2015年6月28日①
2015年6月28日
カレーの匂いがする。クミンの香りがピンと立ってる感じはガンタのカレーだ。カレー? 朝からカレーはないな。じゃ今は昼?夜?
「瑞生、起きろよ。そこで寝てると邪魔だろ」
「ミズオ、そこビミョー」
湧き上がった笑い声を耳にするにつれ、意識がはっきりしてきた。がばっと起き上がると、食堂の壁際にある荷物置きのソファに寝ていた。
「あれ?」
「あれ?じゃないよ。面会室のテーブルに突っ伏してテキスト枕に寝てたらしいぞ。ロドリゴが見つけて、横になれるソファまで運んでくれたんだって。勉強し過ぎはよくないぞ、…お前、真っ白いパジャマなんてよく着るな。色白だから幽霊みたいで怖い怖い。早く着替えて来いよ、昼飯だ」
ガンタに急かされて裸足のまま自分の控室に行った。何も変わりなく世の中は動いているようだ。洗面所で恐る恐る鏡を見たが、変化は見つけられなかった。どこも蒼くないし、注射痕もない。ただ、生成りのパジャマが昨晩の事を物語っている。
「“生成り”って表現をガンタは知らないんだな。大人の癖に」
そう言う鏡の中の瑞生の姿がイグアナだったりもしなかった。
「そう言えば、もう東京のスタジオにいなくていいの? この所ずっとあっちだったじゃない」慎重にカレーを一口味わってみる。
「美味しい…」
ガンタがガハハと笑った。「五臓六腑に沁み渡るってか? 遭難救助されたわけでもないのに、変な奴だな」
卓上のスマホがブルって、いつも朗らかテンションマックスのロドリゴが砂糖満載のカレーを掻き込むとそそくさと席を立った。ガンタの顔から笑みが消えた。
瑞生ははっとして思わず立ち上がった。
瑞生にウィルスを渡したから夜叉は具合が悪化した? ウィルスは夜叉の生命維持に欠かせないもので、それを放出したから命が尽きそうなのか? もしかして夜叉の入院を今日に決めたのは、前日の土曜日に引き継ぐと決めていたから?
黙って座り直すとカレーを食べ続けた。もう味覚が麻痺し咀嚼するだけだったが、ともかく食べ終えて夜叉の寝室に向かった。
「よぉ分身。よく来たな」一段と小さな声で夜叉が出迎えてくれた。「体調、どうだ?」
「夜叉、僕の事より自分でしょ? 僕に引き継いだせいで力が無くなったの? 色がまた薄くなってるね…」言いながら瑞生は動悸がしていた。色が薄くなるのは良くない兆候だ。
「気にするな。単に寿命だ」いつもの夜叉節だけど声に力が無い。全体の蒼さが薄れ、髪だか鬣だかは銀色の枯れすすきみたいで、猟師に追い詰められ倒れ込んだ野生動物のようだ。
瑞生は思わず夜叉の手を握った。言葉より先に涙が出た。
夜叉は優しく髪を撫でてくれた。瑞生は涙に暮れながらぽってりした指の感触を味わっていたのだが、いつもは静かな部屋の外で人の動き回る音がするので顔を上げてサニを見た。
サニは残念そうに、「今日はヤシャ通信を先に撮るんだ」と教えてくれた。ざわついているのはスタッフが準備しているからだったのだ。
「残念ながら最終回の夜叉通信は録画になる…」
この容態では夜叉通信をライブでやるのは難しいからか。なんとか最終回をやらせてあげようとみんな急いでいるんだ。
サニに退席を促されて、なんとか涙を呑みこみ言葉にした。
「夜叉、死んじゃ嫌だ…もっと、もっと一緒にいたいよ」
「俺もそうしたいが、いつまで俺を保っていられるのかわからない。誰でもそうだが人生の終わり方は選べないからな。最期の最期は会えないかもしれない。だが言ったろう、灰になっても傍にいるって。きっと灰になってからの方が俺を傍に感じるだろう」
スタッフがサニに催促している。ドアが開けられた。
「嫌だ。夜叉、行かないで、一人にしないで、死なないで…」縋り付いて出た言葉は情けない事に懇願ばかりだった。思いがけないことに倍の力で夜叉が腕を掴み瑞生を引き寄せた。
「…いいか。瞳の中にイグアナを見ろ。そいつと相談して決めていくんだ」
耳元に囁くとそのまま夜叉は瑞生の唇に唇を重ねた。その瞬間、夜叉の隅々まで行き渡っているウィルスと自分の中のウィルスが繋がっていると感じた。瑞生の身体に潜んだウィルスは今は表に出ていないだけで、夜叉のウィルスと同種同株である証しのように、波長がシンクロしたのだ。
瑞生は目を見開いた。たった今この瞬間を瑞生のためにだけ生きていてくれる夜叉を、目に焼き付けておきたかった。瞳の中にイグアナが潜んでいるのなら、イグアナにも見せたかったのだ。かつて自分が共存していた宿主の姿を。こんなにも美しい姿と美しい声の持ち主だったのだという事を。
今までなかったことだが、夜叉の寝室にスタッフがどっと入ってきて慎重に夜叉を車椅子に移しスタジオへ運んでいく。瑞生の肩に手を置いてロドリゴが面会室まで送ってくれた。1人ポツンと座ったまま時が過ぎていく。夜叉通信最終回のために大きな物を運び込む音が聞こえた。
どのくらい経ってからなのかわからないが、呼ばれて、瑞生はスタジオに入った。昔から気配を殺すことには長けているので、入れても邪魔をする心配がないからだろう。一番後ろの壁際にいると、久しぶりに見る門根がすっと近づいて、瑞生を一番前に連れ出した。「夜叉の望みだ。だが夜叉にはテイク2がないから、よろしくな」と念を押すと離れていった。
瑞生は邪魔にならないよう、戸惑いながら遮るもののない最前列で夜叉と向かい合った。
:こんばんは。夜叉通信、今夜で最終夜だ。ライブで伝えられなくて残念だ…。皆にお礼を言いたい。本当は、一人一人名を挙げて言いたい所だが、ロックスターはそんなことしない。…いや、違う。エネルギーを…。最後に…みんなに、一曲でいいから、歌を、贈りたい:
夜叉の横にはウッドベースのキリノ、グロッケンシュピールのガンタ、コンガのトドロキがいる。コンガの合図でThe Axe最後の演奏が始まった。
木製の柔らかな音の中で異質な鉄琴の音が、氷点下になる砂漠の夜に響く星々の瞬きのようだ。夜叉の歌声は小さくて囁きに近かった。喉のウィルスが死滅することを恐れているのだ。だが、次第に夜叉の声は艶を持ち、ビブラートが響き、砂漠の夜明けのように美しい唯一無二の声がスタジオ中を引きこんだ。
シャウトに近い高音を響かせた時、夜叉の目は遙か彼方を見ていた。そのまま海老反った身体が車椅子に崩れ落ちて、手首に縛り付けてあったマイクが外れて転がると、キリノが信じられない程大声で「夜叉!」と叫んだ。
皆が我に返り一斉に駆け寄った時、キリノは目を閉じて夜叉を抱いていた。蒼く光る銀色の鬣の生き物を愛おしげに抱きしめていた。
瀕死の状態で行く予定ではなかったはずだが、冷静なサニの指示で、夜叉はストレッチャーで運ばれていった。
バンドのメンバーと瑞生はスタジオに取り残された。ガンタは声を上げて泣き出し、トドロキは静かにコンガを濡らしていた。キリノは床に座って目を閉じたままだ。まるで身も心も夜叉と一緒に搬送車に乗っていくかのように。
瑞生はバンドと向かい合った位置のまま、立っていた。やがて、その場に頭を抱えてうずくまった。どうしたらいいのかわからなかった。キリノですら自分の気持ちだけでいっぱいなのだ。15歳の瑞生に最善の行動がとれるわけがない。だが、胸が押し潰されるような感覚に突き動かされて駆け出した。
「サニ! 僕も夜叉と行く!」
K県警警備部コスモスミライ村警備本部は、今朝夜叉の移送の連絡を受け、それが早い時間帯に決まったことを歓迎していた。放送時に『今夜が夜叉通信の最終回で、夜叉は入院する』と発表され、人々が村目指して動き出すとしても、ひさご亭を訪ねる住人がいたとしても、夜叉通信放映時にはもう移送は完了しているからだ。
しかも村内の近距離移動にリスクはないと判断し、形ばかり前後に警備会社の車をつけただけだった。
前島が発したテロに対する警告は県警本部から村の警備本部に伝えられていたのだが、現場では重視されなかった。前回のビジター事件の責任を問われた指揮官は交代しており、新しい指揮官は、ゲートが厳重管理下にある以上侵入は不可能、ロハス女は拘置所なので同様の事件は起こりようがない、と踏んでいた。
「テロなんて、こんな山の中で起こるわけないだろ。本部は机上の危機に酔ってるだけだ。『厳重警戒せよ』だって? 全く“ピーターと狼”の“ピーター”だな」
その頃、村のゲートには例によって本永と朏巡査部長がいた。朏は前島のお膳立てで警察庁に引き抜かれることが決定的で、K県警本部ならば多少の理解もあるだろうが村の警備本部では嫉妬と羨望の目で見られるだけで、夜叉の警備でも蚊帳の外扱いされ仕事がしづらくなる一方だったのだ。
お気楽モードの警備本部とは対照的に前島の警告を真剣に捉えている朏の表情は硬かった。本永を乗せてくねくね道を登っていく。
「朏さん、いつも気になってたんだけど、あの建物と休耕地みたいなのは何なんですか?」本永が指すのは坂道の途中にある平屋の白い建物と周辺だけ樹木が伐採された草原だ。
朏はちらりと目をやると慎重にハンドルを切りながら、「僕も資料を読んだだけだけど、建村当時鳴り物入りでスタートした“夜間ペットマンション”だ。…この村は庭が狭くて昼間は留守がち、夜間吠えたてて近隣トラブルになるのは好ましくないということで、夜間はあそこに預けるという規則があったんだ。あの樹木が刈られた跡はドッグランだった。想像に難くないけど餌専用シェフを雇えとかトラブル続出で閉鎖された。『ペットは自己責任で、世話も自分で』と規則は改められた。その途端、ペットの数が激減したそうだよ」と説明した。
「ああ、なるほど。そう言えばペットらしきものを見た記憶がないもんな」
「今では、家の中で十分飼える小型犬や猫、熱帯魚などが多いようだ。当時は互いに訴えあう訴訟合戦になるところだったのを、田沼が一件ずつ間に入って、脅したりすかしたりで訴訟を回避させたのだと」
「あの爺さん、あくまでも村のためにはよく動いていたんだな」本永が珍しく田沼を評価した。
村は日中、人口が少ない。夜叉が来るまではゲートも無く出入り自由だったので、セレブ村ウォッチャーが結構訪れていた。ただ観賞するだけなら何の問題もないが、たまにフラワーポッドをいじったりペットボトルを捨てていったりする輩がいた。そのため外出中でも自宅付近を見ることが出来る(自宅内は各人対応だ)、防犯カメラ登録サービスがあった。四つ辻ごとの防犯カメラ(電柱がないためご丁寧に街灯に内蔵されていた)映像を外部から見ることができるというものだ、プライバシー保護のため、登録は自宅周辺限定で、あくまでも道路を監視する物であり長期保存はされない。その中で夜叉邸近くの四つ辻は設定できなくなっていた。
もちろん防犯カメラは稼働中で、夜叉邸警護に警察が利用しているわけだが、こっそり覗き見している者がいた。もちろん八重樫宗太郎である。
宗太郎は、住人(昼の住人・つまり村が勤務地の者も含む)対象の掲示板に『夜叉が入院したら心から回復の祈りを捧げたいと思う人にXデー通知しましょうか』と書き込んでおいた。先だっての大量部外者侵入事件のように人々が同時に動き騒乱になる機会を演出したかったのだ。
真っ先に反応したのは元自治会長の田沼だった。夜叉が入院のため移送される際に本気で暗殺計画を実行するつもりなので、Xデー通知は必要不可欠の情報だった。田沼腹心の部下、元自治会役員の3人にも通知が行くようにした。暗殺を手助けさせるためだ。
江古田俊介も通知を希望した1人だ。江古田は村の山側に陣取る象牙の塔・東アジア平和研究センターの研究員だ。
江古田はイライラと窓に目を向けた。美しく作られた庭園側のフロアならば気も晴れただろうが、あいにく居住地に面した、住人のプライバシー保護のための糸杉林しか見えない部屋にいるのだ。毎日この山頂のセレブ村にY市からスクーターに乗って通っている江古田は村にも職場にも上司にも不満だらけだった。特に村の最下層枠に住居を構えているだけなのにセレブ気取りで傲慢をかます小谷教授への我慢がもう限界に達していた。学会が近いせいで今日も休日出勤を命じられていた。
「無能な小谷が主任教授に就けたのは、皆が遠距離通勤を拒否した上に、村にある親戚の家を相続したからじゃないか。厚顔無恥で大使館に出禁になりグルルダ公国のクーデター情報を逃した。東アジアの危機に出遅れたのじゃここの存在意義がないだろう。この村は死んだように静かで全くつまらない。『静かであればあるほど学術研究は捗る』なんて老害ジジイの寝言だ。刺激・情報・気晴らし、モチベーションを上げるには必要な要素がある。夜叉が来てから騒ぎが起こって俺はむしろ楽しい。今度夜叉が騒ぎを起こした時、便乗して小谷に一泡吹かせてやる」色濃く茂る窓の外の糸杉に向かって決意を独りごちた。
しかし夜叉通信を見ると、夜叉は今にも死んでしまいそうだ。そこで夜叉邸に動きがあった時一報を受けて、小谷にプレゼントを仕掛け、村の大騒ぎを高みの見物することにしたのだ。
田沼の執拗な召集を受けて、夜叉暗殺に加担する羽目になり悲鳴を上げていたのは筧、富山、島崎の3人の元幹部だ。3人ともN不動産に恩義はあるが田沼個人の下僕になった覚えは毛頭なく、自治会執行部から退けてほっとしていたおり犯罪を強要されるなど願い下げだった。
筧はヘルニアの悪化を理由に、富山は老人性鬱を発症し、島崎は妻の介護を理由に田沼に断りを入れた。すると、とてつもない剣幕で激怒され「だったら代わりの者を手配しろ!」と要求された。已む無く本当に代わりの者を探し出した。
筧は“何でも屋”で検索して最初にヒットした業者に電話した。富山は村の住人に気取られぬようM村の心療内科に通院していたのだが、相談窓口の前で声を掛けてきた姉妹に窮状を打ち明けた。島崎は妻が盲信する占い師に相談した。
防犯カメラの映像に車や住人が映るのは当たり前のことだ。この頃は警察官も常に映る。その中で夜叉が入院する動きを察知するにはAIの活用が欠かせない。宗太郎は、AIに救急車両と夜叉や門根そして瑞生の画像を登録しておき、これらの人物が夜叉邸から出た段階でアラームが鳴るようにしておいたのだ。救急車両がAAセンターに向かうルートも3パターン想定しておいた。
宗太郎は初期のアラームを受け、集めた映像を自分で精査し、皆が救急車両に乗り込む様子を見て“Xデー到来”と確信し、登録者に一斉通知した。
そして今、宗太郎経由で夜叉邸に異変があり夜叉入院の時が来たことを3人の元幹部の家で知ったのは、それぞれの家の主ではなかった。
筧の家では某国スパイ2人が夜叉拉致の準備を整えていた。富山の家では相談に乗っていた姉妹が誰かに電話している。島崎の家では占い師を教祖とするカルト信者が村内の他の信者と共に出掛ける準備をしていた。
家の主たちはと言うと、ある者はクローゼットの中で眠り、ある者は浴槽の中に沈み、ある者は車のトランクで丸くなっていた。
筧の家に“何でも屋”として入り込む数日前、某国のスパイは同胞の工作員をトッタン半島港湾施設で見かけた。スパイは個々のミッションの為に行動し、工作員は長期に潜入し破壊行為を行うので、詮索せずにやり過ごした。筧の家にいる某国のスパイはマーチとメイ、港で目撃された工作員はツナ、シャークと呼びあっていた。