2015年6月22日
2015年6月22日
通学に掛かる時間が読めないので、6時には朝食を食べていた。霞は大叔母のキッチンを慣れた素振りで使っていた。
「大叔母さんは?」
「宝石店は11時に開ければいいから、朝は7時にならないと起きないのよ。この家の大叔母は露乃、もう一人は霧葉というの。露乃叔母は一人暮らし。霧葉は娘一家と同居している」
「ふうん。…伯父さんから連絡あった?」
瑞生は食器を洗う霞の横に並んで、食器の泡を流し始めた。これからは自分も手伝うという意思表示のつもりだった。
一瞬手を止めた霞は前を向いたまま答えた。
「ううん、何も。リビングのテーブルに手紙を置いてきたから、読んだと思うけど。念のためメールもしたし。この所口をきかないから、何も言ってこないのじゃないかしら」
「そう…」
だが、悪名高い国道の渋滞に嵌っている時に、着信音が鳴った。伯母はハンドルを離さずにモードを切り替え、電話に出た。
:どうして瑞生君も連れていったんだ?:
「…おはようございます。叔母が弱気になって瑞生に会いたいと言うものだから」
:…そうか。じゃ会わせたら瑞生君だけでもこちらに帰らせなさい。ここから学校に通う方が近いのだから:
伯母の返事を待たずに一方的に通話は切られた。
車内にはThe Axeの曲が流れ続けた。
久しぶりの学校は、エネルギーの塊のような同い年の人間の集合体で、熱気に当てられクラクラした。自分が随分と年寄り臭く感じた。
本永は約束通り、登校していた。金髪が黒に戻っていて、しかも素のままはサラサラヘアだということがわかった。
「おはよう、ツンツンしてないね」
「黒でツンツンしてたら、暑苦しいだろ。…なんだよ」
「おでこが隠れてる本永には違和感があるなぁ」
「ほっとけ。それより、お前今日遅かったのな。またバスで来たのか?」
「ううん。この数日で、語りつくせない程色々な事があったから。今、村に住んでないんだ」
「おお、相変わらず想定外な奴だな。それでこそ八重樫だ」
他のクラスメイトだって、教室に入って来ると、本永の変化に驚いて足を止めるのだ。金髪慣れとでも言うのだろうか。
榊先生ですら、「お」と目を見張った。もっとも登校したことに対してかもしれないが。
テスト明けの学校生活はさしたるインパクトもなく過ぎていく。廊下で立和名に遭わないかと期待したが、そう上手くはいかないようだ。
5時限目はホームルームだった。療養中の外様に代わって、副委員の女子が教壇に上がり、本日の議題をホワイトボードに書いた。
「今日は、夏季休暇中のホームカミング・ディのクラス対抗合唱コンクール自由曲と、9月にある薫風学園祭の出し物について話し合いたいと思います」
幼稚舎から上がってきたメンバーは慣れきっている行事なので、コーラス部が推奨する3曲の中から投票で決めることになり、土曜日には最初の練習が始まる予定が組まれた。学園祭はまだ日数に余裕があるものの、お化け屋敷や喫茶店などの催し物は各学年一クラスと決まっていて早い者勝ちらしく、早々に実行委員を決めて活動を始めなければならないようだ。
「お化け屋敷はA組だろ。あそこはフランケンがいるから。で、喫茶店はパティシエ目指してる女が3・4人いるB組だ。うちだけフリーなんだよな」と男子が挙手もせずに言う。
「蒲田、手ぐらいあげなさいよ」と副委員。
「はい! 何かの展示」手を上げながら別の男子が言うと、乾いた笑いが一斉に起こる。
後ろで見ていた榊先生が、「高一は学園祭の担い手なんだから、華やかなものに挑戦したらどうだ?」と指導に入る。
「おっと、教育的指導が入ったぞ」と笑い。
「クイズはクイズ研、バンドや劇団が講堂と屋外ステージで弾けるし、スポーツ系は親善試合で盛り上がる。同好会が屋台や模擬店を出すし、映画は同好会だけで8個もある。クラスなんて先生にテキトーに割り振られたメンツで実のあるものが出来るわけないじゃん」
皆がざわついた。「部活で忙しい子たちは結局参加しないんだから、やる羽目になる無所属の子たちがやりたいものを決めればいいじゃないの」「そうだそうだ」
副委員は教壇を出席簿で叩いた。
「わかった。土曜日の合唱練習の前に投票で決めます。意見は全員から求めるわ。自分が部活で100パー参加しないとわかっている人は『不参加』って申告してね。書いてなければ強制的に参加してもらうわよ」
副委員が降りた後、不服そうに腕組みをして天を仰いでいた榊先生が歩き始めようとした時だ。
「皆、聞いてくれ」
本永が突然席を立ち、話し始めた。
真後ろの瑞生はただ口を開けて見ていたが、遠くの席の誰かが「ジャンキー? あれジャンキー本永?」と周囲に訊いていた。榊先生は後ろに留まった。
「俺は…」
話し始めた本永に、副委員が戻ってきて、「話の腰を折って悪いけど、誰もいない教壇に向かって話すのは変だよ。あなた一番前なんだからみんなの方向いて話せばいいじゃない」とYシャツの袖に触れんばかりに手を伸ばして言った。
本永は少しの間躊躇したが、意を決した風に、みんなの方に向き直った。
「俺、昨日、外様に会いに行ってきたんだ」
教室中がざわっと反応した。瑞生も驚いた。本永がそんな行動に出ていようとは思いもしなかった。
「外様の情報はほとんど入らないし、心配だったから。家にはお母さんと外様がいて、会うことが出来た。…左目はほとんど視力を失っていたけど、普通に話すし普通に元気だった。片目だと遠近感がないけど少しは慣れてきたと言っていた。…俺が何でこの話をしてるかというと、俺は外様に復学してほしいと思っているんだ。でも、お母さんの話によると、学校は『いつでも復学してください』と言う割に、『復学=通常の学校生活が送れるものとみなす』、つまり特に配慮はしないらしいんだ。外様の残された方の目を守るには、強い衝撃を受けたり、目を酷使してはいけないらしい。学校の廊下で誰かとぶつかったり試験勉強したりは当たり前だろう? 『それを懸命に避けながらの学校生活は無理なのじゃないか』『他の生徒さんに迷惑をかけてしまうでしょう』って学校側は言うのだそうだ。事故の責任問題と賠償で学校と外様の家は揉めているらしいから、非協力的なのかもしれない。でも、外様は全盲じゃないし、盲学校に行くほどじゃないと思う。このまま通うに通えず高校中退になるのを放っておくなんて、納得できない。みんなで、外様の復学を助けることは出来ないか」
本永の予想外の提案に、またほぼ初めて聞く外様の容態に、皆驚いたのか、暫く誰からも反応がなかった。榊先生も黙っている。
「先生、学校側は本永の言った通り、冷血漢なこと言ってるの?」
「学校のせいじゃん。外様が事故に遭ったの」
クラス中から不審の目で見られて、榊先生は苦しげにネクタイをいじった。
「事故当時グランドにいた先生、いなかった顧問、いたはずのコーチ。他人の責任に関して、関係ない俺が勝手に発言できないよ。みんなもわかると思うが、責任の取り方は当事者それぞれだから…」
煮え切らない榊先生に舌打ちすると、さっき発言していた蒲田という男子が本永に、「外様の家はなんて言ってるんだ?」と訊いた。
「外様のお母さんの話では、本人もずっと薫風学園だったから高校卒業まではここに通いたいと言ってるそうだ。復学できるなら賠償金は施設の改造に使ってほしい、と。授業を録画すればクラスに迷惑掛けずに済むけど、全ての授業を自宅でやり直すのには無理があるから、個別指導の時間を設けてほしいとか。体育や実技ものはレポートでも低い点数にしないでほしいとか」
「それくらいのことを学校は渋ってるの? 呆れた! 怠慢じゃん」「そうだよ、うちのクラスの希望の星だったんだぜ、大名は。スポーツ万能だったのに可哀想過ぎるよ!」
「日常の細かな世話や新たな事故の危険を厭うがために、高額の賠償金を払ってでも外様に辞めてもらった方が、学園側としてはいい、ということですか?」副委員はさすがに弁が立つ。
榊先生は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「俺は外様にここを卒業してほしいと思っているよ。…だが、飛んできたボールがぶつかっただけで本当に失明してしまうかもしれない。そのリスクは負えないよ。外様だって失明するくらいなら自宅学習していた方がマシだろう?」
クラス中の舌打ち。
「それに、目の手当てが遅れた責任は学校側にもあるが、病院の医師も大いに問題があったんだ。医療ミスの問題がね。だから全部に対して学校が責任を負うと言うのは、いささか違うと…」
「ゴミだ~」「本当にカスね」
「それに、『授業の録画の許可をお願いします』という手紙を出したら、苦情の電話やメールをガンガンしてくるのは、君たちの親だぞ。『うちの子の肖像権を侵害してる』『チェックするから必ずうちにもコピーを届けろ』『その子だけ優遇されるなんておかしい。全授業を自宅学習のために配信するべきだ』って。親切心を出せば、必ず君たちの親が台無しにするんだ」
「高い授業料と寄付金取ってるんだから、それくらいしろよ!」
そうだ、そうだ、と収拾がつかなくなった。
「提案があるんだ」本永が皆を静まらせようと一際大声を出した。
「外様は迷ってた。実際、外様を守るには、周囲が気を遣い手を貸す必要がある。外様はクラスに迷惑がかかるのを気にしてる。だから、クラスで、外様が学校生活を続けられるように協力すると決めて、外様に『帰って来いよ』と言ってやれば、外様は『戻りたい』と安心して学校に要求することが出来るだろう?」
「クラス決議をしたらいい、ということ?」と副委員は考えながら、進み出て教壇に上った。
「今の本永の提案、クラス委員の外様のことについてだから、私は議題として扱っていいと思う。意見ある?」
「おう」立ち上がった男子が、「今までクラスで誰とも口きいてない本永が言い出したって所が気に喰わない。本永、たった3ヶ月の付き合いのお前が何故外様の家まで行ったんだ?」と訊いた。
「確かに、ジャンキーに『みんなで協力して』なんて言われると違和感ある~」
本永はさっきからクラスの後方を向いたまま立っていた。瑞生はあまり見上げると本永がやりづらいかと思って下を向いていたのだが、机の表面の木目を見つめながら返答を案じていた。
「…他の事なら、こんなこと言ったりしない。たった3ヶ月だけど、俺の目には外様がこのクラスを引っ張ってるように見えた。口を閉ざしているしかない俺にも普通に接してくれて、凄く救われたんだ。その外様が、クラスに気兼ねして言いたいことも言えず、不本意にフェイドアウトしていくなんて、理不尽だ。俺でもいいなら傍で出来る限り手伝うが、外様はみんなが支えてくれる気持ちでなければ『戻る』とは言わないだろう? それに…みんなのフォローがなければ不可能だと思う。だから、俺に反発するのは置いといて、外様の事を考えてほしい」
「ジャンキー転じて、優等生ってのが胡散臭い」「外様の事考えるのは大事だよ」「そうだよ。体が大丈夫なのに学校に来れないのはマズイじゃん」
前に瑞生に厳しい事を言ってきた女子が、「本永、あんたの提案を真面目に考える前に、みんなの疑問に答えなさいよ。あんた、ニューヨークでドラッグ中毒になって系列校から放出されたって、本当?」と訊いてきた。
「東、関係ないじゃん」と副委員。しかし、敢えて誰も触れなかった件をクローズアップしたせいで、本永が答えないわけにはいかない空気になってしまった。
本永は貧乏揺すりのように揺れたりしなかった。自分の椅子の背を関節が白くなるほど握りしめている指が、瑞生の目の前にあった。
「…俺は、ドラッグもマリファナもハーブもガスも、やってない。シャブもコカインも一度もやったことなんてない」
絞り出すような本永の声が、外様のために無理に無理をして発言した以上のストレスに晒されて悲鳴を上げているように聞こえた。
「そのまま高校に上がらなかったのは…心身ともに疲れてたからだ」
「それなのにここにはド金髪で現れたわけ? 私たちを威嚇していたってこと?」
なおも本永を追い詰めようとする女子に、瑞生は耐えられなかった。
「辛い目に遭った後で、自分の見た目を変えたいと思うこと、あるだろう? 質問にちゃんと答えたんだから、もういいじゃないか」
「『ヒモ夫』は黙ってなさいよ。あんたが中学でなんて呼ばれてたか知ってるんだから。顔がいいからって、女子に寄生して生きてたなんてサイテーよね」東は捜査官のように腕組みをして言った。
「教えてほしいよな。女たらしこんで言う事きかせる方法」
「方法も何も“顔”と“体”に決まってんだろ」
ドッと笑いが起きた。皆の前に瑞生と本永が重なって立っている状況で、瑞生は背中に本永を感じていた。角にいる榊先生は怯んではいないが、出るタイミングを計っている様子だ。
「八重樫、本永同様みんなの疑問に答えろ。お前は女に体を提供して、小遣いやプレゼントをもらい、庇ってもらってたのか」蒲田が大声で言った。
瑞生は息を呑んだ。こういう風に自分の過去が暴かれ問い質されるとはさすがに想定外だった。だが、この所鍛えられているせいか、だんまりを決め込んで非難をかわそうという発想は浮かばなかった。
「ヒモ夫、ジゴロー、ホストミズオ…もっとあるよ。言い方も捉え方も色々あるし、全ての人にわかってもらうなんて無理だから、質問にだけ答える。僕は体を売ったことはない。貢がせたこともない。男女問わず、殴る蹴るの暴力から守ってもらったことは確かだ。廃工場で逆さ吊りにされそうになったのを助けてくれた相手は確かに女子だったよ。そうすると更にそれが気に喰わない奴に付け狙われる。小突かれ…おぞましい事に巻き込まれた。一緒に下校してくれる女子もいた。だからってお礼にセックスしたことなんてない。何故?僕はそれどころじゃなかったんだよ!…これで満足?」瑞生は蒲田の目を、夜叉に倣って射抜くように見た。
東には容赦する気が無いようだ。畳み掛けるように繰り出してきた。「じゃ、ネットで言われてるのはどう? あんたが金持ち村に行きたくて、放火して両親を殺したっていう…」
「やめろ!」本永が叫んだ。
「やめろ東、いい加減にしろ。ネットの中傷にいちいち八重樫が答えなきゃいけない義務なんてない」と蒲田。
「東、警察は10代の殺人事件の可能性があったら、飛びついて捜査する。逮捕されてないってことはガセだってことよ」と副委員。
「そういうセンセーショナルなネタを糾弾するのって、自分は正義みたいな態度で言ってるけど、本当の所は、単なる興味本位だよ。誰かのために問う必要のないことだもの」後ろの席の佐々木。前にも東の攻撃を和らげてくれたっけ。
榊先生が動いた。だが、それより先に副委員が言った。
「思うんだけど、誰にだって、触れられたくない嫌な経験とか、苦い失敗とか、家族の確執とか、あるのじゃないの? 私はあるわ。こんなクラスみんなの目の前で、弁解しろとか説明しろとか言われるの、大きなお世話よ。それをこの2人はきちんと答えたんだから、クラスに対する誠意と捉えるべきなんじゃないの」
蒲田が、今度は立ち上がって、本永を見据えた。教室の前方と後方で、睨み合いだ。
「クラスメイトとして、俺たちが怠慢だったのは認める。外様のこと、気にしながら何もしなかった。本永が会いに行った行動力は評価する。外様の事本当に心配してるのもわかった。…ただ、お前、外様が再入院した日に保健室でブチ切れたろ。暴れたんだか勝手に頭割ったんだか、知らないけど。挙句そのまま不登校になっただろ。そういう所が信用できないんだよ。事情はあるんだろうけどさ、八重樫はお前が来なくなっても一人で来てたよ。勝手にパニクって逃げるような奴の提案を、本来ならクラスでまともに取り上げる必要はない。…でも坂下も言ったように、議題とするべきなのは確かだ。…だから、本永逃げんなよ。明日必ず学校に来いよ。来たら、お前を信用してやる」
坂下(副委員の名らしい。初めて覚えた)が時計を見ながら、「では、明日の朝のホームルームで議題として取り上げます。時間ないからみんな意見考えてきてね。今日はこれで解散とします」と締めた。
皆が一斉に動き出した時、榊先生が声を張り上げた。「成績優秀者が渡り廊下に張り出してあるから見るように。高校からはテスト結果+提出物+授業態度の総合評価が張り出されるから、テストだけとは違うぞ。個人成績表は自宅に保護者あてに郵送した。勝手に郵便受けから取って隠すなよ」
部活に行く者、掃除当番の者、クラスがばらけてほっとした。荷物を鞄に移そうとした時、後ろの席の佐々木に気づいた。佐々木がじっとこちらを見ていたからともいえるが。
「さっきは助け舟ありがとう」
佐々木は照れて栗色の髪を掻き上げた。「いや、東は昔から他人のミスや欠点を見つけると容赦ないんだ。相手を言葉でボコって、自分を肯定してるんだろうけどね」
何という事なく3人で歩き出した。「本永は今日一度も貧乏揺すりをしなかったなぁ。金髪じゃないと別人みたいに見えるもんだね」佐々木は穏やかに笑う。
本永が「そうか? よく他人の事そんなに見てるな」と首を傾げると、「一番前で髪が揺れるから、気づかないでいる方が難しいよ。…そうだ、成績優秀者の張り出しを見ていこう」と渡り廊下の掲示板に連れて行ってくれた。
「僕らは中一から志望路線別にクラス分けされてる。推薦でも何でもちょっとでもいい大学を狙ってる者はA組。スポーツ系芸術系はB組。はっきりしないのがC組。僕なんかC組4年目だ。多分卒業までずっと。だから張り出しはもっぱらA組が占めてるんだ」
「ふ~ん。外様はスポーツマンなのにC組なの?」と思わず訊いてしまった。
「例えば…六大学野球のMARCHでは、付属校の野球部から上がらないと大学からは野球部にも入れないって知ってる? バレー・柔道、然り。僕らはそういう幼児期の闘いに敗れた系の集まりだから。その中で、乗馬やフェンシング、モーターバイク…個人で資金があれば続けられるスポーツで本気で頑張ってる連中がいるんだ。B組は遠征で長期欠席なんてざらだよ。吹き矢の大会でヨーロッパ回ってる奴とかいるからね。芸術系は芸大目指してる奴とか、舞台俳優やってる奴とか。その点C組は、パチンコ王や家具屋の子供…兄弟の中で一人だけね。だから家庭ではアウェーなのが多いよ。坂下の言ってた“家族の確執”が当てはまる者だらけじゃないか。うちも姉と妹はS大付属に行ってる。父は僕以外のどちらかに継がせると言ってるよ。…誰も他人の秘密を暴く権利なんてないと思うよ」
如何にもいいとこのお坊ちゃん然とした佐々木の風貌の下に、人知れぬ葛藤や気苦労が隠されていると初めて知った。
C組だけホームルームを延長していたので、掲示板の前にはもう人だかりはなかった。
「…本永、君ぶっちぎり一位だ…」佐々木が唖然とした顔で振り向いた。瑞生も開いた口が塞がらない。
「おお」本永は一人、当然という顔をしていた。
「本当は、一緒に夜叉の家に行って事情を聞きたい所なんだが、そうすると多分泊りになるだろ? 蒲田にああ言われた手前、お前の家から登校するのは、なんか付き添ってもらってるみたいでむかつくんだ。だから家に帰る。お前の複雑な事情は明日聞くから安心しろよ」こう言うと、本永はあっさりと母親の車に消えていった。
「ふう」
瑞生はようやく感情を表に出せるので一息吐いた。さっき成績優秀者の張り出しを見てからというもの、本永には申し訳ないが、話は全部上の空だったのだ。
「そりゃ、A組だと聞いてはいたけど」
一位の本永の下に、『二位立和名紗琉』とあったのだ。
「頭、いいんだなぁ」
顔がにやけるのを誤魔化しながら、伯母の待つ車に乗り込んだ。
:夜叉だ。今日で九夜目。少しキューバの話をしようと思う。アメリカのスタジアムで初めて単独ライブをやった時、『世界進出だ。これで世界の名立たるバンドと肩を並べることが出来る』って思った。新譜がビルボードのチャートの常連になるんだと思った。でも海外のアーティストのライブパフォーマンスは半端なくて、俺たちが世界的なバンドになるにはまだ足りないものがいっぱいあった。そこで日本のドームツアーでもっと斬新に試してみたい俺たちとThe Axeテイストを求める観客とずれが生じた。日本では相変わらず大晦日の紅白に出ないと“落ち目”と言われるからね:
:多忙を極めたけど、映画やCMの楽曲を依頼されることも多くなった。タイアップ曲は好きだった。コンセプトが出来てるから、気楽にそれに乗って想像を膨らませればいい。俺の得意な瞬発系だから。映画では皆拘りがあって揉めた。特に俺とキリノが。『suicide Lily』って曲あるだろ。自殺未遂を繰り返す女の子の話。キリノは映画に沿って、でも微妙に映画と違う世界観も滲ませた詩を書いたんだ。俺はもっとThe Axeの曲にしたくて…結果『何言ってるんだかわからない』ボーカルになった。あれ勝手に意味不明な言葉で歌ったんだ。せめてもの抵抗だったんだけど、今思うと、小さいなぁ。キリノの詩を読み返したら…いい詩なんだよ。なんでちゃんと歌わなかったんだろう:
:大丈夫、キューバの話になるから。撮影やツアーで世界中に行った。オフも結局誰かのお膳立てで。何もかも一人で準備したのは、キューバが初めて…最初で最後だったな。目的地を決める条件は、行ったことがなくて、音楽が溢れてる場所。で、キューバだ。昔の俺が行ったのなら、特に感じなかったかもしれない。今回は特別だった。風が違う。太陽が違う。匂い、喧騒の…手触りが違った。誰も俺を見ていないのに、俺にメッセージを発しているんだ。ガンタに言わせれば、『着いた途端、もう病んでたんだな』ってことになるか:
姿は見えないが、ガンタらしい笑い声がスタジオに響いた。
:そう、勝手に受取っちゃうってあるよな。空腹と抑圧と音楽、大国アメリカへの反目・羨望、社会主義国の均一感、無気力、独立の歴史、アフリカの残像、中米の香り、葉巻、フローズンダイキリ。キューバ人の目は虚無ではないがどこか覇気がない。カストロ以降の政治的安定は彼らにとって幸福なはずなのだけど。観光客向けじゃない、夜になるとギアが入るナイトクラブの音楽。豊かで情熱的で、したたか。…俺は葉陰で昼寝をしていたイグアナに出遭った。そして、受け取ってしまったんだ:
:それがゾンビーウィルスか?:
キリノが訊いた。簡潔に、哀しいほどストレートに。
:ああ、そう:
夜叉は正面から向き直って、横に座るキリノに答えた。
夜のニュースはこの話をトップで扱った。
:先程夜叉通信で、夜叉はゾンビーウィルスを承知の上で、受け取ったと語りました。これは『承知の上で感染した』と捉えていいのでしょうか?:
:速報です。厚生労働省では夜叉から感染当時の状況を聞き取るため、コスモスミライ村に職員を派遣すると発表しました:
:帰国直後に行われたヒアリングでは、夜叉は何も語らなかったのですよね? 一体どういう心境の変化ですかね。病院の買い取りと関係があるのでしょうか?:
:一説では、夜叉の具合は思わしくなく、夜叉通信の時だけ無理して起きてるとか。通信の内容ものんびりした“田舎便り”じゃないでしょ。結構切羽詰まってるのじゃないですか?:
:これは注目に値する発言です。ゾンビーウィルスは未だに採取すら出来ていない正体不明のウィルスです。それなのに、承知の上で感染出来るということは、ウィルスを取り扱える人がいて、技術が確立しているということになります。医学界の常識を覆す、爆弾発言ですよ!:
「え?」
厚労省の役人は、眼鏡の奥の目を点にした。スタジオのソファ横のテーブルに置かれたレコーダーが、虚しく沈黙を記録する。
「もう一度、言ってください。夜叉さん」
「もう一度ビデオを見てみろよ。『俺は葉陰で昼寝をしていたイグアナに出遭った。そして受け取ってしまったんだ』…つまり、テレビの連中が騒いでるように『承知して感染した』なんて言ってない。俺はイグアナに気づいて、手を差し出して噛み付かれた。それで感染したんだろうと、後から推測しただけだ。今思い出しても、あのイグアナは何というか特別で、ゆったりと神々しく構えていて、如何にも特別な存在だった。だから『感染された』のではなく『受け取った』が相応しいと思ったんだ。感覚の問題だ。根拠があるわけじゃない」
眼鏡の役人は固まった。もう1人の入省2年目くらいの役人は顎を外すくらい口を開けたままだ。
「それじゃ、私たちは何のためにここまで来たのですか…?」
「知らないよ。そっちが勝手に来たんだろ。俺が頼んだわけじゃない」
下っ端が口を閉じないので、眼鏡は1人で立ち直り、なおも挑み続けた。「では、帰国時に受けた厚労省のヒアリングで『感染時に思い当たる記憶はない』と言っていたのと、話が変わっているのは何故ですか?」
「あの時は、役所の連中が入れ代わり立ち代わり、血相変えて訊いてくるから、曖昧な感覚で答えちゃいけないだろうと思って、正直に『この時感染したという確信的な記憶はない』と答えた。言った通り、科学的根拠のある話じゃないからな。それとは違って、今日は俺の個人的な番組だから、思う所を話したまでだ」
眼鏡は苦々しくメモを胸ポケットにしまい、不甲斐ない後輩に、席を立つよう促した。だが、下っ端は使命感に燃えて質問した。
「あの、どんなイグアナでしたか?」
「…緑。特別な、高貴な雰囲気の」
メモる後輩に、眼鏡はイラついて質した。「そんなこと聞いて何になる」
「捕獲しないと。保菌というか宿主ですよ。キューバ政府に連絡して…」
「真っ赤とか虹色とか言うのならともかく、緑なんてありふれた色のイグアナを探せるわけないだろう。それにその辺にいるイグアナだとしたらキューバはとっくにゾンビだらけだ」
役人たちが立ち去った後の面会室は、聞き取り調査を観賞していたメンバーやスタッフ、瑞生たちの笑い声に包まれた。
夜11時の情報番組で、厚労省のコメントが読み上げられた。瑞生と伯母は、それをひんやり冷たい伯母の実家のテレビで見ていた。昼間に空気を入れ替え、当座の食料品などを買ってきたのだという。
:『今晩、厚労省は夜叉邸を訪問し、夜叉本人から聞き取り調査を行いました。夕方に放映された夜叉の番組に基づいての事ですが、特に目新しい話を聞くことは出来ませんでした。この件については、新事実が見いだせない場合は、今後新たに記者会見を行う予定はございません』とのことです。ええと、これはどういうことでしょう?:キャスターが解説者に問いかける。
:はい。実際に聞き取りをした人からではないのですが、厚労省の知人に聞きました所、夜叉は番組では『イグアナに遭い、受け取ってしまった』と言っていますが、感染を承知であったわけではなく、結果として『あの時イグアナと接触したからだろう』と推測したという事のようです。帰国時の聞き取りでは、役人に繰り返し訊かれる中で、自分の『推測』ではいけないと考え、正確に『はっきりとはわからない』と答えたそうです。今日の自分の番組では『自分の感覚としてはこうだ』と話したのだと:
:つまり、別に誰かがウィルスを扱い、夜叉に承諾させて感染させたというような事実はない、ということですか?:
:そうなりますね。私も夜叉通信を見直しましたが、確かに、第三者の関与を匂わせるような事は言っていません。イグアナに特に思い入れがあるようなので、擬人化した言い回しになり、それが『受け取ってしまった』となったと。それが視聴者や私たちには納得の上での感染であると受け取られたということですね:
:あ~、そうですか。う~ん、つまり騒ぐほどの事ではなかった、ということでしょうか:
「瑞生、客室で寝る? 雪生の部屋で寝る?」
「あ、お父さんの部屋にする…」
伯母はさばさばと支度をしているが、瑞生はこの家に馴染んでおらずお客さん状態だ。しかし、ずっと空き家だった割には、昨年に発売されたテレビが置いてあることに気づいた。父と瑞生が暮らしていた家には、地デジに代わるためやむなく買い換えたテレビがずっと使われていた。
少なくとも、ここでテレビを見る時間的余裕がある人のために買ったわけだ。伯母さん自身のためかもしれないけど。
父の部屋のドアノブを握ったものの回すのに勇気が必要だった。この前は突然で、心の準備が出来ていなかった分、あっさりと入ってしまったのだが、今回は『さぁ父の部屋に泊まるぞ』という気持ちが出来ている。瑞生は手汗を拭い、深呼吸して、「お父さん、入るよ」と言ってドアを開けた。
瞬間 父が見えた。
―瑞生、よく来たね。入ってー
瑞生はその場にしゃがみこんで泣いた。




