2015年6月20日① 誓約
2015年6月20日
今日は土曜日だが、本永の言ったように、試験で各クラスワースト5に入った者と、極端に成績が下がった者、不正行為が疑われたり不真面目な答案を書いた者が担任に呼び出しを喰らって親子でお説教される日になっている。だから昨日連絡をもらわなかった者は、お疲れ様休みになるのだ。
本永が来てからというもの、早朝散歩どころか、早朝に起きることがなかった。4時半に苦も無く起きていたのが嘘のようだ。
思うに、本永という緊張感を愛するストイックな男といると、健全に疲れるのだ。それまではこの村でこの家で、不自然な緊張状態でいる一方エネルギーを持て余していたのかもしれない。だから早朝に目が覚めていたのだ。不思議なことに、呪いの話を聞いて以降あの火災の夢を見ていないのも、目覚めない理由の一つだろう。
昨日事前会議の行方を気にして寝付けなかったので、起きたら7時だった。キッチンに行くと、伯母がぼんやりとコーヒーを飲んでいた。
「何年ぶりかで寝坊したわ。…昨日はさすがにくたびれちゃった」気を遣って立とうとする霞を制して、自分で紅茶を入れた。「伯父さんは?」
「自治会ぎりぎりまで休むって、曽我さんが」
瑞生は伯母を見つめた。話し方が疲労のためか、いつものようにそつなく理路整然としたものではないと感じたからだ。それにいささか投げやりでもあった。『曽我さんが』というところが、今は宗太郎の動向に関して、メインのマネージャーは曽我さんになったと認めざるを得ないのかもしれない。
「伯父さんは退院直後なんだから無理して自治会に出なくてもいいのじゃないの?」
「新しい会長を盛り立てるために、事前会議メンバーは全員出席する。ロハス事件後初めてだから、住人の関心は高いはず。出来るだけ大勢に参加してもらい、今後の村を考える契機にしてほしいのよ」
「伯母さんも出席するの?」
霞は肩を竦めた。また宗太郎から突然告げられるかもしれないので、余裕を持って支度をするのだろう。瑞生は夜叉に伝えたいことがあるので、早々に家を出た。
夜叉邸に行くと、クマちゃんが自治会に呼ばれていると言って、忙しそうにしていた。
「今日は区画代表だけではなくて、自治会総会だから希望者は参加していいみたいよ。そのために会場をビジターホールにしたのですって」と言いながら、ファクスを見せてくれた。
この前のビジター事件以降、住人に注意を促す必要が生じた場合、ファクス・メール・ツイッター・テレビの文字放送などあらゆる媒体を用いて、メッセージを送りまくることになっていた。
確かにファクスには『今回は参加者制限を特には設けませんが、小さなお子様連れはご遠慮ください』とある。『人数の都合上、個人的な発言・質疑応答の時間を設けません。総会後に各世帯からアンケートにご回答頂き、その後発言し合える区画会議を行う予定です』とも。
「この村に小さなお子様なんて、いるのかな」
「ほら、瑞生君急いで。10時開始でしょう? あなたは夜叉邸代表で私と出るのよ」クマちゃんに腕を取られて門根の車に押し込まれた。車の中でカツラ(本来の瑞生と対称的な漆黒剛毛のカツラを用意したらしい。それなりにインパクトがあると思われるが抵抗しなかった)と伊達メガネを渡された。あの作家と宗太郎が組んで何をやるつもりなのか興味があるので、大人しく揺られていった。
ゲートを通って村に入るとすぐに見えるのがビジターセンターだ。名前の通り、訪問者のための多目的施設で、研修施設を利用する団体が一旦ここに入って説明を受ける大ホールや、家を買いたい人が案内される小部屋がある。どの部屋も、住人が会議やレクリエーションのために予約を取って使うことが出来る。
いつもは区画代表が集まるだけなので、小さめの会議室で行うらしいが、今日は総会をホールで開くのだ。瑞生はクマちゃんを見失わないよう、ついていった。『私は目立つし夜叉の代理人とわかるとすぐに“例の愛人”と目星を付けられてしまう。だから離れて座った方がいいわ』と言われていたのだが。
クマちゃんから十分距離を取って席に着いた所で、肩をポンと叩かれた。
驚いたことに曽我さんだった。
「曽我さん? お、伯父さんと一緒じゃ?」
瑞生の横に座りながら曽我さんは微笑んだ。
「旦那様は奥様とご一緒の方がいいですから。私も村の運営が気になりますので、参加しようかと思いまして。実は…旦那様がね、ご厚意で私の住民票を村に移したらいいだろう、と言ってくださって」
曽我さんは訳あって高校には行かずに住み込みのお手伝いさんになったと聞いた。宗太郎の実家に勤めたのが最初でそれ以降、八重樫家一筋ご奉公なのだそうだ。
「宗太郎坊ちゃんが7歳の時です、初めてお目に掛かったのは。その頃は本当にすぐ骨折されて。十分ご自分の体の事、承知されていましたがそれでもお子様ですので急にドアノブを捻って手首を折ったり、不慣れな学校で足を踏まれて足指を折ったり…よく泣いて悔しがる坊ちゃんの愚痴を聞いたものです。『なんで僕は生まれつきこんな体なの』『一度でいいから思い切り走ってみたい』…高学年になるにつれ、色々な事がわかるようになり、却って辛い思いをされたのでしょうね。ご両親や執事には言いにくいことを私に話してくださいました」
曽我さんは昔を懐かしむように遠い目をして話してくれた。ちょうど、伯父と伯母の関係が微妙に変化している所なので、瑞生は注意深く聞いていた。
曽我さんと並んで座るのはカモフラージュとしては最適だ。一見して年配の母か若めの祖母と息子(孫)で、良くも悪くも目立たない。
コスモスミライ村自治会臨時総会が始まった。
最初に藤森琢磨が挨拶をした。就任の経緯を説明した後すぐに本題に入った。
「ざっと入り口で数えただけですが、今300人ほどの方にご参加頂いているようです。急な総会ではありますが、皆さんの関心の高さが窺えます」
「先日、乱発されたビジター用IDカードを入手した者が村内で勝手し放題、療養中の夜叉の家に入ろうとしたり住人の許可なく敷地に侵入し写真を撮るなどという騒ぎが起こりました。また、住人のプライバシーを侵害して勝手に写真を公開し、怪しい情報をばら撒いた者が元会長に暴力を振るい逮捕されました。このことは個人の資質に根差していると言えますが、驚くべきことに、多数の住人が金銭を授受しこの者に従っていたということです…」
会場はざわついた。
「ご存知の通り、警察の事情聴取を受けた方が逮捕や起訴に至ることはありませんでした。村外への転出を決めた世帯もあります。招き入れたビジターが隣家の美術品を壊したなど被害が発生した件で個人間の法的な解決を目指しているケースが数件あります。田沼会長が決めた住人への制裁を自治会は後付けで承認したわけですが、ほとんどの方は履行して下さっています。また、壊した人物を特定できなかった広場や植え込みの損害は、村の保険で修理費用を賄いました。以上があのトラブルに関する報告です」
ここで藤森は言葉を切って、すり鉢型のホールの底から階段状に上がっていく座席と参加住人を見渡した。
「先日まで、この村の自治は私にとって他人事でした。かなり特異な村のスタンスや存在意義にも関心はありませんでした。私は静かな執筆環境が欲しかった。それに尽きました。でも、心のどこかで、或いは小耳に挿んでいた呟きがあったのです。『何かおかしなことになっている』と」
「それは村の自治が住人の幸福追求のためではなく、N不動産の利益追求のために決められていたからです。確かに村を作ったのはN不動産です。だが、建村時の約束を反故にし撤退したお蔭で、住人は不便な生活を余儀なくされています。それなのに、会社都合を優先させる傲慢な態度を貫くのは、元社長の田沼さんが自治会長として権力を握っていたことが最大の原因だったと思います」拍手が起こった。
「時代は変わり、住人の生活にも変化があって当然です。転出を希望する人もいるでしょう。ですが、自由に仲介業者を選べないし、村に残るための支援も得られない。ブランド名で得をするより、村のために不自由を被っている事の方がよっぽど多いですよね? 今回の事件は、村への不満と実害がベースにあると考えます。たまたま夜叉が来たことは、不満爆発のきっかけを作ったに過ぎません」再び拍手。
「従来通りのセレブ感を演出する土地価格が高いままでは、若い世代が購入することは出来ません。若年層が入ってこなければ、村の高齢化はさらに進みます。高い地価は高い相続税を生みます。今まではN不動産が横暴なほどに横槍を入れるため、相続や贈与の問題は表面化せずにきました。しかし今後は圧力を掛ける組織がないので、最悪の場合、夜逃げや相続税の物納をする住人が出てくる事態を危惧しています」
会場はまたざわついた。
「一人が物納してしまえば、それに倣う人が出ます。それだけは回避するよう八方手を尽くす暗黙の縛り、慣例が遂に崩壊するのです。“ええかっこしい”の終焉と言えるかもしれません。競売に掛けられたり、空き家化や又貸しが起きるでしょう。転売を繰り返す“単なる物件”の村となればもう“ホームタウン”とは言えません」
藤森はちらりと最前列の事前会議メンバーを見た。
「昨晩、深夜まで事前会議のメンバーで知恵を絞りました。夜叉という唯一無二のロックスターの終の棲家が、まさに“ここ”なのです。これを村の再生に結びつけないでどうする?です。もちろん、“夜叉の家訪問”や“夜叉饅頭”的なことではありません。夜叉がこの村にいることで、かつてないほどこの村に来たいと思う人たちがいます。一方村は変わる必要に迫られています。何を変え、何を維持すれば、魅力的で暮らしやすい村になるのでしょう? 田沼さんがこだわり続けた“セレブ村”にも意義はあるでしょう。しかし学校が遠いために子育てには難しい問題があります。ともかくアイディアを募り、村の方向性を定めたいと思います。全員の思うような村にはなるわけないので、現実的にいきましょう。私はこのまま手をこまねいているだけでは、この村は甚だ不本意な終わり方を迎えると思うのです。『結局N不動産主導でなければ何も出来ない烏合のプチセレブ』と言われるのは腹が立ちます。結果ここを去る人もでるでしょうが、望む人が来られるようにしたいのです」
今度はホール中にくまなく視線を巡らせた。
「最後に基本事項としてどうしても押さえておくべきことを確認します。夜叉が存命の間は、夜叉の安全を第一とします。その間はゲートは存続しIDカードの携帯も続けます。その他でも夜叉と関わる事は夜叉を優先します。一旦受け入れた命です。この村が世界と交わした約束ですから、全力で守るべきだと思います」
「自治会のホームページにアンケートのフォーマットをアップしました。今朝出来上がったばかりです。これに記名の上本音の回答を書き込んでください。不満も提案も、責任を持って行って頂きたい。私たち新執行部は皆各々の仕事を続けながら、個人の利益のためでなく村の存続のために動いています。住人は皆、必ず回答してください。家族で意見が異なる場合はお一人ずつどうぞ。これから公表される調整中の案件があります。そのためアンケートは明日から回答を受け付けます。本日は緊急の総会にご参加くださいましてありがとうございました」
拍手が起こった。瑞生も拍手した。テレビやネットで中傷ネタを目にする度に気持ちが揺らぎがちな住人に、『夜叉を何が何でも守る』と宣言してくれたのが嬉しい。
昨日伯父と話していたことが“調整中の案件”なのだろうか。まだ公表出来なくて、明日にはアンケートに答えられるということは…今日これから公表される…って、もしかして夜叉通信で?
隣の人と話す人、誰かを探すように見渡す人。フリーズの魔法が解けたかのように一斉に皆が音を立てたので、気取った住人の集会でもホール全体がぶわっと膨張したかのようだった。下町と違うのは、大声で知り合いを呼ぶオバチャンや走り回る子供がいないのと、ジャージ姿の人がいない事だ。
藤森の周囲には、大役を労う人や新執行部らしき面々がいて、車椅子の伯父と付き添う伯母もいる。クジラっぽい塊が近づいていくと思ったら、クマちゃんだった。クマちゃんは執行部の中の痩せた男の人と話している。
少し離れた前列に澱んだ空気を湛えた一団がいた。高齢層で、藤森たちをひんやりと見ている。旧執行部かもしれないが、『下剋上に異議あり』と声を上げなかったのだから、消え去るのみだ。
曽我さんは伯父の帰宅に備えてダッシュしていった。瑞生は人波に埋没しようと騒がしい家族の後ろについた。この足で夜叉邸に向かうのは危険に思えた。『話題の主の夜叉邸をよ~く見てから帰ろう』などと思いつく住人がいそうだからだ。
「あ、見て。あの人凄い美人。モデルかしら」
前を行く一家の女が下品にも指さす相手は、伯母の霞だった。
「ああ確か事前会議に出てる古株の…体の不自由な旦那の…」とその夫らしき男。
「ええ?まさか金目当ての後妻?」と女。
「知ってるわ。C1よ。本当の金持ち。本当の金持ちは最初から若くて美人の妻をもらえるのよ」とは一家の老女。
義母の嫌味にキリキリした視線を送る女の花柄ワンピース越しに、瑞生は伯母を見た。群を抜いて圧倒的に、このホールの中でダントツに、綺麗だと思った。
ふと伯母が向きを変えこちらを見た。瑞生を見抜いて、髪を掻き上げながら指で表を指したので、瑞生は煩い一家を追い抜かしてホールを出た。
くすくすと笑いながら、「凄いカツラね。誰だか全然わからなかったわ」と伯母が並んできた。
「わからなかったと言いながら一目で見抜いたじゃない」歩きながら突っ込むと、「当たり前じゃない、私は」朗らかに言いかけて、一瞬顔色を変えた。しかしすぐに「…私は伯母さんだもの」と誤魔化した。
「…」瑞生はどう反応したものか、わからずに黙っていた。
2人は駐車場に向かう住人の流れにいた。狭い村とは言え、遠い区画の住人や高齢者は車で来ている。車の運転席には霞のボディガードのおばさんが待っていた。
「伯父さんは?」
「藤森さんたちと話があるから残ったの」
「旧執行部の人たちは大人しく引き下がるのかな? 田沼は来ていたの? N不動産は何も文句言わなかったの?」瑞生は抱えていた疑問を次々とぶつけた。
霞はたじろいだが、運転していない気楽さからか、後部座席に身を預け腕組みをして答え始めた。
「田沼は見かけなかったわ。取り巻き連中に何かする気力があるとは思えないけれど。N不動産は自治会長交代劇に不満はあるけれど、藤森さんも著名人だから表立っては何もしていない」
車はあっという間に家に着いた。靴を脱ぎながら伯母は顔を寄せて「お茶を持って行くわ」と囁いた。
「曽我さんが正式にここに住むの」入るなり伯母は言った。
「そういえば、『旦那様のご厚意で住民票を村に移す』って言ってた」伯母が意外な話題を問題視してきたので、間の抜けた言い方になってしまった。
「知ってたの?」
「うん。さっき総会の時隣に座ってたから。でもそれ凄い事なの? 今だって伯父さんがうちにいる時は曽我さんもうちにいるじゃない。ここ以外に住んでる家があった事の方が驚きだよ。ほとんど帰らないなら家賃無駄なんじゃない?」
瑞生の庶民的突っ込みが伯母には予想外だったらしい。
「そういう経済的な視点から見れば、確かにもったいないけれど、家族じゃない人の住民票をうちに移すということは、家族同様にうちに住むということよ。例えば首にしたからと言ってすぐ出て行けとは言えないと言うか…」
霞の主張はわかるようなわからないような、判断しかねるところだった。
「つまり、伯母さんの言いたいことは…わざわざ住民票をここにしなくてもいいじゃないか、ということ?」
「そう! 今まで別に住所があって、そこに住民票もあったのを、何故今ここに移すのか?ということなのよ。ほとんど帰らない家の家賃もどうせ宗太郎が払っていたのだから、急にもったいないというのも変でしょう? どうせ勝手に決めるのだから私に相談しないのはいいとして、何故なのか理由位説明するべきだと思わない?」
「う、うん。確かに。あの…まさか、曽我さんは“家族”になるの?」
瑞生も家族でもないのに家族扱いしてもらっているのだから、大きな態度を取るべきではないのだが、伯母の不安がそこにある気がして確かめようとしたのだ。
霞はリアドロの陶器の人形のような顔を凍りつかせた。
「まさか、そうではないと、思う」
「お、瑞生。クマちゃんと会議に出たんだって?」
こういう雲行きが怪しい感じの時、ガンタみたいなエネルギーの塊に明るく声を掛けられると、それだけで元気になる。
「こんにちは。お昼ご飯食べに来ちゃった」
「そうそう、子供はそうでなくちゃ」
「クマちゃんはもう戻ってるの?」
「いや、まだだよ。色々あるみたいだからな」
ガンタに呼ばれて、一階のキッチンに入って驚いた。床もシンクも調理場もつるんとした石で出来ている。
「物凄くゴージャスな料理が出来そう。夜叉の趣味なの?」
「まさか。あいつは『リンゴの皮?誰かが剥くまで喰~わない』を全食物に適用する男だよ。キッチンにビジョンやポリシーがあるわけないだろ。前の持ち主が凝り性だったようだからそのまま使ってるのさ。この大理石の作業場ときたら、ハンバーグの種を捏ねるのにひんやりしてて最適だよ」
食べることに関して話す時ガンタは本当に目が輝いている。
「今日はカレー? ガンタさんのカレー、最高だと思う」
「だろ? 夜叉に食べさせてやりたいんだけどな。食えないなんて生きてる実感ないだろうな。まぁ、前みたいにバクバク食えたら、自分がゾンビだって認められないだろうから、食えないことにも意味はあると言えなくはないが」
「食べるって生きてる証し。ゾンビの自覚か…辛いね」瑞生は大きな赤銅色の鍋を見ながら呟いた。
ガンタはスパイスの入った小瓶を光にかざした。茶色の小瓶の中の木の実はカラカラと音を立てた。
「ゾンビになって、あいつ生きてた時とは違うものを手に入れたと思うんだ。昔のあいつは才能が炸裂してるというか、恒星みたいに自身が燃え盛ってた。周囲は唖然と眺めるだけか、熱さに怯むか。全く別次元のキリノを除いて、俺やトドロキは幼馴染だし音の相性が良かったお蔭でなんとかついていってたという感じ。ともかく速い。あの声で歌うだけじゃなく、思いつくのも習得するのも創造するのも、行動するのも飽きるのも、ともかく何でも速いんだ。そして速くは出来ない者のことを全く理解しなかった。キラキラの流れ星が色んな所にぶつかって壊したり燃やしちゃったり、地上は被害を被るだろ? でもとてつもない美しさで皆魅了される。挙句、氷河に突っ込んで燃え尽きちゃった。今はそういう感じだな」
「で、驚いたことに、あいつが他人を『待ってる』。驚きだよ! 今にもまた死にそうなのに、以前よりどっしり構えている。『待てる』は強さなんだな。多分、瑞生を待つってそういう事なんだろうな」
「え? 僕そんなに夜叉を待たせてる?」
ガンタはドラム缶みたいな鍋をかき混ぜると、蓋をして瑞生に向き直った。
「気づいてないのか? 本当に? お前って夜叉と対等だよな? 俺たち15の時には本気で金を稼ごうとしてもがいてた。イマドキの子供にもそうあれ、とは思わない。けど、お前が子供のふりして伯父さん伯母さんの陰に隠れて易々と生きようとするのなら、物申すぞ」
瑞生はぱしぱしと瞬きをした。
「わかってる。今日は伝えに来たんだ。…でも、そんなに待たせていたとは思ってなかったんだよ」
ガンタは顎を撫でた。「ふ~ん。確かにそこまではわからないかもな。…あいつ、砂でできた城みたいに崩れかかってる。早く行って救ってやってくれ」
瑞生は2階に上がっていった。ガンタがキッチンにいるのだから、レコーディングは休憩中ということだ。このところ家の至る所に人がいるのに、今に限って全く見当たらない。静かで、空気までもが聞き耳を立てているようだった。
面会室は無人だった。通り抜けてグランドピアノのある今はスタジオになっている部屋のドアを開ける。薄暗くて、何もかもがぼんやりとしていた。後ろ手でドアを閉めると、夜叉通信を撮るセットの中で、微かな呼吸が聞こえた。
「夜叉…?」
以前お父さんが言っていた。『大きな声で話し、何をするにも音を立てる人は他人の大きな音にも寛容なことが多い。でも小声で話す人は大抵大きな声や音が苦手だ』
セットを囲むパーテーションの中を、そっと覗いてみた。
中央に蒼い光を放つ獣がいた。
何故獣に見えたかというと、髪まで蒼く鬣のように逆立ち、クッションを抱えて丸まっていたからだ。いや背中を伸ばしているのかもしれない。
「夜叉?」もう一度小声で呼び掛けると、正面と思しき側に回り込んだ。
蒼さの増した皮膚に、血糊のような深紅。皮下出血は下瞼から更に下に移動したようで頬まで血塗られたように見える。お気に入りの椅子ではなくソファに逆向きに座っている。
夜叉は瑞生を眼で捉えた。思わず吸い込まれるように近づいた。その眼は充血しているが蒼い光を放っている。ずっと見ていると体に震えが走るような眼力だ。
「つらいの?」
夜叉が僅かに身じろいだ。鬣と背中の様が、検索して見たイグアナの写真を彷彿とさせた。
「俺の体重の掛かったウィルスが死ぬかと思うと、同じ姿勢で眠れないんだ。だから…身も心も休まらない。痛みはないけど、恐怖心はある。目を閉じていると、俺のいろんな所が死んできて、声が出なくてサニやキリノやお前を呼べないまま、親指の時みたいに体が崩れてくる…そういう白日夢ばかり見るんだ」
瑞生は夜叉の目線に合わせて跪いていた。「それは、つらいね」
「まぁ、俺は死んでるからな。おまけでもらった時間でこうして話したり曲作ったり出来るだけ御の字なんだ。そう思うことにしてる。俺にしちゃ謙虚だろ?」
「それで、お前何しに来た」
「僕は自分が誰の子供か、何故父が死んだのか、そういう疑問を解き明かしたいと思っていた。この村に来てすることはそれだけだった。でもそれよりも大事なものを見つけた。僕は、夜叉と遭った。夜叉が僕の声を聞きつけてくれた。僕自身何て叫んでいたのかわからないのに、心の中の叫び声だったはずなのに、夜叉は聞きつけてくれた。それが僕のもっとも望むものだったのじゃないかって思う。父でも母でも、伯母でも。僕の望みは僕がここにいることに気づいてもらうこと。ただの叫び声だけど、気づいて『どうしたの?ここにおいで、お前は生きていていいんだよ』って言ってほしかった。…夜叉に見つけてもらって、僕は夜叉のために生きると決めた。誰がなんと言おうとどんな邪魔が入ろうと、夜叉が僕に伝えたいと思うことを受け継ぐよ」
夜叉は首を上げた。
「覚悟してきたのか?」
瑞生は頷いた。
「お前が思うよりずっと…きつくて、切なくて、孤独だぞ? 世間は敵だし、誰も信じられなくなる。結婚も…たぶん出来ないだろう」
「3回も失敗した人が心配することなの?」思わず笑った。「僕の女性観は歪みまくってるからね。好きな人と結婚したら幸せになれると思うほどお子様じゃないよ。女性・結婚・家族に関しては夜叉の思う以上に闇が深いから、気にする必要ないよ」
「…将来が決まってしまう。選択肢がない上に、平安のない闘いの日々だけだ。正直、これが一番つらい。お前に背負わせる自分勝手にもほどがあると思う。人権的にはアウトな話だ」
「僕の人権は、多分生まれた時から踏みにじられている。僕は人のために何かしたいと思わない。人と係わり合う目的がない。自分のためにも何かしたいわけじゃないし。だから、僕が反社会的な方向に行かずに、運命を定められるのは、ある意味幸せなんじゃないかと思う。選択肢がないって言ったけど、今僕が選んでいるのだから」
夜叉が慎重に肘をついて身を乗り出した。
「お前は人一倍美しく生まれついているのに、綺麗には死ねないぞ。差別される…かもしれない。俺を恨んでもいいけど、その時俺は傍にいてやれない」
瑞生はまた笑った。「継がせたいの、継がせたくないの?」
夜叉が蒼く光った。おそらくゾンビーウィルスが聞いているのだ。
「お前はこれからお前が支払うその大きな犠牲の代わりに、何を望む?」
瑞生は跪いたまま、顔を上げた。自分の口からどんな言葉が飛び出すのか、不確かなまま息を吸った。自然に涙が流れた。
「僕だけの、生き物でいて」
「生まれてからずっと、僕だけの物が何もなかった。僕は夜叉に僕をあげるから、僕だけの存在になって」
「俺はゾンビだぞ」
「僕だけのゾンビになって」
夜叉は親指の欠けた手で瑞生を引き寄せた。ぽってりした指先で、瑞生の頬を流れる涙を拭った。瑞生は夜叉と直接触れ合うのは初めてだった。蒼い光は思っていた以上に眩しくて、目の痛みに驚いた。額と額をくっつけながら、夜叉が囁いた。
「誓うよ。俺はお前だけのゾンビだ。今日から死ぬまで、お前だけのものだ」
「本当に?」
「本当だ。誓うよ」
「僕だけのもの? 絶対に、僕だけの…」涙が止まらなかった。




