2015年6月19日
2015年6月19日
服部順之助は自宅マンションを出ようとして駐車場に張り込んでいた記者たちに囲まれた。
「昨晩ご長男の賢一さんが警視庁に出頭したというのは事実ですか?」「石見葉月さん殺人事件の犯人として自首したわけですよね?」「一説では息子さん、裸足だったそうですが、自首しようとする息子さんを軟禁状態にしてたのじゃないですか?」フラッシュと突き出されるマイクを手で避けて服部は無言で車に乗り込んだ。けたたましくクラクションを鳴らし、レポーターの1人2人轢き殺しかねない乱暴な運転でスロープを上がっていった。急発進した車が続々と後を追った。
警視庁に乗り込んだ服部は、面会が叶わないとなると、「キューバ警察は小中を犯人と断定したはずだ。これは何かの間違いだ」「自首なんて嘘だ。息子は警察に騙されたに決まってる。連れて帰らせろ」などとしつこく絡んだ。
カメラが回っていないと踏んでのことだったのかもしれないが、居合わせた一般市民が通路で刑事に詰め寄る服部に驚き、動画に撮ってすぐに投稿した。好感度ナンバーワンキャスターの醜悪な親馬鹿発言の数々が、テレビで流されることになった。
警察庁からの要請に警視庁はすぐ応じ、新林は現地捜査の全資料を持って逮捕状を整える準備に入った。
「二課長が総監から、『キャスター周辺が小賢しく動いていたのは聞いていたよ。君が情報を収集しつつ事態の好転を待った点が功を奏したようだ。結果真犯人を出頭させたのは君の手柄だ』と称賛されたらしい。さっき、ご本人から聞いたんだ。通路を羽が生えた状態で移動してたからな。同期に一歩差をつけたって感じかな」と係長。
「服部父を、犯罪の隠蔽とかキューバの証人買収とかで、罪に問う話も出ているらしいな。服部の傲慢に振り回された連中が息の根を止めようとしているのか、恩を売ろうと手を貸した連中が服部を切り捨てようと躍起になっているか、だろうな」と係長は続けた。
思いも寄らない話に、新林は暫し思いを巡らせた。「キューバでの買収は立証できないと思います。結局偽証しなかったので。買収実行犯も不明なままでは金の流れが証明できないですよ。服部にしたら金だけ取られて騙されたようなものです。国内における犯人隠避・犯人蔵匿罪及び証拠隠滅罪に問える可能性はありますね。親族間の特例による刑の免除の適用はこの場合ないでしょう…」
服部順之助は、客観性を持つよう助言する友人の声にも耳を貸さず、冤罪を訴える記者会見を開く準備をスタッフに命じ、自分は警視庁の1階をうろうろとしていた。が、何時まで待っても、取調室から移動する賢一に会えそうにないと悟ると、大声を張り上げた。
「賢一、頑張れ! パパが何とかしてやるからな! 冤罪を立証してやる! 賢一、自白したら帰れるなんて言うのに騙されるな! お前も頑張るんだぞ!」
キャスターらしく良く通る声が庁内に響き渡った。
「賢一!」
賢一は耳を塞いだ。それでも追ってくる父の声に、身体を折り曲げ机に身を隠すように丸くなった。
「賢一!」
震える肩から聞こえてくる嗚咽の漏れる間に、絞り出すように賢一は言った。「助けてください。早く、早く送検してください…」
旧知の刑事から息子の完落ちを知らされて、服部はがっくりと膝から崩れ落ちた。送致された賢一と接見してきた弁護士と改めて記者会見を開くことになった。
事件のきっかけは、賢一がしつこくセックスに誘ったことだったのだが、先にコネ就職を自慢していたことを受けて『あなたがコネ入社でも別に構わないと思うけど、ひたすら努力して何か成そうとしているようには見えないよ。だからエッチもお断り。私、リスペクトできる人としかしたくないんだ』と拒絶されたことだった。
口論にはならなかった。賢一はいきなり葉月の首を絞めあげ、葉月の華奢な頸はあっという間に折れ、死んでしまったのだ。
「お前ら、なんで朝からいるんだ? 学校は?」ガンタが瑞生と本永を見咎めて聞いた。
「今日は採点日だから学校休みです」本永は憧れのThe Axeメンバーには敬語を使う。
「へぇ! イマドキの学校って、そんな理由で休みになるのか? ああ、“ゆとり”って奴か」
「ええと、“ゆとり”は失敗したので、今は昔よりずっと学習量が増えてるって話で。“ゆとり世代”って俺たちよりかなり前ですよ」
「金髪は、教師の風当たり厳しくないのか? 俺らの頃は、パンクな奴は教師の目の敵にされたもんだがな」
「う~ん。どちらかと言うと、同級生の目の方が厳しいかな、ドン引きされて。うちの学校は校則が緩いので髪形で注意されたことないです」
「なんで同級生がドン引き? バンドやってる奴なんて凄い髪形してるのいるだろう?」ぞろぞろとスタジオから出てきたバンドメンバーが加わる。
本永は髪に手をやり、少し困った顔で言葉を探す。このところ村に泊まり込んでいるので、金髪の生え際が黒くなってきている。
「俺はバンドやってないから。バンドなしで特殊な髪形って浮く。体育実技も見学で、高校からの入学は激レアだし。そこは八重樫と一緒で、ともかく存在が胡散臭いから」
「その上一番前の席で凄い貧乏揺すりしてるから、一層怪しく見えるんだよ。僕まで胡散臭いっていうのは承服しかねるけど」と瑞生。
「なんせ俺、“ジャンキー本永”って呼ばれてるもんな」
「知ってたの!」
「当たり前だ。自分が何て呼ばれてるか聞こえないわけないだろ」
「瑞生は何て呼ばれてるか、知ってるのか?」トドロキが訊いてきた。
瑞生はかつてのあだ名を思い出して、思わず顔と手が強張ったのを咄嗟に隠した。それに気づいたか否か、本永は無表情に「俺が知ってるのは“遅れてきたプリンス”と“亜ジャニ”だな。八重樫は知らないだろ?」
「『プリンスがどうこう』って言うのは鏑木から言われたことがある。“アジャニ”って何?」
「“亜”は『似てるけど本家は超えず』って意味で“ジャニ”は“ジャニーズ”の略だ。お前顔面偏差値はジャニーズを凌駕してるが芸が無さすぎると評判らしいぞ」
乾いた声でキリノが笑った。
キリノは、いつも緑の葉が風に揺れている香木のユーカリツリーの精霊みたいだな。
「そういえば、夜叉は?」
瑞生は夜叉の寝室に入ったことはない。今日も入ることはなかったが、寝室に通じるクリーンルームに通された。本永と瑞生は照明を落としたため薄ぼんやりとした何もない空間で待った。キリノたち3人も入ってきた。
夜叉とサニが現われた。
瑞生は夜叉を一目見て仰天した。赤くなった目から血が溢れているように見えたのだ。
「こりゃ、極端だな。顔が蒼いから内出血が血糊みたいに見える」トドロキがまじまじと見る。夜叉は憮然としていて、如何にもなのだが、サニがいつになく深刻な表情だ。
「やばいの?」すかさずガンタが突っ込む。
「…ゾンビー症候群患者は水分を摂りづらいため、涙を補う目的で限りなく涙と同じ成分の点眼薬を継続的に使う。そのアレルギー反応だと思う。キューバから持ち込んだ目薬が尽きて、国立感染症研究所から届いた物を使い出したから。涙の成分は水の中に電解質やタンパク質・酵素・ビタミンなど。キューバ人の涙の成分分析を基に作ったのと、日本人を基にしたのとでは濃度が違うのかもしれない。目はとても大事だから、早く手を打ちたい…」珍しく焦りが滲み出ていた。
「サニ、大丈夫?」瑞生は思わずサニの顔を覗き込んで言った。
サニははっと息を止めた。そしてすぐに今までの悲観的なトーンを打ち消すように、「まずヤシャを調べることから始めてみるよ」と明るく言った。そして、身体を捻りキリノたちに向かうと、「ヤシャは強いライトを浴びない方がいい。アレルギーは局所的なので動画の撮影は可能だけど、見た目はどうにもならない。メイクして隠すのは悪化させるだけだから」と話を変えた。
改めて夜叉を見てガンタが「どうする? お前鏡見た? 結構お化け屋敷状態だぞ」と聞いた。「ゾンビの実態を知ってもらうにはいいかもしれないけど、『ゾンビまじグロい』と引かれる可能性もあるな」
「最終的には夜叉が自分で決めればいい。俺たちはそれを尊重する」とキリノ。
「今度は何だ?」門根が帰ってくるなり聞いた。そして夜叉を見て、「これか…」と絶句した。
「夜叉通信にこの顔を出した方がいいのか、休んだ方がいいのか?」とガンタ。トドロキは「やったり休んだり、はマズイだろ。テレビ局は枠を取ってくれてるんだから。穴開けたら2度と扱ってもらえないぞ」と指摘する。
「縁日のお面を着けるわけにはいくまい? 生首とかがおふざけだったみたいに思えるもんな。だが素だと不気味過ぎるよな?」
「俺は構わないよ」と夜叉。
「ファンが構うだろ」と門根。
「俺は構わないっすよ」と本永。
「お前ほど近きゃ、どうでもいいだろう。コアなファンもどうということはない。問題は一般大衆だ。夕方のワイドニュースを見てる層の」キリノは涼しげに言う。
サニのスマホがブルった。サニは相手に何度も「ありがとう」とお礼を言って通話を終え、安堵の笑みを浮かべて言った。
「ミナサン、ヤシャの目の問題はもうすぐ解決しそうになった。目薬の分析結果が出た。キューバ製の物がヤシャに合うようだから、同じ成分比率で作ってもらうことになった」
「ほう、早期解決だな。そりゃよかった」門根は帽子を脱いだ。「今の、サニにしては珍しく時制が滅茶苦茶だったな」
「でもその目薬、今日は間に合わないのでしょ? この赤蒼のまま放送だよね?」瑞生が確認する。
「さっき焦ってたのに。どこに分析を依頼していたんだ? 作ってもらうなんて信頼できるのか?」本永が突っ込む。
サニは困ったように俯いた。
「お、そうだ。言いそびれてた、借金完済だ。家3軒と車3台、一等地のバーとブティックの2店舗で事足りた。高級外車5台は今オークションの最中で、代金は自由に使えるぞ。印税もちゃんと資産として貯めていけるようになる」門根の報告に、夜叉の目が怪しく光った。
瑞生は、金の話には従来無関心だったサニがぱっと顔を上げて反応したことに驚いた。そして夜叉は「クマちゃんを待とう…」と呟いた。それはサニに向けて言ったように思われた。
キリノが「あの燃費の悪いフェラーリを買う人間がいるとは驚きだな。確か3億したんだよな」と言うと、トドロキが「運転しないキリノには馬鹿げた話に思えるんだろうな。マニアにとってあのフェラーリは夜叉特別仕様のプレミアム付きで4億以上だって払う価値のある物なんだよ」と解説した。
「夜叉通信はいつも通り。俺は出るよ。俺が発信したいから“夜叉通信”なんだから。目薬の目処が立つのなら、そう言えばいいだけだ」夜叉がこう宣言して、バンドはレコーディングに、マネージャーは雑務に、学生は暇に戻ってしまった。
「ねぇ、朏巡査部長はK県警で新林警備補は警視庁で前島は警察庁でしょ。力関係的にはどうなの?」瑞生は、たまたま今日の邸内警護当番に当たった朏に、半ば絡んだ。
「八重樫君も、すっかり慣れて話すようになったなぁ」迷惑だろうに朏は書類から顔を上げた。
本永の方が恐縮して、「警察小説では、各組織同士で軋轢やしがらみがあることになっている。朏巡査部長はK県警所属なんだから、地方公務員だ。新林は東京都の公務員、前島は国家公務員だ。平たく一緒にするのには無理があるんだから、変な質問するな」と瑞生を窘めた。
「ふ~ん。…それより気になるのはさっきのサニだ。なんだかいつもと違ってたよね?」頬杖をついて本永を見上げると、小刻みに揺れていた。
「ああ? 仕方ないだろ。夜叉みたいによくわかってない病気の患者をたった1人、孤軍奮闘で診てるんだぞ。設備も不十分だし、何より協力してくれる機関がないのが致命的だ。サニは尊敬に値するほど忍耐強い大人だ。…でも、今回の目薬の件で、限界に達した感があるな」
本永の考えは、見聞した情報から一歩踏み込んでいる。瑞生は自分の通り一遍思考とは違うと感心すると同時に羨ましく思った。
昼にガンタ特製ラーメンを食べていると、クマちゃんが戻ってきた。でも瑞生たちには手を振るだけで会話もなく、門根や知らない人多数と夜叉に影響を及ぼさないように1階で会議を始めた。
伯母の霞から、宗太郎の代わりに事前会議に召集されたと連絡が来た。クマちゃんの耳に入れておきたかったが、気軽に入れる雰囲気ではないので諦めた。
暫く1階をうろうろした後、2階に戻ると、本永が「俺、家に帰るわ。伯母さんにお礼言えないで申し訳ないけど、また言う機会はあると思うから」と言うなり、すでにまとめた荷物(洗濯物は学校で母親と日々交換していたのでないし、荷物と言っても教科書位しかない)を持ってずんずん階下に降りていく。
「え? え? どうしたの、急に…」瑞生はついていくので精一杯だ。本永はドア前の小部屋で立ち止まり、振り向いた。
「テストは終わった。夜叉が義務と感じていた青山・小中の動画は発信された。それぞれの復讐と解放も、果たせたかは知らないが少なくとも始まった。俺たちも、居合わせた縁で右往左往する時期は終わったと思うんだ。これからは自分で考えて動くんだ。明日は土曜だけど成績不振者の呼び出し日で、事実上休みだ。月曜から俺もちゃんと登校する。その前に自宅で、ゆっくり考えたいんだ。家族とも話し合った方がいいと思うし。お前といたテスト期間は最高だった。わくわくしたのは本当に久しぶりだった。ありがとうな」
サニが2階にいるので、本永は慣れた手順で体重を測り、カメラの前でポケットやカバンに持ち出し品のないことを示し、朏巡査部長に出る旨を伝えた。
「そんな、本永…」
突然のことで、瑞生には言葉が見つからなかった。一緒にいるのが当たり前のように思っていたけれど、これは瑞生のピンチに駆け付けたまま突入した臨時合宿みたいなものだったのだ。
目の前で閉じたドアをいつまでも見ているのは女々しい気がして、くるりと向きを変えると、朏巡査部長と目が合った。さっきまで、ぬるま湯の環境に浸って、馴れ馴れしい口をきいていた自分が恥ずかしい。
1人ぽつんと面会室のいつもの椅子に座ると、本永の言葉をじっくり考えた。
確かに、キューバ発の事故に呼応して日本で発生した色んなことは、一区切りついた気がする。本永は『これからは自分で考えて動くんだ』と言った。瑞生はこのまま毎日夜叉の家に来る。それで? 夜叉はバンドとアルバムを作る。夜叉通信を続ける。それで? 自分はそれを見てるだけか?
以前からそうだった。やりたい事がない。なりたい者がない。
でも待てよ。以前とは違うぞ。夜叉やたくさんの人と出会い、その生きざまを知った。考える手掛かりが色々あるのじゃないか? 父の生き方しか知らなかった以前とは違う。自分も何かは出来る気がする。
瑞生はリュックからノートを取り出した。『常に勉強道具を持ち歩くべし。家が近いからいい、なんて怠け者の言い訳だ』と本永にきつーく言われたことを実践しているのだ。
真っ白なページを眺めているのは嫌だったので、“今の自分”“以前の自分”と書いて、自己評価や得意不得意、周囲の人物、周囲の評価、など思いつくままに書き込んでいった。対人関係の集合体が幾つも出来て、なかなかにぎやかな自分史になった。
そして、大きな→の先に“将来の自分”。こんな言葉を自ら書く日がくるなんて。
スマホがブルった。メッセージを読んでノートを閉じた。夜叉の屋敷にいる人は皆、やるべきことをやっている。朏巡査部長に挨拶をすると、瑞生は外に出た。
家に帰ると、伯母が待っていた。
「事前会議で何があったの?」
ソファに座ると、伯母は複雑な表情を浮かべながら話し出した。
「急な召集で、私同様ご主人の代理で出た奥さまがかなりいらしたわ。それで、田沼さんに自治会長解任動議が出されて、あっという間に解任、新しい会長に、作家の藤森琢磨さんが選ばれたの。色々な賞を取ったことのある有名な作家よ。『夜叉がいる間は、夜叉がいい最期を迎えられる村でいよう。夜叉後のこの村の事を真剣に皆で考えよう』と言った時は万雷の拍手だったわ」
「あの田沼が解任? びっくりだな! 田沼は大人しく引き下がったの?」
「まさか。仁王立ちで『こんなこと認めんぞ』と怒鳴っていたけど、誰も相手にしなかった。藤森さんがスピーチを始めて拍手で終えた時は、もういなかったわ。誰も田沼がいつ退場したのか、見ていなくてざわついた程よ。そもそもN不動産のための村運営が問題だったのに、ロハス事件で自分が首を絞められたからといって、何の反省も方針の見直しもないなんて、おかしいもの。必然の解任だと思うわ」
「伯父さんは? 何か言ってた?」
「急だけど今日の夕方退院よ。田沼失脚を見られなくて残念がっていたわ」
瑞生と伯母は、普通の親子のように話していた。瑞生のノートには解決すべき事案として“家族”と書いてある。今こそ、訊くべき時かもしれない。瑞生は大きく息を吸った。「…」
「夕食から宗太郎向きの食事になるわ」
「あ、そうだ、伝えなきゃ。本永が家に帰ったんだ…」
「さっき、本永君のお母さまからお電話頂いたわ。ご本人も『挨拶もせずに失礼しました』って」
「なんだ、知ってたの」
「ええ、本永君の食欲に応えるためにここ数日肉料理中心だったのよね。明日からは魚が多くなるわ。瑞生はいつも黙々と食べるけど、本当は肉がいいのよね?」
「ううん、何でもいい。伯母さんの料理は美味しいから。お父さんが好きな味はこうだろうなって、いつも感じるから…」
伯母は立ち上がりながら言った。「…だから買い出しに行くのだけど、荷物持ちで付き合って。今日は少し遠くまで行きましょう」
車は村を出た後、麓のY市を通り抜け港湾沿いの道を北上していく。瑞生は窓の外のキラキラ光る海面と船舶、巨大なクレーンのコントラストを眺めていた。
港町の商業地区を通り抜け、車は丘の上の住宅街に入って停車した。そこはミライ村とは趣の違う瀟洒な洋館の並ぶ街だった。黒い鉄柵に囲まれた家、蔦が覆う洋館、歴史の風格が感じられた。
霞は鉄柵に沿って棘の植物が茂っている家の門のセキュリティを解除し中へと入っていく。慌てて後を追った。
「凄い棘。服とか引っ掛かったらびりびりになりそう…」
「カラタチよ。春には白い花が咲くの。棘が鋭いので昔からよく生垣に使われるのよ」
棘に守られていたのは古い煉瓦造りの家だった。敷地は狭いようで、見上げても家の全体像は掴めなかった。
「瑞生」、伯母が家の中から呼んだ。
古めかしい洋館には人気が無く、外の熱気を余所にひんやりと湿り気を帯びていた。2階の窓から射し込む光に空気中の浮遊物が反射して綺羅めいている。古い外国の家に(異人館と言う呼び方を知らなかった)入り込んだかのようだ。
階段の灯りを一つ点け、踊り場から伯母が手招きする。瑞生はここがどこなのか分かった気がした。確かめるために微かに音を立てて階段を上った。
その部屋は、明かり取りの窓とベッド脇の窓から惜しみなく注がれる太陽光で満たされていた。床も調度品も全て木製で、余計な物のない整い方は、とても普通に人が住んでいたとは思えない。
伯母は立っていた。瑞生は椅子ではなくベッドに腰掛けて、天井から床までぐるりと見渡した。そして壁紙に気づいた。青い小花の散る品のいい壁紙。
「僕の部屋の壁紙と似てる…。ここは、お父さんの部屋?」
伯母は頷いた。「そう、雪生の部屋」
「ここは前に話したロシア人の先祖が住んだ家ではないわ。大柄なロシア人には小さいでしょう? 港町の宝石店はずっと同じ場所にあるけど、住居は何度か引っ越している。祖父は火に強い煉瓦の家に拘ったのね。家の中はとても居心地がいいのだけど、もらい火を拒絶するあまりか、外からの侵入の一切を拒絶するような外観なの。そして私と雪生は2人だけの世界に浸って、この家の中で育ったの」
瑞生は次の言葉を待ったのだが、伯母は黙っている。改めて父の部屋をじっくりと見ていった。あの狭くてごちゃごちゃした火浦の家の中では雪生と瑞生の使うスペースも物も最小限に限られていた。ここはこじんまりとした部屋だが、机、本棚、クローゼット…あらゆる空間が父の自由意思で満ちているようだ。きちんと整理された本。全集はもちろん全巻揃って順番に並んでいる。引き出しに手を掛けて少し躊躇したが、一度にすべて見てしまうのはもったいないので開けないでおいた。
瑞生はこんなにも自分が父を慕って止まないことに今更ながらに驚いていた。クローゼットのカーディガンの匂いを嗅いだ後は手放し難かったし、最後には年代物の艶やかな机に突っ伏して、父のぬくもりを感じようとした。
お父さんも学校の試験明けにはこうやって机にグターってやったのかなぁ。
瑞生の視線の先に壁紙があった。
「今の僕の部屋の壁紙は、僕が行くと決まってから張り替えてくれたの?」
腕組みをしていた伯母は黙って頷いた。口元は緊張しているように見える。「私はあなたの事をよく知らないから、雪生の好きな壁紙だったら安心して眠れるのではないかと思って。その…家族を失った直後で、ミライ村もフレンドリーとは言い難いから」
そうだけど、それだけじゃない。瑞生のために壁紙を変えた理由は、瑞生がこの家のこの部屋に来たことが何度もあって、おそらく内装に馴染んでいたからだ…。壁紙以外は記憶にないけど。
父の笑顔と幼い自分。あの時の自分は…燃えてしまったアルバムには『瑞生一歳』とあった。つまり、記憶に残る位のレベルになってからは来たことが無いのだな。何故、来なくなったのだろう?
母奈津美は、雪生と仲睦まじい姉の存在を許しただろうか? 父にとって何より避けたいのは、奈津美の狂気の刃が霞に向くことだったのではないか?
瑞生は頭の中から出てきた言葉に慄然とした。霞に刃が向くのは避けたかったが、瑞生に向くのは構わなかったのか…?
霞の視線を感じた。
だが、その眼差しは瑞生には理解不能であった。何故言葉ではなく眼差しで語ろうとするのだろう。『目は口ほどにものを言う』くらい知ってるけど、まだ一緒に暮らして3ヶ月なんだから、そんなに解るわけないじゃない。
困って瑞生が俯くと、木目の床と自分のスニーカーが目に入った。瑞生は明るく顔を上げて訊いた。「この家は誰も住んでいない空き家になっているの?」
霞はほっとしたように見えた。「ええ、両親が相次いで亡くなって私と雪生で相続したのだけど、雪生は婿養子になる時に私に贈与していったの。時々管理に係わった不動産屋さんから、買い手がいるから売りませんかと打診される。でも私は思い出が色々詰まっているこの家を手放せないでいるの…」
それに
「え?」
「え、な、何?」
瑞生は伯母が言いかけた言葉を聞こうとしただけなのに、伯母は狼狽した。心の声を聞かれたかのように。慌てて「それに、私はたまに来るの。村にずっといると疲れちゃうから。宝石店も叔母たちも近くにいるし」と続けた。
「宝石店の…?」瑞生は先日伯母の部屋で見た美しい貴石の指輪を思い出した。丸いデザインのサファイアを気に入った自分の感覚はあながち間違いではなかったのだ。
霞が腕時計を見た。湾岸道路が混む前に通り抜けておきたいのだろう。宗太郎に会話が筒抜けなのだから、買い物荷物を持って帰る必要もある。
「夜叉の本を持って行く?」階段を下りる時訊かれて、瑞生は足を止めずに首を振った。「今の本人と知り合っていくから、いいや」
「今日はどうして、ここに連れてきてくれたの?」
セキュリティパネルの前で立ち止まると、一呼吸おいて伯母は振り向いた。
「あなたに雪生の部屋を見せておきたかった。宗太郎が入院してから、チャンスがあればと思っていたの。今はまだ無理だけど、いずれあなたが青年になったら、鍵を預けるから1人で来ればいい。雪生の読んだ本を読んだり、雪生が呪われた一族の男の子として何を考えていたのか、思い馳せることがあってもいいでしょう。ここでなら怒っても泣いてもいいのよ。そういう気持ちを晒せる場所が必要な時に使ってほしいの。あなたと雪生の思い出のある家は焼けてしまったけれど、この家の雪生は…ずっと青年のままで残っている。それを伝えたくて。…ただし、ここで隠れて煙草を吸うとかラブホ代わりとか、友達と酒盛りとかはNGですからね」
ピッピッとパネルを操作すると、伯母は瑞生を外へ誘った。映画に出てくるような呪いの物語の家の扉が再び静かに閉ざされた。
Y市の大型スーパーに着くと、霞は瑞生の押すカートに猛然と食料品を入れていった。瑞生の両手いっぱいになる程食料品を買い込まなければならないのだ。目についた鼻炎用のティッシュを「これも入れたらかさばるのじゃない?」と言うと、「採用」と言うやカートに投げ込んだ。
家に戻ると、久しぶりに見る曽我さんがいそいそと動き回っていた。入院先のAAセンターには伯母よりも曽我さんが詰めていたし、退院となると家じゅうの隅々まで宗太郎のためのセッティングに精を出すのが曽我さんなのだ。
部屋に戻り、ノートを開いた。
解決すべき事案として“家族”がある。瑞生はその下に、“居場所”“父の本”と書き足した。父の部屋の窓辺で、考え事をする自分を思い浮かべた。進学や専攻、人生の岐路に思い悩んだ時、誰にも邪魔されずに時間を過ごす場所がある。そう考えただけで、心が浮き立つのを感じた。
4時半過ぎに、八重樫家の当主が久しぶりに自宅に戻ってきた。かなり重い骨折と聞いた記憶があるが、急に退院の運びとなった理由は何なのだろう。
パソコン5台でネットに繋がっていたのだからネット環境に不満と言うことはない。宗太郎が瑞生の防波堤作業だけをしていたとは到底思えない。何か、どうしても家に戻らなくてはならない理由があるのだ。
慎重に慎重に運び込まれた宗太郎はそのまま寝室に入った。瑞生は、初めてのことだが、自宅(八重樫家だが)で夜叉通信を伯母と見ることになった。
夜叉通信は『照明を抑えて放送します』という断り書きで始まった。
:やあ、夜叉です。今日は第六夜だ。報告がある。家と車を売ったんだ。俺にはこの家があればいいから。結構一等地の物件だったお蔭で、借金を完済できた。買ってくれた人、買おうとしてくれた人、ありがとう。本当ならもっと早くに債権者に直接返済するべきだったと思っている。債権回収業者に売る羽目にさせてしまったのも、俺がぐずぐずしていたせいだ。債権者の皆さん、本当にすみませんでした:
夜叉が頭を下げた。
下げた頭を再び上げた時、照明で顔が映し出された。いつもより蒼い顔、赤い目の下瞼から血が溢れ出ているように見える。隣で伯母が息を呑んだ。
:この顔で驚いた人も多いと思う。動きだす腕やしゃべる生首の次は、いよいよ流血ゾンビかよ、と思う人もいるだろう。俺の体はセルフで涙を上手く作れないから常に点眼しているんだけど、急に目薬にアレルギー反応が出ちゃってね。血糊みたいに見えるけど、ただの内出血だ。改良した目薬が届けば治るらしい。いきなり撮影スタッフを襲ったりしないから安心してくれ。ゾンビー症候群に関してはわからないことだらけで、俺を診てくれている医者やスタッフは大変だ。俺は蘇ってから感謝を学んだ。と言うか、学び直した。バンドがビッグになるまでは周囲にいつも感謝していた。それがいつの間にか、他人に気を遣わせるのが当たり前になっていた。学び直せるなんて、有り難いな。その意味ではゾンビーウィルスの利点を再認識するね:
:俺は皆にゾンビー症候群のことを知ってもらいたいと思っていると前も言ったな。今患者はわかってる限り世界で俺だけだ。回復することなく、時間切れでまた死ぬだけだ。専門病院はもちろん専門研究室もない。ゾンビーウィルスを採取出来たら、世界中の機関が殺到するのはわかっているけどな。似たような状況の病気は世界中にあるらしい。本当は研究したいと考える医者がいても、資金を援助する機関もない。俺の私物のオークションがそういう方向に活かせないかな、と思っているんだ:
:それで、養育費とか相続権利者のこととかはっきりさせたかったのか?:トドロキが経営者らしく、資金繰りの話をする。
:医療機関を始めるには、施設や医師・看護スタッフ、設備にまず投資しないといけないからな。それに患者数の少ない難病研究は、利益を生み出すものではない。どちらかと言うと金を使うだけだ。そのため出資者を募っても簡単には運営資金は集まらない。…それで、お前がドカンと払うつもりでオークションを開くのか?:
夜叉が少し微笑んで見せた。
隣に座るキリノが、手元の紙を見ながら言う。:いい知らせだ。夜叉所有の残りの高級外車5台のオークションが終了。かなりの額になったそうだ。これをそっくり注ぎ込むのか?:
:そうだね。俺には金も時間も無駄にする余裕はないんでね:夜叉の蒼く揺らめく顔面に血の滴るような下瞼が光って見えた。
「本当にヴァンパイア映画のヴァンパイアみたい…、幽玄の趣だわ」と伯母が呟いた。
「映画はバーチャルな物だしヴァンパイアも架空のクリーチャーでしょ。現実の夜叉が映画のキャラみたいっておかしくない?」瑞生が矛盾点を突いたが、伯母には通じず、うっとりとディスプレイを見ていた。
「まぁ…ゾンビがありならヴァンパイアもありかもしれないけど」語尾が弱気になったのは、この年までゾンビー症候群を知らなかったので、ヴァンパイア症候群という病気があるのかもしれないと思ったからだ。
:あの黄色い毒のあるカエルみたいな車買った奴がいるのか、驚き!:ガンタが茶化して笑った。
瑞生は一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなって部屋の中を見渡した。昨日までは、今みたいなガンタの笑い声をスタジオで直接耳にしていたのだ。それを馬鹿でかいとはいえテレビ画面から聞くなんて、なんだか魔法が解けたかぼちゃの馬車とネズミみたいだ。
実際の所、素人の高一が抜けても、アーティスト集団には何の影響もないのだ。
夕食も宗太郎は自室で摂った。曽我さんと伯母が、以前より事務的に食事について話しているのが聞こえた。キッチンで、最初伯母はメモを取っていたのだが途中から止めていた。
そして8時頃に、突然男が訪ねてきた。伯母はそつなく応対していたが、宗太郎には突然ではなかったようだ。
伯母と伯父の間がぎくしゃくしている。どうも伯父は伯母に対し態度を硬化させているようだ。入院前は、息が合っているとは言い難かったけど曲がりなりにも夫婦らしい共同体感があったのだが。留守中の監視映像を見て、瑞生や本永との関係に不満があったとか、夜叉邸に行ったことを責めているとか、要因は幾らでもある。伯父のお金で学校に行かせてもらっているのは重々承知しているが、伯母がいるからここにいられるので、伯母の側に立つつもりだ。血の繋がりが無くとも、父が愛し父を愛したこの美しい人を守るのは、父の代わりに瑞生が果たすべき義務に違いない。
「誰?」瑞生はそっと聞いた。
キッチンでお茶の準備をしつつも思案気な伯母は、一瞬びくっとしたが、すぐにいつもの冷静な調子で、「藤森琢磨。自治会長になった人」と答えた。
「今日下剋上した人? 作家の?」
「そう。…一応お茶を出してくるから、瑞生は部屋で勉強していたら?」
新自治会長と聞いて、少し安心した。何かを暴きに来たわけではなさそうだ。
英語のCDを掛けてテキストを開いた。「まずは英語だ。…そうだ、キューバはスペイン語圏だって夜叉が言っていたよね。サニは普段はスペイン語を話しているわけだ。マカンダルの息子も…。いつか僕もキューバに行くことがあるかも。…スペイン語講座をやろうかな」
瑞生はネットで調べ始めた。
テキストに頬を載せての睡眠学習を破られたのは、人の声が聞こえたからだ。静かな伯父や伯母の声ではない。瑞生が部屋を出て階下を窺うと、また伯父を運び出そうとしている様子だ。
思わず駆け下りて、「伯父さん具合悪いの? また入院?」と訊いた。すると運び出される宗太郎自身が、「瑞生君、大丈夫。事前会議に行くだけだ」と妙に嬉しそうに言った。
伯父の横にいた見慣れぬふさふさ白髪の男が、「八重樫さん、彼が例の美少年?」と確認しながら瑞生の方に近づいてきた。
「藤森琢磨です。君が夜叉に見込まれた子か…。また会って話を聞きたいなぁ。おっと、時間だ、急ぎましょう」作家は初対面の瑞生の肩をポンと叩いて、宗太郎の方に向き直った。「伯父さんの体を気遣って駆け下りてくるとはいい子じゃないですか」
「そうなんだよ」上機嫌の宗太郎は筋肉隆々のヘルパーたちに担がれて出ていった。曽我さんが軽く会釈して付き添っていく。
「事前会議? こんな夜に? 伯父さん、身体大丈夫なの?」玄関に立ち尽くしたまま、矢継ぎ早に質問を繰り出す。
「そのための打ち合わせだったようね。藤森さんは田沼を排除した後村の運営をどうするか、しっかりしたビジョンを打ち出そうとしているのでしょう。夜10時というのは異例だけど」霞は氷のように無表情に当主の出ていったドアを見ていた。
ふと、お父さんの言葉が浮かんだ。
『時間は常に流れているだろう? さっきと同じと思っていても、5分前には戻れないし、5分前とでは風向きも太陽の位置も違う。瑞生だって、さっきまで明日の体育の事ばかり考えていたのに、今は晩御飯のカレーの事を考えている。変化は起こるべくして起こるものなのだから、いたずらに恐れたり拒否しても仕方がない。変化を恐れるあまり、その兆しに目と耳を塞いで、いつの間にか鈍感になってしまう事がある。僕は瑞生に変化を恐れない人間になってほしい。多分、うちは落ち着かないから、安定を求めたくなるのだろうけど。自分から変化を起こすくらいの気持ちでいてほしいな』
変化を起こすと言えば、夜叉だ。確かに自分は受け身一筋15年だけど、こうして夜叉と出会った…。
伯母のスマホがブルった。「宗太郎からだわ。…『今すぐ、ビジターセンターに来て事前会議に出席してほしい』ですって!」
文末に力が籠ったのは、おそらく『こんな夜中になんてこと。メイクが!着替えが!』という心情が現われたと思われる。瑞生は若干パニクッている伯母を可愛らしいと思いながら、「大丈夫、いつも通り綺麗だから。車の音がしたからきっと玄関に迎えに来てると思うよ、急いだ方がいいよ」と言ってやった。
霞の中で、化粧を直したいという気持ちと宗太郎の使いを待たせるべきでないという教訓が一瞬せめぎ合い、賢明な選択が成され、エプロンを外してそのまま外に出た。瑞生は騙りの使いに誘拐されては堪らないと思い至り、走って見送りに出た。車には曽我さんが乗っていたので、大丈夫だろう。
それにしても、何故急に伯母の同席を求めたのだろう? さっきまでの雰囲気では、伯母は蚊帳の外だったのに。
「兆しに鈍感になるな…か」
結局、伯父たちが事前会議から帰ってきたのは、深夜1時を回ってからだった。一応、階段上から「お帰りなさい」と声を掛けたら、伯母が疲れ切った顔を上げて、手を振ってくれた。それ以上何も聞けなかった。