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ゾンビの顔色  作者: Nemuru-
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2015年6月25日

 2015年6月25日



 昨日ほどではないけれど、梅雨間の曇天はむっとくる湿度だ。生まれた工場街とも、早朝散歩で草いきれに取り囲まれるミライ村とも、ここは違う空気と音を持っていた。地面は石畳で、風は潮風、生活の匂いと商業地域の匂いが混ざっている。村のマイナスイオンは悪くないが皆車で出てしまうので朝すら人気がない。隔世の感がある村は15歳の瑞生には馴染めるものではなかった。その点この港町の活気はごった煮の所も含めて、好ましく思えた。


 「渋滞さえなければね」

渋滞を避けるために早めに出ていても、どこかで事故があれば混雑する幹線道路で行かなければならない。車の中で単語帳を見ていると酔うので、ヒアリングや『ボカロで覚える歴史シリーズ』みたいな事しかできない。

 The Axeの音を大きくすると、霞が小声で「離婚には不倫のような婚姻の継続が困難と言える看過しがたい契約違反を相手がしているという理由がいるらしいわ。両方で『相手が嫌いになった』と合意できれば問題ないのだけど。とりあえず、『パスタの件で不安を覚えたので帰宅したくない』と弁護士に相談に行ってきた」と告げた。車の中に盗聴器が仕掛けられているかを従妹と調べて、安全宣言は出たらしい。

「昨日、話したがっていたのはこの事?」と聞くと、伯母は少し嬉しそうに頷いた。



 「おお、八重樫、成果は上々だ」

教室に入るなり、本永から告げられた。皆の注目を一斉に浴びたので、正直ビビった。


 「面白いよ。大人の闘い勃発ってところかな」副委員の坂下がホワイトボードで説明してくれた。

「いい? 学園長の甥・ハンド部の副顧問高田は外様の事故の時いなくてはいけなかったのに、校外に出ていた。顧問の山崎は長年かけてうちのハンド部を県大会準優勝2回にまで育ててきた。山崎は沈黙してきたけど、昨日うちらが囁きだしたら、高田が山崎に責任を押し付けようと画策したので、激怒した。定年まであと3年あるからね、山崎は『優勝も狙えると頑張ってるのに冗談じゃねぇ』って反旗を翻したわけ。『どうせ辞任させられるなら』と、事故当日高田がパチスロやりに抜けてたことを曝露した。学園長としてはハンド部の実績は新入生獲得に欠かせないから山崎を切りたくない。でも次期学園長の甥を庇わない訳にはいかない。さらに、先月学園長の娘が離婚して出戻ったのが絡んでくる。学園長の娘はここの音楽教師だったから、いずれ復職する。そこで甥を嫌う一派が娘を次期学園長にと担ぎ出すこと必至。これで、学園割っての仁義なき戦いになる」坂下は甥派と娘派に分けて教師の名を書いた。


 一目で問題点がわかった。両派閥の真ん中に、榊先生とパンダこと緑川先生の名前がある。

「この2人は無所属。榊はうちの卒業生なのに東大出で、進学校で教えてた所を頼み込まれて戻ってきた変わり種。将来学園を背負って立つと見られてる。それゆえベテラン教師の嫉妬を買いハブられたことがあり、やや周囲におもねる傾向にある。だから学園長には従うけど、コネ採用の甥を蔑んでいる。出戻り娘をどう思っているかはわからない。だから真ん中なの。パンダはどうでもいい」

坂下はボードマーカーで“榊”をグルグル囲みながら、「結局、榊がどっちに着くかで勝敗が決まると皆考えている」

 「ということは…?」瑞生が言葉を探している横から、蒲田が「てことは、俺たちに神風が吹いたってことだよ。榊を自軍に引き入れたくて、榊の抱える外様問題を解決する方向にベテラン教師が動き出すぞ!」と唾を飛ばす。

「でもそれって…」引っ掛かりを口にしていると、本永が「それはパチスロ顧問には矛盾だよな。そいつが居さえすれば色んな意味で外様はこう悪くならなかったはずなんだから。パチスロの件を突っ込まれると困るしな。だからパチスロ派は二の足を踏む。結果榊は速やかに復学に協力を打ち出した娘派に着くだろう」と片付けた。

 

 そして本永のご神託通りになった。午後にはあらゆる階段前に弱視の人にも見えやすいような蛍光色の太いラインが引かれ、手すりの安全確認が行われ、外様が試しに土曜日に登校することに決まった。

 さらに驚いたのは、5限目の音楽の授業で件の学園長娘が教壇に立ったことだ。何故1年C組の授業からにしたのかと問われて、「皆さんの『クラスメイトを復学させてあげたい』という熱意に、私も復職の背中を押してもらった気がしたので」と説明した。

 合唱コンクールの課題曲の練習のために整列しながら東が「結婚生活に敗れて学園長への野望に火が付いたってことだね」と呟くと、佐々木は「外様は運が悪いわけじゃない。この展開は運がいいんだよ、きっと」と自分に言い聞かせるように言った。




 「ミズオ、今日は1人?」

 面会室にポツンといたのはサニだった。レコーディングが佳境らしく、スタジオの方には近づき難いピリピリ感が漂っていた。

「本永は、外様…友達のために校舎の見取り図をもらって家で検討するって帰った」と事実をそのまま伝えた。今まで同様、他人の絡むことに夢中になれない自分に嫌気がさしていた。

本永も、ニューヨークで酷い目に遭う前は陽の光溢れる世界の住人だったんだ。自分みたいに生まれた時から日陰に生きてる人間とは違うさ。

 サニは黙って瑞生を見ている。この時間も運命の導く必然の一つなのだろうか。



 「ハ、ハビエル?」口にしたことのない呼び方なので、声が震えてしまった。サニは、なぁに、とばかりにこちらを向いて次の言葉を待っている。

「本当の呼び名は“マカンダルの息子”なんでしょう?」

サニはアーモンドのような瞳で瑞生を捕らえている。

「…そう呼ぶ人もいる。自分から名乗った名前ではない。もっと親しい人は、僕を“オルーラ”と呼ぶ。僕には大切な名前だ」

「…サニのお父さんが付けたのはどの名前?」

 ここでサニの表情が緩んだ。「前に、父親が息子に名前の由来を伝える話をしたのを覚えているんだね? ミズオ、そう、君に言った通り、父は僕に“ハビエル”という名前をくれた。ヒネメス家の長男に多くつけられる名だ。本当は父は“オルーラ”とつけたかったのだが、身の安全のために戸籍上は“ハビエル”にしたそうだ。サンテリアでは、オロドゥマレという宇宙を司る全知全能の絶対神は、人間には姿が見えないし直接触れ合うことはない。旅や移動を司ったり、結婚や出産を司ったりするオリチャと呼ばれる神霊に、そのオリチャの数字や色をお祀りして人々は祈りを捧げお願い事をする。オルーラのみが絶対神の知ることを人間に伝えることが出来る。司祭は占いでオルーラの知ることを聞き出すから“オルーラの手”と呼ばれるんだ」

「サニは司祭なの?」

「いや」

「サニは何故“オルーラ”と呼ばれているの?」

「イファ占いで告げられたから。僕には…見える力があって…」

「何故医者になったの? 司祭になろうとは思わなかったの?」

「告げられたんだ。別の仕事を持ち、隠れ蓑にしなさいと。僕はいずれ追われる身になる。近いのに遠い同胞の哀しみが聞こえるだろう、と。だから父は必死に考えて、将来国外に脱出できる職業を選んだんだ。キューバは教育費は無償だから、努力さえすればいいから。そして、僕はここにいる」


 「待って、サニ。サニは追われて、逃げて日本に来たの? 誰に追われてるの? 国に? 社会主義国だから?」

サニは穏やかに笑った。「ミズオ、慌てないで。キューバで追われたら出国は難しい。だから追われる前に出国したんだ。弟も来日できたということは、僕の家族はまだ困った立場にはないと思われるね。君に想像できるだろうか、キューバには秘密警察もあるし密告制度もある。テレビは国営放送しかないし、メディアの検閲は凄くて国民は真実を知らされない。…まぁ国家も何を追えばいいのかわかっていないのだろうね」

「…“マカンダルの息子”を追っているの? イグアナは?」

「ミズオ、一気に全てを理解するのは難しい。急ぐと浅くしか捉えられない。君には…芯の部分で感じてほしいんだ」


 「夜叉や青山や小中と出会ったのは偶然? つまり、サニが日本に来たかったから夜叉たちと出会ったのじゃないよね? もしかしてお告げがあったから日本語の勉強をしたの?」

サニの瞳が揺れた。それを見た瑞生の方が動揺した。「オルーラだかマカンダルだかを逃がすために、夜叉たちが死ななきゃならなかったのじゃないよね?」

「それはないよ。ミズオ、旅客機双方で372名の死者が出たんだ。それを謀る程僕たちは狂ってはいない。しばしば宗教集団は狂気に駆られるけどね」

サニのつれない物言いは、クールなんていう甘い表現では表せない。もっと濃密な哀しみと苦悩に満ちた過去が言わせているようだ。


 そのままサニは黙って瑞生を見ている。

瑞生は、夜叉と交わした誓約がサニとの関係も特別なものにするのだと、初めて思い至った。じんわりと恐怖が背中から這い上がってくる。自分は何を誓ってしまったのだろう。


 恐怖心を隠して面会室を見回すうちに、落ち着いてきた。今ではすっかり馴染んだ部屋だ。八重樫家のリビングよりよほどしっくりくる。ここは自分にとって大切な“居場所”になったのだ。

 


 その時夜叉邸のインタフォンが鳴った。予定外の人物が来るのはこの頃では珍しいので、サニと瑞生は2階から様子を窺った。すると、やってきたのは朏巡査部長だった。

 瑞生たちを見ると、ほっとした表情で、「よかった。事件でもないのにメールをするのは憚られて。ちょうど2人に用があったんだ。新林警部補と前島警部もくるよ。ここで落ち合う手筈なんだ」と言う。

「勝手に人の家で待ち合わせするなって夜叉なら言いそう」瑞生の呟きを無視して、「しかも本当に2人しかいないなんて、偶然とは思えないな」と1人で感心している。

 瑞生の疑惑の視線を感じて朏は首を振った。「前島さんに県警本部で声を掛けられて。元々今日は本部勤務の日だったんだ。些細な事だけど君に直接伝えておきたくて帰りに寄っただけだよ」


 10分そこそこで2人はやってきた。人の都合などお構いなしに来ることにしていたのだろう。

「なんだか、胡散臭い」サニが面と向かって2人に言った。


 「心外だな。ヒメネス先生、ロドリゴさんの来日時にはそれなりに気を遣ったつもりだが?」前島がニコリともせずに言う。

「新林警部補、どうしてここに? 服部は逮捕され、ええと、起訴されたのでしょう? もしかして何か問題が?」

 瑞生の言葉に新林は仏頂面で説明しだした。「ネットで小中のあれはその…グロくて悪趣味なCGだと言う者が増えてきた。服部父が便乗して『あれは小中に似せた作り物の頭部で、本物はアジアに逃げて生きている』『あの頭部が小中の物であると証明してみせろ』と騒いでいる」

「ええ? 起訴が嫌だからって、まるで言い掛かりだ。それなら仕方がないから小中の家族の許しを得て、お墓を掘り返すの?」

瑞生の浅はかな思い付きに、大人は誰一人付き合ってくれなかった。

 「杉窪さんが小中を搭乗口まで送り、キューバの税関で出国手続きがなされた。服部父の“小中生存説”は根拠がないんだ」

「首だけになって他人を騙るなんてあり得ないよ。人生最後の告白のチャンスなのに」憤慨して言う瑞生に、前島が「それは一理ある。だが命を賭して他人を騙ることもあり得なくはない」と諭す。


 サニが「シンバヤシさんこそ、コナカ君を聴取していたと聞いた。頭部を確認したとも」と指摘すると、新林が苦悩も顕わに話し出した。

「ああ、俺は生きてる小中と死んだ頭部の小中と両方見ている。俺は小中だと思ったよ。俺が見たのは両親に引き渡す前の冷凍されてる頭部だ。地元に着いて法要を営む際に親族が清めの儀式を行おうとして箱を開けた時…あったのは炭の塊だけで、驚いて掴もうとしたら崩れて煤になって散ってしまったと言うんだ。両親は石見さんの事件の嫌疑もあり、小中の死に様を晒したくなくて、そのまま箱ごと荼毘に付してしまったそうだ。箱を調べることすら叶わない。この件について、先生、ご意見は?」


 そうか、夜叉の指と一緒なんだ。小中の頭部も葬儀前に冷凍の温度が上がってしまい、自然発火したんだ。だから煤になってしまったんだ。正直に言っても信じてもらえるかな?

 瑞生の心配をよそに、サニは1階の控室から自分の鞄を持ってきた。鍵を幾つか開け、全く光を通さない樹脂製のケースを取り出すと、新林に見るよう促した。前島もケースの中が見える位置に移動した。

 「僕は救急車で大学に戻り、頭部を冷凍した。その前に毛髪を採取した。その時の映像付き。それと、スギクボさんから預かった彼の歯ブラシとタオル」

「わかった。実家で採取した物とDNA鑑定にかけよう。おそらく3種類の証拠全てが一致して小中のDNAであることが証明される。助かったよ」新林の声に覇気が戻った。

前島はいつもの調子だ。「それはこういった事態に備えて、採取し持参したという事だね? とてもクレバーだ。手際がいい」

 サニは首を竦めた。「ウィルスについて少しは知識があるからね」


「…ヒネメス先生の深慮のお蔭で、引き際を知らない父性の押しつけを終りに出来る。毎日毎日検察に移動する時間を見計らっては現われ、大声で呼びかけるんだ。賢一が気の毒になってくるよ、ああも父親に盲愛され買い被られると。『お前は出来る。お前は出来る子なんだ』ってずっと言われると、『今の自分じゃダメなんだ』って子供も気づく。大学4年まで付き合ってやった賢一は、自己抑制的…つまり我慢強い人間だったのだと思う。…だから父親から解放されたキューバで、制御できなくなったのかもしれないな」新林は感慨深げに語る。

 

 「そう言えば、高柳美由紀から近況報告がきたよ。記者会見後、当然ながらネットでボコボコ、ワイドショーで叩かれ記者に追い掛けまくられだっただろう? だが、ここにきて少し風向きが変わった。高柳は自分をキューバに誘って嵌めた男の名前を明かさなかった。出会って2日の駆け落ち話みたいなものだから、デート写真もなくて相手の面も素性も不明だ。そこが『潔い』と評価されてきた。高柳は執行猶予でシャバにいる例の事件の加害者に会ってもらうことが出来たそうだ。厳しすぎるコメントが母親を自死に追い込んでしまった事を詫びたそうだ。相手は後輩が彼女を嵌めて、もう十分社会的制裁を受けていると捉えてくれていたそうだ。その上で、嵌めた後輩の素性が割れると、嵌めた理由が例の事件であると知られ、加害者の更生に悪影響を及ぼす事を懸念して、沈黙を貫く覚悟だと言っていた。彼女はすっぽかしと証言拒否とその前のコメントと、社会人として問題行動を重ねてきたのだから、もうコメンテーターとしては再起不能だろう。メディアで発言する事の重さと危うさを理解していなかったのだから当然だ。…だが彼女はすっきりした顔だったよ。本来の研究生活に立ち戻り、色々見つめ直すいい機会にしたいと言っていた。自分が言い出した言葉ではあるけれど、小中の投げかけた”自由”の意味をこの先の人生ずっと考えていくだろう、ともね。風向きが変わったお蔭で、気がかりだった女性学者枠は他の女性に引き継がれたようだしね。まぁ局の方針だから、それは。…俺の用件は無事に済んだよ、前島さん」



 話を振られた前島は、瑞生を見た。

「…伯父さんの? 伯母…わかりにくいな。八重樫宗太郎の?霞の?火浦雪生の?奈津美の?僕の? 誰の楽しくない話をしに来たのですか?」

「そう身構えられると、やりにくいな。新林さんの時みたいにフレンドリーに頼むよ」

瑞生の棘のある言い方にも前島は全く動じない。


 「君の生家は焼失しているから難しいとは思うが、何か親族の写真やアルバムはないかな?」

「アルバム? 母親が愛していない息子の写真を張ったアルバムなんて作ると思う?」虚を突いた“家族ネタ”で傷口に触れられた感覚に嫌味な切り返しをしてしまった。

「…ごめんなさい、ちょっと言い過ぎた。…お父さんがこっそり僕のために作ってくれていた。僕にはとても大切だった。でも、燃えてしまった…」目頭が熱くなるのを抑えた。

「そうか。無遠慮に訊いて、こちらこそすまなかった。…実家の火災から持ち出せた物は無いのだよね」

警察や消防から焼け残った家財をどうぞと言われた覚えはない。父の遺体を守った浴槽くらいなものではなかったか。奇跡的に焼け残った母のキティちゃんのバッグが融けてくっついた代物を持ち帰るか聞かれて、首を横に振ったのだった。


 「その、君が生まれた時の話を聞いたことはあるかな?」先に地雷を踏んでいるので前島はゆっくりと踏み込んできた。 

瑞生の警戒センサーが鳴った。前島は自分の生物学上の父母を解明しようとしているのか? 出生届は父が出しているし、瑞生と野添を結びつけるものなどないと思うが。


 瑞生は再び集中しようとした。神妙に話を聞いているサニと新林と朏が目に入った。

「お母さんは、母子手帳を交付された後、定期検診にも行かず、母親教室にも不参加だった。こちらは病院に残った記録しか調べようがないのだが」

前島が瑞生を傷つけたくて聞いているわけではないことくらい承知している。母は野添の子供を産みたかったわけじゃない。それでも、お父さんは子供が生まれるから結婚してくれたのだから産まない訳にもいかない…。自分が“子供”のあの女が母親教室に行くものか。

「…それで、その病院で出産していないのはわかっている」


 瑞生の中で、記憶の歯車がギギッと動いて噛み合った。

「…母が、『高校を辞めてからずっとこの街から出てない。気が狂いそう。誰もいない海が見たい』と言い出したんだ。それでお父さんと2人で、お祖父ちゃんの車でどこだったかな、寂れた海辺に旅行に出かけたんだ。お祖父ちゃんは止めたんだって言ってた。母は体調が悪くて、それなのにお父さんと2人で出かけるとなったらスーパーハイテンションになってたから、お祖父ちゃんは心配したんだって。案の定その通りになったって」

「いいぞ瑞生君、“その通り”とは?」

自分でもこんな風に記憶を辿る作業は初めてで、思い起こす祖父の話がもたらす新事実に高揚した。

「ええと…具合が悪くなったんだ。浜辺で倒れたとか? う~ん、そこらへんで生まれたのかな? お父さんが病院に運んだって聞いた」

前島が優しげな声を出して、記憶の再生を促しているのがわかる。

「場所はどこかな? 寂しい海というと観光地ではなかったようだね? その場で生まれたとか。救急車で生まれたとかは?」

「…さぁ?」

前島の忍耐も尽きたようだ。収穫なし、という顔をした。

「そりゃそうだよ。望んでない子供を産んだ時の話なんて、するわけないし」思わず言ってしまった。

前島とばっちり目が合った。

ああ、言っちゃった。


 「…」黙るしかなかった。どうしたらいいのか、わからなかったのだ。

「“できちゃった結婚”だと聞いたが…?」前島が慎重に聞いてくる。

「ええと、複雑なんだ。そこ、重要? 言った人間は酔ってたし、偶然聞いた話もあるし。僕には何の選択権もなかったのに、こんなこと話さなきゃいけないの?」

瑞生の瞳に浮かぶ絶望の色を見て、前島は即座に言った。

「いや、…いや、任意だ。これは、無理強いして聞くべきことではない。話さなくていい」


 気まずい空気が面会室を覆い、前島も瑞生も黙ったきりで、場をとりなす門根や森山や、時々気を遣う本永もいないので、面々は空中分解状態だった。



 「あ~、瑞生君とヒネメス先生に伝えておきたいことがあるんだ。済んだら勤務に戻るから、言うね」一番遠慮していた朏巡査部長が立ち上がった。

 朏は上の2人に会釈して話し始めた。

「元自治会長の田沼さんが不審な動きをしているらしい。聞けば正式に関係書類も引き継いで、お役御免になったそうだね。だから悠々引退生活を楽しめばいいと思うのだけど、以前の執行部役員の家を回って、“夜叉暗殺計画”なるものへの参加を呼び掛けているらしい。通販で買ったというサバイバルナイフを見せられた人がびっくりして情報を流してきたそうだ」

前島が「確か85歳だろう? 血気盛んだなぁ」と感心し、新林は怪訝そうに「何故夜叉を暗殺する必要があるのだ?」と聞く。


 サニと瑞生は言葉もなく顔を見合わせた。最近サニは病院のことで忙しいから、セキュリティの事に心を配るのは自分や門根たちであろう、と思い瑞生が質問した。「どのくらい本気だと思いますか?」

 朏は腕組みをしながら、「ただの妄想お遊びだと思いたいが、あのお爺さん本当に可愛げのない発想をするから。警戒レベルを上げるに越したことないと思っている。だが県警本部には聞く耳持たない者も多い…」と答えた。

 前島も「対テロ対策のセオリーが通じない相手であるのは確かだな。早急に暗殺の動機、必然性を解明する必要がある。ターゲットの夜叉は掠り傷一つつけられてはいけない要人だ。対してテロリストは年寄りだが村の内部を知り尽くしている難敵だ。緊急脱出も含めてプランニングしておいた方がいい」真剣にアドバイスした。

「帰りも県警本部に寄って本部長を突いておこう。Y市だろうがH町だろうがK県なのだから責任を取るのは君だよ、とね」


 「“暗殺計画”というネーミングが昭和だな。デジタル世代なら“消去”や“削除”だ。85歳ともなれば、運転免許も返納が妥当だし、旅行も看護師付きのツアーが相応だ。それをサバイバルナイフを買って昔の子分を集めてとは“昭和の悪あがき”としか思えない」と新林が言いながら、サニの様子に気づいた。「先生、何か言いたいことがあるのかな?」


 「そんな危ない人がいるのなら、予定より早くヤシャを病院に移すべきかもしれない。外傷に耐えられるとは思えない…」サニは工程表を見ながら眉間に皺を寄せた。

「確かに、テレビで見たけど、彼外見が大分ゾンビ風になってきたね」という新林の感想をサニはスルーした。

「夜叉のレコーディングはほぼ終わったと聞いている。東京のスタジオで他のメンバーが録り、ミキシングしていくと。それもあって7月に入ってからと、猶予を見込んでいた。入院したら、今のように外部の人と触れ合う機会が格段に減ると思う。ヤシャ、辛い。少しでも、先にしたかった」

「何とかここにギリギリまでいられるようにしようよ。田沼が問題なら、ここのガードを固めよう」瑞生は何かしようと、高ぶる気持ちで立ち上がった。

 「落ち着きなさい、瑞生君。暗殺者から要人を守るために、医師や高校生を悩ませるのはおかしい。我々警察が頭と体を使うべきなんだ」前島が朏の肩を叩き、警部たちは並んで戸口に向かった。

 「不審だと感じたら、思い過ごしでも構わないから朏巡査部長に連絡を入れなさい。自分たちだけで何とかしようと思わない事だ」前島は振り向いて言った。



 また2人きりになった。サニは厳しい顔をしている。

 「ミズオ。…ヤシャの具合思わしくない。多分レコーディングは致命的だったんだ。創作はアーティストそのものを消耗するのだろう。もうわかっていると思うけど、ゾンビー症候群に対して医師に出来ることはほとんどない。僕は、日本の医師が良かれと思ってヤシャに注射をしたり不要なものを飲ませたりするのを阻止するためにいるようなもの。誰よりも経験のある医師が自信ありげについていれば、他の医師は手出しできないだろう? …基礎代謝がぎりぎりな上に更に体温が下がっている。内臓の機能も落ちているようだから、早まるかもしれない。覚悟していて」

「サニの経験上、夜叉はもう…長くないの?」

「『経験のある』というのは“言葉の綾”。実際そう多く診たわけじゃない。僕たちには情報の蓄積が少しあるだけだよ。ゾンビーウィルスをコントロールできると考えてはいけない。僕たち人間とこのウィルスの共存関係はそんなに長くはないんだ。ウィルスに意思はないと考えられているけど、それだって人間にわからないだけかもしれない。何故存在するのかもわからない。ただ、…ただ、あるから使う。それが人間だろう? 僕たちはそこに勝機を見た。踏みにじられた歴史を投影した。…ああ、儀式を急ぐなら君にも話す時間を作らなきゃ」


 「ロドリゴと話を詰めてくる」そう言うとサニは瑞生にも退出を促した。今では盗聴や録画を案じていないからこんな話をしていたのだろうに、別れ際すっと耳元で囁いた。

「週末、身体を空けておいて。日曜日に移送を考えているから。誰にも言わないと思うけど、カスミにだけは伝えておいて」


 サニの降りていった後の階段を瑞生は違和感を抱いて見つめていた。『カスミにだけは伝えておいて』?



 その日夜叉を見たのは、夜叉通信でだけだった。

:今夜で十二夜目。大した意味は無くても数字が増えていくのって嬉しいな:

傍らにはキリノがいた。ガンタとトドロキは東京のスタジオに詰めているらしい。

:質問をもらった。『夜叉の蒼い色は染色剤を盛られたのではないですか?』 人って青く染まるものなのか?:と夜叉。撮影ギリギリ光度の照明の中、夜叉だけがホタルイカのように発色して別の生き物らしさを醸し出していた。

:さあ。ホタルイカを喰って光る人間を見たことはないけど。何を食べたかが重要かもしれない、という指摘だな:

夜叉が濃度の増した蒼い瞳で遠くを見る。:特別な記憶はない。俺をこんなにも簡単に染められるなら、世の中もっとブルーな奴がいてもいいはずだよな:



 伯母は今日も侵入者の形跡がないか、点検を抜からなかった。玄関や2階の窓からのモニター映像に不審なものが映っていないか、帰宅するなりチェックしていく。定点としている家具や小物が動かされた節はないか、一通り確認しないと気が済まないので、話しかけても無駄なのだ。瑞生は伯母がキッチンに戻るまでお茶のお湯を沸かして待っていた。


 ついでに着替えた伯母がようやく戻る頃、キッチンはアッサムティの香りに満たされていた。

 「自伝のための資料整理は順調?」と近況を聞いてみた。

「ガンタのために彼の一生を資料でフォローしていく作業なの。例えばガンタの記憶では小学校4年の時に台風で社宅が壊れてトドロキと夜叉のいる学校に転校したことになっている。実際はお父さんが転職して引っ越したのだった。台風と社宅崩壊は時事ニュースを混同していたみたい。記憶だけで文字にしてしまうと、迷惑の掛かる人怒る人が出てくるし、本全体の信憑性も揺らいでしまう。やりがいがあってとても興味深いわ」と目を輝かせた。

 「それで、話があるのでしょう?」いつもの冷静な霞は健在だった。

「朏巡査部長が、田沼が不審な動きをしていると教えてくれた。体調が悪化している夜叉を守るために、サニは病院に移る予定を早めることにした。どこから話が漏れるかわからないから、誰にも言うなと言われた。でも、何故かサニは別れ際に僕にこう言ったんだ。『霞には伝えて』と。この週末に移送することを」

「…週末に夜叉が元AAセンターに移る、ということを私に? 確かに、何故かしら?」霞はキツネにつままれたような顔をした。

「僕の方こそ、肩透かし喰らった気分だ。伯母さんには理由がわかると思っていたから」


 瑞生の言葉を聞いて、伯母は他人事の気楽さを引っ込め、紅茶を口に含むと、思案気に口を開いた。

「夜叉が病院に入るということはどういう意味があるの? サニはあなたにどう説明したか教えて」

「…今までのように外部の人と会ったりはもう出来ないって」

「そう。つまり…冷徹なようだけど、夜叉は終末期に入るということなのよね?」

返事の代わりに頷いた。伯母はもっと考え込む。


 「…そういえば、聞いたことがなかったわ。突然夜叉に話し相手にと望まれた時、あなたは『何故自分なのか、さっぱりわからない』と言っていた。今はその理由がわかった?」

 

 瑞生にとって、思いがけない質問だった。

瑞生が早朝散歩で夜叉邸の前まで行くようになったことがきっかけだった。心の中で叫んだ声を夜叉は聞きつけて、呼んでくれた。あのままだったら、誰からも心の叫びに気づいてもらえないまま自殺していたかもしれないから、呼ばれて救われたのは自分の方だ。  

しかし、こういった気持ちの説明が伯母に上手く伝わるかはわからない。伯母の立場は瑞生のとも本当の親のとも違うから。どう告げるかは結構問題だ。

 おそらく伯父とは離婚するだろう。瑞生は自立できるまでちゃっかり伯母のお世話になるつもりでいたけど、ウィルスの話を受け入れてもらえない場合、ここを出て夜叉の家か病院暮らしになるだろう。やっぱり伝えておくべきだ。伯母に嘘を付いたり、真実を隠して一緒に暮らすことをお父さんは喜ばない。


 「うん。…伯母さんは、ゾンビーウィルスに纏わる小中や青山の話を信じている?」

「ゾンビーウィルスの疫学的な話はよくわからないわ。瑞生の言うのは、所謂霊的な体験のことよね? 私は『霊が見えた』とか言うのは全く信じないわ。少なくとも私には見えないでしょうね」

なるほど伯母らしい、と瑞生は思わず頷いた。

「じゃ、占いやお告げの類は?」

限りなく同じ目をしているのに、霞は父が決してしたことのないガラス球の瞳のような冷たい視線を返してきた。


 「伯母さん、夜叉は僕を選んだ。そして、僕は喜んでそれを受けることにした。もう、決めたんだ」

今度は怪訝な表情が返ってきた。

「信じてとか、そういう無理は言わないよ。お父さんはよく『人を変えるのは無理だ』って言っていた。でも、お世話になっている伯母さんには、僕が納得して夜叉の世界に飛び込んでいくことを伝えておきたかったんだ。逆に伯母さんが僕を引きとめようと、止めさせようとしても、僕は説得されない。そういう所を、お互いわかっている関係になりたいんだ」


 伯母はやや首を傾げながら、口を開けていた。あまりに予想外の事を言われたからかもしれない。

 「私と瑞生の関係…?」

「うん。僕はこのままこの家においてもらうのかもしれないし、もしかすると出ていくことになるかもしれない。未成年で迷惑かけているくせに申し訳ないと思っている、本当だよ。それも先に伝えておきたいと思って。僕は、お父さんが伯母さんのことを大好きだったのを知っているし…」

「雪生が私の事をって、どうして…?」


 瑞生は息を吸って、吐き出すと同時に告白した。

「ごめんなさい。一度だけ伯母さんの部屋のドアが開いていたのをいいことに、部屋に入って、お父さんと伯母さんと…僕が映っている写真を見つけてしまった。しかもそれを持ち出して持っているんだ」

霞は息を止めて瑞生を見た。伯母に衝撃を与えてしまったと知って慌てて補足説明した。

「僕はあんなに幸せそうに笑うお父さんを見たことがない。お父さんは撮影者、つまり伯母さんを見つめていた…」


 「…」

霞は何も言わない。両手の指先が白くなるまで神経質に指を絡めている。その狼狽と言ってもいいほどの動揺が瑞生には理解できなかった。

 「続けるね? 僕は詳細を知っているわけじゃないけど、夜叉とその…運命共同体みたいな関係になる。伯父さんならきっと『詳細もわからず契約するなど愚の骨頂だ』とか『未成年を騙して将来を棒に振る誓約をさせた』とか言いそうだから、一緒にいなくて本当によかった。僕はお父さんと血の繋がりは無くてもお父さんに育てられたからか、似ていると思う。伯父さんみたいに『勝つことこそ人生』みたいなのは端から無理だ。だから勝ち負けと無縁の世界に行く、この選択をお父さんなら理解してくれると思うんだ。伯母さん、聞いてる?」


 霞は崩壊寸前という顔をしていた。「血の繋がりのない…?」

これには瑞生が覚めた気持ちになった。写真の持ち出しを告白したついでに、わざとお父さんの子供ではない件を織り込んでみたのだ。実家から勘当されたという話は嘘で、お父さんは伯母さんと会っていた。苗字を手に入れるための結婚と言い放つくらいだし、2人の間で真実が共有されていないはずがない。

 「あなたは雪生なら賛成すると思うの?」少し震えた声だったが、霞は視線を落としたまま言った。

「うん、伯母さん。これは伯母さんを丸め込もうとして嘘を言っているのじゃない。仕事や人生に目的が無いように見えたお父さんだから、喜んでくれると思う。『瑞生がそうなるために僕の人生があったのだとしたら、嬉しいよ』と言ってくれるのじゃないかと思う。そうは言っても、夜叉の期待に応えられるか、想定外の困難に最善を尽くせるのか、不安だらけだけど」

この言葉に、霞は顔を上げ、瑞生を真直ぐに見た。

「もう、前を見て一歩を踏み出している。男の子って、そうなのかしらね。…以前雪生にも置いて行かれちゃったことがあるわ」と少し笑った。



 今夜の話はそれで終わった。瑞生はベッドで天井を見つめた。

自分なりに筋は通せたと思うのだけど。伯母さんはわかってくれたのかな。その手前で狼狽えていた様子だった。サニの必ず伝えてと言った意味も不明なままだ…。



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