2015年6月21日②
これで一安心かと思ったら、そうではなかった。クマちゃんは瑞生に、1階で霞の分もお茶を淹れてきてはどうかと提案した。
伯母を呼びに行ったのは、伯母の心配だけでなく、ミーティングに加わってほしいからか。大人って本当に信用ならないな。
瑞生はにっこり笑って、「伯母さんと行くよ。伯母さんのお茶の方が美味しいから」と返した。
クマちゃんは諦めて鼻を鳴らすと足を組み直し、“待ち”の体勢になった。前島は怪訝な顔でそれを見ていた。
「AAセンターに買収を打診したのは、私が村に呼ばれてすぐ、ちょうどロハスが瑞生君の情報を流出させた頃で、まだ自治会長は田沼だった。速攻で田沼から猛抗議が来た。『AAセンターは村と結びつきが深い。そういった話は私を通しなさい』と。建村時に建った病院とは言え村の住人を緊急時以外診察しないのに、違和感のある話よね。直後にビジター事件が起こり、買収は打診で止まってしまった。その隙にセンター発足の経緯や経営状況について関係者に聞き込みしたの。そうしたら、センターに入院中の八重樫さんの耳に入ったらしい。忘れもしない、6月15日。藁科さんが夜叉を襲い私はぶっ倒れてセンターに運ばれた。あそこはサロンみたいで完全個室でしょ? 夜更けに八重樫さんが病室を訊ねてきた。センターのブラックな資料一式を携えて」ここで、クマちゃんは言葉を切って、一同を見渡した。
腕組みをして聞いていた前島が手で続きを促す。
「さっきも話したように、八重樫さんの資料は下種なネタが豊富で驚いた。医長に愛人がいるのなんて私にはどうでもいいこと。でも、病院の収支報告書や二重帳簿を匂わせる書類は興味深かった。そして気づいたの。ベッド数が多く、しかも稼働している。つまり驚くほど入院患者がいる、ということに。霞さん、何かご存知?」
名指しされた霞は、皆の視線を浴びたこと以上に、質問の内容に戸惑いを感じたようだ。「え?」珍しく困惑を顕わにしてクマちゃんに問う眼差しを向けた。しかし、クマちゃんの強張った表情から事情を察したらしく、こっくりと頷いた。
「…以前、聞いたことがあります。ええと、あの、VIP病棟のこと、ですよね…?」自信無げというより、言及したくないという言い淀み方だ。
察したクマちゃんが「やはり事前会議メンバーには周知の事実なのね。言いにくいでしょうから、私が言います。前島さん、AAセンターには、VIP専用の隔離病棟があるのよ」と一息に言った。
前島は面食らったように繰り返した。「VIP専用隔離病棟…? なんだ、それは?」
「…金持ち親族の要望に沿って患者を幽閉している病棟。精神疾患が多いようだけれど。例えば、未成年で傷害事件を起こし心神耗弱を認められて罪に問われなかったものの、家庭での療育を条件付けられたケース。都心から離れたAAセンターに極秘で移した…要するに…厄介払いのための施設なのよ」
クマちゃんは憮然と言った。前島はにわかには信じ難いという表情で呟いた。「それは…昔あったような、家族の申し立てで精神病院に入れてしまい一生出さない、と言うような事か? 今は平成だぞ?」
クマちゃんは事の重大さがわかるように説明してくれた。
「精神科の入院には大きく3種類ある。本人が自ら入院に同意する任意入院。本人の保護者の同意による医療保護入院。都道府県知事の権限による措置入院。本人の意思が反映された任意入院が最も望ましい。退院に関しても本人の希望に沿うのが望ましいから、入院延長となる場合は本人に十分説明するなど手順が定められている。措置入院は自傷他害の恐れがある場合に、精神保健指定医2名以上の診察が要件となっている。人権尊重のため厳しいルールがあるのよ。…それをないがしろにして、“アンチエイジング”という目新しい名称を隠れ蓑に用い、N不動産と建村時に便宜を図った政治家や財界人の強い要望で作られた。八重樫さんが持ってきた開院支援者名簿には、元閣僚や経団連お歴々の名前がずらりとあった」
「…とんだパンドラの箱を開けてしまったものだな」前島ですら、言葉少なだ。
「…何人くらいの患者さんが入院しているの?」瑞生はAAセンターの外観を思い浮かべて聞いた。ともかく馬鹿デカい施設なのだ。
「VIP用の快適居住空間が確保されていて、健康管理としては理想的でしょう、退院の自由がない以外は」
「入ったら死ぬまで出られないから、患者は溜まっていく一方ということだな」前島が渋い顔で引き継いだ。「どうするんだ。…というより買収の際どういう取り決めになったんだ?」
「もちろんN不動産もバックの権力者も、買収に対して拒絶反応を示した。しかも八重樫さんが『交渉の席に着かないなら資料を曝露する』と勝手に宣戦布告してしまった。ところが八重樫さんの下世話なネタは権力者たちの眉を顰めさせるのに十分機能した。彼らにとって最悪の事態とは、VIP病棟が公になりプライバシーが大衆に晒されること、馬鹿な現場のスキャンダルで病棟が潰されること。そこで現経営陣を切り捨て、夜叉の買収話に乗ることにした。現医長たちは抵抗したけれど、使い込みなど背信行為を訴追されるとみるや沈黙した」
「あ、夜叉通信で夜叉が『今まであった専門科は継続する』って言ったのはそういう意味? それって?」瑞生には、憤慨していたクマちゃんがその病棟の存続を決めたことが解せなかった。
「夜叉は『存続させてやってもいいけど、俺は患者を閉じ込めてる病棟なんか、嫌だからな。その上隠すなんて御免だ。何もかもオープンにすればいい』と言った。『家族をこっそり閉じ込めといて自分たちだけ優雅に暮らしてる連中が、真実を曝露され非難されたからって、知った事か』と。私は逆で、オープンにも存続にも反対した。患者を家族の元に返し、この恐ろしい病棟を作った者たちの責任を問うべきだと思ったの」クマちゃんは苦悩し続けるジャイアントパンダみたいだ。
「ところが、そう簡単にはいかなかったのだね?」と前島。
「買収交渉が正式に始まり、デューデリ…デューデリジェンスと言って買主が買収対象医療法人の財務・法務などの内容を精査するのだけど、それで八重樫さんの情報はセンセーショナルな部分に偏っていて全貌はかなり違うということがわかったの。確かに厳しく言えば“厄介払い”で“幽閉”なのだけど、生活環境が劣悪かと思いきや優良だし、各種療法を同意の上で粘り強く試みていた。事実、拒食症の元官房長官の娘は治癒して退院したし、傷害事件の元少年も社会復帰プログラムの最終段階にきている。全ての症例で成果が出ている訳ではないけれど悪化は一例もない。まあ金銭補償以外に被害者や社会と向き合い、制裁を受けたかと言うと、免れているという側面は否めない。入所時はほとんどのケースで強制的だったろうし。でも入所後は…自宅に引き籠ったり、拘束が日常化している精神科の閉鎖病棟に入院するよりも遙かにいい治療環境なのよ。これをただ糾弾して閉鎖に追い込むことが、果たして正しい事なのか? この施設の存在を明らかにし、手続きを是正し、金額は高めでもN不動産やバックの連中抜きで入所できる施設にすれば、存続させた方がいいのではないか、と思うようになったの」
苦渋の告白。
人権を守るため闘う弁護士にとって、奇しくも夜叉の希望に沿う形で病院を買収することになったものの、人権の方が結果オーライでは、クマちゃんの倫理観と合致しないのだろう。
「最初に言ってた“VIP専用隔離病棟”って言い方しちゃうと、世間体が悪いね…。存続するのならもっと愛されそうなネーミングに変更しないと」
前向きな提案だったのに、クマちゃんはシビアな意味に受取った。
「おっしゃる通り私の当初の見立て“悪の病棟”ではなかった。施設の詳細を見て、『セレブにも血が通っているんだ』と感心したもの。言い訳になるけど、建村当初の病棟はほぼ“隔離病棟”だったのよ。…バブル期って心根も金銭感覚も異常だったから、その時係わった理事長や権力者の責任は問いたいけれど、その責めを今の医師や患者に負わせるのはおかしいわよね」
「“パンドラの箱病棟”って名前にしたら? ちなみに“パンドラの箱”って何ですか?」瑞生は手っ取り早く前島に聞いた。
苦悩の只中にいるクマちゃんが「うぷっ」と吹いた。
「で、向こうは夜叉の情報公開を承知したのか?」パンドラの箱の解説をさくさくと片付けると、前島はクマちゃんの方に向き直った。
「紆余曲折あったけど売却は合意、存続も合意。入院患者は転院の心配をせずに済む。そして、そもそも精神科へは検査入院しただけで、その後本人家族の希望でセンター内の療養施設に入居していた…おそらく後から書類を整えたのでしょうけど、つまり法的にはセーフ。厚労省や税務署からは『精神科と療養施設が明確に分けられていない』とか『届出が不備』とか突っ込まれるでしょうけど、謝罪して済ませるつもりよ。いささか小賢しいやり方が鼻に付くけれど致し方ないわ…」クマちゃんはどっと疲れた顔になった。
「売り手と買い手が合意した。“誤解を招くような療養施設”を認めるとセンセーショナルでメディアは騒ぐでしょうし、世間の風当たりは強くなる。夜叉をもってしても逆風になるでしょう。それに付随して骨形成不全症の専門科を起ち上げるというのは如何にも奇異に映るでしょう? だって新治療法のプランがあるわけではないし、八重樫さんが個人的に熱望しているだけなのだもの。例え夜叉に頼らず資金は自己負担だとしても。デューデリに参加した専門家全員が骨形成不全症の専門科設立を認めなかった。ついでに言うと、旧経営陣も売り手連中もね。まぁ八重樫さんの人徳のなせる業ね。当然、納得がいかないのは、売買の立役者のつもりの八重樫さんよ。激高していたわ。そして、こうしている間にも記者会見の時間は迫っている…。前島さん、どうすればいいと思う?」
でっかい両掌の上にまん丸の顎を載せて、クマちゃんは上目づかいで見上げた。前島の口から洩れてきたのは溜息だけだった。
AAセンターが夜叉に買われて、少数感染症研究センター(仮)に生まれ変わるという記者会見は予定通り3時に始まった。村から一番近いY市の市庁舎で行われているので、冒頭その説明があった。理事長以下前経営陣は一掃され、新しい理事長たちがカメラの前に並んでいる。
理事長はニューヨーク在住のスーパーコンサル・山野山男。横に担ぎ出されてきた感満載のお爺さん理事が2人。院長はロックミュージシャンとして活躍後一念発起し医学部受験、医師として地道に働いていたトミー岡崎こと岡崎富弥。事務長は『日本で一番有名な監査法人を辞めて参加した』凄い人らしい。持ち込んだスクリーンの前にオタクっぽい2名もいて、全く統制は取れていない。一際目を引くのはやはりサニだ。こうして画面で見ると、かなりカッコいい。
「ロドリゴが来ていなければ、外に出られなかったものね。前島さん言う所の“周到”か…。え、え? も、森山?」
瑞生はサニの横に後から入ってきて座った森山を見て絶句した。
口をパクパクしながら振り向くと、承知しているクマちゃんたちは「質問は後で受けるわ。今は会見を見ましょう」と澄ましている。
記者会見はきびきびしていた。スーパーコンサルだけあって山野は淀みなく理事長就任の経緯と志を語った。夜叉からトミー岡崎に話がいき、トミーからニューヨークに電話が来て、急遽決断したと胸を張った。
:夜叉は最期までムーブメントを起こしている。ファンの僕としては『もう手伝うしかない』、これですよ。ゾンビー症候群と言うと、政府間・研究機関同士の競争が喧しいが、夜叉は無駄な争いを排除し、自分自身を提供して純粋に研究できるようにした。その精神を守り支えたいと思ったわけです:
トミーは勿論、:夜叉さんは生きる全てがロックだから。死んでも蘇るところなんて最高。それを真面目に研究してほしいってところも最高だ。俺は医師として手伝うまで:と熱く語った。
事務長の桜井賢は堅物そうな見た目そのままに、:旧AAセンターのような監査で皆様に顰蹙を買うような病院にはしません:と述べた。
続けて:これからは、夜叉のオークションに寄せて頂いた皆様のご好意で基本運営をしていくのですから、無駄なく倹約していきます。以前のアンチエイジング病院としてのノウハウを活用し、滞在型AAコースなどを用意し利益を確保します。研究施設はゾンビーウィルスの研究に使用します。夜叉の希望だった難病指定未満の病気のための検査機関として何か出来るようにしたいと思っています。またセンター内にある療養施設は患者やご家族の要望に沿い、従来通り存続することとなりました。K大・T大附属病院と提携していくことも決まりました。この病院の“これから”を積極的に作っていきたいと思っています:と目を輝かせた。
意外だったのは、例のパンドラの箱について言及したのが、キレッキレの山野でもロッカーのトミーでもなく、カチコチの桜井だったことだ。「これだけさらっと流せば、まさか“VIP専用隔離病棟”のこととは誰も思わないね」と瑞生が感心して言うと、前島は、「記者は鋭いから、叩いて埃が出るのはここだ、と思っただろう」と冷静に言った。
各科の責任者が紹介され、ゾンビーウィルス科はサニ、アンチエイジング科は森山、存続する精神神経内科の責任者は留任と告げられた。サニの後ろに控える2人のオタクは紹介されるでもなく俯いている。
質疑応答の時間になると、記者から次々に質問が出た。
:ヒメネス医師は当初からそのつもりで来日したのですか?:
:ゾンビーウィルスを採取出来たら研究はキューバと共同ですると協定を結んだのですか?:
:アメリカの研究機関が黙っているとは思えませんが?:
:厚労省はなんと? この病院の位置づけは?:
:夜叉の遺体解剖の権利は誰にあるとか、決めたのですか?:
次第に質問はサニに集中していったが、サニは流暢な日本語で冷静にこなしていた。結局、夜叉の個人所有の病院なのだから、夜叉の望むように研究して、その成果が真っ先に夜叉に帰属するのは当たり前の事だ。自分の身体を名誉欲で切り刻まれることを夜叉が拒否したということかもしれない。
「毎日、夜叉関係で紙面は一杯。情報番組のネタを提供し続けるカリスマなのじゃないか」前島は呆れるように言った。
会見の模様を壁際で見守っていたミライ村自治会長の藤森が発見され、市庁舎内で混乱を招かないよう、記者会見席に誘導されてきた。村に籠られるとメディアは手を出せないので、この機を逃すまじとマイクを突き付けた。
:藤森さんが来ているということは、村は夜叉の病院買収を支持するのですか?:
:何故村営にしなかったのですか?:
藤森は穏やかに答えた。
:村営にするには資金面で無理ですね。多額の出費に皆が賛成するとは思いません。それに村民の診療所レベルの施設じゃないですから、宝の持ち腐れになってしまいますよ。急患に対しては従来通りの対応をお約束頂いています:
:今後夜叉の少数感染症研究センターは村にどう影響すると思いますか?:
:まずは夜叉の健康管理とウィルスの研究が第一です。セキュリティは改めて整備する必要がありますね。各企業の研修施設や大学院の研究所も含めて、村の今後の在り様を考え、話し合う機会を設けていくつもりです:
:ミライ村は夜叉が来てからケチのつき通しですよね。少年の情報が流出したり、報酬目当てで冷やかし客を大量に導き入れたり、田沼元自治会長が殴られたり、モラル崩壊している点についてはどう考えますか? 村の変革なんて住人の性根から叩き直さないと無理なんじゃないですか:
藤森はキツイ質問を投げかけた記者に目を止めた。記者はなおも続ける。:セレブ村なんて所詮日本では無理だったんじゃないですか? ビバリーヒルズみたいな街、せこい日本人感情には合わないでしょう? チバリーヒルズ然り! 藤森さんは作家として何を求めて金持ち村に来たんですか?:
藤森は口元に手を当て黙っていたが、話し出した。
:僕は数年前、遅筆の癖に連載や脚本を抱え過ぎてしまって。少しは納得できるものを書けたとは思うんだが、書き終えた途端空虚に憑りつかれた。燃え尽き症候群というやつ。それを気にして訪ねてきたり誘ってくれる業界の人というのが…実は僕も家内も苦手で。下戸だし酒席とカラオケが苦痛なので結局気分が塞いでしまった。心配した家内の提案で、都心から離れた土地に引っ越すことにした。子供たちは既に独立していたしね。ここは文字通りトッタンだから広く遠く見渡せる海原が気に入って購入した。田舎暮らしが得意なわけじゃない僕でも何の心配もいらない程人工的に整った村だしね。かれこれ7年経つけど、僕はこの村の生活をとても気に入っている。セレブは重要じゃない。しかしプライバシー保護に関して余所では望めないレベルだ。例に挙げていたチバリーヒルズでもどこでも、住人の年齢が上がる20年後、30年後、コンセプトを持って立ち上げられたコミュニティは岐路に立たされる。ここ数年この村も軋みが酷くなっていた。建村当初はN不動産の都合が住人の利益と合致していたのだろうが、N不動産の撤退以降は徐々に変えるべきだったと思う。あなたの揶揄する“金持ち村”の存在意義は今でもあるのか? これは僕だけが考えても意味がない。住み続けようとする人皆で考えるべき問題だ:
記者はなおも藤森に批判的な言葉を浴びせたが、藤森はもう答えることはなかった。今日から受け付けている住人のアンケートで村の進む方向が見えてくるのか、それ自体まだはっきりしていないのだ。
突然どよめきが起こり、サニの後ろのオタクが立ち上がり、先程AAセンターの外観を映し出したスクリーンを指さした。記者も藤森も、頸を伸ばしてスクリーンを見つめ、記者席に駆け戻る者もいた。
「スマイル動画?」
スクリーンに映し出されたのは、『Live』と表示された、怒りマックスの八重樫宗太郎の顔だった。
「宗太郎の自室だわ」
こんな風に久しぶりに夫と再会した(直ではないけど)というのに、伯母はいつもの冷静さを保っていた。
:私は、コスモスミライ村の一市民として告発する。この病院の売買は不透明だ。旧経営陣は経費で愛人に車を買い、医療機器業者と癒着してマンション投資をしていたような連中だ。あんな奴らには病院を経営する資格がない。それを調べ上げた私の功労に対し、夜叉一派は報いることなくゾンビーウィルスの研究所にしようとしている。私はあの病院が建つからこの村に住むことにしたのだ。いずれ自分のための病院を作ろうと決意してね。確かに夜叉が現われ行動を起こさなければ、私も集めた資料を活かすことは出来なかった、それは認めよう。ともかくあんなに馬鹿でかい病院なんだから、一区画を私にくれたっていいだろう:
宗太郎の神経質そうな目の動きがヤバイ。汗が吹き出しているのまでよく映っている。撮影者は曽我さんだろう。
:それに『もう他の病院に専科がある』とか言って私の専科を拒否した癖に、あそこに建村時からある精神科病棟は存続させるだと? 精神が崩壊した負け犬を守って治療する意味などない。私はあの病棟に入院しているVIP親族のリストを持っている。公開されたくなければ私の専門科も開設しろ:
記者会見場にいる地方紙やメジャー局からケーブルテレビの記者まで雑多な報道のごちゃまぜ集団が、一様に声を揃えてこう言った。
:脅迫…?:
皆の目がスクリーンに釘付けになっているまさにその時、画面の中央を『人には自分の病気を他人に知られないでいる権利があるだろ~』という真っ赤なコメントが過った。『告発と言いながら、お前のしてるのは脅迫だ』『あんたの事情なんてどうでもいいし』と続く。サニの後ろのオタク2人が俯いてノーパソに入力している。
なるほど、伯父が何か仕掛けてきた場合に備えていたのだな。ここからじゃ確かめられないけど。
ネットの民からの即座の反応に宗太郎は気をよくしたようだ。
:ふん。ネット社会では、ニュースソースが怪しくても一度流してしまえば勝ちだ。流出したリストを必死に取り消しても無駄な事だ。曰く『あの家には心を病んだ奴がいる!』:
赤字『精神科の患者リスト流出、AAセンター関係者?』
宗太郎の鼻息が荒くなる。:ふん、私の顔を見て誰だかわからないようじゃ、お前、住人じゃないな:
黒字で『金持ち村の住人なんかじゃないよ~』『やっちゃえ。公開しろ』『異常者のリスト?見たい見たい』コメントで宗太郎の顔が埋まっていく。『禿げおやじ凶悪』『差別差別差別差別…』
瑞生は伯父がネットの反応に煽られてどんどん増長していくのを暗澹たる面持ちで眺めていた。伯母を見やると、氷像のようだ。
一方記者会見場では、宗太郎の暴走が狂人の譫言なのかリアルな犯罪行為なのか判然としないため、騒然としていた。
記者に詰め寄られたのは藤森だ。
:自治会長、この人は村の住人ですか? 『知らなきゃもぐりだ』と本人は言わんばかりですが?:
:個人情報でしょう、どこに住んでいるかは。僕が言うわけにはいかないと思う:と藤森。
:この人が言うように病院買収時に問題があったのですか?:
:精神科病棟の入院患者リストが漏れたら、責任問題でしょう?:
:自治会は病院売買に一切関与していないので、僕に聞かれても…:藤森はこれを機に矢面から引こうと後ろに下がった。
記者たちが藤森から新経営陣に向き直った時には、もう皆引き上げていて、しんがりの桜井が:病院の売買交渉は専門のコンサル会社に委任しました。これから引継ぎが行われますので、それ以前の管理責任に関しては旧経営陣の医療法人秋桜会に問い合わせてください。私どもが今お話しできるのは、個人的に専門科を作りたいという申し出があり、既存の病院がある事やニーズを勘案して、お断りした経緯があるという事だけです。本日はお集まり頂きまして有難うございました:とお辞儀をして去って行った。
動画の人物に関する情報を求めて記者の声が響く中、スタッフがカラフルなコメントで埋め尽くされたスクリーンを黙々と片付けていた。
「どうなっちゃうのかなぁ」瑞生は誰にともなく呟いた。
それまで面会室の片隅でノートパソコンに向かいながら、ひっきりなしに電話で誰かと話していた前島が、椅子の背に反り返って伸びをしたので皆の視線を集めた。
しかし前島は愛想笑いすら浮かべずに、霞を呼んだ。瑞生が耳をダンボにして聞いていると、前島は「立ち入った事なので、答えたくなければ…」と前置きした上で、八重樫家の生活費の管理や家事の分担、曽我さんの食事まで細かく聞き取り調査を始めたのだった。霞は小さな声だったが全ての質問に淀みなく答えていた。
10分後、霞が席を立つと、前島は瑞生を呼んだ。
「表面的な事については大体わかった。君の見た曽我さんと伯父さんの変な関係を教えてくれ」
「う~ん。伯父さんの服全部パンツまで買ってきてたこと」
皆この部分に一斉に反応した。クマちゃんは「ああ、なんか、わかるわ。典型的ね」、門根は「霞さんがパンツ買わなくて済んでよかったと思っちゃいかんのか」、前島は「母か妻か、どちらのつもりだったのだろう」、伯母は他人事のように無表情だった。
クマちゃんが腕時計を見た。そろそろ夜叉通信だ。
「わかったよ。明日には私なりの仮説を立ててくるから。それより八重樫さんと瑞生君は、今日から家には戻らない方がいいだろう。理由を作って親戚か友人宅に身を寄せるか、ホテルに避難するか」前島はいささか突き放して答えた。「ストーカーでも保険金殺人未遂でもないから、不自然に姿を隠すと相手が過剰に反応する可能性もある。それに、私はあちらが法に触れてから登場しないと」
「その点は気を付けます。八重樫さんからクレームをつけられて、上が前島さんをここから外さざるを得なくなると、こちらにとっては大打撃だから。あくまでも前島さんはロドリゴのテロ関連の調査に来ているだけ、で貫かなくてはね」クマちゃんは引き締まった表情を崩さない。
凛とした伯母が応えた。「ホテルからここに通うのは、すぐばれそうです。瑞生と会えないのは心配が募るので困ります。『親戚が具合を悪くしたので暫く手伝いに行く』のが自然だと思います。それだと『疎遠だった親戚が瑞生に会いたがって』と一緒に行けますから。学校にもこちらにも私の車で通えばいいのじゃないでしょうか」
「パーフェクト」クマちゃんがぶっとい親指を立てた。
:やあ夜叉です。今日は八夜目だ。病院の件では、今までで一番色んな種類の意見をもらったな。『難病指定を受けられないでいる病気を研究してほしい』とか、『クラウドファンディングで投資してもらって、村の他の研究施設も全部買い取って、ウルトラ難病研究村にすれば難病間の不公平感が無くなると思う』とか。『村の空き邸宅をCMや映画の撮影用にして稼いで病院経営に使うといいよ』とか。…思うに、みんな優しいな。俺が思ってた日本人のイメージより遙かに優しい。こういう風に知恵を出してくれるなんて思ってもみなかったよ:
:バンドを始めた頃、俺はうだうだと迷ってる奴にズバッと『人生一度きりだろ。やらない後悔よりやった自分を愛そうぜ』なんて言いきってやりたかったんだ。ロックミュージシャンが迷ってどうする、と思ってた。でもキリノの詩は『人生=迷いの森』って感じが多くて、正直不満だった。俺の中の羅針盤は、俺がやりたいかやりたくないかで示す方向を決める。ずっと、そうやって生きてきた:
:それが、キューバに行って、一人ぽつんとあの空気の中にいたら、突然、『迷いが生じるのは自分以外の人の事を考えるからじゃないのか?』『正解と誤りの境界も死者と生者の境界も、本当は曖昧だ。しかも常に変化している。俺はズバズバ選択してきたつもりだったけど、迷ったからと言って悪いわけではないな』って思った。…今、横でキリノとガンタとトドロキが『信じられねぇ~』って言ってる。『45まで気づかないって、どういうことだよ』? ほっとけ、これが俺だ。言っとくけど、今でも俺はほとんど迷うことなく生きてるぞ:
:今でも迷わない、すなわち、自分が見えてない。だから今でも周りに迷惑掛けっぱなしだ。お前の生きてきた軌跡そのものだ。今まで気づかないからこそ続けてこられたんだな:トドロキの呆れたような声が聞こえた。カメラが慌てて引いて全メンバーを映した。
蒼さを増した夜叉の顔と、ほぼ銀色の鬣のような髪を見ていると、段々夜叉が伝説の動物、カッコよく言えば神獣みたいな生き物に変容しているのではないか、と思えてきた。
その夜、AAセンターに新旧経営陣が集まるらしく(絶対招待されてはいないと思うが宗太郎がのんびり在宅しているはずがない)、八重樫家は無人だった。それをいいことに、伯母と瑞生は必要不可欠な荷物を持ち出した。
伯母は2度と戻れないと仮定して判断するようにと言った。
「お金では買えない物は必ず持っていって。私は従妹の物を借りればいいけれど、あなたは男の子だし、学校の物は代わりがないから」と。瑞生の持ち物は少しだし、霞はどうやら事前に準備していたようで運ぶだけだった。
一昨日初めて訪れた霞の実家から車で20分ほどの、もっと港近くのにぎやかな街に親戚の家はあった。何度となく聞いた宝石店もすぐ近くにあるという。
突然(話がいったのは僅か三時間前だ)押しかけた2人を、伯母の親族は当たり前のように迎え入れてくれた。
驚いたのは、見事なまでに女系家族だということだった。霞の父の妹(つまり霞の叔母)2人とその娘たち(つまり従妹)とその娘たち。大叔母の伴侶は死別だが従妹の伴侶は、亡くなったのではなく単身赴任と離婚だったので、ほっと胸を撫で下ろした。本当に男は生き残れない家なのかと思ったのだ。
そこは大叔母Aの家で、皆は瑞生を見に集まったと聞かされた。女だらけでかしましいかと思いきや、2人の夕食がまだだと知ると、挨拶だけですぐに引き上げていったので、拍子抜けしてしまった。
血筋なのか皆クールで頭の回転が速そうだ。きっと伯母さんの窮状を心配してくれたんだな。
明日の予定を確認すると、大叔母AとBは霞と瑞生2人だけで過ごせるようにしてくれた。大叔母2人がドアの手前で振り向きざま瑞生に投げかけた視線が、ただ同情するとか、親しみを持つとかいうような類ではなく、何とも言えない感情の綯い交ぜになった複雑なものであったことが、瑞生の心に突き刺さった。
残された2人は黙って買ってきた弁当を食べた。温かいお茶がとても久しぶりに感じられた。さっさと食べ終わると瑞生は座ったまま部屋を見渡した。古い家だが伯母と父の育ったというあの家とはずいぶん雰囲気が違う。明るい。ぬくもりを感じる木の家具とベージュの壁。キッチンも八重樫家が機能的なステンレスのイメージだとすると(伯母の実家のキッチンは見たことがない)、ここはカントリー調だ。ハーブやポプリが天井からぶら下がっている。
案内された寝室は屋根裏部屋で、天井が低く、寝るためだけの部屋だった。
「狭くてごめんなさいね。昔主人が使っていた部屋はポプリを作る作業部屋にしちゃったものだから」と大叔母Aは恐縮したが、瑞生は狂喜していた。「とんでもない! 僕こういう部屋憧れてたんです。アルプスの少女ハイジみたいで、いいなぁ」
大叔母Aは吹き出した後、「あんまり雪生君にそっくりだから心配したけど、大丈夫そうね。あなた、明るいわ」と言うと去って行った。
瑞生は、ハイジのように白い(干し草入りではないが)クッションを抱えて、屋根裏部屋で一人、残された言葉を反芻していた。




