそれを選んだ理由を語ろうとした時、榊先生が入ってきた。「おーい。始業のチャイムは鳴ったぞー。お、鏑木何してんだ。早くお前の教室に戻れ」
鏑木はダッシュで出ていき、皆もそれぞれの席に着いた。瑞生が「起立」と言った瞬間、皆より一呼吸早く本永が勢いよく席を立つと、起立し始めたクラスメイトの前を横切り、榊先生の前も無言で通過し、教室から出て行ってしまった。ざわっと動揺が走る間に、榊先生は本永の机の上の袋を一瞥して、「週番!」と言った。「はい」瑞生は机の上の袋を脇に抱えると教室を出て本永を追った。
本永は自分同様この学校に疎い。行く所などそうはないはずだ。瑞生は迷わず医務室に行った。
はたして本永は、白衣のパンダが思案気に事務机に向かう場所からもっとも離れた回転椅子に腰掛けて、貧乏揺すりをしていた。パンダに会釈をして入り、真直ぐ本永の所に行った。金髪が小刻みに揺れている。いつも通りに声を掛けた。
「榊先生の英語、本永は受けなくてもいいだろうけど、僕には大打撃だ。どうしてくれるのさ」
「…榊んとこに聞きに行け。お前には勉強経験が足りない。自学だけじゃ無理だ。たまには習うことも必要だ」
弾けて教室から逃げ出した奴が、迎えに来てくれた級友に言うセリフにしては、随分だ。パンダも目を丸くしてこちらを見ている。同い年とは思えない、大人びているというか、上から発言過ぎるのではないか。ちょっと腹を立てて袋を本永の横のベッドに置いた。「キレるのも…わからないではないけど…」
本永は袋の中身をベッドにぶちまけて、小さく溜め息をつくとこう言った。
「そっとしておいてほしいのに。あの女、俺の傷害事件を誘発したいのか?」
“ほんわかモヘヤの手作りキット・初めて作る森の動物編”が目の前にある。箱の中には淡い色合いのほわほわした毛糸が見える。だが、本永は違うところを見ていた。
「針が入ってる。千枚通しみたいのが。…これで俺に刺してくれという事か?」
「そんな過激な事を暗に要求してるようには見えなかったよ。多分鏑木のプレゼントって、ポジティブに捉えるべき物なんだよ」
「お前、俺が喜んで森の動物を作ってどうすると思うよ?」本永の目が怖くなってきた。鏑木言う所の“ぽっかりとした”瞳になってる。
「そりゃ、自分のカバンに着けるとか…人にあげるとか」言いながら、おかしな話に思えてきた。鏑木は、15歳にして既に身長175センチメートルはある本永がちまちまと作り上げた毛糸の塊が欲しいのだろうか? それじゃ中学にいた、クリスマスに手編みのマフラーが欲しくて女子に毛糸を渡した奴と同じじゃないか。結局女子にはお断りされて、そいつは昼休みに自分のマフラーをせっせと編んでいたっけ。
ラブラブならいざ知らず、友達とも言えない本永と鏑木の関係では、やはりおかしい。また瑞生が鏑木の真意を聞きに行くのか? それもおかしい。
「もしかして、鏑木は一緒に作りたいから、渡してきたのかな」
この発言は、本永に予期せぬパンチをお見舞いしてしまった。本永は全身に電流が走ったかのようにビクンと一度大きく揺れると、上半身を後ろに仰け反らせた。大きく振りかぶった頭突きを喰らうと思って、瑞生は咄嗟に手作りキットを盾に身構えた。
「本永君…?」パンダが遠くから様子を探るように声をかけた。
そっと盾の影から窺うと、本永は虚ろな目で盾であるキットの説明を読んでいた。
「『この箱の中のモヘヤを使って以下の動物が2体作れます。クマ・ゾウ・コアラ』…一緒に森に棲んじゃいないのに、何でも一絡げにしやがる」
「…確かに。それに、クマなんて人を食べる事もあるのに。なんで人間は恐ろしいクマをぬいぐるみにしたんだろうね? テディベアやプーさんは外国だなぁ。外国のクマは安全なの?」
「んなわけねえだろ。クマは欧米でも狩猟の対象だし人を襲うよ。『野生のクマと遭ったら車から出るな』とか常識だぜ。でも、お前にしちゃ社会的な話をしてきたな、上出来だ」
「本永さぁ、上から目線でむかつくんだけど? そもそも君がもらったぬいぐるみキットがネタなんじゃないか。これも返却するなら今度は自分で行けよ」瑞生は腹を立てながら、傷口に塩を塗ってやった。本永は現実に引き戻されて絶句した。
「悪かった。…一緒に考えてくれよ。と言うか、どうすればいいのか教えてくれ」
今度は急に本永が気の毒になった。キットは押し付けられた物だから、本永が途方に暮れるのはもっともだ。
「悪い方に考える必要ないよ。鏑木は、本永によかれと思ってわざわざ見つけてきたのだと思う。ピアスで学習して“似合う”物に拘らないようにしたのかも。渡す時に『心』とか言ってたし」
本永ははっとして「そんなこと言ってたのか。俺はあの女が教室に現れた時からパニックだったから、なんも覚えてない」と首筋を掻いた。
「天敵現る、だったんだね」ますます本永が気の毒に思えた。極端にナイーブな本永にとって、突如現れては謎かけのような贈り物を置いていく鏑木は、たとえ好意でやっているにしても、パニックを誘発する天敵に相当する存在なのだ。
「そうだ、いっそのこと2人で作っちゃおうよ。鏑木に『一緒に』って言われないうちに。それで…カバンに着けるのは、相手をその気にさせるだけだからやめておいて…」
「こんな女子供向けの毛玉なんか着けんぞ」
「わかってるよ。僕だって自分の趣味の物しか着けないよ。…じゃ、お見舞いに外様にあげるってのはどう? 事情を話したら、バカ受けして受け取ってくれるのじゃない?」
外様と聞いて、本永のテンションが上がった。「なるほどいいアイディアだ。あいつにやるなら、作る意味がある」
それから1時間、パンダが咳払いをして追い出そうとするのを無視し続け、本永はゾウを瑞生はコアラを完成させた。淡いブルーのゾウも薄茶のコアラも結構可愛いい。本永ですら「手作業は心を落ち着かせるってカウンセラーも言ってたな」と満足気だ。「まさかあの女、俺がカウンセリング受けてるの知って…」
蒼ざめる本永に自信を持って諭した。「本永がカウンセリング受けてる事を知らなくても、本永が神経質でピリピリしてるのは誰でも気付くよ。あんな高速貧乏揺すりする奴見たことないもの。鏑木は本永をリラックスさせたかったのかもね」
その時、榊先生がやってきてこう言った。
「八重樫、俺は暗に本永を連れ戻せ、と言ったんだ。一緒に医務室でくつろいでどうする。あと1限残ってるぞ、戻れ」
医務室を出たところ、パンダが榊先生を呼び止めた。2人で教室に戻る途中、今度は本永がスマホを医務室に置き忘れたことに気付いた。「取ってくるから先に戻っててくれ」
そう言ったのに、本永はそれきり教室に戻ってこなかった。
瑞生は放課後、医務室に行ってみたのだが、パンダは不在で、ドアに『会議中のため不在です。急患・怪我人は職員室に連絡してください』と張り紙がしてあった。そのドアや廊下を清掃員がやたらと丁寧に拭いているのが不思議だった。喉に何かが引っ掛かったような思いを抱えたまま学校を後にした。
そぼ降る雨の中、瑞生は夜叉の家の前にいた。朝以外に来たのは初めてだった。なんとなく、家ですぐ勉強する気になれなかったのだ。前島に、『今朝釘を刺したのにまた来たのかね』と言われるかもしれないが、構うものか。自分はこの村の住人なんだから。
早朝担当の警備班とは違う面々が配備されているようだ。今朝僕が引っこ抜いたソーラーライトの家の庭木を手入れしている雨合羽を着込んだ男が、鋭い視線を向けてくる。
いつも通り、屋敷の正面に立ち、窓を見上げた。心の中で呼びかけた。叫んだと言ってもいいかもしれない。声の無い叫び。
他人に言いたい事なんてない。夜叉に特別な思いもない。だから何の言葉も浮かばない。でも、ただ呼びかけずにはいられなかったのだ。