2015年6月24日②
ビジターセンターの小会議室に一歩足を踏み入れた黒金真樹子はその淀んだ空気に珍しく一瞬怯んだ。禁煙なのに、電子タバコをくゆらす者までいるようだ。
真樹子に気づいた苔田満が手を振って合図した。「…どうしたのですか? 雰囲気悪いけど」真樹子は可能な限り小さくなって苔田の隣に座った。
「うん。八重樫さんの暴走と、アンケート結果に頭を悩ませてしまってね。ミライ村は地図上三市町村に跨っているから行政はそれぞれの市町村が担当する。唯一自治会だけが全体の意思決定機関になりうる。通常の自治会は市からくる伝達を伝えたり祭りや草取りや防犯を担当するけど、ここでは住人の総意、つまりは村の在り方まで考えなきゃならないから、荷が重くなっているわけ」苔田は相変わらず飄々と答えた。「おまけに、田沼さんが『夜叉と直接話させないと、引継ぎの書類を渡さない』とごねるし。それと…」
ノートパソコンのディスプレイを見ながら、別の役員が呟いた。「どうもねぇ。藤森さんの作った作家らしさ溢れるアンケートは自由記入を促し過ぎたのじゃないかねぇ。記名式であるがゆえに皆開き直り、自身の事情や都合を書き連ねてあるから、読むのも手間だし、村全体に通じる意見が極端に少ないのだよ」
「『資産も社会的地位もあり、都心より環境を選んだ成熟した大人の集合体』、村の住人をこうイメージしていた…。僕の抱いたのは“村”全体像を皆で共有し、その枠を壊さない程度に各人で好きに振る舞うというものだ。趣味でも商売でも多数を呼んでホームパーティや展示即売会を行っていいと思う。それで羽目を外し過ぎない、周囲に配慮の出来る住人ならばの話だが」と藤森は自嘲気味だ。
「ところが…『孫に自慢したいからセレブ村でないと困るが、息子が相続する時は税金が安くなる近隣他村同様の扱いがいい』なんて平気で答えている。村をどうしたいかではなく、村が自分にどうあると都合がいいのかの説明に終始している。環境の良さに理解がない人が多いのも信じられない。『こんな田舎にあるのが悪い』? 自分で決めて住んだのだろう? ともかく、こんな低レベルの人たちのお守りは無理だ」若めの役員が投げやりに言った。
「こちらまで子供になっちゃ困るよ」他の役員が諭した。
「記名式アンケートに答えるのは自分を晒す事だから、せめて自由度を上げたのだが。それぞれ事情があるのは理解できるが、皆が個別に配慮を求めてくる感覚には失望を禁じえない…」と藤森も認めた。
「ふん。お前たちのようなど素人がコントロール出来るほど、この村の住人は甘くないんだ。我儘で常識知らずで無能なんだよ。建設的な意見がでるはずないだろう。セレブ心をくすぐって木に登らせ、恐怖を喚起して禁止事項を守らせる。こういうお守りの仕方が相応しい連中なんだ」
突然、濁声が響き、皆が驚いて振り向くと、小会議室の入り口に田沼が立っていた。
「田沼さん、どうして?」
田沼は藤森の問いかけには答えずにずんずんと入ってくると、ストンと議長席の横に座った。
「作家先生、そもそも住人の意見を聞こうという発想が間違っているのだよ。『夏祭りに肝試しと盆踊りと、どちらをやりたいか?』なら聞く意味があるがな」
真樹子が注意を促そうとした時、「田沼さん、引継ぎに来たのなら、手ぶらはおかしいのじゃないですか?」と声が飛んだ。
「私のアドバイスが必要なのじゃないかね? 持て余しているのだろう?あの…」田沼は蝶ネクタイをいじりながら探るような目つきを見せた。
「自治会の会計帳簿や取引記録、議事録を見られると困るから渡さないのだと思われていますよ。もちろん私たち興味津々です。管理費の流れを精査して、非常食・備品などの購入先を見直したいですね。N不動産御用達の監査法人ではなく、新規に監査してもらう必要があるかもしれません。ビジターセンター職員の採用や、AAセンター設立時の議事録なども拝見したいし」と真樹子が実務的にとどめを刺すと、「田沼さん…、世代交代ですよ」と70歳で新執行部最年長の役員が穏やかに引導を渡した。
田沼はちらりとその役員を見た後で、真樹子にも目をやったが、以前のように憎々しげにギョロ目で睨みつけては来なかった。
ふん、ふんっ
馬鹿にするように鼻息を吐き散らすと、藤森の前に小さな鍵を置いた。
「2階奥の自治会長室の机の鍵だ。中に帳簿類とUSBメモリーが入っている。金庫はダイアル式だ。開錠番号は帳簿の最後のページに書いてある。通帳とカード、常に現金100万ばかりが入っている。…私は不正はしておらんよ」
「田沼さん、あなたが集めた高額の管理費を流用したなどとは、この部屋にいる新執行部の誰一人として思っていませんよ。あなたは長年、この中途半端に甘えたセレブ達をリードして村と言う架空の自治体を作り上げてきてくれた。その功績は過小評価すべきではありません。…ただ、時代の変化、住人の老いに対応できなかった。あなたが社長・会長として高度経済成長期に拡張し続けた会社が描いた”街”のイメージにあなた自身が囚われてしまった。…そう思います」藤森の言葉には誠意が滲み出ていた。
田沼は宙でぶらつかせていた足を床に着けると音もなく立ち上がった。
ふんっ、長テーブル横を通過しながら、「アンケートに恥も事情も皆書かせておきながら、何の対応も取らないのか? 連中、望みを叶えてもらえると思ってわくわくしているかもしれんぞ。読み逃げか?」と嫌味を言いながら立ち止まった。「私に任せれば」
「『貴重なご意見を有難うございました』と言います。『新執行部全員で拝読させて頂きました。幸せの尺度は1人1人異なる以上、村全体の幸福向上を目指して、大いに参考にさせて頂きます』と言います」藤森も席を立った。
「…」田沼は再び歩き出した。その姿が真樹子には一段と小さくなったように見えた。
「…あの男には手を焼いているのだろうな」ドアの前で立ち止まる。
「正直、困惑しています」
蝶ネクタイを締めた達磨は首を傾げて、顎を掻いた。
「私なら小会議室など使わんな。…あの男には自分の理論しかない。そして舌を巻くほどに情がない。こちらは招待していない以上障害者差別と非難される言われはない。挑発に乗らず、ともかく逃げるんだ。真正面から対応してやっても、通じないだけでなく感謝すらされない。金も頭もあるだけに厄介だ。だから、出入り口が2つある部屋を使うんだ。『来た』と知ったら、申し訳ないが尻尾を巻いて裏のドアから逃げるんだ…」
藤森はドアを見た。「…なるほど。今日は情報が漏れてもいいように召集2時間前に会議を始めたのですが」
田沼が藤森に頷いたように見えた。「ふむ。…出し抜けるといいな」
ドアは小さな音を立てて閉まった。
「さて、そうは言ってもアンケートに応える必要がある。一番要望が多かったのは、“脱N不動産”だ。リフォームと転売に関して誠実に働く気がある仲介業者を募ってみようか。N不動産以外に2社くらいは選択肢を用意したいね」と藤森は役員たちを見回した。
「黒金さんが言っていたように出入り業者を考え直そう。ここのトイレットペーパーなんて高級ホテル並みですよ。無駄を排して共益費を下げることを検討しましょう」応じながら皆席を立って散会となった。
「私は何のために呼ばれたのかしら」
クマちゃんは階段を踏み外さないよう注意しつつ、苔田に疑問をぶつけた。
「あなたのお蔭で田沼さんから帳簿一式引き継ぐことが出来たのですよ。田沼さんに負けない、侮られない空気を作ってくれた。最後は八重樫さんに関してアドバイスも貰えた。皆感謝していますよ」と長身を屈めて真樹子に微笑みかけた。
思いもかけない微笑みに、却って硬くなりながら真樹子は「田沼さんが退く気になったのは、アンケートの件で藤森さんが一歩も引かなかったからよ。まぁ私のニーズは弁護士がいるだけで心強い、というやつね」と独りごちた。
「そうじゃないですよ。役員の中にも弁護士はいますから。黒金さんだからこその、賢さと言うか、度胸の良さが買われているのですよ。都心から離れたアウトサイダーを気取っているくせに、田沼さんも僕たちも男社会に蔓延する権威主義にどっぷり浸かった思考をしていた。黒金さんはそれらに全く屈せず、別の切り口から意見を言ってくれる。だから頼りにしてしまうんです。でも、夜叉の事も大変だから負担ですよね」
苔田の評価は嬉しくはあったが、「用心棒ね」とあしらった。
「クマちゃん、聞いてる?」
本永の高校生離れしたごつい顔が間近にきていたのに、クマちゃんは明らか気づいていなかった。話は右から左に抜けていっているようだ。
クマちゃんが戻った時、ちょうど瑞生たちは森山に質問していたので、話に綻びがないか一緒に聞いてほしかったのだ。
「苔田さんになんて言われたの?」瑞生は鎌を掛けただけなのに、相手はいとも容易く引っ掛かった。
「え、え? 瑞生君何で知ってるの? あの場にいたの?」クマちゃんは巨大トマトみたいになっている。
「なんだ、それは。初耳だぞ。クマちゃん、何?誰?どうした?」通りがかったガンタが喰いついた。本永は恋愛ネタに一歩引くが目は輝いている。森山は困惑しつつも興味津々だ。
「クマちゃん、話してみなよ。これだけいれば、いいアドバイスできる奴もいるって」ガンタに促されて、クマちゃんは両手で自分の膝をがっしりと握った。
夜叉がいなくてよかったかも。クマちゃんが現実に恋を実らせるには、夜叉の存在は微妙だものね、と瑞生は思った。
クマちゃんはビジターセンターでの田沼とのやり取りから語り始めた。田沼が鍵を渡した件は皆聞き入った。
「おお、今度こそ本当の政権交代だな」と本永。
次いで、苔田とのやり取りだ。クマちゃんが自分は用心棒みたいなものだと話を終わらせた後、苔田はこう言ったのだ。
「僕、本当は美術館や博物館を造りたかったのです。でも…結局はイベント施設のデザイナーになりました。わくわくするようなイベント会場の施設を作るのは楽しいですよ。でも終了後は跡形もなく撤去される…儚い造り物です。だから、僕はがっしり、どっしりした人が好きなんです。ゆるぎない存在と内に宿る知性の同居が僕の理想です。…子供の頃から“変わり者”と言われてきましたが、独身なのにこの村に家を買った時は“変人”呼ばわりされました。僕は50歳目前にして、理想の女性に巡り合ったのです。夜叉に仲人を頼みたいくらいです。…あ、先走ってしまった。あの、まずは一対一でお茶からお願いできませんか? 僕は本気です」
「おお、クマちゃん、なんて答えたんだ?」本永が唾を飛ばす。
「イエスだろ?クマちゃん。思い切って行っちゃえよ、嫁に!」ガンタも負けじと興奮状態だ。
「それが…」
「それが、何?」思わず瑞生も身を乗り出した。
「覚えてないの。自分がなんと答えたか」
「ええ~?」
「一番いい所で、録画ミスったドラマみたいだな」とガンタ。
「今はおまかせ録画だから、それはないでしょ」と本永。
「どうするの? まさか『私なんて答えましたか?』って聞く?」瑞生の問いに、森山ですら「それはないよ、瑞生君」と往なした。
恋する(?)乙女のクマちゃんは、おかっぱ頭を掻きむしって首を振った。「舞い上がり過ぎたのか、記憶がすっぽりと抜け落ちてるの。ただ、『イエス!』と言ったわけではない気がするのよ。…つまり、私のタイプとはその、違うものだから…」
確かに、酷い目に遭いながらも夜叉をずっと支えてきた歴史が物語るように、クマちゃんは美形、しなやかで強烈で迸るような才気煥発型の美形が好きなのだ。善人とか品行方正とかは必要ない。…苔田は頬がこけていて細長い鉛筆か藁みたいな外見だ。夜叉の纏う唯一無二のオーラとは次元の違う凡庸な世界の住人だ(夜叉以外は皆そうだけど)。人の価値はビジュアルじゃないと言っても、好みは重要だろう。
「クマちゃん、簡単。まずは一緒に住んでみればいい」
今まで黙っていたサニが突然話に入ってきた。
「…」
サニ以外の全員が思っていたことをクマちゃんが代表して口にした。
「だから、彼女の家を追い出されるのよ。彼女のママに嫌われて」
「それで? 瑞生君たち、森山君に質問していたのでしょう?」
クマちゃんは腕組みをして森山とサニを交互に見た。
「そう! 疑問を片付けておきたくて聞いたんだ」と意外と女心に疎くない本永が、クマちゃんの不機嫌の矛先が自分たちに向かわないうちに話を進めた。「夜叉を研究する権利を私立病院に委ねるなんて、国立感染症研究所が許した理由があるはずだろう? アメリカの研究機関はCDC以外にもあるし、結構えげつない連中だと聞くのに、夜叉を盗りに来ない理由がわからない」
「ふ~ん。その疑問はもっともね。私も知りたいわ、森山君」
森山はサラサラヘアを傾け、少し間を取り、語り出した。
「ゾンビーウィルスはゾンビー症候群を引き起こすウィルスとして知られているが、実はWHOに正式に認められていない、俗説的なウィルスなんだ。ゾンビも本当にゾンビなのか、死亡診断を誤っただけか、仮死状態が解けただけか、科学的に認められた映像・診療記録はない。わかりやすく言うと、都市伝説みたいなものなんだ」
「それって、まさか、科学的に存在を立証されていないから、国立研究所が乗り出すわけにはいかないってことか?」本永が結論を先取りして驚く。
森山がうん、と頷く。
「つまり、独立系で企業や宗教や外国の尻尾がついていない病院に任せることが出来て、実は万々歳してるってことか?」
またしても、うん。
「なるほど」と言いながら本永は納得していない顔だ。
サニが、「キューバ政府もゾンビーウィルスを公式に認めてはいない。『ヤシャが何らかの感染症を発症した可能性があるが、死亡確認後なのでキューバにて療養させましょうか? それとも自国民の引き取りを希望しますか?』と打診した。勿論日本政府は『ご迷惑でしょうから引き取ります』と答えた。公式にはこんな感じでやるしかない」と説明してくれた。
「ただ、ウィルスが発見されて、そのウィルスがゾンビ化を起こすと証明されれば、世界はガラッと変わる。可能なら夜叉を拉致して研究したいと思っている機関は世界中にある」と森山。
「それと…」森山は言葉を切り、俯いた。
しかし、クマちゃんと本永は森山の逡巡を待つ気など毛頭なく、舌打ちで答えた。
「わかったよ、話すよ。皆がどう思おうと、僕は藁科の報告書が一役買ったと思っているんだ」
「はぁ? あの鉈振り回しスプラッター女が何したって言うんだ?」本永はほとんどごろつきだ。
さすがに森山も気分を害したようで、妙に強気になった。
「藁科は起訴される前に、国立感染症研究所宛てに報告書を提出した。『ウィルスの採取はほぼ不可能』と納得せざるを得ないような報告書を上げたんだ。親指事件を例にしてね」森山は曰くありげにサニを見た。
サニは溜息交じりに答えた。「僕は採取の邪魔、してない。モリヤマさん、ワラシナさん、勘ぐり過ぎ。ヤシャが鍵盤を叩いて指がボキッとなって叫んだ。ウィルスの異常が第2関節より上にいかないように、指を切り落としたら、燃焼して」
「切り落としたぁ?」「燃焼?」皆が一斉に反応した。
「処置としては最善。切り落としたから、切断面にウィルスが集中できたし、細胞のバランス異常が伝達しないで済んだ。何が問題?」
「問題って、何故ちゃんと説明してくれなかったんだ?」森山が気色ばんだ。対照的にサニはとても冷静だ。冷ややか過ぎると思うほどの目をして、森山を見ている。
「君は切り落とした指を焼いたのか? ウィルスを採取されないように黒焦げにしたのか? 直前まで繋がっていた夜叉の指を?」畳み掛ける森山は1人興奮してサラサラヘアを振り乱している。
「ウィルスは役目を終える際に全エネルギーを放出する。僕たちの想像を超越したレベルのエネルギーだ。憑りついている細胞の全ての力も使わせる。短時間に急激に温度が上昇して発火するんだ」
「自然発火? Xファイルみたいな?」と本永。
「まさか、聞いたことないよ。ジェイコブ弟の時にもそんな記録はないじゃないか?」憤慨して森山。
「あの短い時間に僕が何を使って焼けると思うの? 自分で言ったでしょ?『直前まで繋がってた指を』って。何の道具も発見されず、炭化した指先があっただけ。自然発火と考える方がよほど理に適っている」
クマちゃんは、「炭化した指先は崩れてなくなってしまったのよね? 短時間に指を完全炭化させるには高温焼却しなければ無理。そして道具もオイルも燃えさしも、何の痕跡も見つからなかった…というのが事実よね」と整理してくれた。
「藁科がどうしたって? 話の途中だったよな」本永の指摘を受けて森山は続きを話し出した。
「藁科はCDC他アメリカの幾つかの機関宛てにも報告書を論文にして送っていたんだ。それであちらも手出ししない方が得策だと判断したのだと思う。だから藁科なりに夜叉を守ろうと」
「何でアメリカの機関に藁科が報告書を送るんだ? しかも複数」本永の突っ込みに森山は「そこ? 注目してほしいのは藁科のファインプレーなんだけどな」と心外そうだ。
「そういう機関には世界中の研究者から論文が送られてくる。助成金のための口添えや、多いのは転職の口利き・推薦状目当てだろうな。ゾンビーウィルスは世界で注目されてはいない。パンデミックが起きてるわけじゃないしな。夜叉の事なんて海外では忘れられている。先方は夜叉主任担当医のサニのレポートなら読む可能性もあるだろう。でも、『ワラシナ、フー?』だろ? こう考えれば、藁科が送ったのは読まれることがわかっていたからだ、と推測できる」
「だから?」と瑞生。
「だから、藁科の転職活動の一環だろう。『ゾンビーウィルスを手土産にするか、新事実を含む論文を送るから、転職させてくれ』と打診しておいたのだろう。あいつが鉈まで取り出したのも納得いくだろ?」
「…」
瑞生の心が痛んだ。良心があると思っていなかっただけに、ちょっとした衝撃だった。目の前で森山が、本永のシビア過ぎる指摘に、驚き、やがて受け入れて打ちのめされていく、一人芝居を展開しているのだ。
「だが論文の中身はスカスカだ。ウィルスは採取できていないし、新しい発見なんて何もない。今まで通り『ウィルスは採取不可能』の再確認しただけだ」本永も、森山の落胆に同情したのか、最後に僅かに森山の顔を立てた。
「それで、海外の研究機関も夜叉の病院開設に異議を唱えずスルーしたということね」クマちゃんが慰めるように言う。
「アメリカの機関については、さっきモリヤマさんが言ったジェイコブ弟の件が逆の意味で効いていると思う。僕はウィルスの最後の発火現象を知っているから、ジェイコブ弟について記述がないことに納得いかなかったんだ。それで関係者が後で告白した文献を調べたら、何人かが『遺体が燃え上がった』と記していた。『レントゲンで殺してしまった上に遺体の解剖も出来なかった』と。そこで、隠蔽したんだ。『端からジェイコブ兄弟のゾンビー症候群は眉唾だった』と。その後遺体が発見されて恥をかく心配はないからね。その経緯を知っている連中はワラシナさんの論文を読んで、『やっぱりね』となったのだろう」サニがアメリカ研究機関の秘密を曝露した。
:こんばんは、夜叉だ。今夜で十一夜目だ。見てくれている人、この時間の番組を盗られて迷惑してる人、どっちもありがとうね:
:お前がそんな殊勝なこと言うと、具合が悪くなったのかと皆心配するだろ、俺もだけど:ガンタが慌てる。
夜叉が少し微笑んだように見えた。
:今日は音楽の話をしようと思って:
それからはバンドメンの音楽への熱い思いが語られたので、疎い瑞生はぼんやりと聞いていた。その中で解散前にトドロキと夜叉の関係が悪化しほとんど口もきかない状態だったことが明かされた。
:あれは一体なんだったんだ?:とガンタが当事者に聞く。
ファンの本永は身を乗り出した。
:わかんない。喧嘩なんかしてたっけ?:と夜叉。
「え?」と本永以下オーディエンス一同。
:出たよ。夜叉の『俺それ知らない』が。しでかす奴は平気で忘れて、喰らった奴はずっと恨みに思ってる構図。もう、揉め事は清算した方がいい。トドロキ、話しちゃえよ:ガンタが憮然としているトドロキを促す。キリノは風に吹かれる柳のように静観している。
:お前、解散前にさ、ソロで積極的に海外アーティストとセッションしていただろ? セネガルのジェンベ奏者キング・ジェド・ロザロザと2004年にセッションライブをやるはずだった。…覚えてるか? 俺、参加したかったけど、バイクの事故で左手の中指骨折しちゃってて断念した。キングはあまりアフリカから出ないから、最初で最後の全米ツアーの最中で、お前がハワイまで行って合流する予定だった。それを、お前が、破綻したスーパーフルーツの無限工場投資の保証人になったか何かで出国できなくなって、お流れにしてしまったんだ。あの後、キングは足止め喰ったシェラレオネの空港で暴動に巻き込まれて死んでしまったんだぞ。あの、キングとお前の歌声が共演するたった一度の機会を、お前の音楽外の失策で潰したんだ。俺がどれだけ楽しみにしてたか、わかるか? あのジェンベのリズムにお前はどう載せていく? 唸る低音か得意の高音か、きっと乾いた大地に沁み込む水のような澄んだ声を響かせるに違いない…って。そのチャンスをお前は台無しにした。他人がどんなに望んでも手に入れられない声を持ちながら、音楽の神に対して不遜な態度を取り続けたお前を俺はずっと許せなかった。解散後10年経って、お前がキューバで死ぬ羽目になったと聞いた時は正直複雑な気持ちだった。キューバ音楽の根っこは、セネガルのある西アフリカの音楽だ。奴隷として連れて行かれた人々の音楽だから。でも、蒼くなったお前の小さな声を聞いて、もう怒りなんて保てなかった。だから俺はジェンベを持ってきたんだ。『雑菌だらけだ』とスタジオに持ち込ませてもらえなかったけどね:
10年も胸に秘めていた怒りを吐き出して、トドロキはすっきりしたと笑った。対照的に、夜叉は叱られた動物みたいに、しゅんとして見えた。
その晩、瑞生は寝る前にウィキで調べものをした。
ジェンベは丸太をくり抜いて杯型にし山羊などの動物の皮を張って作る、西アフリカの太鼓だった。
太鼓の音。トドロキの敲く太鼓の音は体の中の何かを揺さぶる。ジェンベの名手の演奏はどんなに凄いのだろう。石見葉月さんの霊を呼んだのもサンテリアの太鼓だったっけ。もしこの部屋で太鼓を敲いたら、お父さんの魂も降りてきてくれるだろうか。