2015年6月27日②
瑞生はスマホの画面を見た。伯母から特に連絡はない。
夜叉邸は静かだった。Woods!のスタッフが通りかからないとメンバーの在不在もわからない。時折ドアの開け閉めの音と共に鼻歌が聞こえるから、ロドリゴがいて、おそらくサニはいないと推察された。
手持無沙汰なので英語の勉強を始めた。スペイン語はサニから習えばいいという開き直りの心境になっていた。ともかく、幼稚舎から英語の勉強をしているクラスメートとは圧倒的な実力差がある。立和名の顔がちらりと浮かぶのは否めない。
4時になったが、ガンタがお茶のいい匂いをさせて現われることはなかった。やはり東京のスタジオにいるのだろう。1人でティーバッグの紅茶を淹れていると、スマホがブルった。
:八重樫? 村のゲートにタクシーで来てるんだ。入れてくれ:
「本永?」
例によって突然の来訪だが、瑞生は朏に掛け合い、臨時の許可をもらうことに成功した。夜叉邸の人口密度は低下傾向にあるのに、曽我さんの毒饅頭の翌日なので村内の警察官は増量されていた。お蔭で朏が出ていくまでもなく、本永はゲートから警察車両に乗り換えてやってきた。
朏から身体検査を受けている間も、本永は思い詰めた表情を崩さなかった。
「どうしたの?」
「夜叉に会わせてほしい」
「え? だって夜叉通信まであと…30分しかないよ」
本永は瑞生の話など聞いてはいなかった。ずんずんと階段を上がり、警戒した朏巡査部長が追ってくるのも意に介さず、最近立ち入り禁止のスタジオエリアに着くと、躊躇うことなくノックした。
朏は本永が狂った場合に備えて強い口調で本永を止めた。瑞生の位置からは強張った顔で直立する本永と最低限の距離を確保しようと苦労している朏しか見えない。
ふいにドアが開き、サニが顔を出すと瑞生を手招きした。いるとは思っていなかったので瑞生が驚いて駆け寄ると、「モトナガ君、ミズオの同席が条件。時間は10分。ミカヅキさんは外。ただし聞き耳は拒まない。いいね?」と本永に言い渡した。本永が頷くと、2人は中に通された。
スタジオは30分後に控えた夜叉通信のための準備が行われていた。夜叉の寝室手前の部屋に入ると、夜叉が布張りの椅子に座っていた。
本永が一歩前に出て、いきなり土下座した。
「…夜叉に頼みがあって来ました。今日、俺の恩のある友達が、久しぶりに登校した。そいつは失明の危機にあり、復学するにはクラスのサポートが不可欠だ。クラスの了承を取り付けて、ようやく登校したのに、そいつは様子がおかしかった。納得できなくて俺は家を訪ねた。そうしたら、今まで思うように動けた自分ではもうないと言う現実を突きつけられて、すっかり落ち込んでいたんだ。自宅ではなんとかなっても教室では至る所で皆が動くから、聴力の限界を感じて、毎日登校したら神経が擦り切れると思ったそうだ。『今まで出来ないスポーツなんてなかったのに、自分が障害者になったんだと思い知らされた。元気で幸せな連中でいっぱいの学校に行き続けたらきっと気が狂う』と思ったって。夜叉、ゾンビーウィルスがどんなものなのか、俺はよく知らない。でも、事前に感染していたら、そこが死んだ時蘇るんだろう? 頼む、夜叉、外様にウィルスをください。学校や医者のせいで失明なんて可哀想すぎる。一時的に視力が回復したら、好きなだけスポーツさせてやりたいし、お母さんや家族の顔を見に行くチャンスだけでも確保してやりたい。非常識で厚かましい頼みだとはわかっている。でも、時間がないと思う。お願いします。夜叉、お願いします」
「本永…」瑞生はあっけにとられて、名前を呼ぶのがやっとだった。
本永は大理石の床に額を擦りつけて、夜叉にウィルスを請うたのだ。
「時間ないから顔を上げろ」
正座のまま顔を上げた本永を、貴族みたいに足を組んで見下ろした夜叉は「サニが説明するからちゃんと聞け」と言った。
サニは苦い顔をして、「モトナガ君、ウィルスは失明には有効ではない。例えば網膜が不具合とか伝達する神経の麻痺とか、失明には原因がある。多くの場合、その組織が死んだのではなく、不具合になっているんだ。それでは宿主が死を迎えた時にスイッチが入るゾンビーウィルスは稼働しない」
本永がどんな表情を見せているのか、後からではわからない。
「それじゃ、それじゃ、ウィルスをもらっても無駄なのか? 外様の目は蘇らないのか?」見る見るうちに肩を落としていく。
「ソーリー。夜叉が完全体で死に、五体満足で蘇ったのは奇跡に近い。ヤオーマやコナカ君のように部分で蘇ったのは部分が完全に一気に死んだからだ」サニは酷な事を告げる残酷な天使のようだ。
「切れ者のパンクらしくないな。そういう使い方が出来るなら、“部分ゾンビ”が世界中でポピュラーになってるはずだろう。お前が繊細で優しい奴なのはわかるが…、どうにもできない。悪いな」夜叉の声は静かで優しかった。
2人が出て行った後も、本永は正座したままだった。
サニの言っていた共感性ということがわかる気がする。この本永の、外様と外様のお母さんに対する思いやりが、まさにそれなんだろう。
瑞生は時間になってから声を掛けた。
「本永…夜叉通信見よう」
:今日で十四夜目だ。キリノもスタジオに行ってるから、久しぶりに俺一人だ。…手紙をもらった。『僕の友達は病気です。友達が死んだら家族は本当に悲しむと思います。だから、夜叉のウィルスをもらって、蘇らせてあげたいです』…ゾンビーウィルスで蘇ったと想像してみよう。友達が蒼いのははドラえもんの仮装をしているのじゃないんだ。俺から感染したのなら彼から君に感染するかもしれないぞ。怖くないか? 誰かが『気持ち悪い。あいつは死んだ人間だ』と言い出した時、彼を最後まで守れるのか? 彼に『ゾンビになんか、なりたくなかった』と言われたら君は責任を取れるのか? もしゾンビになった彼を家族が拒絶したら、君は最初に死んだ時よりも辛い思いを彼にさせてしまうことになる。…死は一回でいい。俺が『蘇りも悪くない』と思えるのは、俺が恵まれた環境にあるからだ。隔離病棟以外に住む場所があり、応用力に富んだ友人がいて、義理堅いスタッフがいる。幸い喰うに困らないし、皆に給料を払う事が出来る。…もし家族がいたらいじめに遭うだろう。『蘇らなければよかった』とそれぞれが後悔するだろう。幸せは一概には言えないから色んな意見があるだろうがな。ロックスターらしからぬ平凡な結論で悪いが、生も死も一回限り、全力で駆け抜けるのがいいんじゃないか。これが俺の答えだ:
本永は椅子に座りテレビ画面を見たまま放心している。隣のスタジオで生で見られなかったのは、本永が泣いてその声を拾ってしまう恐れが濃厚だったからだ。
今本永は泣かずに…きっと噛み締めているのだ。夜叉の思いやりや、自分の母を外様の母に投影していた事や、外様の幸せは他人にはわからない事や、友への想いが自分を狂気のように駆り立てたという事実を。
瑞生は下手に慰めるのは止めて、本永が自分で自分に折り合いをつけるまでただ傍らにいる事にした。
前もあったな…。過呼吸になった本永の横にペットの犬みたいについていた事が。もう何年も昔の事のように思える。全て6月の事なのに。なんだか4月にすっきり収まっていた立ち位置からぐにゃぁと歪んでしまったみたいだ。八重樫家も村も学校も。
「俺の独りよがりだった。外様が望むとは限らないもんな。それに縁起でもないけど、突然交通事故で死んだりしたらゾンビになってしまうもんな。蒼くて不自由な身体…、夜叉くらい精神の強い人間でなくちゃもたない。望まないのにそうさせてしまうなんて、独善もいいところだ」
こう言うと、本永はドアに向かって歩き始めた。
「も、本永!」瑞生は必死に呼び止めた。
「おお、…振り回して悪かったな…」詫びる長身の同級生に近づいて、右手を差し出した。
「本永、握手して。あの、あのさ、…さようなら」
半開きの口が精悍な印象を覆すほど締まりのない本永を初めて見た。
「なんだ、お前、何言ってるんだ?」
「いや、別に。普通の挨拶だよ」取り繕いながら、さっと本永の手を握り、さっと放した。この“普通の”感触を忘れたくなかった。
本永は首を捻りつつ階段を降りて行った。瑞生は見送らなかった。泣いたらばれるし、今夜起こる何かに向けて、気持ちを切り替えたかったのだ。
夜叉通信以降、邸内はひっそりと授業中の図書室のように静まり返っていた。瑞生は高い天井の図書室の窓から降り注ぐ陽の光に、空中の塵がキラキラと光る光景が好きだった。
1階のキッチン横の部屋で夕食を1人食べた。メニューよりも今日と言う日に孤食というのが、如何にも自分なのかな。
その後、形ばかりの勉強ポーズも苦痛になり、誰かに会えないものかと夜叉の部屋の方に行った。サニは驚くこともなく寝室手前の部屋に入れてくれた。もちろん夜叉はいない。
サニはインスタントのココアを作ってくれた。「サニ、ココアに砂糖を足さなくても僕は大丈夫」
一口、熱いココアを啜った時、インタフォンが鳴った。午後8時過ぎに誰が来たのだろう。サニは玄関モニターを見て、警察官に訪問者を中に入れるよう指示した。そして何故か、瑞生を引っ張って、無理矢理ウォークインクローゼットの中に押し込んだ。
「サニ、なんで?」
返事の代わりに、ソーサーごとココアのカップが突き出された。何の説明もなくドアは閉ざされ、瑞生は暗闇の中にとり残された。そのままココアを啜った。闇雲に置いて蹴飛ばす事態は避けたかったので、熱かったがごくごくと飲み干した。空になったカップを置き、ドアに耳を付けて会話が聞こえるか試した。何も聞こえないので焦ったが、無人だからなのだと気づいた。そこで安心してスマホのライトを使い電灯のスイッチを見つけた。目の前に馬鹿でかいTシャツが釣り下がっていて面食らった。ウォークインクローゼットなのに奥が見えないなんて変だ。暖簾みたいなロドリゴ愛用“沈思黙考”という四文字熟語Tシャツを除けようと手を掛けた時、音がして部屋に人が入ってきたのがわかった。
「どうぞ、そこに座って」とサニ。
「サニ、お願いだから夜叉に取り次いで。…どうしても、どうしても話さなければいけない事があるの」
「カスミ、わかっている。だから座って」
「あの、サニ。あなたと夜叉は瑞生に何かしようとしているのよね? 事業を継承するなどではなく。『身体に』」
「抗議や非難のために来たの?」
「いいえ、いいえ。そうではなく、確認したかったの」
「ああ、夜叉、夜分にすみません。夜叉通信の後でお疲れとはわかっているのですが、どうしてもお伝えしなくてはならない事があって伺いました」
がさごそと音がする。この時間夜叉はもう自力で歩く力はないから、サニが抱きかかえてきたのをソファに降ろしているのだろう。
「で?」一段と声が小さい。瑞生はドアにへばりついて耳をダンボにした。
「見当外れだったら言ってください。続きを話さずに失礼しますから。瑞生から『夜叉と何かを受け継ぐ誓約を交わした』と聞きました。ゾンビになってからの夜叉は、弱者救済を計画していたりするので、瑞生に遺言の実行を頼もうとしているのかと思いました。どんな善行でも、遺言執行人はお金を使い込んだり意図を歪めたりしがちなので、瑞生に崇高で縛りのある誓約を課そうとしたのだと解釈したのです。でも、八重樫の事件のために1人で過ごす時間が多くなると、違う考えが浮かびました。夜叉は病院を買った。それはウィルスを治療したり根絶したりするためではないでしょう? ウィルスは人の体内でしか生きられないのでしたよね? サニは夜叉かウィルスかは知りませんが、守り研究するために来日した。それなら瑞生にウィルスを託すと考える方が自然です。…どうでしょう、違いますか?」
伯母の問いにジェスチャーで回答してもクローゼットからは見えない。
「やはりそうなのですね?」
「カスミ? 何を言いに来たの?」伯母の念の押し方をサニは訝しんだようだ。
「今更、瑞生の親ぶるつもりはありません。瑞生は私にきっぱりと言いました。『自分が決めたのだから、夜叉との誓約を誰も妨げることは出来ない』と。それはいいのです。でも、瑞生の知らないところで、誓約は実現不可能なのです。私の、私たちのせいで…」
「なんだ?」
「…」
「今更、黙るな」夜叉の声は聞き取るのがやっとで、焦れているのかまではわからない。
「ミズオはユキオの子供だね?」
『言葉の暴力』って言葉があるけど、不意打ちのサニの言葉はアイスピックのように瑞生の心臓を直撃した。
沈黙がどのくらいだったのか、わからない。夜叉の声で瑞生は我に返った。
「なんで、サニが知ってる?」
「日本人は本人の弁を真に受けすぎる。もっと直感で判断すればいい。ミズオとカスミを見たら、血が繋がっていないわけがない。それなのにミズオは、ユキオとナツミのでき婚は表向きで、ナツミがノゾエにレイプされてできた子供が自分だと言う。おかしいでしょう」
「確か、アホみたいな話で、瑞生が雪生の子供ってのはありえないのじゃなかったか?」
「僕も、込み入った男女関係を詮索したいわけじゃない。ミズオは『ユキオはナツミに指一本触れなかった』と言っていたけど、そうではなかったという事だね? レイプのショックで妊娠したと思い込んだ想像妊娠だったか、ごく初期に流産したか…」サニは自分の推察を披露した。
「面倒な話はいらない。そうだとして、瑞生がウィルスの宿主となるのに何の問題があるんだ」夜叉はやはりイラついているようだ。
「…特殊なウィルスの被験者になるのは、普通の人が適しているでしょう…」伯母さんの声が妙に低い。
「まさか、ルビーの呪いの事気にしてるのか? 雪生の子だから? 俺が押し付けるのはゾンビーウィルスだぞ。呪いよりよほど悪質なのを承知であいつは引き受けると言ってくれたんだ。そんなもの、気にする必要はないね」夜叉はキレそうな声だ。
ドサッ
「カスミ?」
思わずドアに身を押し付けた。伯母が倒れたのだろうか? 倒れたのなら、サニはもっと緊迫した声になるはずだが。
「お願いします、…お願いします」声がくぐもっている。霞は土下座をしているのだ。
「瑞生から手を引いてください。あの子を被験者にして採取したデータを、貴重なウィルスの基準や指標にするのは無理、いえ、するべきではないんです。あの子は陽の元に出るべきではない、日陰でひっそりと生きる宿命なんです」
サニの言葉で刺された胸の痛みなんて麻痺してしまう程、霞の言葉の暴力の方が激烈だった。
ぞくりとした。
ドア越しに伝わってくる。得も言われぬ負の気配。
瑞生には夜叉の怒りが見えるようだった。夜叉と共に、ウィルスには感情がないからマカンダルが地の底の深い闇の中から怒りを湧き上がらせているかのように、蒼い光を発しているに違いない。
「カスミ、わかるように、全て話して」サニの声は震えていた。
この事態に? それともマカンダルの怒りに?
「…瑞生は私の子供です。私と雪生の子供なんです。私たちはあの家で、子供の頃からずっと愛し合っていました。他人など必要なかった。両親が亡くなり、私たちは呪いの不安と濃密な愛に酔いしれました。短大卒業後私は派遣社員になりました。ところが上司や取引先社員から交際を迫られ、セクハラ意識の低い時代で、私は消耗しました。雪生は私を守る事を使命のように思ってくれていたのですが、それが人生の目標では一生かける仕事とは巡り合えません。雪生は哲学科で徒手空拳、進むべき道が見えず悩んでいました。次第に八方塞りになり、私は心中を提案しました。あの大人しくて優しい雪生が私に言いました。『僕たちが2人だけで生きるのは無理だ。僕が霞ちゃんに子供をあげるから、霞ちゃんは子供と生きればいい。僕に任せて』」
「私は慌てて心中を撤回しました。『一緒に生きよう』と説得しました。でも雪生の心は動かなかった。呪いの件も彼から希望を奪っていました。そして天使の心を持つ雪生は、私を愛するあまり悪魔になりました」
「わけがわからない」ぶすっとした夜叉の声。
「雪生は詳しく話してくれませんでした。一歳違いで今まで私の思うように何もかも合わせてくれていた雪生が、この件からはイニシアチブを握ったのです」
「雪生は携帯を持っていなかったので、女の子たちはよく手紙を渡してきました。雪生は返事を書かない代わりに、手紙をくれた子を邪険にはしませんでした。中には友達でいいからと、週1回駅で話すとか定期的に会う状態を作る子もいたのです。その子たちを…利用する事を思いついたのだと思います」
「ナツミもその中の1人だった?」
「おそらく。ある日雪生は帰るなりこう言いました。『霞ちゃん、子供を作ろう』。そして私は妊娠し、医者に掛からず安全に出産する方法をあらゆる媒体から探して備えました。母子手帳も母親学級もなく、出産への恐怖だけでなく、その後1人で子供を育てられるかと不安に駆られました。雪生は決して『2人で育てよう』とは言ってくれませんでした。鬱々とする私に雪生は『家を出て火浦奈津美と結婚する』と告げ、出て行ってしまいました。絶望し、食事もろくに摂らかったため倒れた所を偶然戻った雪生に発見され、母子ともに一命を取り留めました」
「私を心配してか、火浦家の生活が辛いのか、雪生はよく顔を出し、以前よりは話してくれました。火浦奈津美さんも妊娠していました。疑う私に『彼女は野添と言うクズに襲われた事を僕に泣きながら打ち明けた。僕は直感した。彼女が妊娠していようがいまいが、この機会を逃すべきではないと』と語りました」
「雪生の計算外だったのは、火浦家の工場の仕事が想像以上に習得困難だった事と、奈津美さんが気性の激しい未熟な娘で純粋に雪生の愛情を求めた事でした。ものの数カ月で新婚生活は破綻し、奈津美さんはヒステリーと妊娠中毒症を起こしたのに父親や雪生の説得に応じず病院に行きませんでした。対して私は順調に安定期に入り、助産婦の経験を持つ叔母たちに『別れた恋人の子を身籠っている』と打ち明けておきました。そして私は実家で臨月を迎え、陣痛が始まると伯母の露乃の家に駆け込みました。叔母たちは母子手帳も持たない私に呆れましたが、力を貸してくれ無事に出産できました」
「問題は奈津美さんでした。日増しに情緒不安定になり、自殺騒ぎも起こしました。臨月だというのに『寂しい海が見たい』と駄々をこね、雪生が車に乗せて人気のない海に行ったのです。そこで何があったのか、わかりません。入水自殺したのか、破水したのか、雪生は奈津美さんを何とか車に連れ帰ったものの車の中で死産してしまい、病院に向かう途中車は脱輪し崖から落ちかかった状態で止まりました。後部座席の破れた窓から這い出た雪生が民家まで歩いて、ようやく助けを求めることができたのです。私は雪生から連絡を受けて、出産直後でしたが赤ちゃんを連れて車で駆けつけ、私の赤ちゃんを預けました。瑞生は救急隊員に『車内で生まれた赤ん坊を通りかかった女性に託し、産湯で綺麗にし命を救ってもらった。その女性は先ほど赤ん坊を返しに来て去った』と説明しました。民家の人も車で去る私を目撃していたので、話は裏付けられ、赤ちゃんは雪生と奈津美さんの子供として“瑞生”と名づけて出生届が出されたのです」
「その話、無理がないか」夜叉が呟く。
「ナツミの子はどこに?」とサニ。
「雪生は『亡くなった赤ちゃんを見たら奈津美がどうなるか、恐ろしくて急いで海に流した』と言っていました」
「今となっては確認のしようが無い、か」
「『ユキオは悪魔になった』の意味がわかった。恐ろしい事だ」
「崖の上であんたを呼んでも救急車は呼ばなかったわけだ。自分の子供と他人の子供とを入れ替えるために」夜叉が不快そうに言う。
沈黙が支配した。瑞生はクローゼットの中で、ドアにもたれたまま立っていた。
「それでカスミ、カッコウのように自分の産んだ卵を他の鳥に抱卵させ育てさせて、今何を言いにここに来たの?」
「私が子供を女手一つで育てられるような逞しい女だったら、このような悲劇は起きなかったと言いたいのでしょう。確かに私には1人で子供を育てる気概も生活能力もなかった。今更瑞生の親面をするつもりはないです。…言い訳がましく聞こえるでしょうが、私が子供を望んだわけではありません。雪生が私に残したがったのです」
「雪生が何を考えていたのか、今でもわかりません。昔からあの子の心の中はわからなかった。雪生は自分が長く生きるとは思っていなかったので、私に子供を残そうとした。私が育てられないのなら自分で育てようとした。誤算なのかもしれませんが、雪生にとって瑞生が全てになりました。…奈津美さんの精神が崩壊していく家で、子育てするのは想像を絶する困難だったでしょう。でも雪生は怯むことなく全身全霊で瑞生を愛しました」
「私は『雪生に免じて瑞生の人体実験を止めてくれ』と言いに来たのではありません。…近親婚では虚弱体質や精神異常が出やすいと読んだことがあるので、ウィルスの被験者には適さないと伝えに来たのです。逆に瑞生を卑下して、貴重なウィルスに申し訳ないなどと言う気もないですけれど」
「さすが“氷の女”。さりげなく“人体実験”呼ばわりしやがった」夜叉がぼやいた。
サニは「これはデータを録るための実験ではない。ウィルスを守り継ぐための犠牲。本人が納得して行うのだから、あなたの語った戯言は何の支障にもならない」と冷徹だ。
「でも、瑞生は自分が近親婚の子供だとは知らずに受けたのよ。 ウィルスが順調に引き継げない可能性があると知ったら、真面目なあの子は断ったかもしれないわ」伯母は食い下がった
「ふん、自ら恥を晒した割には綺麗事言うんだな。“近親婚”じゃなくて“近親相姦”だろう」夜叉が吐き捨てた。
「子供は両親の遺伝子半々で作られる。病気の因子を一方が持っていても多くは2つ揃わなければ発現しない。近親者は当然似た遺伝子なので病気や障害の発現率が高い。だから近親婚は禁じられている。昔血統に拘る貴族や孤立した村などで近親婚を繰り返したために同じ遺伝病や障害を多く持つ子供が誕生し、やがては子供が誕生しなくなり衰退したという話、聞いたことあるでしょう。でもカスミ、このウィルスが必要とするのは器としての人体。ワインと器は混じりあわないね? 互いに影響を及ぼさないんだ。だからこんな酷い事をミズオに申し込めたんだ。死んでゾンビになることはあっても、生きているうちにウィルスのせいでゾンビっぽくなるなどの変化が起きることはない」
「夜叉のように感染してすぐ死んだ人は影響はなかったでしょうけれど、瑞生は死ぬまで何十年もウィルスを抱えていることになるのよ。途中で影響が出るかもしれないじゃない」
「異常をきたした部位のウィルス反応はその部位の死滅が引き金になるのだが、例えば癌などに対する反応は予測不能で難しい。これを問題にするかしないかは、ミズオが決める事」サニにこう言われ、霞は切り返した。
「ゾンビーウィルスは未知のウィルスと言いながら、随分症例を持ってるのね。なんだか陰謀の匂いがするわ。15歳の子供を騙していないと言えるの?」
「出会ってから一番鋭い質問だ。確かにミズオに『クーリングオフは利きません。ウィルスが早めに発動した場合の耐用年数は未知数です』と事細かく説明しサインをもらったわけではない。…理解してもらうにはもう少し話す必要があるね。座って」
霞が床から椅子に移ったようだ。瑞生はドアに体重を預けたまま崩れ落ちて床にへたり込んだ。
「…僕たちはフンボルト公園でイグアナを見つけたけれど、別ルートでキューバに潜入したマカンダルもいた。“マカンダルの息子たち”は古くから存在していたんだ。SNSの無い時代、人々の口の端に上ることもなくひっそりと受け継がれていたようだ」
「“キューバ危機”を知っている? 東西冷戦の一触即発の舞台がキューバだった。1962年、ソビエト連邦から核ミサイルと99個の核弾頭がキューバに運び込まれていた。アメリカに対する核攻撃のための配備が進んでいたのさ。13日間のケネディとフルシチョフの息詰まる攻防の末、すんでのところで核戦争は回避された。カストロ、米ソ首脳の非は今更どうでもいいけど、焦土と化す危険に晒されたのはキューバ国民だ。この経験からマカンダルの息子たちは症例の共有化に舵を切った。今まで闇の存在に甘んじていたが、手探りで情報交換を始めたんだ。それでも誰もイグアナが本当にハイチから来たのか知らないし、死者が蘇ると言う現象を説明できなかった。イグアナを“マカンダルの息子”と捉える一派は革命の日が来るまでウィルスを絶やさず市井に潜伏すべしと考える。イグアナを“ゾンビパウダーの素”と考える一派は闇市場で感染を請け負う。要するにマカンダルによってカラーがあると言う事さ。お蔭で僕たちの手元には多くの症例がある。サイエンステクノロジーがやりたがるウィルスのデジタル解析とは無縁のレベルでね。ミズオには被験者として期待しているのではない。長く宿主であること、ウィルスと人類の進むべき道を模索しながら共に生きていくことを期待しているんだ」
「…私に出来る事は何もないということね」霞の声は沈み込んでいく。
「それはどうかな。あいつの人生はまだまだ続く。これからあんたの助けが必要となるだろう。…ただ、あんたの助けをあいつが求めたいかは別だがな」夜叉は救いつつ突き放すように言う。「今まではなかった“親子”としての葛藤が芽生える。出生の秘密を知ったあいつがあんたをどう思うか」
「…どういうこと?」
瑞生の目の前にあるはずのドアがなくなった。
始めのうちは焦点が合わなくて部屋中がぐらんと回って吐き気がした。目の前のサニの足からゆっくりと視線を上げると、部屋の中央で口に手を当てている伯母、左側のソファに夜叉が見えた。
霞は息を呑むのに疲れると、サニと夜叉の方に非難がましい目を向け、「わざと瑞生に聞かせたのね?」と抗議した。
「僕たちに知らせないとアンフェアだと思ったのなら、知らずに誓約を実行するミズオにこそ知らせないのはアンフェアだ。僕の想像では『ユキオとナツミの子』留まりだったから、聞いたことによるショックは、ユキオの弁と齟齬があったにしてもそう大きくはないと踏んだ。ここまで衝撃的な告白だと想像できるわけないじゃないか。告白のインパクトで、ミズオの誓約を破棄し取り戻そうという企みだったのだろうけど。それがどうでるかは、ミズオに聞かない事には」
瑞生は霞を睨みつけた。
皆が絶句して自分を見ていると思ったのだが、視線が上にずれていると気づいた。「…?」
「俺は、俺はどうすればいいんだ? 外様は病気で、お前の家族の問題はぶっ飛んでる…。俺は何が何だか…」
瑞生の後ろに、“沈思黙考”Tシャツをハンガーごと抱えた本永が立っていた。
「本永? なんでここに?」
「俺、外様にゾンビーウィルスをもらおうとした事が独りよがりだと思い知らされた。このまま帰ったら、夜叉と話したことが全て妄想だったことになってしまう気がして、屋敷内をふらついていたんだ。この納戸、ロドリゴの休憩室らしくてちらかり放題な所が妙に寛げて、ついうとうとしてた。人の気配で白衣の隙間から覗いたら八重樫だった。八重樫は立ったままココアを飲むとドアにへばりついたもんで、声を掛けそびれてしまって…」言いながら、本永は瑞生の隣りに膝から崩れ落ちた。
「…すまん。お前の聞かれたくないだろう話を聞いてしまって…、すまない。どう謝ればいいのか…」
「いいよ…、誰だってドア越しにこんな屑な話聞く羽目になるとは思わないよ。むしろ君がいてくれてよかった。でなきゃ、爆発しそうだ。…せめて真実を告げてさえいたら、僕はあの気のふれた女を母親だと思って愛されない事に苦しんだり、あの女の遺伝子で自分の半分が出来てる事に悩んだり、狂気が遺伝することに怯える必要もなかったんだ! 僕があの女に風呂に沈められたり、アイロンを押し付けられたりしてた時、あんたは何してた? 信じられない。産むだけ産んどいて。『霞ちゃんに子供をあげる』だと? ふざけるな、お父さんも、あんたも最低だ!」
しばらく罵詈雑言を怒鳴り散らした後、瑞生はゴミ箱を引っ掴むと胃の中の物を全て吐きだした。涙と鼻水も出放題で、苦しくて肩で息をしていた。
サニはティッシュを箱ごと渡してくれ、本永は臭うゴミ箱をクローゼットの中に入れドアを閉めてくれた。
「“あんた”呼ばわりして『曲がりなりにも母親に対して失礼だろう』なんて言わないの? みんな」思い切り鼻をかんだら、それは“沈思黙考”Tシャツだった。
「言わないね。もっと言っていいと思うよ」と夜叉。
「僕も。ミズオの苦難はあまりに割を食っている。カスミはしたことの罪深さに対してあまりに容易く生きているように見える。もっと罵倒してもまだ足りないと思う」瑞生から汚れた弟のTシャツを受け取るとサニが淡々と言う。
「誰を庇うつもりもないけど…、小さい頃から知っていたら知っていたで、八重樫は自分と言う存在に苦悩したと思う…」と本永は床に胡坐をかいた。
皆の視線は霞に向いていた。
「あんたがゴミなのは、瑞生を産んだ後、雪生にイニシアチブを預けっぱなしで、あんたが誰よりも責任を負わなきゃいけない瑞生という命に対して自分で向き合い自分で考えなかったことだ。あんたは常に『この責任は雪生が取るべきもの』と思っていたんだろ? だから、雪生が苦労していても、幼い瑞生が虐待されていても、他人事だったんだ」夜叉が蒼いオーラを放ちながら、小さな声で淡々と断罪した。
霞は部屋の中央で、陶器の人形のように立ち尽くしている。
「あんたが今日話しに来たのは、自分可愛さか、瑞生にせめての救いの手を差し伸べたのか、雪生への義理か。まぁどうでもいいがな。瑞生にとっては、あんたが遅過ぎてよかったのかもしれない。瑞生が母親を必要としている時にクレイジーな奈津美からあんたにスイッチして、あんたが愛してるのはあんただけ、と知ってしまうよりは残酷じゃない」
夜叉の声を聞いているうちに、瑞生は自分が蒼い光に徐々に包まれていくような気がした。ウィルスのもたらす光なのに暖かさを感じる。目を開けて自分を見てみたが別段蒼くなっているわけではない。ウィルスを引き受けるってこう言う事なのかな。憑りつかれると言うより溶け込んで一つになるようなものなのかもしれない。
瑞生は怒りの感情が鈍り、冷めていくのを感じた。
「もういいよ。わーっと怒りが押し寄せた後、不思議と心が動かない。もちろん、思い出す全ての事の根源が父と伯母の関係にあったと思うと、はらわた煮えくり返るよ。自分の存在理由を知ってしまって、ますます生きる意味がわからない。…でもなんて言うか、幸いあの母親はもういないし、責めたくなるお父さんもいないし、伯母さんを責めるのって無駄な気がするし。それより、僕には夜叉との誓約がある。誓約を果たす方が余程大事だと思うんだ」瑞生には、他の者は瑞生を気遣うあまりこの話を終わりに出来ないとわかっていた。
霞に去るように告げようとした時、強い視線を横に感じた。
「…」吊り上り気味の切れ長の瞳にいっぱいの涙を溜めて、本永が口をへの字にしていた。
「俺が外様の事でいっぱいだった間に、また何か背負ってたんだな。ウィルスの宿主? 夜叉と誓約? だから『さようなら』なんて握手したんだな。八重樫…わかるよ。決めたんだろ? 踏み出したいんだろ? 納戸の中で初めて聞いた時は『八重樫の無謀な暴走を止めよう』と思った。でも、想像を絶する八重樫の人生を聞いていたら、思い直したんだ。せめて俺くらいは無条件で肯定してやろうって。八重樫が重荷とわかっていながら夜叉の願いを叶えたいと思うのなら、それを重荷じゃないようにフォローするのが俺の役割じゃないのかって。外様のために出来る事はもう俺にはあまりないみたいだ。でもお前のためにはまだまだいっぱいありそうだ。と言うか、間抜けな八重樫には俺の頭脳が必要だ。お前が蒼くなろうとイグアナになろうと、俺が支えてやる」
「え、英語教えて?」こんな時に冗談が口を衝いて出たのには自分でも驚いた。
本永はちょっと不意を突かれた顔をしたけど、「おお。そうさ、英語教えて、だ」ニヤリと応じた。
パタン、とドアの音がした。霞とサニの姿がない。慌てて瑞生が膝立ちすると、夜叉が「帰るって。サニが送っていった」と教えてくれた。
本永はゆっくり立ち上がると、夜叉の正面に移動した。
「質問いいですか?」
「パンクは立ち直りが早いな。いいぞ」夜叉は口とは裏腹に大儀そうにソファの上で体の角度をずらした。
「八重樫を話し相手に望んだ時から、ウィルスをバトンタッチするつもりだったんですか? そもそも帰国したのがそのためだったんですか?」
夜叉の蒼い光が強くなった。「いや。そんなつもりはない。帰国に関して俺に選択権はなかった。瑞生を話し相手にと言ったのは、窓の下でこいつが叫んだからだ。『生きているのが辛い』『何か、違う物になりたかった…』って。心の叫びというのか、俺にしか聞こえなかったらしいからな。俺は興味を持った。わざわざ人が避けて通る俺の家に来て、俺宛てではなく、救いを求めるなんてどんな奴なんだろう、とな。俺はサニから一度だってウィルスを委ねる相手を探せと言われたことはない。この村に来てから、音楽以外の事を色々考えてたら思い着いたアイディアなんだ。このウィルスの活かし方はわからないが、この日本で乳酸菌飲料みたいに“日本株”として残していく意味はあるのじゃないかと。白人主導で世界が回るのはもうすぐ終わるのかもしれない。人口比率ではスパニッシュやアフリカンやチャイニーズ…つまり有色人種が多数派なんだから。でも覇権交代の際に揉めない訳がない。その時、このウィルスはワンチャンス与えてくれるかもしれないだろ? 災いの林檎になる可能性も捨てきれないが、切り札になる可能性もある」夜叉はふぅと息をついた。
「それで、瑞生だ。個人的に面白い奴じゃないんだが、見てれば見てるほど他人とは思えない何かを感じた。俺は瑞生じゃなかったら頼まなかった。瑞生に断られたらそのまま終わりにするつもりだった。他の人間を募ったりする気はない。サニに言わせると、ウィルスに意思はないはずだけど、人柄と相性が重要らしい。今の世の中で、この日本で、どう受け継ぎどう守るか。これは瑞生自身と、サニを代表とするマカンダル一派と、パンク、お前みたいな友人が背負うことだ。…実は今の今まで瑞生にこれを頼むことに迷いがあった。こいつは家族に恵まれていない。体調面ではサニがいるとしても、メディアは煩いし、ネットでどんな目に遭わされるか、考えるだけで罪悪感に襲われる。警備も永遠に朏や前島が守ってくれるわけじゃなし、テロリストもヤバイが、売名ユーチューバーや身代金目当ての誘拐の方が悪質かもしれない。ともかく宿主でいる期間が長い予定だけに瑞生やパンクの負担は大きい。そこは本当に、申し訳ないと思ってる。俺の残せる金はそのためにも使ってくれ。クマちゃんに法律的に有効なように頼んであるから。お前と話せて本当によかったよ。本永、だったな。瑞生を頼む。お前がいるからこそ、瑞生に託すことが出来る」
サニが戻ってきた。
皆に注視され説明の必要を感じたのだろう。
「話すこともなく送っただけ。僕が思うに、カスミは愛されるというスタンスしか知らないんだ。自宅で弟と愛し合う一番安易な設定から出ようとしなかった。離れたユキオがミズオと苛酷な状況に陥った時こそ、ユキオを本当に愛するチャンスだった。非難されても痛い目に遭っても、ユキオへの愛を貫けば全く変わっていただろうに…」
サニと伯母が何も話さないとは考えにくい。夜叉の入院の日取りを敢えて伝えるよう瑞生に指示したのは、サニだからだ。
本永は同席を申し出たが、夜叉にきっぱりと拒否されてタクシーで帰宅した。
夜が更けるにつれ夜叉の蒼さは増していき、蒼さが毒を含んでいるようにすら思えた。真夜中、瑞生はサニと地下室に降りた。地下室のドアを開けるまで全く聞こえなかったが、既に待機していたロドリゴがジェンベを敲いていた。儀式が始まるのだ。
瑞生はサニが用意してくれた生成りのパジャマ姿で、裸足の足が震えていた。差し出されたグラスに入った透明な液体を飲んだ。水道水だって匂いを持っているのに、無味無臭の正体不明の水だった。
如何にも儀式めいた白いシーツを敷いた台に横たわり、ただ天井を見つめた。
照明の光度が落ちたようだ。薄暗くなりサニたちの姿は見えない。ただジェンベの音がずっと響いている。瑞生の意思とは別に、身体を構成している細胞がリズムに呼応しているのを感じた。
いつの間にか眠っていたようだ。腹の上に重みを感じて、重い瞼を開けた。
夜叉の顔があった。あまりに蒼くて、一言言おうとしたのだが、口が思うように動かず声も出ない。次に目の焦点が合った時、目の前にあったのはイグアナの顔だった。緑ではなく蒼かった。
夜叉?
瑞生は自由にならない身体で真直ぐに上を見ていた。イグアナか夜叉の目から溢れ出るように涙が迸った。瑞生は自分が涙で溺れるのを感じた。人は涙で死ぬこともあるんだ。
夜叉は人前で泣いたことがないと言っていた…。人が生涯で流す涙には総量が決まっているのだとも。この時のために取っておいたのかな…。




