2015年6月21日①
2015年6月21日
不穏な朝だった。居候の分際で居心地が悪いなどと言うべきではないのだろうが、居候だからこそ、この家の空中分解は明白だった。
以前同様早朝から宗太郎がリビングで大画面のテレビを点けている。その横に曽我さんが座って宗太郎の洗濯物を畳んでいる。
昔見たドラマの、子離れしない母親がマザコン息子の横で世話を焼いてるシーンそっくりだ。…ここまで年取ってなかったけど。
瑞生は宗太郎に挨拶もせずに、キッチンに行った。今朝はリビングに居場所のない伯母が瑞生の分の朝食と共にそこにいた。
「どう思っているの?」ストレートに訊いた。
「…真意を測りかねている」霞はコーヒーを飲みながらストレートに答えた。
それ以上は話さなかった。曽我さんという行動力のある、宗太郎に忠誠を誓う間者が気を利かせれば、ここもそれぞれの自室も、もはや安心できる場所ではなくなっている可能性大だ。
「伯母さん、村の周辺でデートするとしたらどこがいいの? オススメのスポットとかある? 下見したいからこれから付き合ってよ」
目を丸くした伯母だが、「う~ん、いいわよ。車をY市の公園パーキングに入れて、幾つか回りましょうか」と話を合わせた。
どんよりとした空模様だったが港の開放的な風は心地よく、瑞生も霞も、大きく息を吸って一気に吐き出した。盛りを過ぎたバラが花びらを散らす庭園の中の東屋でお茶を飲みながら、ようやく安心して話すことが出来た。
「一体何がどうなっちゃってるの?」瑞生は更にくだけたトークになる自分を止められない。
伯母も問題の深刻さに心奪われているためか一向に気にする素振りを見せず、「さっぱりわからない。これは一過性なの? 永遠にこうなの?」名物のニューヨークチーズケーキを口に運んだ。
「僕に訊かれても。この待遇の激変に心当たりはないの?」
「強いて言えば、入院。私の生活の中心が夜叉やあなたになっていたことが気に障ったのかしら」
「離婚とか、仄めかしてきた?」
ビクッと眉を上げたが、「まともに話していないの。曽我さんが常にへばりついているし」と首を傾げた。
しかし「離婚したいのかしら? 知っての通り私と宗太郎の結婚はお互いの利害関係で成り立っている。私は生涯の安泰な生活。宗太郎は体は不自由だけど妻と家庭生活があるという世間体」といつもの霞らしく冷静に分析し始めた。
「確かに数年前までは意味があったと思う。中年の独身者にこの国は厳しい。逆に家庭を維持していれば社会的信用は保証される。社交上、ご立派な会食の席で家族の話を振れない相手って面倒くさいでしょう? 宗太郎は『僕はアウトドアはアウトだけど週末は妻と家で古い映画を見るのが好きなんだ』と言える。相手も安心して家族や旅行の話が出来るというわけ。私も“無職”より“専業主婦”の方が聞こえがいいものね。気が合う部分はほとんどないけれど、お互い不干渉だったからある意味安心していられた」
「いたずらに住民票を動かすとは思えない。かといって、私と離婚して曽我さんと結婚するならまず最初に住民票を動かしたりはしない。目的はわからないけど、曽我さんに今までの影のような存在としてではなくて、表の肩書を与えたいと思ったのかもしれない。うーん…第一秘書みたいな? その分私の存在がぼやけたと言うか本当に霞んだと言うか」
「なるほど。その解釈、わかりやすい」感心して、ハーブティを啜ると、霞が懐かしむように見た。
「雪生はアールグレイやダージリン、香りのいいお茶が好きだったわ。私はコーヒー党。雪生は優しいものでできていた。私は今苦境なのかもしれないけど、あなたと雪生の話が出来るから幸せね」
少し涙ぐんでいるのかもしれない伯母の感傷を無視して瑞生は現実を突きつけた。
「あの家を出て、生きていけるの? 僕は伯母さんの甥だから、お金が無くても伯母さんと行くよ」
「…」今度は点になった目が戻るのに時間が掛かった。
「…派遣で、企業の受付をしたことがあるけど…」
「まずは気持ちの問題を訊いただけだよ。働けって言いたいのじゃない。ただ、曽我さんは伯父さん中心に舵を切って伯母さんを立てる気はないみたいでしょう? 扶養されているからと甘んじるのかを聞きたいんだ。存在価値が三割くらいのお飾り主婦であっても、“ミライ村の奥さま”には誰でもなれるわけじゃないし、『宗太郎の面倒を見ないで済むなんて益々ラッキー』という考え方もある。バツイチ無職で苦労したくないなら、今の主婦の座をキープする方が賢いと思うし…」
雲間から光の筋が射し込んだ。東屋はガラス張りなので、陽の光が反射して空の中にいるようだった。
ふいに、前島と話したことが蘇った。
「僕はずっとお父さんが溺死した理由を知らなかった。お父さんは火から逃れようと湯船に入って蓋をして、崩れた2階に押し潰されて湯船にあった僅かなお湯で溺れてしまった。だからお祖父さんの死は無駄じゃなかったとわかった。モルドバで呪いを解いていたんだね。お父さんは火では死ななかったんだから。誰にも聞けなくて…伯母さんは知っていたのでしょう? 呪いが続いていると思っているようには見えなかったもの」
伯母は今までよりよほど驚いた顔をした。
「え? …私あの時の事、動揺していてよく覚えていないの。雪生の死因を聞いたのか聞かなかったのか。何故焼死なのに焼けていないの…と思った記憶がぼんやりとあるけど。ショックの後は、手続きに追われて…、お葬式やあなたの学校や同居の準備で…ともかく突然すぎて哀しむことすらできなかった。宗太郎の手前、感情を出すのも憚られたし。…昨日刑事さんに聞いたことを全て話して。雪生と関係ない事でも、全て」と身を乗り出した。
伯母は額を両手で覆ったまましばらく俯いていたが、伏し目がちに、しかし毅然とした口調で言った。
「雪生の魂の居場所がなくては困ると思ったから実家を手放さなかったのだけど、正直、いずれはあそこに戻ると思ってもいた。宗太郎との結婚は幸せのためではなかったから、今すぐにでも離婚して実家に戻ることは可能よ。遺産も家賃収入もあるし、叔母に働き口を紹介してもらうことも出来る。あなたの学費の心配は要らない。雪生は生命保険に入っていた。死亡保険金が出てあなた名義の口座に入っていて、18歳になったらカードを渡す予定でいる。なぜこんな話をしたかと言うと、瑞生、今後『霞のため』や『霞も承知している』と言われてもどんな書類にもサインしてはダメよ。特に“養子縁組”はダメ。あなたはまだ“火浦瑞生”で、火事の話が将来に響くと言われても、“八重樫”になってはダメ。雪生は呪いが解けたか確証を持てなかったから苗字を笹宮に戻さなかったのだと思う。でもそれだけじゃないかもしれない。物凄くあなたを大切に思っていたのを知っているでしょう? まだ“火浦”であることに意味があるかもしれない」そう言うと哀しそうに微笑んだ。
「僕も哀しいけど、伯母さんも哀しいんだね?」
「ええ。永遠に哀しいままでしょうね」
それから、デートスポットを散策しながら、曽我さんが盗聴器やカメラを仕掛け直した危険性を共通の認識とした。帰りの車中ではThe Axeの曲が流れ続けた。
昼食前に帰宅したのだが、いきなりサプライズに見舞われた。伯母の警護に就いていたボディガードのおばさんが解雇されていたのだ。「私がいますから、奥さまもご安心でしょう?」と曽我さんは微笑んだ。さすがに霞も真意を聞こうと宗太郎を見つめたのだが、宗太郎は黙って車椅子を操作して行ってしまった。
これでは取り付く島もない。あの、得意気に持論を披露するのが好きな伯父が語らないのは何故だろう? この決定が伯父の主導ではないからか? まさか曽我さんに洗脳されたとか?
次いで昼食では瑞生にナポリタン、霞に魚介のパスタとわざわざ違う物が用意されていた。キッチンでそれぞれにパスタをあてがってさっさと戻ろうとする曽我さんに、伯母が「私と瑞生の食事は私が作ります。曽我さんも何通りも作るの大変でしょうから」ときっぱり言うと、曽我さんはおもむろに振り返った。
瑞生はともかくケチャップが嫌いだ。母の持つ唯2つの味付けの素、マヨネーズとケチャップはある意味味覚の天敵になっていた。
反射的に「僕ナポリタン嫌い。伯母さん換えて」とパスタの皿を取り換えようと手を掛けた途端、曽我さんが飛び掛かるように皿をひったくった。呆然とする瑞生と霞から、慌てて両方の皿を遠ざけながら、「瑞生君、好き嫌いは良くないわね。でも子供に魚介はどうかと思うので…。奥さまご自由にお作り下さい」とパスタを無理矢理トレーに乗せて持ち去ってしまった。
「何、あれ」
怒るより呆れる霞と違い、瑞生は妙な胸騒ぎを覚えた。
結局伯母の作ったたらこパスタを食べて、瑞生は夜叉邸に出掛けた。
いつものルートで歩いていると、進行方向にある藤棚のベンチで手を振る女の人がいる。無視しようかと迷いつつ近づくと、口が『瑞生さん』と動いていて、その顔には見覚えがあった。
「え~と街角さんか角間さん、でしたっけ? ボディガードの」
「間門です」苦笑しながら元伯母専属のボディガードは会釈した。
瑞生はベンチの隣に腰を下ろした。
間門はいつもぴっちり髪をアップにしていたのに、今日はふわりと下ろしているせいで印象が違った。
「伯父にクビにされたと?」遠慮なく訊いた。
間門は頷いた。「ご主人が退院して曽我さんが一緒にいるからもう必要ないと言われました。…IDカードが無効になるので今日しか瑞生さんに伝えられないと思って、お待ちしてたのです。奥さまの気品と美貌にそぐわない、ご主人と曽我さんのこそこそした立ち居振る舞いが、私はずっと嫌でした。雇い主を悪く言うのはモラルに反しますが…。ですので、私の感想ではなく見たことを客観的にお伝えします。クビを宣告された後、奥さまにご挨拶しようとキッチンに寄ったのですがご不在でした。挨拶のメモを残すのに数分費やしました。おそらく私はとっくに帰っていると思ったのでしょう。ご主人と曽我さんは無防備にリビングで話していました。ほらご主人は病気のせいで難聴気味だから大声で話すでしょう? 『邪魔なボディガードを排除したのだから、手続きを急がないと』『焦るな。未成年の養子縁組は家庭裁判所の審査がある。いいか、何かが起きてもいいのは手続きが完了した後だ。君は最近浮き足立っていないか?』『まず瑞生さんにサインさせないと』『ああ、わかっている。そう急くな。私はAAセンターの件に集中したいんだ』『わかってます。私に任せてください』と。私、怖くなって。このまま帰って、知らぬ存ぜぬでいいのか?と思って…」
この話に、瑞生も背筋が冷たくなった。間門がクビになった腹いせに作り話をするには、内容がビンゴ過ぎる。伯母が『サインをしてはダメ』と言ったばかりだからだ。
入学時に榊先生から出てきたのは、検索をかわすために将来養子になる予定だからと言って八重樫を名乗るという方策じゃなかったかな。第一、僕が八重樫になると言ったら、財産目当てにしか見えないじゃないか。その逆で何故伯父と曽我さんが養子縁組をしたがるんだ? それに手続きが済んだ後『何かが起こる』って、『何かを起こす』って言ってるようなものだ。
間門に礼を言って別れた後、瑞生の頭を占めていたのは不穏な空気に対する漠然とした不安だった。
夜叉邸に着いて、朏がいなかったので、瑞生は大層落胆した。
「そう、露骨にがっかりするなよ」
カウンターから前島が声を掛けてきた。すっかり馴染んでいる。
「どうしたんですか。ロドリゴの件でまだ何かあるんですか」そう言う瑞生も昨日と同じカウンターチェアに腰掛けた。
「キューバから来た医師が弟を呼び寄せ、夜叉が居住地の病院を買い取った。…国際的な陰謀が本当にないと言い切れるか? 保管薬品が所在不明になったり、センター宛ての荷物に麻薬が入って来たり、もっとSFチックにこの村で新たにゾンビが出現したら? そうなってから『しまった。もっとよくキューバ人医師を調べておくんだった』では、何の役にも立たないだろう? 調べてシロなら信用する。それでも遅くはあるまい」
「まぁ警察としてはそうでしょうね」
「君は日々違う苦悩を抱えてやってくるようだなぁ」前島は気の毒そうに言った。
「前島さんこそ、僕に対する態度、変わり過ぎじゃないですか。最初は犯罪者扱いだったのに、今なんて解説してくれて。下心があるんですか」同情に反発して不機嫌そうに言った。
前島は口元をほころばせ両手を前で組んでカウンターを見た。
「君が結構捻くれていて、心の奥に棘を持っていると今でも思っているよ。だが、君はその棘を自分から伸ばしていったりしない。他人に悪意を向け攻めてはいかない。攻撃されたら棘をお見舞いするだろうが。私はそれは、お父さんが君を優しく育てたからだと思っている」
瑞生はあんぐりと口を開け、まじまじと前島を見た。
あの、前島が、こんな風に見ているとは。驚き桃の木だ。いや、このところ毎日驚いてばかりいるけど、最大級の驚きだ。
瑞生の事情を知れば、危険で奇行癖のある母の子供兼被害者という視点で捉えるのが普通だ。お父さんを通して見てくれた人は初めてだ。素直に嬉しい。
瑞生は養子縁組とパスタの謎を自然に話し出していた。
「君はどんな書類にもサインしてはいけない」
伯母の意見には触れていないのに、前島は同じことを言った。
「住民票の移動は確かに『一生面倒みる』と言われたようなものだ。伯父さんは病院の件に注力したいのだから、全て曽我さんのアイディアだろう。パスタをリクエストもないのに2種類用意するなんて不自然だ。薬を盛って間違えないように工夫をしたと思われる。交換して君が薬を摂ってしまっては元も子もないから両皿を引っ込めざるを得なかったのだ。…八重樫氏が金目当てとは思えないが、調べてみよう」
前島はその場で部下に電話した。瑞生と霞に生命保険が掛けられているか、伯父の財政状況やトラブルの有無を調べさせていた。K県警から折り返しがきた時に席を外したので聞かれては拙い事があるのだろう(相手が馬鹿でかい声で名乗ったのでK県警とわかった)。
戻ると瑞生に、「あの家では君は新参者で、伯母さんも曽我さんには敵わない。家そのものが八重樫宗太郎のための要塞のようなものだから分が悪い。薬物混入の危険があるとなると、早急に対策を練るべきだな」
ちょうどその時、クマちゃんと門根が帰ってきたので、4人で面会室に移った。瑞生が気を利かせて紅茶を淹れた。
「今日3時からAAセンター改め少数感染症研究センター(仮)の記者会見を開こうとしていたのだけど。…各人の思惑が合致せず暗礁に乗り上げているの。…ダメかもしれないわ」クマちゃんはソファに資料のどっさり入ったカバンを投げ出した。
「そもそも手続きが煩雑すぎるんだ。厚労省とかうるっさいのな。病院作る奴の気がしれねえ。その上…」門根もうんざりという表情だ。
「君が病院買収工作に参加していたとは思えないが?」前島が真面目に言う。
「当たり前だろ? わかんねえことには首突っ込まない主義なんだ。ただ黒金さんがあまりにオーバーワークなんで下働きを買って出たんだよ」
前島は納得しながらも質問した。「私も病院買収には疎いが、そもそもAAセンターの理事たちは納得したのか? バックにN不動産や政治家がいただろうに、一体どうやったんだ? オークションや親子鑑定やらで忙しい中、よく水面下で交渉成立させたな」
一瞬クマちゃんと門根が顔を見合わせた。門根は警戒心ありありの目で前島を牽制したが、クマちゃんは頬をぽりりと掻きながら、「警察的な耳で聞くなら言えないわ」と仄めかした。
これには前島の方が目を点にした。後、吹き出した。
「いや、失礼。黒金さんはとても、とても切れる人だと思っていたから、凄い交渉経緯を語るのかと思いきや、そうくるとは」
口をへの字にしたクマちゃんに慌てて言い直した。「お世辞ではなく本当に優秀だと思っているんだ。それにこれは個人的興味で聞いている。瑞生君の伯父さんの絡みも聞きたいし、違法性を追求する気は毛頭ないよ、約束する」
クマちゃんはきっと“竹を割ったような性格”と子供の頃から言われてきただろうな、と思う。
「いつものように夜叉が突然言い出したのよ。『あそこの病院買えないかな』って。オークションは借金返済のためだけではないと思っていたけど、まさか病院を買うなんて。慌てて弁護士仲間に協力を募って、極めて真面目に交渉を申し込んだ。AAセンターは金銭管理に関して非常に杜撰だった、とだけ言っておきましょう。誤解しないでね、露骨に脅かしたりしていないわよ。『理事長として残りたい。経理部長のままでいたい』などのずうずうしい居座りにはガツンと言ったけどね。私も救急でお世話になった時、病院と言うより暇過ぎる高級サロンみたいだと呆れたから。アンチエイジングと言うけど、化粧品分野では大手に敵わないし、製薬会社に成果を売ってしまう研究員もいて揉め事を抱えていたらしいから、ここできっちり整理というか断舎利ね。人も物も」とカラカラ笑った。
「やっぱ黒金さんは凄いっす」門根が呟く。前島はそれを楽しそうに見ていた。
だがクマちゃんの顔は曇り、溜め息交じりに言葉を継いだ。
「…ここまでは想定内だった。…本当は前島さんに…聞いてもらいたかったの。夜叉は夜叉通信で匂わせていたけれど、病院を買い取って、ゾンビーウィルスの研究だけでなく、予算の付かない難病研究の施設にしたかったの。今年の1月に難病法が施行され、指定難病数は56から110に、5月からは306になった。国の指定難病というのは人口の0.1%に患者数が達していないという要件があるの。患者数で比較するわけにはいかないし、専門医のいない病気も多数ある。どの難病の専門科を作るべきか、優先順位を決めるなんて夜叉にも私たちにも出来なかった。ここは患者の家族にとって生活圏から離れすぎているし…。やむなく難病の専門科は諦めることになった。それで八重樫さんが絡んでくるの。骨形成不全症の専門科をあそこに作るのが長年の希望だそうで。すでに専門外来を持つ病院はあるのだけど、症状の個人差が大きい病気だからその研究や遺伝の解明をしてほしいと。夜叉のお金に頼らずに自分で医師も用意するから、と。指定難病ではあるし村の住人が絡む方が行政受けもいいだろう、という下心もあった。まぁ、ぶっちゃけ八重樫さんの集めたネタを使わせてもらったの。理事長や医師、経理の酷い有り様の記録や帳簿などの資料を」
この時、初めて前島の目が光った。クマちゃんを見据えてはっきりと言った。「黒金さん、悪いがそこの所だけは後日に影響があるかもしれない。八重樫さんの資料の裏は取った? どうやって入手したのか尋ねた? 無償で提供してきた?」
クマちゃんは「裏は取ったわよ。ガセなら名誉棄損で訴えられるもの。それより、どういう意味?」と逆に聞いた。
前島が答えるより早く、瑞生は我慢できなくなって話し出した。
「それは僕のためだと思う。伯父さん変なんだ。曽我さんと組んで、伯母さんを排除して、怪しいパスタとか出すんだ」
「ああん? なんだそりゃ」門根も身を乗り出した。
「伯母さんから、『養子にしたい』と言われたことはあるの?」クマちゃんは座り直すと、腕組みして訊いた。
「ううん。そんなこと一度も。今回の件で『養子縁組のサインをしてはいけない』って。前島さんと同じことを言った」
「まぁ、そうよね。長年絶縁状態だった弟夫婦の遺児を引き取ったものの、資産家の八重樫家の養子にするのは慎重にならざるを得ない。人物像を見極めて、初めて養子の話が出るのじゃない? それに八重樫家を継ぐか否かは本人次第。つまり、伯母さんが正常。瑞生君可愛さと財産欲しさに養子を推し進めがちな立場なのに、冷静に対処している。そもそも伯母さんは瑞生君の後見人だから、養子手続きは家裁の審査を経ないと進まないのに、伯父さんたちの動きは変。それで前島さんは何かあるとみているのですね?」
前島は頷いた。「以前からあの病院に専門科設立を望んでいたのは本当だろう。だからって、病院関係者の弱みを業務にとどまらず私生活にまで渡って収集しないだろう、普通は。まぁ資産家の家に生まれた者が皆上品なビジネススタイルを取るとは限らないが。いつもこの手法で望みを叶えてきたのだろう。曽我さんは幼少の頃から彼に仕えているから、曽我さんの手法と言った方がいいかもしれない。強引に専門科を作らせたとしても、原因究明と治療法に至る道は険しい。彼には間に合わないだろう。では何故汚い手を使ってまで実現しようとするのか?」
前島は顎の前で両指を組んだ。膨大な量の情報を頭脳の引き出しから出してくる時のポーズに見えた。
「八重樫氏の経歴は、寝て或いは座ってだけの生活から考えなくてはならない。プライド、諦め、劣等感、優越感。彼の中でどんな歪な価値観が形成されていったのか。彼の資産ならどこにでも家は建てられるのに、敢えてこの村を選んだ理由として、自分のための病院を手に入れる計画が織り込み済みだったのではないか?」
「俺が言うと意外だろうけど…何となくわかる」
門根の言葉に、皆が驚いた。「あなたのどこが八重樫さんと被ったの?」クマちゃんも目をぱちくりさせた。
門根はウェスタンブーツを振り回すように脚を組むと、真顔で話し出した。
「『差別用語含む』だけど流して聞いてくれ。その…前島さんの言ったことの根拠みたいな部分がどう出来上がったのか、想像できる気がするんだ。Yさんはイケメンじゃない、スポーツマンじゃない、そりゃ病気だからな。代々の資産家、圧倒的金持ち。子供でもわかるわけだろ。環境は凄い恵まれてるのに、生まれたのは“自分”。そう思わせたのは周囲だ。残念ながら両親も一族も誰も『あなたは可愛いうちの子。愛してるよ』とは言ってくれなかった。努力で何とかなるのは頭だけ。それで“家族の愛、周囲の愛”を勝ち取るしかない。それもやがて“家族の興味、周囲の賞賛”がせいぜいだとわかってくる。勉強もやれば東大入れるかってそんな甘くないだろ? 金はあってもケチ、感謝知らずで気のいい所が欠片もないとなれば男女問わず敬遠する。だから取り巻きがいない。活路は仕事にしかない。かくして辣腕投資家が誕生。資産を倍に増やして両親一族に認められた。それでも”腫れもの”扱いは変わらない。さらなる孤独と絶望。それで自分の優秀さの証明に、自分は一度決めたことを完遂すると頑なに自らにルール化したんじゃないか? 全部俺の想像だけどな」
「君、柄が悪いだけではなかったんだな」と前島。
「確かに全部想像だけど、大枠そう言う事かもしれないわね。見直したわ」とクマちゃん。
前島が続ける。「それに曽我さんだ。『世の中の女性は、旦那がマザコンなのは嫌がるが、自分の息子はマザコンにしたがる』と言うじゃないか。私のも全くの想像だが、曽我さんが生涯宗太郎氏のために生きると決めて、徹底して曽我さん無しでは生きられないよう仕込んでいたら? 曽我さんは母であり姉であり恋人の代わりでもあったかもしれない」
「でも、伯母さんと結婚したよ? 確かに…不自然な、形だけの夫婦みたいだけど。でも、僕がこの村に来た時はもっと夫婦っぽかったんだ。食事はいつも伯母さんが作ってたし、伯父さんが呼ぶのは伯母さんだったし。伯父さんは、伯母さんを…しょっちゅう見てた」
「わかるわ」瑞生の証言に恋心を感じたのか、クマちゃんがうんうんと頷く。
「それが、退院した途端、曽我さんが片時も離れないで世話してる。伯母さんが必要なのは自治会の夫婦同伴の時だけ。伯父さんは僕の知る限り伯母さんと目を合わせない。ほとんど口もきいていない。『住民票』、そう言った時の曽我さんの浮かれようったら! 最初はプロのハウスキーパーらしい、さばさばして気のいいおばさんだったのに。怖くなってきて」言いながら、曽我さんと宗太郎の醸す何とも言えない空気を思い出して再びぞっとした。キノコの根っこの部分を割いた時のような、湿り気のあるさわっという感触と共に菌糸が空気中に漂うような…。
「病気でもさ、親や家族の愛があれば、な。あったのは曽我さんの“押しつけ愛”? それでなんか、拗れて歪んでああなったんだろうな。そんな映画があったな。『お手伝いさん家乗っ取る』みたいな」と門根。
今度は誰も反応しなかったので、門根はあっさりと引っ込めた。「違ったかな」
「曽我さんが急いでサインさせようとしているのは養子縁組書類ではないわ。養子縁組は霞さん抜きでは成り立たないから。例えばその前に必要なもの…?」言いながらクマちゃんの目は空を彷徨った。
瑞生は門根の想像話を聞いて、思わず考えた。
あの家では何もかも宗太郎の思うようになる。でも伯母は宗太郎の思うように動きながらも、宗太郎の思うようにならない唯一の存在だった。美しい妻が自分のために美味しい食事を作ってくれる…この事実だけで伯父は十分満足なのじゃないか、と思ったことがある。
でも、仮面夫婦に心の拠り所など宗太郎は端から求めていなかったとみる方が妥当なのかもしれない。伯父は何でも買ってもらえる環境に育ち、今はもっと何でも手に入る生活なのにとても飢えていたのか…。飢餓感というのは『無い・欠乏・不足』を認識したことからくる感覚だ。それは『自分だけの物がない…』とずっと思っていた自分と似ていなくはない。が、決定的な違いがある。門根流に言えばそれは、父の愛、だ。
そして今、瑞生には夜叉がいる。
AAセンターの個室をパソコン御殿に変えていた伯父。AAセンターを買い取った夜叉。自分の病気の専門科を作りたい伯父。
伯父は入院中、瑞生の情報流出を食い止めようとしてくれた。(今では中学時代の写真まで出回っているけど)その点は感謝している。門根の推察通り、伯父が目標を成し遂げることを自らに課すのなら、『美しい妻を手に入れる』をクリアし、次に『養子を手に入れる』が目標だとしたら…? 瑞生は思わずぶるっと悪寒に襲われた。
「例えば、『伯父さんの面倒を生涯みる』という誓約書を書かせるとか?」門根が沈黙を破った。
「そんなのありなの?」瑞生はびっくりした。
「法的有効性はないわ。未成年だし書かされた感満載だし。でも、瑞生君には『ほら、自分でこう誓約したじゃないか』『破るとは恩知らずめ、世間に公表するぞ』と脅すことは出来る」クマちゃんが意地悪そうに言う。
前島もそれを受けて話し出す。
「瑞生君は勉強が出来ないわけじゃないから今から後継者としてぎゅうぎゅう仕込めばなんとかなると踏んだのじゃないかな。同じような闘う投資家にはなれなくても、継承した財産を守れれば十分なのだから。むしろ攻めるタイプの野心家では宗太郎氏を裏切りかねない。瑞生君をまだ御せるうちに誓約書を書かせて、生涯操り人形になるようにしてしまおうと考えたかもしれない」
「しかし村に来て数カ月で、夜叉や友人が彼の生活を占めるようになった。高校生としては当然なんだが、学生生活にいい思い出のない宗太郎氏のコンプレックスを刺激してしまった。その上入院して自分だけ蚊帳の外だ。焦るところに奥さんまでもが夜叉邸に通いだし、彼女を家に縛り付けておくことが出来なくなった。いよいよ曽我さんしか味方はいないと思うようになったのか」
「なんとなく見えてきたわね。このまま宗太郎のために働き続け、最期は介護付き有料老人ホームで…と覚悟を決めていた曽我さんにとって、セレブ村に住民票を移動するということが、劇薬に近い反応を引き起こしてしまったのよ。曽我さんは霞さんとの関係が、世間で言う『正妻と愛人』位のほぼ対等なものになったと思ったのでは? そうなれば正妻は法律で守られていると言っても、曽我さんの方が宗太郎の信任が厚いので分がいい。後は宗太郎の継承者を確保すれば、老後も安泰、霞さんは用無し、むしろ宗太郎が愛でる美しさが邪魔なだけ。そう考えたのかもしれない。ある意味、突然、今更、“女”発動、ということじゃないかしら」クマちゃんの鼻息が荒い。
「う~ん。怖いんだか、なんだか、わからんなぁ」と門根。
「ブレーキが利かないかもしれない。曽我さんにとって、美でも育ちでも敵わない相手に勝負を挑むのだから、勝たなきゃ意味ないでしょう? どんなことでもやりそう」クマちゃんは女の闘いに意気が上がる。
「伯母さんに危険が迫ってるってことだよね。僕に言うことをきかせようとするなら、伯母さんを出汁にするだろうから」
「そうだな。薬漬けにしちまえば言いなりになるし、公表されては困るという心理が働く。瑞生も従わざるを得なくなる」門根も眉間に皺を寄せている。
「毒物系では? トリカブトやヒ素、過去にも徐々に弱らせていく手法を取った犯人がいた。体調不良に陥れ悩ませておいて、言いなりにさせる手だわ。だからパスタにはそういう薬が入っていたのかも。瑞生君には断じて食べさせないという態度が深刻さを物語ってる」クマちゃんらしいシビアな意見だ。
「曽我さんは確か介護ヘルパーの資格はあるが看護師の資格はないのだったね?」とは前島。
瑞生は頷いた。「でも薬物の知識はあるはず。漢方に凝って薬膳を伯父さんに出してると聞いたことがある」
「霞さんには日中ここで働いてもらいましょう。在宅不可な仕事…『The Axeの自伝本のための資料整理』はどう? 村外から人を雇い入れるのは危険だし、ファンである霞さん程の適任はいないと言えば説得力あるでしょ? Woods!の誰かが車で送迎するわ」
門根が立ち上がった。「俺迎えに行くわ。話してるうちにどんどん心配になってきた。いきなり行くと拉致しに来たと思われそうだから、電話しておいてくれ」
蓋を開けたら、宗太郎は外出中で(つまり曽我さんも)危険はなかったのだが、伯母は疑心暗鬼で自室に籠城しているしかなかったようだ。
「なんだか、家の中を自由に動くことが出来なくて…、お借りします」と着くなりトイレに行った霞を見て、門根は「へへ、あの高嶺の花の美女が俺を見て、ほっと息をついて微笑んだんだぜ。役得ってあるんだな」とニヤついた。
「行動力に免じて今日は許すけど、いつもニヤついて霞さんを不快にしたら、ぶっ飛ばすわよ」クマちゃんは忘れずに釘を刺した。




