2015年6月26日② サニ
瑞生が夜叉邸に戻ったのは、夜叉通信が終わってからだった。
「初めて見逃した…」これだけ近くにいながら、夜叉の生の声と顔、表情を見逃した事が、思いの外悔やまれた。
だが、思わぬ幸せが待っていた。重い足取りで2階に上がると、面会室で夜叉とキリノが待っていてくれたのだ。
「よぉ、瑞生。ヘルパーのオバチャンがやってくれたんだって?」
夜叉はいつもの口調で、びっくりするほど小さな声で、ほとんど囁き声で、話しかけてきた。
「家宅捜索だって?」
「うん」
「お前はここに居ていいのか?」
「うん。伯母さんが立ち会ってる。伯父さんが遠隔操作で色々な証拠を消去しちゃう可能性があるから、急いでやるんだって」
キリノが「当の伯父さんは病院なんだろう? 猛り狂って帰ってくるのじゃないか?」と怪訝そうに聞いた。「車で5分なんだし」
「うん…」
先程朏に送られて夜叉邸に戻る前に、僅かだが前島と話す機会があって、宗太郎が病院内で行方不明になっていると告げられたのだ。
「病院内で? 神隠しに? あり得ないだろ」夜叉は笑い飛ばした。
「“策略家”なら意図あっての潜伏だろう。警察は監視カメラ映像で院外に出ていない事は確認しているよな?」キリノは冷静だ。
サニがドアからひょっこりと顔を出した。
「サニ! 伯父さんが行方不明なの知ってる? 病院で何か企んでいるのかもしれないよ。いいの? 留守にしてきちゃって」瑞生は堰を切ったように話した。
サニは瑞生の肩に優しく触れると、夜叉たちのいる奥へと入っていった。
「大丈夫。ソウタロウがどこにいるか把握している。安全で、恐ろしくて、警察の手の及ばない所。だから心配要らない」
サニはそれ以上話す気が無いようなので、瑞生も突っ込めなかった。
「それよりミズオ、今日から3日ここに泊まる用意はしてきた?」
「え?『土日を開けておく』ってそういう意味だとは思わなかった」と言いつつ学校の心配はしていなかった。土曜日は選択科目と総合授業で、明日は外様が登校するからホームルームになっているのだ。むしろ、伯母に伝わっていない事の方が忌々しく思われた。「伯母さんにLINEで伝えるだけって良くないよね」
「カスミには伝えておいたから、大丈夫」
「え? サニと伯母さんいつ話したの?」ここで微妙な感じになって以降は、曽我さんが押しかけてきて怒涛の展開だったから、伯母と今夜の予定など話題にしようもなかった。
サニはふ~んと妙な音を漏らして鼻の下を掻いた。「カスミが僕のオフィスを訪ねてきたんだ」
「おお? 旦那が悪巧みを進行中に別居中の妻はキューバ人医師と密会か。いいねぇ、複雑で」夜叉がおチャラけるも、小声過ぎて誰も反応出来なかった。
「それは…サニの伝言を伝えたせい?」瑞生が真顔で訊くと、サニは目で肯定した。
「じゃ、行くか」
夜叉の一言で、3人は立ち上がった。サニが慎重に夜叉を抱き上げゆっくりと歩き出したので、瑞生も慌てて後を追った。
一行は階段を降りて1階に、更に地下へと降りていく。
「僕、初めてだ」と言う瑞生に、前を歩くキリノも「俺もだ」と頷いた。階段の突き当りには分厚いドアが宇宙船のハッチのようにデンと待ち構えていた。
「これがさ、失敗だったんだ。まさか自分が指紋のあやふやな生き物になるとは思ってなかったから」こう言うと、サニに抱かれたまま夜叉はドアの真ん中にある指紋センサーにそっと左手を当てた。
「サニの指摘で、まだ指が全部あるうちに大急ぎでこの2本だけに登録し直したんだ」電子音を立ててロックが解除された。夜叉は瑞生に左手の中指と薬指を示して見せた。
キリノがドアについている他の認証センサーを指して、「虹彩認証もあるようだが、どうしたんだ?」と聞いた。
「ああ、その時結膜炎で登録しなかったんだ。お蔭でドアが開いた。俺ってやっぱり“持ってる”だろ?」
「まぁなんとでも言えるな。暗証コードは?」
「凝っても絶対忘れるから、ロックロックだよ。ロックバンドの常識だろ」
「初めて聞いたぞ。もしそうならバンドマンの預貯金根こそぎ盗られても不思議ないな」お金に何の執着もなさそうなキリノが薄く笑う。この会話は、瑞生にドアの開け方を伝授しているのだと思えた。
「“地下室”っぽくないね」瑞生は正直な感想を口にした。
柔らかな照明に地下空間が隅まで照らされて、そこは明るかった。剥き出しの地層などなく、完全にクリーンでどこか病院ぽく、夜叉ぽくない空間だった。
「お前の地下室のイメージって何だ? 拷問部屋か?」と夜叉。
「ここかぁ、お前の言ってた“宝物”って」キリノが左側にあるドアに向かう。一緒に行こうとする夜叉をサニが慌てて止めた。「ヤシャ、雑菌、ダメ」
溜息をついて夜叉はハッチ付近に立ち尽くす瑞生の方に戻ってきた。
「俺のお宝なのに、眺めることも出来ないとはな」
困った瑞生が見回すと、夜叉のためのソファベッドと何台もの空気清浄機がある。もう夜叉はそこに座っていた。白い布の掛けられた調度品もあった。
「前の持ち主はここをワインセラーとコレクションと称するガラクタ置き場とまぁちょい悪を堪能する隠し部屋みたいにしていた。俺はワインに凝る方じゃなかったから、レコードの保存部屋に作り替えたんだ。温湿度管理装置があったから。だからあっち半分は廃盤の宝庫だ。でもサニ的には除菌が完璧じゃないんだと」
キリノがホクホク顔で戻ってきた。「いいの集めてるな。懐かしいのばかりだ。スピーカーもいい」
その顔を見て夜叉は、愛しい者を見る慈愛に溢れた表情になった。
久しぶりに見る、夜叉の人間らしい表情。蒼に浸食されていることに慣れてしまっていたけど、本来の夜叉はこういう色んな表情と肉体を持つ普通の人間だったんだ。ゾンビーウィルスのお蔭でかろうじて生きてるから仕方がないけど、やっぱりウィルスの力が強くて“本来の夜叉”ではなくなっていると、今更ながらに気づかされた。
「キリノにやる」子供のような言い方だった。
おそらく夜叉が靖史朗で、キリノが桐野だった頃の会話そのままなのだろう。
夜叉はそっぽを向いている。キリノは何も言わずに蒼い顔を覗き込んだ。
瑞生とサニは黙ったまま動かなかった。2人の神聖な時間を邪魔したくなかったのだ。
驚いたことに何をするでもなくそれだけで、地下室を後にした。帰りがけ、キリノと瑞生の指紋登録もした。「最大5名分登録できるんだ。前の持ち主は夫婦とそれぞれの愛人も登録してたらしい。おおらかなセキュリティだよな」
夜叉とキリノをそれぞれの部屋に送り届けてから、サニと瑞生は面会室に戻った。スマホを見ると、午後7時過ぎ。伯母からLINEで『家の中の相違点を検証しているので、帰宅時間が読めません。あなたがそちらにお世話になると決まっていてちょうどよかった気がします』ときていた。サニの言う通り外泊の件が事前に伝わっていたとわかり、ほっとした。
2人でガンタの店から届いたカレーを食べた。サニは、カレー皿の中でメープルシロップと蜂蜜と砂糖を掛け分けて食べる余裕を見せていた。
「泊まるからには理由があるのでしょう? あの地下室で何かやるのかと思ってた」瑞生は背が伸びるようにと念じながら牛乳を飲み干した。
サニは上品にナプキンで口元を拭い、瑞生に向き直った。
「とても大事な事を話したい。話をする場所は選ばないと」
サニはタブレットに地図を出して見せた。「これはカリブ海、この辺りが大アンティル諸島。ミズオはどこがキューバかわかる? そう。学習したね。ではすぐ南東のこの島・イスパニョーラ島のここ、何という国か知っている?」
首を横に振ると、「ここは日本語ではハイチ。現地では『アイティ』と発音するハイチ共和国だ」と教えてくれた。
「歴史の授業で、スペインやポルトガルなどのヨーロッパの強国が世界に進出していった大航海時代の事、習った? 1492年コロンブスがこのイスパニョーラ島を“発見”した時、そこには紀元前に移住していたタイノ人(アラワク人とも言う)が住んでいた。つまりタイノ人の国だったわけだ。ヨーロッパに比べたら遙かに見劣りする文化しか持っていなかったとしても。それから僅か四半世紀の間にタイノ人は入植したスペイン人のために絶滅させられた」
「絶滅? 動物じゃなくて人が人を?」瑞生が驚いて口を挿むと、サニは手で制した。
「そう、スペイン人が持ち込んだ疫病と苛酷な労働でね。労働力を失った強国は西アフリカに住んでいる黒人を大量に拉致・連行し、ハイチだけでなくカリブ海諸国で働かせた。黒人奴隷だ。イスパニョーラ島の西側は徐々にフランス支配となり、黒人奴隷の酷使の上にサトウキビ・コーヒー農園は大成功を収めた」
「やがて18世紀、マカンダルの話を覚えているね? マカンダルがマルーン(逃亡奴隷)を指揮して白人支配に抵抗したのは1751年だ。それ以降何度も黒人は蜂起し自由のために闘い、ついに1804年独立を宣言した。しかし世界初の黒人による共和国・ラテンアメリカ最初の独立国はどの国からも独立を承認されず、奴隷蜂起の連鎖を恐れた支配国から冷遇され、いばらの道を歩むしかなかった。独立と引き換えに負ったフランスへの莫大な賠償金のため、経済は困窮、政治は混迷した」
「内戦・大統領交代・クーデター、大国の干渉、ハイチは混乱し続けた。20世紀前半にはアメリカ軍が30年に及び軍政を敷いた。アメリカは映画を使い、ゾンビやブードゥー教を貶め、ハイチのイメージダウンを図った。その後、選挙で選ばれた人民の信任厚い医師が大統領になった。ところがこの男は突如独裁者に変貌し、ブードゥー教を利用、自ら『バロン・サムディ(土曜男爵)』と名乗り扮装し、ブードゥーの呪術を恐怖の背景に用い、秘密警察を操り恐怖政治を行った。ハイチ=ブードゥー=ゾンビというイメージが定着したのにはこういった理由がある」
「繰り返される軍事政権の圧政とクーデターに、国連もハイチ安定化ミッションを設立した。そして2010年にマグニチュード7.0の大地震が起きた。首都ポルトープランスは壊滅的被害を受け、死者は31万6千人にも及んだ。しかもコレラも大流行した。世界中の不幸がハイチに集まって来たかのようだった」
「当時はハリケーンがもたらした洪水で衛生状態が悪化したためコレラが蔓延したと言われた。だが、島国ハイチにはこれまでコレラ菌はいないと考えられていた。しかも流行はPKO部隊の宿営地付近から始まっていた。2011年、調査の結果ネパールから派遣された平和維持軍がコレラの発生源と指摘されたんだ。でも国連は2015年になった今でも平和維持軍の免責特権を掲げて非を認めていない」
サニは少し昂ぶった神経を休めるようにお茶を飲んだ。
「何故キューバではなく隣の国の悲劇について延々と語るのか、不思議だよね。もうすぐ核心に辿り着くから」
「ハイチは万年政情不安定のために、建築基準は守られずインフラ整備は後手で災害への備えなどなかった。それが被害を拡大した最大原因だ。大統領府はぺしゃんこで政府機能は麻痺、諸外国の助けが必要だったのも確かだ。それでも、コレラで1万人の死者が出る必然などはなかったはずだ」
「ミズオ、初めて知った国の話で感想を求められても困るかもしれない。でも、おかしいと思わないか? 瓦礫の山を漁って飢えを凌いでいる彼らは、本来そこに住んでいるはずのない人たちなんだよ? 魚を獲るように人を捕らえて、窓一つない奴隷船の船底に詰め込み、自分たちの富のために過酷な労働を強いた。解放を求めた者は虐殺した。独立した国の安定を妨害し、東西冷戦の駒にした。徹底的に差別し文化を嘲笑のネタにした。…これは人が人にして許される事なのか? もし人を人たらしめるものが良心なのだとしたら、大国は真っ先に、あらゆる人的経済的支援をして罪滅ぼしをするべきだったのじゃないか? 彼らの何がいけなかったんだ。黒人だから? 文明の発達が遅かったから? アフリカに住んでいたから? 異質な者への非寛容。最下層による弱者差別。宗教的優越感。様々な分析がなされた。でも僕にはわからない。ミズオ、僕にはわからないんだ。…でも、こう思う。過去の真実は推測しかできないし、過去は変えられない。僕に言えるのはこれからどうするかだ。『もう、同じようにはさせない』とね」
瑞生はサニがどういうつもりで話しているのか、相変わらずわからなかった。だから黙っていた。
「アメリカやヨーロッパの人たちが、ハイチやブードゥーを蔑む簡単な材料がゾンビだった。今ではゾンビ映画は多様でかつ大量生産されている。ゾンビはヴァンパイアやエイリアン同様むしろ愛されている。でも以前は、呪術で墓場から抜け出してきた“腐った死体”と恐れられた。死者がもう2度と奴隷のように使役されることのないよう埋葬時手足を縛る一部地域の風習や、世俗的なまじないや占い・呪いを、奴隷を酷使した側がおどろおどろしく取り上げた。『何か未開の非衛生的な蛮習を未だに日常にしている民族』、先進国の人たちはそう思っていただろう。政治的には故意に、民意的には『面倒くさいからそう言う事にしておこう』というハイチ像。直接ではないけどコレラの流行事件にも反映されていたのじゃないかと僕は思う」
「ゾンビの話に戻ろう。今では真面目に研究もされている。ハイチでは、知的障害のある人を外見が親族に似ているというだけで、『死者が蘇った』と考え、自宅に連れ帰ってしまうからという説がもっとも説得力がある。実際、自宅に戻った時点で『蘇った』と言われるが、『蘇り』を目撃したケースはない。DNA鑑定でも赤の他人と判明している。ブードゥーではゾンビパウダーなる秘薬を用いて、人をゾンビにすると言われてきた。これも河豚の毒、テトロドトキシンを含むと言われたが、検証し直すとごく微量で、元々の産地のアフリカにはいない種の物で、人に振りかけて効果が期待できるような代物ではなかった。だから、人々の言うような“ゾンビ”というものは、おそらくクリーチャー(創造物)なんだ」
「映画のゾンビと夜叉たちが全く違うわけだね」
サニは頷いた。「僕はウィルスは宿主の死の兆候を察知し、完全に死ぬ前に活動し始めると考えている。そうでないと生前の状態に戻せないと思うんだ。他方、完全な死を迎えてからじゃないとウィルスは活動できないのではないか、と考える人もいる」
サニはさっきの地図を示した。ハイチのあるイスパニョーラ島とキューバの東端はウィンドワード海峡で隔てられているが、ごく近いように見える。
「この海峡を渡って、“マカンダルの息子たち”はキューバに入ってきたと僕たちは考えている」
「え?」
「偶然かもしれない。だが、必死の脱出行だったかもしれない」
「何故そう思うの?」
サニは天井を仰いだ。珍しく口をへの字に曲げている。
「ハイチでは生き延びられないから。折角生きて辿り着いたのに、こう災害と無秩序に晒されては宿主がいつ死ぬか偶発的要素が多すぎて、兆候すらも掴めないから。…残念ながら僕の推測だ。相手が口をきいてくれたわけではないから」と肩を竦めた。
「ハイチ語がわからないから?」
サニが微笑んだ。「ミズオ、違うよ。“マカンダルの息子”はイグアナだよ」
瑞生は右手でテーブルを打った。「緑の?マカンダルの化身ってそういう意味だったのかぁ。僕はてっきりサニの事だと思ってた」
サニが一瞬呼吸を止めたのがわかったので、瑞生は続けた。
「サニがマカンダルの息子で、緑のイグアナを飼っているのだと思ってたんだ。イグアナを操って夜叉に感染させたのかなって」
「そう、そうだよ。君は勘がいい」
瑞生は改めてサニを見つめた。サニの身体には瑞生の知らない神秘的なざわめきが詰まっているようだった。
「以前にも説明したかな。キューバにおけるブードゥーをサンテリアと言い、それは経典や寺院を持たない世俗的な生活密着型の信仰なのだと。だからサンテリアの連絡網や上下関係、総本山のようなものはない。地図のここ、ハイチから一番近いキューバの街はバラコアという緑豊かな古い街だ。バラコアの近くにアレハンドロ・デ・フンボルト国立公園がある。世界自然遺産に登録された動植物の固有種の多様性を誇るキューバ屈指の公園だ。ここで変わったイグアナが噂になった。『見た目は普通のイグアナだが、見える者には特別に見えるらしい』と言うもので、司祭から司祭へと伝わってきた話なんだ。僕はハバナ出身で島の南東部には行ったこともないのにイグアナの夢を毎晩見ていた。しかもオルーラの見せる夢はどうもそのイグアナを救うよう伝えていた。僕は夢の話を父に打ち明けた。そこで、初めて司祭の間で広まっていた噂と夢が繋がったんだ」
「障害がたくさんあった。日本人には想像もつかないかもしれないけれど、キューバでは国内移動が自由に出来ないんだ。気楽に国内旅行なんてないんだよ。ハバナ州から出てバラコアまで行く、役人が納得するような理由を作らなくてはいけなかった。しかも当時僕は医学部に通う学生で、うちは誰も車を持っていなかった。よくキューバの写真に出ているクラシックカーなんて国外の親族から送金してもらえる者でなければ買えやしないんだ。しかも修理して修理して無理矢理動かしている状態だ。国立公園から動物を持ち出すなんて違法だし、結構大きくて重い生き物だから、車も協力者も必要だ。父は考えた挙句、アバクアの友人に頼った。アバクアと言うのはキューバの自由黒人の秘密結社だ。主にハバナなどの港湾労働者の成人男子で構成されていて、革命後の今も各地に存在しているんだ。アバクアのコネで役人に賄賂を渡して見逃してもらった。所属がバラバラなメンバーが皆病欠で仕事を休み、おんぼろピックアップトラックでひたすら南へと向かった」
「広大な公園内で1匹のイグアナを見つけるなんて不可能に近いのに、僕にはそのイグアナと出遭う自信があった。当然のようにイグアナは僕の元にやって来た。それが“マカンダルの息子”だ。僕もセットにして“息子たち”ということもある」
「最初はそのイグアナのどこが特別なのかわからなかった。僕の下宿には置けないので、父のアパートメントで飼っていたのだけど、目を離した隙に野犬に襲われたんだ。イグアナと犬は絡み合って闘ってたのを引き離されたが、幸い軽症だった。父たちは必死に犬を探した。あのイグアナを噛んでいるからね。しかし保護する意図を理解できない犬は逃げ回り車にはねられてしまった。犬の死骸を調べた方がいいと、僕が呼ばれた。解剖の準備をしていた時、犬が蘇った。蒼白い光を放ち、よろよろと立ち上がった。仮死状態だったわけではないのは、飛び出した内臓が証明していた。僕は犬の涎を採取した。内臓が機能しないので犬は数分で死に、もう蘇らなかった」
「じゃ、サニはウィルスを持っているの?」
「いや、ガレージで涎を顕微鏡で見ただけだ。凍らせて大学に持ち帰ったけれど保存できなかった。今でこそ“ゾンビーウィルス”という名前があるけど当時はそういう意識も準備もなかったからね。ただ、未知のウィルスがイグアナの体内にいて、それが蘇り現象を起こすという仮説を僕は持った…」
サニは苦しげに息を吐き出した。初めて見る表情を浮かべている。
「ミズオ…、君に軽蔑されるのは辛い。だが、君には僕を軽蔑する自由がある。これから話すのは、贖罪すべき過去だ」
「キューバはまだネット環境が整っていない。国内の蘇り事例はほとんど報告されないから、僕は大学のパソコンで近年に絞って海外の事例を収集した。何故キューバの事例がないかと言うと、やはり国は蘇りが意図的に出来るならばその方法を入手し独占したいわけだ。だからその手の情報には密告を推奨している。キューバはファミリードクター制で各地区に配置された医師が地域住民の健康管理をしている。好きに医師を選ぶことは出来ない。医師は迂闊に蘇りを報告すると、その家族の健康管理データの全てを厚生省に提出しなきゃならない。データ管理が杜撰だったり、感染把握が出来ていなければ、役人の厳しい目に晒される。そのためゾンビ化の報告は闇に葬られてしまっている」
「そこでサンテリア司祭にきたお浄めのまじない依頼が有力な情報源になった。ファミリードクターも家族も“感染”を疑い、お浄めやまじないを必要とするからね。でも内外問わず、イグアナの関与は確認できなかった」
「僕は見知らぬ男が大学の研究棟から飛び降りる夢を何度も見るようになった。そこで構内を捜し歩いて男を見つけた。彼は研究棟の清掃員で、マスターコースの女学生に恋をし悩んでいた。僕はイグアナをケージに入れて傍に置き、悩み相談に乗った。清掃員はイグアナをケージから出して抱いたりした後、僕に告白をけしかけられ、そして予定通り手酷くフラれて飛び降りた。…僕は地上で彼が蘇るのを待った。…僕のウィルスに関する知識はそうやって得たものだ。でも、他は清掃員ほど酷くはない。僕は夢に見た場所にイグアナを連れて散歩に行っただけだから。数日後にその人がバスに轢かれたり、数か月後に痴話喧嘩で刺されて死んだのを見に行っただけ」
サニは長い腕を持て余すように広げた。「何か言う事は?」
瑞生はリアクションに迷った。
「ごめん、サニ。…あんまり反応がでてこない。僕は旅行経験がないからか、自分の知らない場所にいる自分を想像できないんだ。その上サニの話って尋常じゃないから、全然リアルに思えない」
サニはほっと微笑んだ。「僕もフンボルト公園に行った時と日本に来た時だけなんだ、旅行は。場所が違うと空気が違うことに驚かされた。ミズオ…、君に是非たくさん旅行を経験してほしいと思うけれど、夜叉から運命を受け継いだらそう自由にいくかどうか。…とても申し訳なく思う。清掃員の時、感情が動かない自分を怖いと思ったが、君の事を考えると心が疼く、痛むよ。…約束する。僕は全力で君を守るし、旅行にも連れて行く」
瑞生は自分が笑っているのに気付いて、驚いて笑うのを止めた。
「何故笑ったんだろう? …僕の人生って主体的じゃなかった。母も学校のいじめも父の愛も、転校、伯母、夜叉…全部向こうからやって来る事を受け入れるだけ。でも夜叉から運命を引き継ぐことだけは自分で選んだ。僕の唯一の主体的な決定。…その後はいつも通り自分では決められないんだな、と思って。旅行もサニに行かせてもらうんだ…。僕らしいと言えば僕らしいよね」
瑞生はサニの憂いを湛えた瞳を捕らえて言った。
「ねえサニ。僕はどうして夜叉からウィルスを引き継がなくちゃいけないの? そろそろ核心に入ってよ」
「…あのままキューバがキューバのままなら、僕は日本に来ることはなかった。去年2014年、キューバとアメリカは国交回復交渉を本格化した。世代によって受け取り方は違う。家族がキューバを追われアメリカに脱出している者は複雑だ。カストロと共にアメリカから自由を勝ち取ったと言う者は怒っている。単純に生活が向上すると喜ぶ者もいる。多くの者は危惧している、アメリカはまたキューバを踏みつけるに違いないと。いい物は買い叩いて奪い去り、労働力を使い倒し、利益を吸い取るシステムを置いていく。…当然ウィルスも狙われる。これを研究してノーベル賞をもらうのも、創薬に成功し莫大な利益を上げるのも、ともかくキューバではなくアメリカだ。あの国が絡むと結局そうなる。それじゃ、マカンダルの息子が海を渡ってキューバに逃れてきた意味がなくなる。黒人はゾンビで嘲笑われたのに、ゾンビーウィルスを『はいどうぞ』とアメリカに、資本主義に、つまり白人社会に差し出すのか? 何故“ゾンビウィルス”ではなく“ゾンビーウィルス”なのか、知っている? ジェイコブ弟を無駄死にさせたのはワシントン州立病院なんだ。そこの医師とCDCが感染によるゾンビ現象を調査した時に、“ゾンビウィルス”だと映画のゾンビのような悪いイメージになってしまうから、“ゾンビーウィルス”とわざと伸ばして言う事にしたんだ。将来このウィルスから薬を作る可能性があるので悪い印象にならないようにしたとインタビューに答えている。呆れるよ」
強い語気で語るサニは珍しかった。
「サニは白人が嫌いなの? これは白人対黒人の話なの?」
「違う。僕自身は白人に酷い目に遭わされた経験はない。子供の頃ヨーロッパからの観光客にエサをやるようにスナックを与えられたくらいのものだ。それにアメリカにも黒人もいる。資本主義だから悪いのではない。社会主義の弊害は身を持って知っている。僕の話は極端過ぎたね。ミズオには不思議に映るかな。自分ではなく人種として虐げられた歴史に対する怒り、何の自覚もなく先人同様の差別をしてくる人の鈍感さに対する怒り、また繰り返される搾取と屈辱を防げない事への怒り…」
「少しだけど、わかるよ」
「…ありがとう。何故オルーラは夢を見せるのか? 僕とイグアナを結びつけ、ウィルスの特性を知るチャンスを与えた。何故? 誰のためのチャンス? いつか、いずれか、黒人が自分の国で拾った宝物を自分たちの未来のために使うことが出来るのではないか? 『他の誰かに渡さなければ』ね」
「なるほど、もっとわかってきた気がする」
「だが、国交正常化だ。キューバにウィルスを置いておくのは賢明ではない。僕たちはウィルスの分散を考えた。理想では世界中に宿主を作りたかった。だがそう簡単ではない。まず、キューバ人では世界中に散らばるのが難しい。キューバ人だけでなく貧しい者なら皆該当するのが、金のために情報を売る、下手をすると自分を売ってしまう事。ウィルス採取のために殺される可能性があるのに、だ。事故や喧嘩に遭う確率も低い方がいい。やたらと部分ゾンビが出現しても意味がないから。だから宿主のいる環境は治安のいい文教地区が適している。日本は世界でも珍しく国中ほぼ均一に治安の良さと高い生活水準が保たれているので、最適だ。僕の考えでは、今は誰もウィルスを良い方向では使いこなせない。宗教家でも名医でも。別の悲劇か大迷惑を引き起こすだけだ。だから、ウィルスはいつかその時が来るまで、覆い隠されて生き延びなくてはならないんだ」
「日本で…?」
「そう。試す価値はある」
「夜叉を、青山や小中も、ウィルスの運び屋にしたの?」
「…そう」
「じゃ、夜叉たちと同じ飛行機に、他にもウィルスを保有している人が搭乗していたの? だって、一気に死なないとウィルスは働かないのでしょ? 飛行機事故はおあつらえ向きの死体を大量生産できるいいチャンスだものね」
「バロン・サムディみたいに言うね。誓って言うけど、飛行機を衝突させてはいないよ、僕たちは。むしろ犯行声明を出したISがウィルスを狙っていなかったかわからなくて恐ろしい。彼らなら死者の軍団を作りたがるだろう」
「ともかく自分じゃないと言っているんだね。死神は手を汚さないって事?」
瑞生とサニは睨み合った。
「今頃、非難するの」
「何となく。異を唱えないとそのやり方を認めたみたいになるのが気に喰わないんだ」
「…」
「サニの考え方もわからなくはないんだけど。何故日本人なのか、何故夜叉たちだったのかわからない。黒人対白人の争いに黄色人種を巻き込みたいから? それに資本主義と社会主義? 学校の教科書を見たけど、資本主義対社会主義なんて昔の話じゃないか。それで僕? 僕はハイチなんか知らない。それにさ、ずっと引っ掛かってたんだけど、ウィルスって、最初の患者の国の物なの? コレラは最初に感染した人の国が『うちの物だ』って言ったの?」
瑞生はサニを見た。サニは見つめ返してはこない。瑞生の無理解に困惑しているのか、狭量に呆れているのか。
「僕は確かにバロン・サムディ、生と死の神格ゲデの使いだ。ヤオーマに死が迫っている事を知らせ、ゾンビーウィルスに運命を託さないかと持ちかけた。コナカ君に伝えたのは仲間だ。僕に見えていたのは飛行機が事故に遭うことだけだった。だから蘇った3人に付き添って来日し、ヤオーマとコナカ君はそれぞれ想いを果たし、ヤシャもやりたい事をすればいいと思っていた。ところがヤオーマたちは事故の衝撃で体がバラバラになってすぐに死んでしまった。僕は彼らの想いを果たすために必死だった」
「何故、日本人なのかと聞いたね? キューバのテレビでは日本の古い映画をよく放映するんだ。僕は日本語の音に惹きつけられた。だから勉強した。その過程でThe Axeのファンになった。オルーラが見せた夢じゃない。僕が自分で選んだ。君と同じように。大学ではネットで各国の知人ができた。君の言う通り、日本人だけが候補だったわけではない。治安も文化水準も高い北欧、キューバと馴染みのあるカナダ、原住民が追われた歴史のあるオーストラリアの学生にも近づいてみた。…だが民族の闘いには理解を示すけれど、圧倒的に虐げられた黒人の嘆きはわからないようだ。頼み込めば、理解の上でウィルスを冷凍庫で保管してはくれるが、その身に受け入れるなどとは考えられないようだった。そんな中で僕が感じたのは、日本人の持つ共感性だ。文化にも表れている、人の痛みを自分の事のように感じ取る感受性。日本人の自然を感じ取る能力は凄い。それと同じくらい人に対する共感性も凄いと思う。ヨーロッパやアメリカではまず自分をグイグイ出してくる。理解し合えるのは部分だけと割り切っている。日本人の自分を抑えて他人を丸ごと理解しようとする懐の深さは、他民族にはまねできないと思う」
「ちょっと待って、サニ。サニは何をもって日本人に共感性があるなんて言うの?」瑞生は腑に落ちない思いだった。自分に共感性が欠けているのは周知のことだが、日本人にそんな素晴らしい特性があるのなら、もっとこの国は暮らしやすいはずではないか。
「『おしん』『男はつらいよ』『ナウシカ・トトロ』『任侠…』ヤクザは暴力的だけど身内の痛みは放ってはおかない…」
「ああ、サニ、映画やドラマと現実はちょっと…」瑞生はキラキラ目を輝かせて語るサニを見て、胸が痛んだ。
「…そうやって日本をいい人のいる国だと思って、ウィルスを託そうと来たの? 現実の日本人は自分勝手で無責任で金儲けが好きで、外国からの評判を気にするしょうもない国民なんだ…申し訳ないけど」大人気ないと言う言葉も浮かんだが、突っ込んでしまった。
「サニ、夜叉も日本人だし、門根も僕も藁科も日本人だよ? あんまり共感性に優れているとは思わないけど。サニにはどう映っているの?」
サニは目をパチパチした。
「う~ん? 僕は思っていた通りの人たちだと思っているよ? だってヤシャは、僕たちの準備が整って研究できるようになるまでウィルスが安全に居られるように、私財を擲って病院を買ってくれたんだよ」
「…確かに、そうだけど」何か釈然としない。夜叉の場合、確かにキューバの人に心を寄せたのだろうし、貧しく弱い立場の人を踏み躙る金持ちは嫌いだろう。…でも自分の身体を気に喰わない連中に好き勝手にいじくられるのが我慢ならないのも理由の一つだろう。
「カドネだって、態度下品だけど、ヤシャのためにトーキョーとこっち行ったり来たりしてる」
それは門根が、村が退屈過ぎて東京に帰りたいからだよ。それにあれでもThe Axeの心底大ファンでマネージャーなんだから。
「ミズオだって、ウィルスを引き受けてくれるじゃない。これからの人生を犠牲にして」
「僕は…夜叉のためだけだ。サニの仲間の苦しみのためじゃない。がっかりさせて申し訳ないけど。いい方に誤解されているのも心苦しい…。サニ?」
瑞生は驚いて腰を浮かせた。サニが泣いていたのだ。
「…ミズオ、言い訳だ。僕は、僕たちは極悪人だ。ウィルスをアメリカに、白人に、誰にも渡したくなくて君の人生を蹂躙するんだ。日本人の共感性にすがろうとしたんだ。優しくて気の毒な誰かの人生を乗っ取ろうとして来たエイリアンだ。君は僕を非難して当然だ。そして、言いたくはないけど、今ならこの運命から逃げ出すことが出来る。だって、僕たちがすることは酷い事だからね」こう言うとサニは声を上げて泣き出した。
目の前でテーブルに肘をつき肩を震わせ涙にくれる黒人の、針金のような痩身の体躯を瑞生は呆然と見ていた。
『今なら後戻りできる』サニが言ってくれたじゃないか。
それから、どうする?
伯母さんに縋り付いて、『助けてウィルスの宿主にされる!』と言えば、助けてくれるさ。
伯母さんに『止めようとするのは邪魔だ』とまで言ったのに?
仕方ない。事態が事態だ。お前は高校生なのに、人生の楽しみを全て放棄する覚悟が本当に出来ていたのか? 修学旅行も大学生活も女の子とのセックスだって出来ないかもしれないんだぞ! ウィルスの奴隷になるのか?キューバ人のために?黒人の復讐のために? 全然理解できないくせに馬鹿にもほどがあるだろう。
でも、僕は約束した。夜叉に…
考えが浅かったんだよ。いつだって浅はかなんだ。途中で投げ出すことは出来ないんだぞ。お前は自分の能力が低い事を知っているから、“ウィルスの宿主”という“生きてるだけで価値のある存在”に収まろうとしたんだ。それがここに来て、責任の重圧や青春の思い出惜しさに揺らいでいる。
ほら、後に一歩下がれよ。本永や立和名と高校生らしい生活が待ってるぞ。お前が欲してたのは平凡な幸せじゃなかったのか?
足が下がろうとしてアキレス腱に力が入った。
お父さんはどう思うだろう?
瑞生の問いかけに心の瑞生は答えなかった。
「夜叉?」
夜叉は柔らかなランプが灯る部屋の真ん中にポツンと置かれたベッドに横たわっていた。珍しく仰向けで、すぐに瑞生に気付いた。
「どうした、こんな時間に珍しいな。サニは?」
瑞生は泣いているサニを面会室に置き去りにして勝手に来てしまっていたので、説明のしようが無かった。
「夜叉に会いたかったから…」
夜叉が手招きをしたので、瑞生は近寄ってベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
「あの、仰向けでいいの? 背中は…」
「お前は運がいい。たまたまだ」
会いたかっただけで、話がしたかったわけではない。沈黙の中、瑞生は夜叉の顔とシーツの皺を眺めていた。
「心が揺れたのか? 無理ないよな。怖いだろ。『ゾンビになる権利』を手に入れると言えば聞こえはいいが、『どんなに努力していい仕事・いい人生を送っていても、最期はゾンビになって人々の記憶にはそれしか残らない人生』を押し付けられるんだからな。俺も…人に押し付ける主義じゃないんだが。ウィルスがせっかくあの島を出られたのだから、絶やさないように引き継いでもらいたいのも確かなんだ」
瑞生は椅子の背に寄りかかって少しだれた。「僕は…黒人の歴史が理不尽に悲惨なのはわかったけど、サニのしようとしていることがよくわからない」
夜叉の声は小さいけれど、はっきりしていた。そしていつになく優しい響きを持っていた。
「俺もわからなくて考えた。サニの弁で気になるのは強烈な白人に対する被害者意識だ。奴隷の歴史を考えれば已む無きことなのだろうが、ともかく『ウィルスは渡さない』に凝り固まっている。一方、キューバは世界で類を見ない程人種差別がなくて、黒人白人ムラートがそこそこ上手くやってる。むしろあるのは“外国人差別”だ。洗濯機すら配給されるのを待つだけって意味わかるか? 欲しい時に来るのではなく政府の都合で届くんだ。機種も機能も全く選ぶ権利はない。“平等”てのは2人家族にも7人家族にも同じ物を届ける事らしい。“新機能付き”でも“トリセツ”がないからを使いこなせずに皆壊してしまったと聞いたことがある。もぐりの自営業が成り立てば肉の喰える生活になる。奴らにしてみたら『外国人から金をふんだくって当たり前』。無気力でラテン系で明るくてしたたか。サニの希望の無い悲壮感とはずれているんだ」
「それにウィルスってあんなに個人の物と考えるのは変じゃない? インフルエンザウィルスの所有権を主張する人なんていないよ」
「まぁ、ウィルスの希少価値ゆえだろうな。俺にもサニとマカンダルの息子たちが何を考えているのかはわからない。ISのように破壊願望に憑りつかれてはいないと思うし、ウィルスで儲けたり脅迫する気はないようだ。俺が聞いたのは、『ウィルスを地下に潜行させたい』ってことだ」
「潜行? 潜るの?」
「そう、表舞台から姿を消して、地下で脈々と生き続ける。サニは頭がいい。『今は誰もウィルスを正しく使えない』は名言だ」
「僕は…サニは本当にウィルスを隠したいと思っているって感じた」
「うん?」
瑞生の脳裏に、涙に暮れるサニの姿が浮かんでいた。「サニは優しすぎる気がする。僕が気になるのは『国に居られなくなる』お告げの夢を見た話だ。サニはお父さんの提案で医者になった。弟もでしょ。家族で必死に突き進んできたみたいだ。それに、キューバに帰る気はない。もう家族に会えない悲壮感があった。それは…キューバが社会主義国だからだと思っていたけど。誰に追われるのかな? 僕はマカンダルの息子たちからもウィルスを守ろうとしたんだと思うんだ」
「瑞生、お前賢くなったな。俺は嬉しいよ」
「茶化さないでよ、真剣なんだから。サニはオルーラの夢で、ウィルスがキューバにあった場合の悲劇を見てしまったのかもしれないね」
「あいつは夢に縛られてる、それが頑強にウィルスを隠そうとする理由なのかもな」
「…サニは泣いてた。きっととてつもない重荷を背負っているんだよ。僕は、サニが何故ハイチの話をしたのか、ずっと不思議だったんだ。アメリカは昔、ゾンビ話でハイチのイメージダウンを図ったんでしょう?」
「ああ、スパイ映画なら知ってる。あれはゾンビというより、ブードゥー教の呪術師怖いって感じだな。それで?」
「うん、ハイチの画像見た。地震にコレラ、5年経つのに全然復興してないんだね。でも地震はアメリカのせいじゃない。サニみたいに賢明な人が一緒くたに話すのに違和感があった。…それで“アメリカのせい”で何か起こると想像してみたんだ。『ウィルスを体内に持つ人々を特定したアメリカは、秘密裏に人体実験をハイチで試みる。瞬殺して蘇りを促すんだ。発見されても世間はゾンビの国だからと妙に納得しちゃうし、コレラの経験から国連は部隊を送りにくい。そこに人道支援と銘打って緊急医療チームを派遣し、患者を隔離しウィルスを採取するためにあらゆる非道な手段を試みる。死体を焼却しても不自然じゃないし、エボラや未知の感染症にビビる他国に口出しされることもない。チームは堂々とハイチに居座り、感染源としてイグアナ狩りをするかもしれないし、実験を続けるかもしれない』こんな予見があったら、ウィルスを安全な所に隠さなきゃと思うよ」
「お前の友達のパンクなら『頭大丈夫かよ』って言うな」夜叉は少し笑った。「だが、いい線いってるかもな」
「お前が俺の後を継いでゾンビになると知ったら、あいつは本気で怒るな」夜叉はもう笑っていない。「キューバやハイチの件とは別に、俺はこのウィルスのお蔭で本当に救われているんだ。もう一度音楽を創りたかった。キリノに会いたかった。こんな身体だって生きてるし、曲が創れる。今聞かれたら『蘇りサイコー』なんだ。前に否定したし、これからも否定するけど。生きてる間は死は一度きりであるべきだと思うことに変わりはない。でももし本家で生き延びることが不可能なら、このウィルスを日本で密やかに存続させるべきだと思う。瑞生、俺を見て、自分で決めろ。俺は蘇ったThe Axeの夜叉のまま死ぬ」
「夜叉、それは夜叉だから出来る事? 自分を保つのは辛い?」
夜叉は天井を見つめて、つらつら検証しているようだ。
「…記憶がちぐはぐとか、自分が自分じゃないみたいな感覚は無い。だが仮に脳を浸食されていても本人にはわからないだろう。もし身体がずっと長く持てば、脳にウィルスの影響が顕著に出るかもしれない。脳が真っ先に駄目になるケースもあるかもな。“人間”で死ぬためにはそんなに長く保たない方がいいのかもしれない」
「お前の伯父さんなら『なんとか脳だけ活かせないか』と言いそうだな。俺が会った事ない俗物の資産家の事を覚えているとは思わなかったろう?」
瑞生は正直に頷いた。
「俺だって、お前がどんな家庭にいるのか、気にしたよ。それなりに家族に守られて幸せに暮らしてたら…俺の家の前で叫んだりしないがな、そうしたらこんな話持ちかけたりしない。今とは別の意味で、お前は爆発寸前だったんだろう」
瑞生は夜叉のベッドに突っ伏した。ぎゅっと閉じた目の奥に、浮かぶものを掴み取ろうとした。父の生き方、伯父の生き方、夜叉の生き方…。
いつの間にか、瑞生の頭にぽてっとした夜叉の掌が乗っかっていた。「いつか僕が辛くなった時、傍にいてくれるよね?」
「約束したろう、俺はお前の物だ。灰になっても、空気中の塵になってもな」