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ゾンビの顔色  作者: Nemuru-
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2015年6月26日① 悪意

 2015年6月26日



 「なんだよ、言いたい事があるのなら言えばいいだろう」

本永は言い方程イラついてはいない様子だ。

「いや、別に…」本当は一日中、週末の話をしたものかどうか、迷っては思いとどまる、を繰り返していたのだ。

本永に、自分は夜叉の側に行くのだ、と言わないのはアンフェアな気がする。でも週末の移送を漏らすことになるのは困る。本永は口の軽い奴ではないが、学校とはどこに耳があるのか油断ならない場所であるのは確かだから。


 「いよいよ明日だな! 外様が学校に来るの」

少し先を歩く本永のごつい顎が引き締まって、口元がほころんでいるのが見えた。

ああ、本永の笑顔。誰よりも外様の復学を待ち望んでいたものね。いい兆しに水を差したくないから、この話は後にしよう。

「そうだね。楽しみだね」




 「少し話せる?」

夜叉邸に着くなり霞が言った。昨日の狼狽状態から脱し、今日は朝から何か言いたげだったのだが、車中ではThe Axeを聴くしかなく、ずっと待っていたのがこのタイミングだったのだろう。

 面会室で2人きりを確認すると、早速切り出してきた。

「昨日、瑞生が伝えようとしていたことを私ちゃんと聞いていなかったようなの。それで肝心の夜叉の何を受け止めるのかがさっぱりわからなくて。『もう決めた』『止めることは出来ない』と言っていたけれど、それは私が止めようとすると思うからよね?」

伯母にしては早口でまくし立て、瑞生の返答を待っている。

 

 伯母は常日頃冷静で通っている。でも、女が変容する生き物であると瑞生は経験上知っている。用心すべきだ。“冷静”が“激情”に変わる可能性を侮るな。

 「…僕は、何がしたいか、どう生きたいか、思い描く事無く生きてきた。ある意味、母親の望む通り僕の人生は破壊されたと言えるだろうね。僕はお父さんにいつも同じように感じていた。働くのは僕を育てるためであって、自己実現とかやり甲斐とかのためじゃなかった。いつも心ここに非ずで働いていた。僕は貧乏でもいいから、お父さんにはやりたい事をしてほしかった。もっと楽しそうに生きてほしかった。お父さんは僕を愛して大切に育ててくれたけど、僕はお父さんに自分の人生を生きてほしかった。…僕が選んだ生き方をお父さんは分かってくれると思う。伯母さんにもいずれわかって許してもらえると思うんだ。僕は楽な方に流されたのじゃない。困難な方を選んだんだから」


 伯母は唇を噛んだまま聞いていた。

「随分、抽象的な言い方ね。観念的にわかってほしいの? それとも具体的に話せない理由があるの?」


 鋭いな。そう、自分がどうなるのかわからないんだ。それに、可能な限り具体的に伝えた場合、拒絶か激怒を呼びそうな気がするから。

 「私は保護者として、知る権利があるわ。未成年者の契約は保護者の申し立てにより解除できると法律で決まっているのよ」


 「そうくると思ったから、『もう止められない』って言ったんじゃないか。知り合ってまだ3ヶ月だから、伯母さんと分かり合えるとは思わないよ。でも、杓子定規に『保護者だから止める権利がある』なんて言わないでほしい。他人を自分の駒みたいに動かせると思ってる伯父さんみたいなことを言ってほしくない。僕は母とお父さんの関係や顔色を見て生きてきた。僕はようやく自由になったんだ。例えこの選択に将来後悔する時が来ても、それは自分のせいだと胸を張って言える。だから伯母さん、邪魔しないで。あなたがしようとしているのは『止める』じゃない。僕にとっては『邪魔』だ」

 一息に思いの丈を言い立てると、伯母の表情に虚を突かれた。


 霞は怯えていた。


 前島言う所の虐待された子供の闇が出てしまったのだろうか。よく夜叉たちにもブラックと言われたから、自分には人を怯えさせる何かがあるのか。そんなに怖い顔になっていたのかな。


 暫しの沈黙の後、伯母は立ちあがった。が、ふらついた。咄嗟に瑞生が手を差し伸べると、一瞬ビクついたものの、「大丈夫」と手を振った。

 「大丈夫、大丈夫よ。…確かに、存在すら知らなかった伯母さんに、保護者面で云々口出しされたら嫌よね。瑞生は考え悩んだ末に決めたのでしょうから」


 瑞生と霞は立ったまま見つめ合った。少し、ほんの少し、瑞生の方が見下ろすようになっていた。

「ちょっと考えさせてほしい。あなたにとって、私は物わかりのいい伯母さんとしてたまに相談相手になればいいのか。時として苦言を呈する口煩い伯母さんになればいいのか。それは私が選ぶことでしょう? 突然の同居で、本当はどういう関係を作っていくか考える必要があったのに。次々と思いもかけない事が起こるものだから、考える余裕がなかったものね…」

 しみじみと言った後は従来のクールな眼差しで、「夜叉の件だけど、あなたが雪生の話を持ち出したのは、生き方の部分は本音でも、基本詮索されないようにしたかったのよね」と指摘していった。


 一人残された瑞生は、とりあえず英語のテキストを広げた。全く頭に入ってこないアルファベットの羅列を目で追い続ける。

「結局、『言いたいことはわかったけど、認めるとは限らないし、私の立ち位置は私が決めるわ』ってことだよね…?」

考えを声に出したら、少しすっきりして宿題に取り掛かった。伯母らしい。




 「カスミ! 珍しいね、と言うより初めてだね! 君が訊ねてくるなんて」サニは今にも抱きしめそうに両手を広げた。

急ピッチで機器類のチェックを進める病棟内には一般人は入れないので、霞はサニを受け付けに呼び出したのだ。

「ここでは話せないわ。どこか盗聴の心配のない部屋で話しましょう」霞は陶器のような硬い表情で囁いた。

「囁きは素敵だ。何故かわかる? 近づかないと聞こえないからね」サニは顔を近づけてウィンクし、ウィルス解析センター長室を指した。「ここは僕の部屋だから大丈夫。毎日チェックしてる」


 「夜叉と瑞生の契約とは何のこと? あなたなら知っている… と言うよりあなたが絡んでいるのよね?」霞は立ったまま切り出した。

「…」サニは身長差が引き起こす会話の不具合を調整するかのように霞との距離を広げた。そのため、霞にサニの全身が見えるようになった。

 そうなって、サニを改めて見た時、霞は、自分が今まで自分の頭の中で作り上げていたサニというフレンドリーなキューバ人が、全く理解しえない異邦人であることに気づかされた。


 「まだ同じ質問をする?」サニが声だけはフレンドリーに聞く。

霞は敗北感を味わいながら、微かに首を横に振った。

「保護者でも親族でも、15にもなる男の決断に口を出すのは、本人の顔に泥を塗る行為だ。彼は決断した。その結果を全て引き受けるのが決断の代償だ。カスミが彼を大事に思うのなら、彼をずっと支えればいい」


 「それは、瑞生の決断があなたの思う壺だから、あなたが日本に来た目的に叶うからでしょう? 目的が何か知らないけれど、瑞生のためになるとは思えないわ」

「甘いことを言うね。カスミ、キューバから親に疎まれた孤独な少年を救いに来たとでも思うのかい? 身近に居ながら15年間彼を救いもせずにいた自分を、いや、そもそも彼にこんな苦しみに満ちた人生を与えた人が言うセリフではないよね?」

腕組みをして臨戦態勢だった霞は、呼吸を止めた。

 サニはなおも畳み掛ける。「カスミは彼を引き取って罪滅ぼしが出来るとでも思っていたの? 彼をヤエガシソウタロウと言う歪んだ生き物に貢物のように差し出したものだから、クレイジーな反応を引き起こしているじゃないか。言っておくが、ヤシャや僕たちが現われなければ、間違いなくミズオはカスミとユキオとナツミとソウタロウによってスポイルされ、惨めな、自らの選択ではない誰かの人生のツケを払わされ続ける羽目になっていただろう。違うと言えるのか?」


 霞は後ずさって書類整理用のワゴンにぶつかった。

「あなたは何を知っているの? 何故? キューバ人なのに?」

初めてサニが苦い顔になった。「僕は、断片的にだけど、見える。見えてしまう」

「医師とは思えない非科学的な話ね」

「日本でも見えるとは思ってもみなかった。カスミが常にユキオを思い起こし、ミズオもユキオの魂に呼び掛け続けるからか、オルーラには見えてしまった。カスミが見ているもの、ユキオが見たもの、身の毛もよだつような過去の断片が」

サニは言葉を切ると、霞を見つめた。

霞の顔から血の気が引いていった。

 「ミズオの選択に、カスミが口を挿む余地はないと思う。僕は期限を示してカスミにチャンスを提供したつもりだ」サニはゆっくり歩いて開いたままのドアを示した。霞はその横を通り出ていった。


 サニはウィルス解析センター長室の入口で、霞がエレベーター内に姿を消すのを見ていた。救急車の音が近づいてくる。住人の急患が出たようだ。ウィルス解析センターとは夜叉のための専門病棟だ。検問所のような受付を幾つか突破しないと辿り着けないようになっている。サニは従来通りの診察体制を組んでいるAA部門に担ぎ込まれるであろう急患のために、担当医が皮膚科だけでない事を祈った。



 ストレッチャーに揺られながら、患者は落ち着いてこう言った。

「手首を骨折したみたいなんだ。大丈夫、僕は我慢強いから。この前と同じ部屋がいいなぁ」

慣れた外来担当ナースが、「残念でした。オーナーが代わってAAセンターは縮小されるので、外来のベッド数も減ったんですよ。診察・施術の後は多分2階にご案内できると思います。前回は3階でしたっけね」と明るく言う。

 宗太郎は露骨に不機嫌になったが、痛みを装ってその場を取り繕った。


 


 夜叉邸には昨日に引き続いて、突然の訪問者があった。昨日は朏巡査部長であり、屋敷内の警官と連絡を取っての上でだった。今日の訪問者は村の住人が突然やって来たのだから、稀有な事態として警戒度を上げるべき事案だ。しかし、今日の警察官は朏や本部の上司に指示を仰がず報告もせずに、手近な屋敷内の人間に助けを求めた。

 しかし日本語がやっとのロドリゴには説明しきれず、1階の控室Aで朏と電話で話していた瑞生には気づかず、センターから救急車と入れ違いに戻って一息ついたばかりの霞に、対応を仰いだのだ。

 霞はすぐ面会室に行ったが瑞生は見当たらない。スタジオは立ち入り禁止なのでWoods!スタッフを探しに行くわけにもいかないし、困惑しながらもやむなく警察官に促されるまま据え付けられたインタフォンの前に行った。


 :ちょっとぉ、いつまで待たせるの? いるのいないの、どっちなのよ:

 霞の口があんぐりと開いた。夜叉邸のインタフォンに毒づいているのは八重樫家の妻より偉いベテランヘルパー曽我さんだったのだ。

 霞は所定の位置に戻って動こうとしない警察官に、「この人、誰の在宅を確認しに来たの?」と小声で訊いた。警察官は殴り書きのメモを見ながら、「『ヤエガシカスミという人がいるはずだ。その人と話がしたい』と言ってきたんです。夜叉とバンドメンバーとキューバ人と高校生の在不在を答えてはいけない、とマニュアルにあるけど、“カスミ”って明らか女性名だし、他の人について答えていいのか聞いてないからどうにも判断できないんです」と訴えた。

 霞は口元に指を当て考え込んだ。宗太郎の使いだろうか、曽我さんの独断専行だろうか。こちらに用はないのだから、居留守を使って困ることはない。


:いるのよねぇ。だって車があるものねぇ:

舌打ちしたい気持ちだった。これで甘く考えてはいけない事が判明した。例え無視して居留守を使い続けても、車で帰るところを待ち伏せされたら、何にもならないのだ。

冷静になると、霞は面会室に瑞生のバッグが置いてあったのを思い出した。つまり屋敷内にいるのだ。瑞生に『クマキさんのスマホ番号を教えて』と送った。


:出てきなさいよ。出てくるまで車の前で待っているからね:

「自分の考え付く事は相手も考え付くということね」溜息交じりになった。「オバサンの思考回路なんて大体一緒なのかしら」

 「警察官による強制排除を考えつかないのは確かにイマイチだね」と後ろで瑞生が言うと、霞は驚いて振り向いたが、安堵の笑みを見せた。

「でも、曽我さんに好きに話させているなんて、外の警察官は何してるのかな?」瑞生の問いに、座ったまま勤務表を見て「ああ、この時間は民間警備会社だ。レシーバーを渡してあるのに、なんで問い合わせもしてこないんだ?」と今更不審に思う警察官もかなりの低レベルだ。

これは頼りない。ドアを開けさせたら絶対マズイ。

 瑞生は素早く朏に非常事態メールをすると、目の前の残念な警察官を動かすことにした。「え~と高橋…巡査? 外の警備状況はどうなんでしょう? ひょっとすると襲われて倒れているのかもしれません。応援が来るまでここに籠城していれば安全ですが、外が忌々しき状態なら県警本部に報告しないとマズイですよね?」

 高橋巡査は「こちらひさご亭内。QQ警備さん? 屋敷のドア前にずっといる女性に職質願います。応答願います、どうぞ?」とやってみた。応答はない。巡査は慌てて本部に一報を入れた。


 前島が県警本部に発破をかけてくれたんじゃなかったのか? それでこの程度の意識の巡査しかいないなんて、よっぽど人材不足なのか。夜叉が軽い存在なのか…。瑞生は深く息を吸ってゆっくり吐き出した。そして思い切って電話した。


 :昨日の今日で、それは無理な話だな。おそらくそのボンクラな巡査は研修名目で数日交番勤務からそこに派遣されたってだけだ。まあこれからその曽我さんの暴挙をチクってやるから、明日にはマシな巡査部長が行くだろう。しかし、君がこれしきの事で文句を言って来るとは思えないが?:

 かつての宿敵に頼み事をするようなハードルの高さを乗り越えて掛けた電話だったのだが、前島はワンコールで出ると、驚きながらも話を聞いてくれた。

「曽我さんの動きはもちろん嫌だし、警備が軽んじられているのも嫌なんですけど、僕が引っ掛かるのは、これは裏がある陽動作戦なんじゃないかって事なんです。伯父が大人しく病院を諦めるなんて変でしょう? 曽我さんの唐突な動き、それに八重樫家から夜叉邸まで最低でも5人は警備がいるはずなのに素通りなんて、警備会社もボンクラばかりって出来過ぎじゃないですか? それを調べてほしかったんです」

:…面白いな。警備会社もボンクラの可能性? 朏巡査部長はそこにいないのだろうな、君が掛けてくるくらいだから:

 前島は警備会社の名称と代表電話を聞くと、折り返し掛けると言った。朏が使える部下を率いて駆け付けるのには30分は掛かるだろう。そもそも村内の警備本部(ビジターセンターではなく借り上げた家の方)で村中の防犯カメラ映像をリアルタイムでモニタリングしている警察官が朏にも夜叉邸にも何の連絡もしてこないのもおかしい。


 「あの~。外のオバサンどうします? なんて返事しますか?」こちらにいるのはこいつだけなんて。なんと言おうか瑞生が考えていると、霞がすっと前に出た。

「こちらは“世界の夜叉”を守っているのよ。うっかりドアを開けて夜叉が危険な目に遭ったら、あなたが全責任を取らされるでしょうね。オバサンには警察官らしく、『事前に連絡のない訪問は受け付けないので帰りなさい』ときっぱり言ったらいいのよ」


 高橋巡査に促されても曽我さんはドアの前から動かなかった。

これが陽動だからだ。曽我さんには目的があるのではなく、屋敷の注意を惹きつけるという役割だけが与えられているんだ。だから、伯母が出ていく可能性がゼロでも帰らないんだ。



 :瑞生君、そこに行く途中、八重樫家の様子を探ってみた。宗太郎氏は不在のようだ。が、家の中を歩き回っている別の人物がいる。曽我さんを泳がせて八重樫家に戻ってから何が起きるか見ようと思う:朏巡査部長から連絡が入った。思っていた以上に近くまで来てくれていたので、ほっとした。


 :前島だ。そのQQ警備に委託した経緯が明らかになった。いつもの中堅警備会社のシステムがウィルスでダウンして、急遽2日間ピンチヒッターが必要になったらしい。警備員の平均年齢68歳。元警察官もいて怪しい会社ではないが、いかんせんリタイア老人の集まりだ。それに、数ある警備会社の中から白羽の矢が立った理由は元警察大学校校長の推薦文だったのだが、本人に確認すると、推薦文など寄せた覚えはないと言う。他県の事例からコピペしたもののようだ。どうもコンピューターに長けた人間が暗躍しているようだな:

「やっぱり伯父か…」疑っていたのは自分なのだが、いざ宗太郎が暗躍しているとなると、急に喉が渇いてきた。


 朏から続報が入った。:村内の警備本部に行った部下からだ。モニターにはライブ映像ではなく昨日の録画映像が繰り返し流されていた。もちろん操作した者などいないから、外部からのハッキングを疑っている…:

 唇を噛み締め黙り込む伯母を見て、瑞生は急に心許なくなった。こんな時に限ってクマちゃんも門根もいない。伯父が何を企んでいるのかわからないけど、ハッキングで色々仕掛けられると、こちらは後手後手で大混乱だ。



 :瑞生君、警備員を発見した。物陰から警備しているだけに倒れていても目立たなかったんだ。もう1人も他所の家の植え込みに埋没していた。息はあるが今救急車を呼んだ。今の所2名、共通点が…どちらも高齢者で、食べかけの饅頭を持っていた。まだまだ見つかりそうだな:

 「朏さん、前島さんから聞いてると思いますが、警備員はみんな高齢者です。多分伯父の策略で。高齢者で、ピンチヒッターで来たからおやつが出ても不思議に思わない…絶対饅頭の差し入れを断らないと踏んで、薬を盛ったのじゃないですか?」瑞生の声は震えていた。

「酷い…」後ろで霞が呟いた。

:県警本部から応援部隊もゲートに着いたそうだ。僕は戻って八重樫家で待ち伏せすることにしよう。部下が曽我さんに声を掛ける。もうすぐそちらに着くよ:



 瑞生たちが見守る中、インタフォンに向かって腕組みをしている曽我さんが振り向いた。モニター画面にはまだ映りこんでいないが、警察官が離れた位置から声を掛けたのだろう。

 :この家には事前に許可を取らなければ、入ることは出来ませんよ。村の住人の方ですよね? 知らない訳はないんだけどなぁ:

:知ってますよ! 私は住人ですから:

:じゃ、何故帰らないのですか?:

“住人”に喰いついたために墓穴を掘ったな、曽我さん。

:中にいる人に用があるのよ:

:ほう、なんて言う人に? その前にまずあなたのお名前を教えてください。こう長時間粘るとなると余程の用事でしょう? 差支えなければ教えてくださいよ:

:差支えるから帰るわ。私は何の犯罪も犯していないのだから、帰っていいはずよね?:

 曽我さんは2人の警察官にじわりと距離を詰められた間を通り抜け、競歩みたいなスピードで歩きだした。

:あれあれ? 急に帰っちゃうの?:警察官は少し追う仕草を見せただけで追いかけたりはしない。別の警察官が尾行しているのだ。


 「ふぅ~、どうなることかと思った」高橋巡査が大きく息をついた。

それはこっちのセリフだよ。

「まだ、終わっていないわ。曽我さんと家の中で歩き回る第三者の目的がわかるまでは」霞は静かに怒りの炎を燃やしているようだ。

瑞生がふとモニターを見ると、曽我さんに声を掛けた警察官たちがドアやポーチの柱を舐めるように検めている。何か仕掛けていないか調べ安全を確保し、指紋を採取して事件(もうQQ警備の人が倒れているのだから)の証拠を集めているのだろう。


 競歩のスピードの曽我さんはあっという間に八重樫家に着いたようだ。

:驚いたな。さっき窓から歩き回る姿をこの目で見たのに、曽我さんが帰るや否や、その人物は車椅子に飛び乗ったぞ!:


「宗太郎は車椅子に飛び乗るなんて、不可能です。その人は偽物です」霞がきっぱりと言った。

「伯父さんが家にいるように見せかけるのは何故?」と瑞生が聞き終わる前に、「こっそり出掛けたいからだわ。でも宗太郎は車椅子以外では出られない。一つの方法を除いて…」言いながら霞は電話を掛けた。「AAセンターですか? 先ほど救急搬送されたのは八重樫宗太郎ですか? 私家の者なのですが今帰宅したらいないのでもしやと思い…」

霞はスマホを持ったまま頷いた。瑞生が朏に告げる番だった。

「朏さん、伯父はAAセンターに救急車で運ばれています。本当に具合が悪ければ曽我さんが同乗していないはずがない。伯父は病院に目的があって侵入したんです。サニに警告しないと!」



 「駐在している無能警察官を欺くのは屁でもないが、どうやらサイバー犯罪対策課がお出ましのようだ。サイバー空間の作業は中断しておいて、物理的作業を前倒ししておくか…」

いつも通りベッド周りをパソコン要塞にしつらえさせて快適な司令官室を作った宗太郎だったが、看護師がよそよそしい態度なのでやりにくかった。「いつもなら、『お得意様がまた来た』という歓待ムードなのに」

「あいつら、僕の病院になったら真っ先にクビだ。いや、雇っていびり倒してからがいいな」自力で電動車椅子に移る。昨晩の内にこの特注車椅子を病院に持ち込んでおいたのだ。宗太郎は慎重に動きさえすれば、介助無しに日常生活を送ることが出来た。骨を支える筋肉を鍛える意味では積極的に日常動作を行うべきなのだ。曽我の世話焼きは好きなようにやらせているが、自分を車椅子に縛り付ける意図を勘ぐりたくなる。

 宗太郎は指先だけで音もなく車椅子を操って、院内を移動し始めた。



 サニはサーモスキャニングカメラの調整を確認していた。横たわっている夜叉を動かさずに全身の体温を常時記録する装置だ。急激に体温が低下した組織に気づけば、対処できる場合もあるからだ。

 自分にも分らない事はたくさんある。この夜叉のための病院を起ち上げて、結局のところどこに辿り着く船なのか、舵取りがいずれ誰の手に渡るのかわかっていないのだ。異国の地日本に根ずくことが出来るのか。

 オルーラは自分に夢を見せる。見えたものはほとんどが現実のものとなる。或いは正確な過去の記録フィルムみたいなものだったりする。しかし、サンテリアの憑依儀式のように誰それの守護霊に聞くとか、亡くなった娘のアチェが降りてくるとか、自分から求めていく形ではない。突然微睡の中で、明け方の夢で、リアルにそれは訪れるのだ。

 今朝も、好ましからざる人物の夢を見た。あの罪深き目が挽回のチャンスを窺い薄暗いフロアを彷徨う…。


 優れた聴力を持つサニには、エレベーターが停まった時から心の準備をして待ち受けていたようなものだった。




 家の中に入ろうとする曽我光代の後ろから突然、「先ほど夜叉の家にいらした目的についてお話伺えますか?」と刑事が声を掛けた。ドアを閉められないよう手で押さえ靴先を入れ込んでいる。

「中にいる主人の八重樫は障害者なのよ。不法侵入は絶対許さないわ」曽我は凄い剣幕で刑事に喰ってかかった。

 閃いて瑞生が立ち上がった時、霞はドアに向かっていた。高橋巡査に「朏巡査部長か県警の偉い人か私たちが戻るまで決してドアを開けない事。いいわね!」と言い置いて、霞は運転席に飛び乗り、瑞生の右足がまだ車外なのに急発進させた。

 八重樫家手前で瑞生を下ろし、無言で夜叉邸に戻っていく。時計を見ると僅か2分しか経っていない。「曽我さんに対する怒り…なんだろうな」思わず瑞生は呟いた。


 八重樫家玄関の攻防を見ようとじりっと近づくと、覆面車両から朏巡査部長が飛び出してきた。「来てくれてよかった。僕も行くよ」とわかってくれていたので、嬉しくなった。

 瑞生は一息吸って何も知らないように玄関に駆け込んだ。

「曽我さん、こんにちは! 学校の忘れ物を取りに来たんだ。居てくれてよかったぁ」「護衛の警察官であります。失礼します」と言うと、瑞生と朏はドアの足を押し合っている二人の横をすり抜け家の中に入っていった。

「あ?あ、ちょっと! 瑞生さん待って、リビングに入るのは」

曽我さんの声を頼りにリビングに直行した。


 「あなた、誰ですか?」

瑞生と如何にも堅そうな朏の登場に、宗太郎お気に入りのサイドテーブルの上に車椅子から長い足を投げ出していた男は、足を引っ込める間もなく呆然と見つめ返してきた。

 朏が警察手帳を示すと、男はバタバタと車椅子から立ち上がった。朏が大きな声で訊く。「瑞生君、この人は君の伯父さんかい?」

「いいえ、違います。見たこともない知らない人です。あなたここで何をしているのですか?」瑞生も負けじと大声でクサい芝居をした。

 玄関では、「ヘルパーの曽我光代さん? ご主人が在宅という話と違うようですね。その辺、詳しく聞かせてもらいましょうか」と刑事が諭すように言った。




 「失礼、新しくなっているから迷ってしまいました。ここは一般病棟とは違うようですねぇ」宗太郎はきょろきょろしながらサニのウィルス解析センター長室にノックもせずに入ってきた。開院前で基本的に業者が作業しているだけだから、機器の移動に安全なように自動ドアを切って全開にしてあるのだ。


「迷ったのですか? こちらはまだ工事中なので安全とは言えません。途中までご案内しますから、入院病棟に戻る方が賢明です」

サニはゆっくりと振り向いた。一応初対面の2人ではある。

 わざとらしく宗太郎は驚いた。「が、外国の方? それじゃ、ここはひょっとしてゾンビーウィルスの研究室?」

 「そうなりますね」サニは無表情に応対する。宗太郎はサニの執務机の上に紙コップを探した。AA科で『体によい飲料を提供する』前提のため院内には清涼飲料水の自動販売機がほとんどない。工事関係者のたっての希望で臨時に入れた自販機は紙コップ式でコーヒーに砂糖やミルクを増量できるものだった。宗太郎はコップとの距離を目で測った。曽我仕込みの睡眠導入剤を入れるために腕を伸ばして骨折したのでは今後の計画に障るので、この程度の作業は無事にこなしたいのだ。

 宗太郎は監視カメラをちろちろと視線を動かして探した。まだ稼働していないと踏んだ通り、それらしき物や覆い隠す観葉植物の鉢も見当たらない。宗太郎は笑いを押し殺して、シナリオ通りに芝居を始めた。


 「あなたはサニ先生では? 私は八重樫瑞生の伯父の宗太郎です。甥がお世話になって…」

サニは目をぱちくりさせた。「あなたがミズオ君の? それは失礼しました。ではまた骨折で?」

「ええ、手首を捻ってしまって」宗太郎は紙コップから目が離せない素振りだ。

 気づいたサニは「僕は日本の自販機文化、凄いと思います。この病院にあるのはペットボトルのではないですね。おでんの缶詰とかあると楽しいのに。でもまぁカプチーノも飲めるし、挽きたてコーヒーは美味しいですよ。糖質制限をしていますか? ご希望ならば買ってきましょうか?」と気を遣った。

 「そう、ですか? 嬉しいなぁ。本当はこういうの飲んでみたくて仕方がなかったのです。でもお付きが厳しくて…」

小銭を探そうとする宗太郎を制して、サニは大股で研究室を出ていった。白衣のポケットでチャラチャラと硬貨の音をさせて。


 1人残された宗太郎は早速机に近づき、固定した手首を置く膝上のクッションから小さなプラスティック容器を取り出した。中には白っぽい細粒が入っている。慎重に蓋を抜き、中身をサニの紙コップに全て入れた。細粒と一緒に入っていた楊枝で手早く掻き混ぜる。「曽我は気が利くな」独り言を言いつつ、急いで元の位置に戻った。

 コーヒーの残りを飲んだサニは即効で深い眠りに落ちる。頃合を見計らって宗太郎の見舞いに訪れる曽我がダークウェブで契約した便利屋を連れてくる。椅子に崩れ落ちているサニを便利屋が乗ってきた車椅子に乗せ、空き部屋に連れ込み、サニが薬物中毒であるかのような写真を撮る。キューバから密輸入ルートを作るために来日したと思わせるような凝ったつくりに仕上げて、それをネタに強請るのだ。

 サニは派遣された立場で、夜叉の主治医を他国に横取りされるわけにはいかないし、密輸でキューバ政府に恥をかかせる事になれば、社会主義国では一族が強制労働に送られてしまうのだ。宗太郎の言いなりにならざるを得まい。

サニはウィルス解析センター長として、宗太郎の専門科設立に便宜を図り、一区画を提供する。宗太郎にとっては、アンチエイジングも不死のウィルスも大いに興味のある分野で、将来は院内に居住し、研究成果のモニターに名乗りを上げるチャンスを虎視眈々と狙うのにもってこいの環境にしておきたかった。その時に霞が妻だろうと、曽我があの家に住みたがろうと、どうでもいいことだった。




 「君は何のためにこの家に上がっているのか?」刑事の質問に立ち上がるとかなり体躯のいい男は答えない。

「身分証は? 免許証持っているだろう?」

「令状ないんだろう。出す義務はないね」と舐めた口のきき方だ。

 

 キッチンで曽我さんに質問するのは朏だ。「あの男を不法侵入で訴えますか? 勝手に入り込んでいたのなら緊急逮捕しますが」

「…いいえ」

「では、曽我さんの許可の下八重樫家にいたことになりますね。どのような用件で招き入れたのですか?」

瑞生は先回りしてキッチン奥の冷蔵庫の陰にいた。聴取を聞いて曽我さんのボロを指摘するためで、朏も同意の上だ。そこからはギリだが、磨かれたオーブンの扉に映る曽我さんの横顔が見えた。朏の追及に曽我さんは眉間に皺を寄せた。

「では、不法侵入です」

「ええ? あの男は勝手に家に入り込んだと言うのですか?」

「はい、許可していません」

「でも、矛盾していますよね。瑞生君と僕があの男を発見した時、あなたは驚いてはいなかったし、今まで一度もあの男を不法侵入とは言わなかった。変ですよね?」

 曽我さんは腕時計を気にしている。宗太郎のデジタル主義のせいで部屋に壁時計がないから、俯いて腕時計を見るかスマホを見るしか方法がないのだ。

 突然曽我さんのポケットでアラームが鳴った。曽我さんの表情が変わる。「あの男を逮捕してください。知り合いでも何でもありません」

「ポケットからスマホを出してください。電話に出るのも掛けるのも、LINEもメールもダメです」朏が有無を言わさずに命ずる。


 一方男を聴取している刑事は中継する仲間の合図を受け、「あのおばさん、あんたを不法侵入だって言ってるぞ。おかしいよな。入村許可申請書には“自分の甥”と書いて、今日ゲートまであんたを迎えに行ったくせにな。『知り合いでも何でもない』だってさ」と同情するような口調になった。

「甥と言っても、姉の子、兄、妹、弟、どんな血縁関係かな? 春山和男、苗字が違うから姉か妹の子かな? 春山さん、正直に話してよ」刑事は諭すように言った。

 

 男は俯いた。

 ダークウェブも有名になりすぎた。犯罪の実行犯を雇う側が素人すぎるのだ。“ハローワーク”が職業紹介するように、犯罪も適材適所、コーディネートする必要がある。世の中には犯罪を犯す能力しかない奴もいるって、綺麗事抜きで認めるべきなんじゃないの。 

 ババアはもうダメだ。黙ってればいいものを、病院に行く時間になったので焦って俺を切り捨てることにしたんだろう。あの2人の計画は反吐が出るものだったが、報酬がバカ高くてつい食指が動いてしまった。しかもババアが個人的な悪だくみを追加して追加料金が半端ないときてた。それも本人のアホさ加減でおじゃんだ。俺はまだ全く犯罪に加担していない。法律を犯していないんだ。


 男がだんまりを決め込んでいると、朏と刑事にそれぞれ緊急連絡が入った。朏の声が聞こえるよう、刑事はリビングのドアを開けた。


 「曽我さん、あなた重大事件を起こしているね? 村内各所にいる警備員に薬物入りの饅頭を差し入れているね? 自治会の設置した防犯カメラの映像はハッキングにより残っていないが、各家庭で取り付けたものにはあなたと警備員のやり取りや、饅頭を食べた後倒れるところがばっちり映っているのを警察官が確認した。手袋をしているあなたを不審に思い証拠の饅頭を提出しようと歩きだしたものの熱中症で緊急搬送された人が意識を回復して証言している。結果は最悪だ。薬物に気づいて吐き出そうとし、吐しゃ物が喉に詰まって1人意識不明に陥っている。混入物がシアン化合物だった人が亡くなった。曽我光代さん、署で詳しく話を聞かせてもらおう」


 脚を組んで貧乏揺すりをしていた男が刑事に言った。

「俺、まだ全く法を犯してないから。あのババアとジジイの悪だくみ全部話すから、その辺汲んでね」


 この声がドアを出る直前の曽我さんの耳に入った。

「ち、犯罪マニアが聞いて呆れるね。お前に遅行性の毒でも飲ませておけばよかったよ!」と凄むと、男は負けじと怒鳴った。「ババアは大人しく睡眠薬でも混ぜときゃよかったんだよ。なにシアンにまで手ぇ出してんだよ。全く怖いったらありゃしないぜ!」

 曽我さんは立ち止まり、目を光らせてこう言った。

「せっかく饅頭を作るならゲームみたいにしたら面白いでしょう? ただの睡眠薬はつまらないからハズレ。致死量の人は当たり。シアン化合物の人は大当たり。大麻入りの人はどうなった? 結果はフィードバックしてくれるの? 毒物を使う醍醐味ってのは人の生死を左右する力を自分に感じる瞬間…」


 朏に促され曽我さんの姿が消えたのを確信してから、男はブルッと震えた。「クレイジーだ。ババアに比べたら俺なんか善人だ。あの2人の計画を聞いた時は、『こいつら犯罪ど素人のカモだ』って思ったんだけどな…」

刑事が肩をポンと叩いた。「…平凡に隠された凶悪と言うのかな。俺も目の当たりにするのは初めてだ。あの婆さんの狂気がどう発揮されようとしたのか、解き明かしたいから全て話してくれ。まず知り合ったきっかけから」

「…ダークウェブの掲示板でさ…」



 突然灯りが消えた。

 宗太郎は曽我の到着を知らせるメールが来ない事にイライラしていた。ふっとコーヒーの香りがした。

「サニ先生?」

「工事のせいで電源が落ちたのでしょうか。困りますね、医療現場で停電は」サニは宗太郎の横を通り、机に紙コップを置いた。すぐに電灯が点いた。

 宗太郎は愕然とした。目の前にコップが2つあるのだ。宗太郎の様子に気づいてサニは頭を掻いた。「いい香りを嗅いだら、淹れたてのを飲みたくなっちゃいまして」と笑う。「大丈夫、冷えたのも後で飲みます。ヤエガシさん、ブラックですよね?」


 想定外の事態に宗太郎は頭を巡らせた。

その時また灯りが消えた。宗太郎は一か八か、頭に入っている薬入りのコップの位置に手を伸ばした。新しいコーヒーに混ぜてもサニのは砂糖とミルクだらけで気づきはしまい。

そろりと伸ばした左手をガシッと掴まれた。長身のサニの大きな手、長い指を感じて、宗太郎は唾を飲んだ。

「サニ先生? 放してください。あまり強く握られると骨が…」

壁も床も白い病院内だからもう少し明るさが保てるはずだろうに、シャッターがあらゆる窓に降りているためか、かなりの暗闇になっている。宗太郎はサニの顔が近くにあるのを感じた。握られている手が誘導されて天井を指しているのがわかる。

「見えますか? 赤い小さなライト。録画中のライトです」


 サニが何を言わんとしているのか、わかった。サニから離れたくても手を無理に捻るわけにはいかない。

「これには、事情が…。わかってくれ、あんたみたいな自由な身体を持っている人間にはわからない…」

「わかる、わからない、どっちだ」

 暗闇から聞こえてくるサニの声に人らしからぬ響きを感じ、宗太郎に恐怖心が芽生えた。耳元で聞こえるサニの息遣いがそれを一層掻きたてる。


 「あなたはやり過ぎた。多くの人の人生にちょっかいを出し過ぎた。違う?」

「何のことか、わからない。手を離せ」宗太郎は自分の声が震えていることにショックを受けた。

 いつの間にか左手は自由になっていた。

「あなたは親・家業・金・頭脳、使えるものは何でも使って、自分の望み通りになるよう、人や物を動かしてきた。『辣腕投資家の出来るまで』…もう親の威光も金も必要ない。自分の金でやりたい放題だ。あなたが倒産に追い込んだ会社の社員はどうしただろう? あなたが投資をエサに“子供の家”から養女をもらうようそそのかした男は、その女の子はその後どうなった?」


 宗太郎はサニの表情を読み取ろうとしたのだが、肌の色が暗闇に溶け込んで判然としなかった。

「ミズオを手に入れるために、どれだけの悪に手を染めた?」

「グモゥ」宗太郎の口から出たのは空気が耳障りに抜けていく音だけだ。天から断罪されるような声に、内心のパニックを気取られまいと焦って口が開いてしまったのだ。

 「しょ、証拠がない」やっと反論した。

「例えば、さっき粉末をコーヒーに入れた瞬間を捉えた映像のような?」サニの口調にはからかうような軽さがあり、人間界に降りたったようだ。

 「何が望みだ。君だってキューバに家族がいるのだろう? 貧しい社会主義国で君からの送金を待っているはずだ。今月はいつもにゼロを2個付けた金額を送ってやればいい。このカメラ映像を私に売ればいいんだ。それに映像だけじゃ…」紙コップのあると思しき辺りに手を伸ばすが何も掴めない。

「証拠保全」とサニ。

「ああ、でも、僕が入れたのは親切に砂糖を足しただけで、君が元々睡眠薬を入れていたと言えるぞ?」


 暗闇の中で噛み殺した笑いとサニの身体の震えが伝わってくる。

宗太郎には見当がつかなかった。余裕の笑いなのか。大金を得る笑いなのか。

「あなたは頭がいい」

 サニに評価されて、宗太郎は自分の真の目的を語れば共感を勝ち取れる勝算があると考えた。

 「先生は真のアンチエイジングとは何だと思う? 皺を伸ばす? ピンピンコロリ? そういう小手先の事では医療大国の名が泣くと思わないか? 真のアンチエイジングとはもっと先端技術の粋であるべきじゃないか?」言葉を切ってサニの反応を待つ。


 「どういう?」

「体が崩れていくのは止められない。僕なんか最初から崩壊してる。僕が何故莫大な遺産を相続させるために体外受精で子供をもうけなかったのか、不思議に思わないか?」

「続けて」

宗太郎は闇に語った。暗闇の中で語っていると、周囲には医療機器しかない事を忘れ、今にも皓皓とスポットライトに照らされ、語ってきた持論に聴衆から賞賛の嵐が沸き起こるかのような高揚感に包まれてきた。

「僕は妻に体外受精を強要しなかった。それは僕みたいに醜い人間が増えるなんてまっぴらごめんだからだ。同じように生きるなら、美しい生き物でありたい。それは人間の共通願望だろう? 海外でやっている“自身の冷凍保存”なんて愚の骨頂だ。今の自分がよほど好きな人間の座興だね」

「…」

「だから、真のアンチエイジングとは、選んだ相手に自分の遺伝子をどう組み込むか、なんだ。カタログで好みの精子と卵子を買っても期待通りの子供が出来るか怪しいものだ。現段階では治療分野先行だからまだ実験の域を出ないものだが。進歩して僕の優れた頭脳や精神力が組み込めれば理想的だ。最終的には記憶の移譲が出来れば完璧なアンチエイジングだ」

「それじゃ、ボディスナッチャーだろう」


 「古い映画だ、アメリカの。リメイクを見たのか? そんな人聞きの悪いことではない。本来の自分がある上に僕の優秀な頭脳とビジネスの経験が得られるのだから、感謝されるべき行為だ。僕の財産を与えられても管理能力がなければ銀行や実業家と名乗るハゲタカの餌食になるだけだからね」


 サニの声は淡々とした普通の人間のそれだ。

「幾つか誤解がある。あなたの遺伝子を組み込んだからと言って優秀になるとは限らない。知能は様々な因子と経験で総合的に獲得していくものだからだ。言語は生まれた時には備わっている能力だが、使えるようになるにはオプションで努力しなくてはならない。それと一緒だ」

宗太郎は闇に向かってポカンと口を開けた。

 「それと、経験は遺伝情報ではないから受け継がれない。経験は個人が積むものだ。あなたの投資家としての経験を受け継がせたければ、マニュアルを作ってプレゼントしなさい。それで学習させるのだね。SF映画の脳移植でもイメージしているのか。『臓器のドナー(移植元の人)の記憶がレシピエント(移植先の人)に移行した』という報告が無いわけではないが、その現象は説明がつかないし、ましてコントロール出来るものではない」

「さらに、あなたと第三者間でのそんな実験を実施する機関などない。自分の臓器移植のために貧しい国の市民から臓器を買うのは先進国で横行している手段だが、第三者に自分の臓器や遺伝子を押し付けようとするなんて、とんでもない行為だ。あなたは僕に薬物を盛ろうとした罪で告発される。今まで他人に及ぼしてきた罪で断罪される。ソガさんを使って高齢の警備員に毒物を摂取させ殺害させた罪…殺人教唆か強要で起訴される。口先と金で他所の医師を騙せないよう、この映像と音声を公開する。あなたにマッドな実験をする機会など永遠に訪れはしない」


 「…」

宗太郎は車椅子を机から離しターンさせ、無言でセンター長室から出た。開け放たれたままのガラスドアの安全シールが光るので暗くても目印になったのだ。

 一旦病室に戻って、この生意気なキューバ人を殺す策を練らねば。僕をやり込めたと自惚れていい気になっているうちに消すんだ。曽我はどうして来ない? さっき警備員を殺害したとか言っていたな。饅頭に入っていた睡眠導入剤でショックでも起こしたか? 老人ばかりの会社にしたのは饅頭に目がなくて休憩を欲するからだったが、予想外に老いぼれが派遣されて来たか。


 真っ暗な通路に非常口への誘導灯だけがぼうっと光っている。

まるで滑走路だ。あいにく滑走しているのは電動車椅子だがな。自嘲気味に笑った。それにしても、あのキューバ人はただの日本オタクの医者じゃない。…何もかも知っているかのような口ぶりだった。日本の警察だって僕の身辺調査をしても何も見つけ出せないというのに。


 一瞬宗太郎の視界に、非常灯で浮かび上がったセキュリティゲートの操作パネルが掠ったが、通り過ぎてしまった。暗いためか、滑走路気分だったためか、スピードが出過ぎていたようだ。

 宗太郎は首を傾げた。サニの執務室を出てから随分来ているが、エレベーターホールに辿り着かない。それにさっきの操作パネル。病室に戻るまでにパスワード入力を求めるようなゲートはないはずだ。改装されているため何を目印にすればいいかわからなかった。逆の方向に来てしまったのか? しかも、この暗闇だ。


 何の前触れもなく電気が戻った。通路に柔らかな照明が満ち、宗太郎は周囲の壁が落ち着いたグリーンであることを知った。明らかに今まで来たことのないエリアだ。後方で、電気が戻ったことにより息を吹き返したセキュリティゲートがゆっくりと閉まる音が聞こえた。


 「どうかしましたか?」

ふいに後ろから声を掛けられて、尻が車椅子から浮く程驚いた。

 相手は顔が見えるように前に回り込んでくれた。

「見かけない顔だ…。停電でゲートが開いた隙に入り込んじゃったのですね? ここは閉鎖病棟だから管理部に開けて貰わない限り出られないんだ。僕の部屋から電話しましょう。こっちです」

 口が歪んでいるがなかなか端正な顔立ちの若者だ。スタッフに遭えてよかった。閉鎖病棟にはかなりの患者がいるはずだが全く気配がないな。停電に驚いて病室に籠っているのなら有り難い。宗太郎は安堵して後に続いた。

 

 「ここは1人1人症状も事情も違うから、他の人と遭遇しないで暮らせるようになっているんです」青年はカードキーでロックを解除し、宗太郎のためにドアを押さえてくれた。ドアにはウッドクラフトが掛かっていて『TATSUYA』とあった。

 室内は観葉植物で溢れていた。青年は椅子をずらして車椅子の落ち着き先を作ってくれた。「何飲みます? 紅茶でいいかな?」

 「ご厚意は有り難いが、先に管理部に電話してくれないか。早く病室に戻りたいので…」

「そんなに急がなくても。時間はたっぷりあるんだから」そういうとTATSUYA青年はダージリンの缶を持って宗太郎に笑いかけた。

「…ええと、名前を訊いてもいいかな?」声が上ずらないよう注意して訊いた。お湯を注ぐ手を止めると、青年はパッと振り向いて嬉しそうに答えた。「本庄達也」

 

 テーブルに2人分のティーセットを置くと、口元を歪ませて嬉しそうに言った。

「それじゃ、聞いてもらおうか。僕が38歳の主婦の口と腕を縫い付けてクローゼットに押し込んだ時の話を」


 宗太郎の脳裏に自分がハッキングで入手したVIP病棟の患者名簿が浮かんだ。強請りの最強の駒と捉えていたのが、自由政権党の元党首、本条一馬の長男・達也だった。大物政治家の長男だし、心神耗弱で刑を免れたとはいえ猟奇的事件を犯した特殊性で抜きんでていたからだ。

 宗太郎の脇を冷や汗が伝った。

「砂糖入れる?」

TATSUYAが朗らかに訊いた。




 「ジジイは今頃AAセンターとかいう病院でブチ切れしてるだろうな。ババアに『時間厳守だ』と念を押してたから。でもさ、ジジイの顔色を窺っているくせにババアはもっと大胆なんだ。センターでキューバ人を嵌める写真撮影をする前に、夜叉邸からこの家の奥さまを誘い出して、俺と不倫してる写真を撮ろうとしてたんだぜ。ジジイの離婚に有利になるようにだと。それが絶世の美女ときてるじゃないか。ババアは写真だけとか言ってたけど、俺は強姦っちゃうつもりだったよ。当たり前だろ? いい女の服を脱がせて写真だけで済ませるわけねぇだろ? ジジイなんか待たせときゃいいんだよ」

村内の警備本部で男は饒舌だった。男の身元が判明してから所轄に連行することになり、とりあえず参考までに話を聞いていた。

 「あのババア、マジにムカついた。『昔は私は忍者張りに何でも1人で出来た。あんたみたいなゴロツキを雇うようなリスクは冒さないで済んだのに。年は取りたくないもんだ』ってよ」

この言葉を朏の横で聞いていたのは警察庁から駆け付けた前島だった。

 警察署に連行された曽我光代は黙秘していた。




 「もう止めてくれ。お願いだ…」

「まだ6回しか話していないじゃない。夜明けまではたっぷりと時間があるから」


 宗太郎は部屋の中に救いを求めた。観葉植物群、住人は真っ黒の服を着ている。ここにはIT機器がない。スマホは右手のコルセットの中で曽我に緊急コードを打っている時に取り上げられてしまった。瞬時に外部の力を動かせるネットの世界と繋がらない限り、宗太郎に一発逆転のチャンスは訪れない。

 本庄達也は暴力的に振舞うわけではない。ただ、同じ話を一字一句寸分たがわぬ口調で繰り返すのだ。宗太郎の表情を食い入るように見つめながら。元々凄惨な事件の話を当事者しかも加害者が語るのだから明らかに異常だ。1回目より2回目、2回目より3回目と、臨場感が増し、ひたひたと恐怖に包まれた。達也は宗太郎にただ真剣に聞く事のみを要求してきた。

 車椅子の上で体は強張り疲労はとっくに限界を超えている。心臓発作でも起きることを心底願ったが、こういう時に限って鼻血一滴落ちやしない。

「それじゃ、聞いてもらおうか」

 7回目の話が始まった。



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