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ゾンビの顔色  作者: Nemuru-
36/57

2015年6月20日② ロドリゴ

 それからしばらくは夢心地だった。いつの間にかキリノやトドロキがいて、ガンタのカレーを食べた。撮影スタッフやレコーディングのエンジニアが出たり入ったり、話し声の絶えない現場なのに、瑞生の耳には何も届かなかった。それなのに時折、皆の動きがスローモーションのように見える時があって、その中の誰かと、夜叉との秘密を共有しているかのように、目が合うのだった。


 しかし夢心地でいられたのは少しの時間だった。クマちゃんも門根も不在で、サニも見かけない。なのに何かが起こりかけている妙な空気を感じた。いつも何かが起こる夜叉通信まではまだ数時間あるのに。


 その時、夜叉邸の固定電話が鳴った。Woods!のスタッフがいないので、瑞生が迷いながら出ようとした時、朏巡査部長が手で制して出てくれた。

 「…ヒメネス…サニ先生。どうしました? 黒金さんも門根さんも不在です。八重樫君ならいますけど。替わりますか?」と瑞生に受話器を渡してきた。

「もしもしサニ? 見かけないと思ったらどこにいるの? え?誰? 誰の許可証?」


 傍らで朏に緊急連絡が入った。「黒人が? タクシーでゲートに? マスコミを近づけるな。写真を撮らせるな。テロ対応フォーメーションを取れ。村から応援を送るから、距離を保ったまま誘導してゲート脇に移動させろ。森に逃げ込まれると厄介だ。警察官が行くまで何もするな。そこから双眼鏡で確認できる限りのことを報告しろ。乗車人数、運転手が人質になっていないか見極めるのが重要だ」朏はもう一方の手で村内に待機している警察官と警備員に緊急信号を送り、何人かに直接指示を出した。警察本部直通のコールボタンも押して、その間ゲートの警備員と話し続けていた。あまりに素早い対応に、瑞生は受話器を耳から外して見入ってしまっていた。


 :ミズオ? ミズオ? ミカヅキさんの声聞こえた。ゲートに黒人? ミズオ!:

サニの声で我に返り、「ああ、そうみたい。ゲートに来てるらしい。え?サニの弟? 許可証ってその人の?」

 瑞生の話を聞いて朏がサニに聞こえるように言った。

「パスポートの提示だけでは、私の独断で許可を出すことはできません。人種差別などではなく、今は住人の親族でも本人確認を徹底する規則なのです。サニ先生がゲートに出向いても、ゲート内で一旦隔離、弟さんの入国日など確認できないうちに開放するわけにはいきません。…でも、それならば時間は掛かりますが今日中に許可証を発行できると思いますから、まずはゲートに行ってください。先生以外に身元保証をしてくれる日本人がいたら一緒に」

瑞生は面食らって、事情を知る由もない朏に訊いた。

「サニの弟? なんで? 何しに?」


 朏は夜叉邸から離れずに采配を振るっていた。サニの弟が本当に来日したとしても村に現れた人物が本人かはわからない。サニや朏を誘導して夜叉邸を手薄にする魂胆かもしれないのだ。

 瑞生はただ情報に飢えて待つしかなかった。本永がいたら予想外の意見を言ってくれるだろうに、と思ってしまう役立たずな自分がいた。



 昼に夜叉と瑞生が2人きりになったことが嘘のように、人が慌ただしげに動いている。サニの弟の件とは別なのかスーツ姿の人も増えている。


 瑞生は、テロの可能性や想定されうる展開について前島に助言を求めた朏の行動力には驚いた。

朏の指示でゲートに着いた警察官が、「タクシーの運転手は無事で、ヒメネスというパスポートを所持している男が1人乗っている」と報告してきた。写真は前島に送られ、驚くほどすぐに返事が来た。

 :ロドリゴ・R・ヒメネス。二日前に関空に着いてる。何を思って羽田や成田以外から入ったのかは不明。この点追及してボロを出したらその場で確保だ。来日後テロリストと接触したのかもしれない。立ち寄り先を確認して全行程を明らかにしないと:

前島の話のメモを取りながら朏が顔を上げたので、頸を伸ばして覗いてた瑞生とばっちり見つめ合った。



 現われたのは、サニの類似系のイメージを覆す幅の大男だった。一緒に入ってきたクマちゃん(身元保証に呼ばれた)の人種の違う弟と言う方がしっくりくるくらいの体格だ。

 弟がキューバから遠路はるばる訪ねてきてくれたのだから嬉しさひとしおかと思いきや、サニはいささか渋い顔をしていた。


 拍子抜けしたことに、朏は1階でサニの弟に、前島の示した質問などのいわゆる聴取をしなかった。除菌の手順をサニが説明しながら行い、するっと階段を上がらせてしまったのだ。瑞生はキツネにつままれたような面持ちで後を追った。


 「ええと、ロドリゴさん、日本語話せる?」面会室でクマちゃんが遠慮がちに訊いた。

「ヨロシク。アニー、ヨロシク」にこにこと片言の日本語で挨拶したロドリゴがサニと並ぶと、顔立ちはそっくりで体の幅は2対1だとわかった。


 「アニーって誰の事だ?」トドロキが不思議そうに瑞生に訊いてきた。サニが恥ずかしそうに「“アニー”ではなくて“兄”=ブラザーです。つまり私の事です。日本語の勉強が甚だ不十分なのです」と説明すると、スタジオから出てきていた夜叉が、「そうそう俺“サニ”だと思ったんだよ。蘇ったばかりで耳の機能がまだ復活していなかったのかもしれない。後から“兄”だと知ったんだ。でももうサニが俺の中では定着していたから、後から“ハビエル”は入ってこなかった。こいつは“ロドリゴ”で最初から覚えたから大丈夫なんだけどな」と笑った。


 今ので、夜叉が蘇った時、周囲にサニだけでなくロドリゴもいたことがわかった。前にもあったけど、夜叉のゾンビ化が計画通り行われたとしか思えない。でも、そのために飛行機2機を落とすなんてことあり得ないよね?



 「それで? 弟は何しに日本に来たんだ?」


 求めよ。されば与えられん

本永の代わりは自然と現われるものだ。どこか胡散臭い登場のロドリゴを当たり前のように“弟”と言ってのける辺り、トドロキに本永が憑依しているかのようだ。


 「…」

答えようと、サニが息を吸った時だ。

 突如、前島が現われた。

 「ちょっと待った! 最初にロドリゴさんに訊く必要があるのは警察だ!」

いつも嫌味なほど落ち着き払い、威厳と冷徹なイメージに包まれている前島が、今日は少しよれっとしていた。

 「さっき朏巡査部長と電話で話していたのに、なんでもうここにいるの?」思わず瑞生が訊ねると、やけに人間ぽく、何度も頷いた。

「車で移動中に朏君から問い合わせがあって、そのままこちらに向かったんだ。赤色点けて飛ばしてきたから…車酔いした…」

前島はガンタが差し出したコップの水を噛み締めるように飲んだ。


 1階の空いたままの森山と藁科の控室で聴取を行うことになった。同席を申し出たサニに前島は、「ヒネメス先生とは分けて行わなければ意味がない。わかっているだろうが、テロリストに付け込まれる隙があっては駄目なのだ。日本人は気が優しいから夜叉だけを狙うだろうが、海外の組織はこの屋敷に何人いても皆殺しで構わないんだ。弟が善意で来たとしても、来日の経緯と、大阪から接触した人物と行程を明かし、全てで裏が取れて安全が確認できるまでは、日本警察の監視下に置かれる。これは当然の処置だ」とネクタイを締め直しながら言った。

 クマちゃんは頷いてロドリゴについていくよう促した。クマちゃんにとってはさらなる厄介な人物登場という所だろう。


 前島とロドリゴが消えて、面会室は静まりかえった。夜叉が先程知り合いオーラを出してしまった件について皆が考えているかのようだった。


ドンと音を立てて門根が入ってきた。不機嫌そうにパソコンをいじると、音声が聞こえてきた。


 :ロドリゴさん、ヒメネス医師の弟で、あなたもドクターですね? 来日の目的は?:

:アニー、サポート:

:もう少し詳しく言うと?:

:ヤシャ:

:…なるほど、兄が日本で孤軍奮闘していると知って応援に来たわけか:

:コゴグフトー?:

:お兄さんを手伝いに来たのはわかった。どのくらいの期間の予定で? キューバでの仕事は休んでいるの?:

:ヤメタ:

:辞めた? キューバでは休職が難しいのか? 帰国後医師ならば就職先はすぐ見つかるのか? あちらの事情を確かめないとわからんな。どうして成田や羽田といった東京の空港ではなく大阪に行った?:

:カンコー:

ぐっと前島が詰まる音が聞こえるようだった。ガンタがくくっと笑う。


 ごそごそ音が聞こえる。何か2人で見ているようだ。

:ガイドブック。このページが折れているのが…大阪、京都、浅草、東京駅…なるほど、よくわかったよ。お兄さんとはちょっと違うタイプなんだな。お兄さんは責任感が強くてとてもストイックな印象だから:

:オミヤゲ:

ガタン。椅子が動く音、慌てて前島が立ったのか。

:おい、検疫は大丈夫なんだろうな。キューバの食べ物でも何でも、夜叉に障るような細菌がついていたらマズイ。…これは人形焼じゃないか。浅草の:

:オミヤゲ。アニーアゲル:


 「いいな~。俺も喰いたい、人形焼」ガンタがテーブルを拭きながらぽつんと言った。


 ガサゴソ。人形焼の袋をいじる音だろうか。

どうして会話が途切れたのだろう。まさか人形焼を食べてるとか?


ふと見ると、面会室のドアが開いていて前島が立っていた。「門根さん、人が悪いな」


 :ハビエル、オミヤゲ、ニンギョーヤキ…:

抜群のタイミングで控室のロドリゴの独り言が響いた。


 固まっていた門根が、お手上げポーズをとりながら「あ~、情報共有をと思って」と愛想笑いをした。「なんで、ばれました?」

前島はつかつかと面会室に入ると、テーブルの下に手を入れて剥がした小さな黒い箱を見せた。

「盗聴器? いつの間に…あ、車酔い?」瑞生の呟きに、珍しく嬉しそうに頷いた。「車酔いは本当だった。だが、キューバとグルなのか、単独で弟が怪しいのか、敵がどちらにいるのか把握するのが第一だったので、やむなく失礼したわけだ」

「情報共有、ということか」門根は国家権力を嫌う割にあっさり納得した。


 そして、両者はおもむろにサニの方を見やった。


 サニが問い詰められる光景は以前にも見た。その時は言いにくそうにしていたが、主導権は握っていて黙るも話すもサニが決めていた。

 今回は、そうではないらしい。サニは夜叉をちらっと見た。

「ロドリゴに関しては、彼はテロリストではない。僕のために来た。ヤシャの症状は日々想定外だから、相談したり試したりしながら、処置を決めたかった。僕がストレスフルなのを心配して来たんだ。オーサカに寄ったのは、多分ここに着いたら、もう自由に出掛けられないのを知っているから、先に観光を済ませようとしたのだと思う。彼は僕より楽しむことが上手だし、人を楽しませようとする人だから」

 サニの表情を観察していた前島が、「しかし、観光ビザで来ている。社会主義国を出国するのは難しくはないのか? 彼は『仕事を辞めてきた』と言っていたが、予定通りなのか? 納得できるように説明してもらいたい」と互いに椅子に座るよう勧めた。

「あの…ロドリゴさん放っておくの?」

瑞生の問いに「部下が部屋に張り付いている」と前島が答えると、サニが「部屋でなく彼を見てほしい。大人しくただ待つような人じゃない」と心配そうに言った。


 「キューバから出国するのはそう難しくない。出国許可制は廃止されたから。100兌換ペソを払えば一般パスポートを発給してもらえる。僕は政府がヤシャの付随医師として発給したから少し特別だ。ただ近年高度な労働力と考えられる保健・科学技術者や優秀なアスリートやトレーナー、医師などの頭脳の国外流出を規制しようという動きがあって、ロドリゴも僕のサポートと言う理由がなければ発給されなかったかもしれない」


 前島は身を乗り出した。「前から疑問に思っていたのだが、あなたは夜叉に付き添う形で来日した。それは夜叉がゾンビになった責任がキューバにあるからか? 飛行機衝突はISの仕業と発表されたのだから、墜落とは関係ないのだろう? よく言われるようにキューバ政府と日本政府とウィルスに関して密約があるのだろうが、国立感染症研究所は一歩引いていて、あなたにイニシアチブを握らせている。本当は別の理由があるのではないか?」


 サニは公然と夜叉を見た。夜叉はふわんと座っている。

前島には意外に思えたのか、黙ったまま二人を、心の弱い者なら挫けるほどじっくりと、刑事の目で見つめた。

 「“患者と医師”の関係だと認識していたが、そうではないのか?」


 夜叉も全く怯まない眼力で応戦した後、口を開いた。

「あんたは公僕だ。あんた個人の意見より組織の体面やルールが重視され、結局あんたは上司の命令に従う。だろう?」

「そうなるだろう」


 夜叉は遙か遠くを見るように視線を彷徨わせた。

「あんたがいい奴とか嫌な奴とかいう尺度で測るべき相手ではないのはわかっている。…で、結論は『知らない方がいい』だ。これに尽きるな」と最後は前島と目を合わせた。

「それはないだろう。何か動いているのはわかっているんだ」前島が慌てた。

「知って、何のために動く? 国のため?正義のため?警察幹部の保身のため?アメリカのご機嫌取りのため? 少なくとも俺のためじゃない。瑞生たちのためじゃない。あんたのためじゃない。どの道あんたは自分の意思で動けない」


 前島は背筋を伸ばし、肩を解した後、ネクタイを緩めた。

「正直、やりづらいな。あなたが有名なミュージシャンだからと言うより、ゾンビ=死者だから、偽りや薄ペラな建前を騙っては失礼に思えてしまう。私は捜査一課ではないが、やはり死者と対峙する職業だから、死者は怖れる対象ではなく尊厳を守るべき対象だと思っているから」

 夜叉が視線を合わせると、門根はパソコンを閉じた。返事の代わりに前島はポケットからレコーダーをオフにしながら出した。


 「俺が蘇ったせいで、あんたらが大変になったのはわかってるよ。でもあんたより俺の方が上の事がある。なんだと思う?」

前島は答えなかった。

 「命がけだ。俺は1度死んでるが、もうすぐ2度目の死がくる。今度こそ蘇らない。その前にどうしてもやっておかなきゃならないことがある。あんたこの件で命は掛けてないだろ?」

「確かに。…実際、あなたの警護と言う意味ではK県警が担当だ」

「あんたの質問に答えよう。俺とサニは知り合いだった。生きてる時から。これでいいか?」


 前島は夜叉を見つめた。瑞生の記憶の中の、どの前島よりも人間らしい表情で。

「何をしようとしているんだ?」

「企業や政府の偉い連中の思う国益とは違うかもな。国って枠じゃないんだ」

夜叉は口を噤んだ。傍から見ても、前島はより一層大きな疑問を抱えたように見える。

 「ヒメネス先生も質問に答えてくださいよ」前島は嫌味ではなく、礼儀正しく情報を求めた。

 サニは真っ直ぐ前島を見つめて訊いた。「あなたは、カリブ海の島々に何故黒人がいるのか、知っていますか?」


 前島は、試しに答えたりはしなかった。思案気に2人を見つめた後、「ロドリゴさんの聴取を終えてこよう。…覚悟はわかった。今聞いたことは誰にも漏らさないと約束する」と席を立った。



 空いた時間でロドリゴのキューバ外務省への照会も済み、新幹線駅の防犯カメラ映像から供述通りの行動が裏付けされ、ロドリゴは晴れて夜叉邸の付き添い医師として認められた。

 「関空快速で大阪駅へ、そこから京都で一泊、早朝新幹線で東京に来てスカイツリーを朝割引で見学、浅草雷門前で写真を撮り、のんびりと在来線でトッタン半島に南下、最後はタクシーという行程だ。緊張感の欠片もないが、効率よく可能な限りの観光スポットを周って着任したわけだ。滞在期間の延長制限はあるの?」前島が訊くと、サニは指でノートパソコンを形作り、「交代要員が必要だからこのまま弟を働かせてほしいと願い出る。最大24ヶ月は大丈夫だし延長も可能になった。すぐ許可される」と澄ましている。

 政府から支給されたパソコンは信用できないと、瑞生の家で青山の動画を見た事を思い出した。国から派遣された手前、毎日の報告には使っていたのか。


 皆の前に温められた人形焼があり、夜叉とキリノ以外が3時のおやつにありついていた。前島も「久しぶりだ」とか言いながら食べているし、本永言う所の“世界一砂糖の消費量の多い国”出身の2人は、感動しながら頬張っていた。

「オイシー。いい弟、グッチョイス! オイシー」

「ハビエル、ヨロコブ、ネ? ニンギョーヤキ、サイコ~」 

心なしかサニの日本語が下手になったような気がした。


 「日本の食べ物は、味が美しい」サニが噛み締めるように言った。

「オーサカ、キョート、アサクサ…タベモノ、イッパイ。タクサンノモノ、ハイッテル。スゴイ? スゴイ。フシギ? フシギ」ロドリゴの感想はおおらかだ。

「たくさんの物が入っている? 不思議って?」意味を掴み切れずに瑞生は訊いた。

 「例えばカレー。オニオン、キャロット、ポテト、ハーブ、チキン、ドライトマト…当たってる?」サニが問うとガンタが頷いた。「ガーリックに生姜、豆を入れることもあるし、具材によってはコーヒー、白だし、隠し味をプラスする。二日間コトコト煮込む。それが不思議?」

 「ソンナニ タクサンヲ イレル? ボクナラ ベツニスル。タベモノ ナイヒ ナクス」ロドリゴは自説に自分で頷いた。

 瑞生は思いもよらない言葉に戸惑った。

それを察したサニが、「煮込むと保存できるし、肉も軟らかくなるし無駄なく食べるための知恵、元々は」と気を回した。「日本では、思うがままに食材を揃えて食べたい物を作れる。食べ物が街中に溢れているからね」


 うちのカレーには具はあまり入ってなかったな。お父さんがこっそり大根の皮やおからを入れてボリュームアップしていたのを知っている。でも『食べる物がない』ことはなかったな。


 「確かに、トレンドフードを食べるために行列3時間、とか聞くと違和感がある。スィーツだ食べログだ肉フェスだって。一方で、格差社会、子供の貧困があるって聞くしな」トドロキが頭を掻く。「美味い物があるって、いいことなんだけど。日本が世界に誇れることだろ? でも調子に乗ってる感じあるよな」



 夜叉が小さな声で話し始めた。

「俺、ワールドツアーとかね、海外に行くたびに日本人であることを強く感じた。それは“違い”を意識した時や日本食を喰いたくなった時だった。でも、キューバに居た間はちっとも日本人を感じなかったんだ。現地食は口に合わなかったのに、日本食が恋しいとは思わなかった。通じない言葉の中で、色んな人種の中で、俺は孤独を手に入れて凄く高揚したし、人種的な感覚より動物的に自分は人類なんだな、と強く感じた。今はもっと『ナニジンか』は重要じゃない。何かを分ける必要を感じない。“生きてる”“死んでる”すらな」

今まで全く絡んでこなかったキリノがすかさず、「お前を目の前にして、俺たちにとっても“生きてる”“死んでる”は重要な線引きじゃないぞ」と笑った。

「確かにバンド組めるなら、どっちでもいいか」とトドロキ。


 もう夜叉に自嘲気味な微笑みはなかった。

「だから俺のやることは“日本人”のためではない。誰かを害する意図もない。ゾンビのためでもない。わかるかな、前島さん」

 前島は緑茶を啜った。「わかるよ。ただあなたがやることと誰かに利害関係が発生した時に、誰しも職務やしがらみに縛られる。それはありふれたことだ。これまで多種多様な金持ちに会ってきたが、この屋敷に出入りする人間は金に執着しない傾向が顕著だ。自己を確立しているので虚勢を張る必要が無いんだな。その連中がやる事に対して、権勢欲や金銭欲のための企みだとは思わないよ」

 

 おそらくは前島にとって最大級の賛辞に違いない。今の話の対象に自分は含まれていないけれど、瑞生は嬉しくなった。


 夜叉が微笑んだように見えた。だが口から出た言葉は、ミステリアスなものだった。「…厳しいものになる。俺は始めてみせるが、船がどこに行くかは誰にもわからない…」

 前島はじっと夜叉とサニを見たが、もう何も言わなかった。



 夜叉通信の開始まで、約1時間。降って湧いたロドリゴ騒動は収束し、バンドメンバーは打ち合わせに、やけに静かだった門根とクマちゃんはまたスーツの人と何故かサニとロドリゴを入れて話し込んでいる。前島は1階で、朏とK県警本部の応援と警備会社の責任者と、今回の対応を検証していた。

 瑞生は、朏の近くが一番居易かったので、ぼんやりと警察官たちを見ていた。聞こえてくる話は、警備のエキスパートによる専門的な内容が多かったのだが、『この体制はいつまで続くのか』『命に期限を設けるのは警察ではない』などと言い合う場面もあった。


 命。夜叉の命。瑞生だけの、命。いつ尽きるのか。お父さんのように、さよならも言わずに逝ってしまうのだろうか。自分は今まで、去るもの、失うものを追ったりはしなかった。多分うんと幼い頃やったことがあるのだろう。経験として報われない、追っても縋り付いても泣いても、時が来たら相手は去っていくと知っているのだ。今度だってそうだ。夜叉の体が親指のようになるのは宿命なんだ。でも、この張り裂けそうな痛みは何だろう。あらかじめわかっていたらいたで、喪失の恐怖に付きまとわれるのか…。


 気が付くと、前島が目の前にいた。気遣わしげに、「大丈夫か? 名前を3度呼んだの、聞こえてなかっただろう? 具合が悪いのか?」と聞いてきた。

 瑞生は、我に返って背筋を伸ばそうとしたのだが、上手くいかない。夜叉と父のことで思い詰めているうちに幽体離脱状態になったのか、身体に力が入らなくて焦った。


 じたばたしている瑞生を横目で見ながら、前島は構わず話し出した。

「以前、君のご両親が亡くなった件で、君に厳しすぎることを言ってしまった。私は警察庁だから、あの火災を捜査していたわけではない。夜叉が行く村の危険人物をピックアップして急遽身元調査を行っていたんだ。借金・愛人など弱みがあって脅迫される可能性を洗い出しておかなくては対策が取れないからね。君の場合、転入して間もなかったし、転居前の住所が目を引いたので調べさせた。調書を見て、君の犯行ではないのはわかっていた。夜叉邸を見ている少年がいると報告を受けて、特に警戒したわけではない。だが、車から観察したあの時の君は、犯罪を起こしかねない闇の気配を放っていた。私は本気で鳥肌が立ったんだ。君の整った外見も、セレブ環境も、もしかしたらとんでもない少年を誕生させてしまったのか?と映画のような想像をしてしまった。だから、初めて話をした時、ともかく『悪事を企てたら、すぐに気づかれるぞ』と釘を刺しておきたかったんだ。人格攻撃だったと言われれば、その通りだ。…悪かったね。謝るよ」


 ようやく椅子に座り直すことが出来た瑞生は、もう前島に怒りを感じていない自分に気づいた。「じゃ僕の疑いは晴れたの」かつての不快感を思い出すと、自然と仏頂面になったが。

 前島は憐みと好奇心の混ざった眼差しで瑞生を見ている。

「君への疑いは晴れていた。…君は本当に複雑極まりない事情と思惑の混沌の真っ只中にいるようだ。同情を禁じ得ない。君を見る機会があった限りで思うには、なかなか鋼の根性を持っているようだ。時には絶望することもあるだろうが、生き抜くことだ。何かを出来た気がしなくても、生き抜いていれば、それは立派な成果じゃないか」

 まさか前島に励まされるとは思いも寄らなかった。当の前島も慣れない事に困惑したのか、あらぬ方向を向いている。

 …今のは、結局瑞生が何もできないだろうと、先回りした挙句の発言だよな。嫌味ではなく励ましらしいけど。

 「はい」

初対面のどん底の印象から、お互い知っていくうちにマシな印象に変わってきたのは、悪い事ではない。



 前島と瑞生は、夜叉邸の“用事が済んだらとっととお帰り頂く客向け”のラウンジカウンターに並んで座っている。夜叉本人が、住んだことのない家なのだから、このカウンターに座って飲み物を味わった客がいるとは思えなかった。

 物珍しげにカウンターを観察していると、「使われたことのないラウンジバーを撤去しようという案も出たんだが、カウンターの内側に入ると身を隠せるだろう? 警察官が盾代わりに使えるのではないかと、残したんだよ」と説明してくれた。



 「君は、仙田さんを覚えているか?」

「え? 隣の? 火事で亡くなった?」

 仙田さんは火浦家の隣りの板金工場兼自宅に住む、口煩い夫婦だ。父の雪生とは本質的に合わない人たちだが、なんやかやと瑞生の面倒を見てくれた。母に追われた瑞生を匿ってくれたことは数知れない。仙田家の裏手に、火災発生現場の野添の工場兼住宅があり、母の喧嘩に巻き込まれて命を落としたと聞いている。

 「仙田の旦那の方が、全身火傷を負っていたものの3日間生きていた。最期に意識を取り戻して、看護師とたまたま居合わせた警察官に当時の様子を語ったんだ。『奈津美ちゃんと野添の口喧嘩を止めに行った。天ぷら鍋に油は入っていたが、火は点いてなかった。いつも通り喧嘩は収まって、野添が煙草に火を点けた時、揮発した何かに引火した。火は床を這ってあらゆる方向に走り、爆発的に燃え広がったんだ。原因は喧嘩じゃない。何か工場の床に…』ここで力尽きたそうだ」


 瑞生は驚いて大きく口を開けた。

「ええ? 火事の原因が喧嘩で鍋をひっくり返したからじゃない? そんなの初めて聞いた。…母は原因じゃない? でも誰もそうは言って…」

 はっとした。原因が母でも鍋でもないのなら、誰かの何かがあるはずなのだ。瑞生を取り調べた刑事は、発火物や時限装置の知識を根掘り葉掘り聞いてきた。瑞生は困惑して前島を見た。


 「現場は高温で焼けた上に爆発もあり、消防職員による火災調査でも仙田の証言の裏付けは取れなかった。最初の原因が何であれ、発火を火事にしたのはあの家だ。未届けの薬品や触媒のいい加減な保管方法が火災を拡大した。それを物証もないのに仕組まれた事件としては扱えない。仮に仙田の証言が正確で、野添は煙草をポイ捨てしておらず、揮発した何かに引火したとしても、それが故意に撒かれたものとは言えないんだ。もう一つ、もし仙田自身が煙草をポイ捨てしていたり、鍋をひっくり返していたら? 最期に親族の賠償責任を回避しようと、犯人不明のオチを騙ったとも考えられる。所轄は一番動機を持っている君の捜査をしてシロと断定した。結論として、『火元は野添の家』だけは確定したということだ」


 頭が混乱した。確かに母と野添の家は、火浦家を父がこざっぱりとしつらえるのに対抗するかのように乱雑で、ごみ溜めで、酷い有り様だった。こぼした物を拭き取る方が珍しい行為だろう。仙田のオヤジは他人の家でもポイ捨てするし、余所の喧嘩で勝手に興奮して鍋位ひっくり返しかねない。

「ドラマの科捜研みたいなのって必ず何か見つけるじゃないですか…」力なく口から出たのはこんな言葉だった。


 「あの一画を更地にしたい者が見当たらなかったのも計画的犯行説が弱かった理由の一つだ。だから再度の調査は行われなかった。君のお母さんが原因だろうと言う説で落ち着いてしまった点は力及ばずと言う所だ」

 真正面ではなく横に座っているというのは、話し易いものだ。

「刑事が何度も病院に来たのは、捜査だったからなんだ…。僕は単純に、火事になった時学校にいたから、放火なんて不可能なのによく来るなって思ってた」

 瑞生の心臓は高鳴っていた。今こそ、訊きたくても誰にも訊けなかったことを訊く、千載一遇のチャンスだ。


 「前島さん。…父、父の死因が、溺死なのは何故ですか? 僕は一度も説明を受けたことが無い。…お、お風呂に…」 

 涙で咽た。母に殺されかかって以来、瑞生にとって湯船はトラウマの対象だ。お父さんと一緒でないと風呂に入れない状態が何年も続いたのだが、高学年になってそれはマズイと考えてお父さんがお守りのネックレスをくれた。金属アレルギーが起こりにくく劣化しにくく軽いと言う理由で選んだチタンの華奢なネックレスは、はっきり言って地味でただの鎖に見えた。お父さんは風呂の時だけ着けるために買ってくれたのだが、自分は母の恐怖から逃れるアイテムとして常に身に着けた。学校で取り上げられないよう届け出てもらった。子供の家で訊かれた際に“魔除け”と言うと、母は奇行で有名だったから誰も奪おうとはしなかった。中学生になる時に、お父さんはチタンのチェーンの中にアクアマリンが3個入った物をプレゼントしてくれた。中学の方がいじめは凄まじいのだが、外すと奪われるとわかっていたので、肌身離さず着けていた。『高校入学の記念に新しい物をもう用意してあるよ』と言っていたお父さんの笑顔を思い出して、余計泣けてきた。

 新しいプレゼントはお父さんと一緒に燃えた。瑞生は今も中学の物を着けている。


 前島は、虚を突かれたらしく黙り込んでいたが、涙にくれる瑞生を見て、調書の記憶を遡ってくれた。

「そうか…。お父さんは自宅の湯船で発見されたのだったね。水の張ってある湯船で炎と熱をやり過ごせれば、と咄嗟に判断したのだろう。屋外に逃げる余裕などなかったんだ。熱風を防ごうと、お父さんは中から蓋をした。隣から2階に飛び火したために2階が焼けて1階天井が抜け落ちた。風呂場も…お父さんは蓋の上に降り注いだ梁や建材や荷物を、蓋に阻まれてどかすことが出来なかった。さらに上の重量が増して、さしたる水量ではなかったのだが、身体が湯船の水に浸ったまま押されて空気を吸えない状態になり溺死してしまったということだ」

 前島の差し出したティッシュで鼻をかんだ。それでも涙は溢れてくる。「それで、わかった…。お父さんは火で死んだのじゃなかった。お祖父さんがモルドバ共和国で燃えた甲斐があったんだ…」

当然のことながら、モルドバの件は前島には意味不明だった。「?」

 突っ込まれたくなかったので鼻をかんで誤魔化した。


 「あ」

唐突に考えが浮かんだ。

 神様はいるのかもしれない。お祖父さんは呪いを自分の代で終わらせようとした。その死は無駄にはならなかったんだ。お父さんは火では死ななかった。死は免れなかったけど、他の人は黒焦げとか、骨すら残っていない焼けっぷりだったのに、お父さんだけ綺麗なままの亡骸だったんだ。棺みたいな湯船と水に守られて。だから、死んでからだったけど、瑞生はお父さんに触れて、お別れを言えた。こうして呪いが解かれたという事実を知ることが出来た。これは凄いことなのじゃないだろうか。


 涙がまだ止まっていないのに、口元がほころんでいた。

前島が驚き呆れて、「泣き止んでから笑うのが筋だろう。それに不気味だ」とティッシュを追加してくれた。

 「お父さんの死の謎が解けて、色々と繋がったものだから嬉しくなっちゃって…」鼻水と一緒に溜めこんでいたもやもやが吐き出されていくようだった。

 何故だろう。とても、とても夜叉に会いたい。瑞生に呪いが来る心配はないって伝えよう。元々血族じゃないから心配は要らなかったんだけど、夜叉も気にしていたから。


 ふと、瑞生は別の事を思い出した。『君は本当に複雑な事情と思惑の混沌の真っ只中に…』という表現は、随分と抽象的だが、かなり知った者でないとこうは言わない。前島は、もっと何かを知っているのだ。

 冷徹な前島が同情的な眼差しを向けるということは、余程よろしくない事実なのだろうな。伯母の呪いの話だってとんでもなかったけど。…まぁ、うちの話ならば聞いて楽しいもののわけがないから、深追いはしないでおこう。




 :夜叉通信も今日で第七夜だ。家と車を売却したら、有り難いことに借金は返済できた話をしたよな。それはつまり、売った家に入っていた物を出さなきゃならないってことを意味する。そこで、以前話していたように、家に入っていた物のオークションをやろうと思う:

 夜叉の隣には今日は誰もいない。淡い光に浮かび上がる夜叉は、放送初日よりも、別の生き物になっている感がある。肌はより蒼く内出血は赤く髪は銀髪ながらも増えて、ミュージカルの俳優みたいに舞台映えしそうな色使いだ。


 :俺が今住んでるコスモスミライ村にはアンチエイジングセンターというピッカピカの病院がある。ここは研究専門の病院で、まぁ住人の緊急時には診てくれるそうだが、その名の通りアンチエイジングに関することを研究している。『何やっているか不透明な病院だが、施設は物凄くよさそうだ。本当に無駄なく人々の求める研究がなされているのかな?』と疑問に思ったわけだ。AAセンターに質問して情報開示請求もした。俺には専門的な事はわからないから、色々な分野の専門家に分析を頼んだ。…で、結論から言うと、さっきこの病院を買った。今まであった専門科は継続する。…親族の質問には個別に応じるそうだ:


:そこでゾンビーウィルスの研究をしてもらう。俺の体を丸ごと提供する。俺を見ていたら『長生きも蘇りもすればいいってものじゃない』と思うだろう? ウィルスの争奪戦なんて馬鹿げてる。でも現実にはアンチエイジングの切り札に繋がる何かが発見できるのではないかって期待が膨らむ。無駄な期待・無駄な争いが無くなるように、ここで研究してもらう。研究する一方で利用は拒否する。ネットでエセ専門家が『俺の血を注射すれば不老不死になれる』とか煽ってるらしいじゃないか? 血を抜かれたら俺は死ぬのにいい気なものだ。その説だとそこらじゅうゾンビだらけになると思うがな? そういう奴って自分だけはいいとこ取り出来ると信じてるよな。いいか、俺と同じになるってことは、2度と焼肉も寿司も食えないで生きるってことだぞ。酒もケーキも無しだ。食事とは言えないどろどろの栄養剤を流し込むだけ。体の下敷きになっているウィルスが死ぬと思うと安心して眠れない。こんな状態で何故おめおめ生きていると思う? それは一度死んだからだ。死んで、蘇ってみて、今生きていることが有り難いからだ。この気持ち無しではおそらく耐えられない。俺の状態がすでに完全に不自然なんだ。俺と同じになるだけでもおかしいのに、ウィルスを注射して不老不死になるなんて、人間が目指すべき姿ではないことくらいわかるよな:

夜叉は、少し水を飲んだ。休むために飲んだのだろう。

:相続と一緒でプラスだけでなくマイナスも引き継ぐんだ。医学の進歩って大抵法律が追い付かないって言うだろう? 犯罪を防げないとか人権を守れないとか想定外とかさ。この村には研究室も揃っているから、このウィルスのせいで世界がおかしなことにならないように、法律も整備してもらいたいんだ。…そう何もかもうまくはいかないだろうが、俺はゾンビとは言えロックスターだからな。流れに身を任せて生きるのはご免だ。誰かが始めなければ、俺が始めてやる。…今日はこれで終わりだ:



 「そういうことか。…本当に予測不能な展開だな」真横にきていた前島の呟きに、瑞生は我に返った。

「東京に帰らなかったんですか…」

「ロドリゴの来日目的を探りたかった。夜叉の口調から夕方に何か発表されるのは確実だったから、居合わせれば夜叉サイドに質問できる。…なるほどなぁ、病院を買うとは。弟を呼び寄せる必要があるわけだ。もしかして、この村に決めたのはAAセンターがあることが込みで検討されたのかもしれないな」

「どういうこと?」もはや前島にもため口をきく自分がちょっと嫌だった。お父さんなら顔を顰めることだろう。

 夜叉は疲れた様子で、サニとロドリゴに付き添われていった。代わりにWoods!のスタッフが、病院買収に関する質問は受け付けない旨を明らかにして終了した。


 前島も瑞生に慣れたのか、さして抵抗なく自分流に解説してくれた。

「ゾンビーウィルスは研究者垂涎の品だ。生きたウィルスは夜叉にしかいない。その夜叉の全面協力でゾンビーウィルスの研究をする病院なんて、夜叉でなければ作れない。ハビエル医師は公表していないがウィルスの研究でかなりの経験があるようだ。第一人者抜きでは、採取もままならないウィルスの研究など無理に決まっている。真っ新で他所の医師を招聘するのは、国立感染症研究所や海外の無視できない機関が多くて非常に困難だ。しかし既にいる医師と患者本人が金まで用意して始めるなら…かなり無茶だが不可能ではない。ハビエル医師には同僚が必要だ。これまで係わってきた藁科や森山は信用できないだろう。夜叉のあの真っ赤な頬を見れば、早晩この屋敷ではケアしきれなくなると推測できる。だからまず兄弟で夜叉のケアを万全にしたかったのだろう。夜叉のための儲からない病院という方針に賛同して応募してくる医師とチームを組むのならヒメネス兄弟も納得できるし、医師の選別には弁護士たちが手を貸せばいい。これは…周到な準備に基づいたもののように思われる…」最後は考え込んでいくようだった。

 「儲からない病院。普通誰も始めようと思わない。AAセンターは設備も人口密集地と離れている立地条件も申し分ない。一体…幾らで買った? 夜叉の債務は実は大した額ではなかったと聞く。つまり家や車、オークションは全て病院買収とその後の運営費捻出のためだ。…周到だ。新譜は作りたくて作るのだろうが、著作権の何パーセントかを運営費に回すと決めてあるのじゃないか? 君はどう思う?」

 ぶつぶつ言った挙句意見を求めるなんて、前島のキャラ崩壊に瑞生は絶句した。

「そんな呆れた顔をしなくてもいいだろう。私は人一倍呟いて頭の中を整理していくタイプなんだ」元々瑞生に意見を求める気はなかったようで、くるりと背中を向けて再び呟き始めた。

「逆にAAセンターは何故身売りすることにしたのか、不思議じゃないか? 必要があってあそこに存在したのなら、夜叉に買われては困る人がいたはずだ。確か夜叉は珍しく曖昧な言い方をした…『今まであった専門科は継続する…親族の質問には個別に応じる』とかなんとか…。今まであった専門科とは? アンチエイジングの入院患者がそんなにいたのか? アンチエイジングが必要な中高年の金持ちなら自分で説明を聞くだろうに、『親族』とは誰の親族だ?」


 面会室に戻った瑞生は、テレビで夜叉のAAセンター買収の話が大きく取り上げられているのを知った。

 識者もコメントの前後に、:情報が不足しているので何とも…:とお茶を濁した後、したり顔で手続きの適正さや行政の不干渉を追及したり、自由売買の咎め立てする必要なしとしたりだ。

ネット上でも、『夜叉がゾンビー病患者を大量生産するために病院を買い取った』とツイートして炎上したり、『ウィルス狙いスパイの格好のターゲット』『不死はともかく不老は魅力だ』など、この話題で大盛り上がりだ。

 瑞生はあらゆる書き込みを見ようとしたのだが、ツイッターだけで頭が痛くなってきた。大人しくテレビの平たい情報で我慢することにした時、見たことのある顔が映っていた。


 それは今朝ビジターセンターで新しい村のリーダーとして采配を振るっていた藤森琢磨だった。


 :コスモスミライ村の自治会に事前に連絡はあったのでしょうか? 住人の皆さんにとってAAセンターという病院はどのような存在なのでしょう?:

藤森はふさふさの白髪を揺らしてきっぱりと答えた。

:ええ、夜叉サイドから事前に相談を受けました。病院の買収自体は当事者同士の問題なので、自治会に関与する余地はありませんが、買収後の方針などの説明も受けました。AAセンターは地域住人の診療を第一目的としてはいませんから、どのような病院と捉えるかは個人個人で異なるということでしょう:

:それで、村としては?:

:夜叉の転入と病院買収を、村の今後の在り様を決める絶好の機会と捉えたいですね。私たちは夜叉がここで制作活動を行い、最期の時を穏やかに過ごせるよう、全面的にバックアップします。村の変革に関しては住人で話し合って決めていくことになります。今後とも過度の取材はプライバシー保護の観点からご遠慮頂きたいです。よろしくお願いします:

:以前は村への出入りは自由でしたよね? ゲートは今後も存続しますか? 村が“開かれた”ようには思えませんが?:

:警察と相談の結果、夜叉の身の安全を図るのにゲートは有効だと考えます。まずは夜叉の安全です。村は、世界に対して責任がありますから。それに村の変革が“開かれた”村を目指すと決まったわけではありません。以前の状態は本当に“開かれ”ていたと思いますか? 自由に村に入ることは出来ましたが、居住地に入って勝手に写真を撮る人がいたくらいでしたよ? 夜叉と病院、研究施設、豊かな自然、都市部との距離を活かせるよう知恵を絞りたいと思っています:


 村のイメージを田沼の100万倍は上げたであろう、藤森の知的な物言いと、作家らしい風貌、メディアに与せず自分のペースを貫くインタビューはネットでも高評価を得ていた。

 瑞生は前島の元に新しい情報がもたらされたか知りたいと思ったのだが、姿は見えなかった。伯母の霞からLINEが来ていることに今気づいた。

 『何時帰宅ですか』



 というわけで瑞生は家路を急いでいた。

いつの間にか自分の家(厳密には宗太郎の家だが、妻なのだから自宅と言っていいはずだ)でアウェーになっていた人の気持ちは想像するしかないが、伯母からSOSが来たら、走って帰るのが瑞生の務めだ。


 久しぶりに家族揃って摂る夕食のせいか、宗太郎は上機嫌で、元通りの夕食であるかのように思われた。

 しかしキッチンから料理を運んでくるのは曽我さんで、伯母は手持無沙汰で席に着いたままだ。しかも宗太郎用と、瑞生たち用の料理は、全くの別メニューだ。曽我さんは宗太郎の隣に座ってかいがいしく世話を始めた。瑞生は伯母が固まったのを見逃さなかった。

 住民票をこの家に移すというたった一つの手続きがこんなにも家庭を変えるなんて。それは…曽我さんに、家族同様というお墨付きを与えたのか。真面目な曽我さんはより一層恩に報いろうと頑張るのか。今までも不自然な仮面夫婦だったけど、これからはもっと歪な仮面家族になるのか…。

 専業主婦の伯母から、主たる家事の調理を取り上げてしまうと、伯母は何をすればいいのだろう? 僕の世話(語弊があるよね。洗濯と掃除のことだけど)だけ? あの調子では曽我さんは宗太郎に関する家事を一切渡すつもりはないだろう。さっきもキッチンに、伯母は遠慮して入らなかったのか、拒まれて入れなかったのか。女の縄張り争いは、男の想像を絶する怖さだと聞いたことがある。伯父はその辺りの事わかっているのだろうか。もしかすると、伯母と別れる前段階の準備ということ?

 瑞生は機会をみて、出来うる限り早期に、宗太郎の真意を探ることにした。




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