2015年6月18日② 小中高大の独白
*小中高大の独白*
人の価値とは何で決まるのだろう。どの夫婦の下に生まれてきたかで、理不尽なことに他人にとって有用な人間か無用な人間かが、決まるらしい。
俺の価値が服部の父親の取り巻きにとってゴミ以下なのは致し方ない。俺は奴らに金をもたらすことはないからだ。奴らの俺に対する無関心はわからないでもない。
俺がむかつくのは、人事の人間の俺に対する無関心だ。大学名とWebテストで、俺を会うに値しない人間とみなすのを止めろ。学歴フィルターなんかで若者の可能性を摘んでどうする。会ってみたら、ガッツがあるとか、性格がいいとか、ダイヤモンドの原石のような青年かもしれないじゃないか。それを育てるのがお前ら人事の役目だろう。
地方で典型的中産階級の両親は、Uターン就職しろとは言わない。継がせる家業があるわけじゃないし、狭い故郷で、昔の同級生が社長を継いだ工務店なんかで働くのは厳しいよな。親が農業やってる奴も継ぐ派と無関係派とに別れていて、同窓会をしても(もちろん行かないけど)とても昔のように無邪気に笑いあえるとは思えない。
俺は一浪した上に東京に出してもらったから、就職はいい所に決めたかった。だから1年の時から積極的にインターンシップでいい企業に存在を覚えてもらおうと思っていた。だがインターンは4年生対象が主だったからか、一流企業にはインターンを受け付けてもらえなかった。『1年生から企業研究とは熱心だね』と言っていた相手が、大学名を知ると手のひらを返したように『まだ早いから。3年生になったら申し込んでみて』と電話を切るのだ。
折角の夏休み、メガバンクや商社に振られて、どうしたものかと考えた。同じ大学の奴らみたいに、コンパと旅行と居酒屋バイトに明け暮れるのでは意味がない(Fラン大には家庭教師と言う選択肢がない)。ボランティアに行く気はないし、留学するには金がない。実家に帰るのは気が進まない。地元の同級生に遭って『浪人してたね、今どこ大?』と訊かれるのが嫌だった。なんとか就活に有利になる企業バイトを見つけて、帰省しない理由にしなくては。実際小遣いを稼ぐ必要に迫られているのだし。
でも稼ぐバイトは汚くてキツイか、車持込みの配送か、俺の希望するような企業の中枢を垣間見るどころか、典型的な末端の仕事しかない。学食でパクッた求人誌をいつもの定食屋で熟読する。小奇麗とは言い難い店内と愛想なしの店主、何より2種類しかない定食が不味い。そのためイマドキの学生は来ない。よって、俺はよく利用する。夏休みに入ってからは毎晩行っていた。
7月の半ば、店内とは思えない暑さはエアコンが機能していないからだろう。豚の生姜焼きのキャベツまでげんなりして見える。それでも払う金の分は絶対喰うつもりで、箸で摘み上げた時、1人のオヤジが俺をじっと見ていることに気づいた。係わらないよう目を伏せると、生姜焼きを口に放り込み、硬い肉を全力で咀嚼する。ようやく飲み込んで目を開けると、オヤジが俺のテーブルに移動して来ていた。
「君、学生さん? 私は人事課に移動になってね。よかったらイマドキの大学生の本音を聞かせてもらえないかな」
オヤジはこう言うと、ビールを注文した。しょぼくさい外見で舐めかけた瞬間、”人事課”というワードに脳天を直撃され俺の背骨に電流が走った。
しかしオヤジの声はぼそぼそ聞き取りにくい上に似たような事を繰り返し訊くので、俺は早々にうんざりした。人事の人間相手に酒など飲めないから勧められたビールを断った事を後悔し始めていた。
「いや、参考になったよ。また話聞かせてほしいな」
そう言いながら、オヤジは名刺を机の上に置いて去って行った。俺の期待をよそに、自分の分の食事代だけを支払って。
翌日、俺は少ししゃんとしたシャツを着ていつもの店に行った。昨日のオヤジの名刺には、東証一部上場の『AZ運輸 埠頭倉庫管理部事業・人材強化センター付 蕨田毅』とあった。物流会社など考えたこともなかったが、上場企業の人材強化…となると話は別だ。売り込んで損はない。
蕨田に大学名を訊かれた時は、『詰んだ』感が漂ったが、蕨田は首を傾げながら漢字でどう書くのか尋ねただけだった。翌日、蕨田は不味い定食を食べ終わると、「カラオケボックスに行こう」と言った。
何だって風采の上がらない禿げオヤジとカラオケに行ったのか、自分でもわからないが、『蕨田の目が光ったから』としか言いようがない。
3日連続で飯を一緒に食ったのだから、こちらは就活の情報を聞きたい思いが強い。インターンシップか短期バイトの話に漕ぎ着けられるのではないかと期待していた。
しかし、「20歳だろ?」とハイサワーを頼んでくれた後、次々とアルコールを飲まされ、俺の記憶はほとんど飛んでしまった。
生まれて初めての二日酔いが、蕨田との楽しくもなんともない会合でもたらされたという事実が、吐き気までも無意味にしていた。夜になっても脱力感が抜けず、定食を食べるどころではないので、1人下宿でスポーツ飲料を飲んで寝ていると、携帯が鳴った。
:小中君? どうして今日は定食食べに来ないの?:
「…」信じられないことに、蕨田からだった。
「蕨田さん? ど、どうして?」慌てて起き上がると、天井がグラグラ回るようだった。
「あ、ちょっと具合が悪くて…」脳裏に蕨田の細くて光る目と陰気な眼鏡が浮かんだ。3日とも同じグレーのスーツを着ていた。
:まず君は、昨日の飲食代とカラオケルーム代のお礼を言うべきだ。次いで、君を送っていった私の好意とタクシー代立替えについても。体の不調などと甘っちょろいことを言っている場合ではない。昨日の約束通り、這ってでもここに来るんだ。私は君の不都合な事全てを知っているのだから。さあ、今すぐ来るんだ:
信じられなかった。何が起こっているのか、考える力もない。仕送りを入れている封筒から五千円を出してポケットにねじ込むと、昨日の服のままだったが、何とか立ち上がり、よろよろと外階段を下りて夜の街に出た。
蕨田は一見いつも通りに見えた。しょぼくれた中年男。グレーのスーツに幾何学模様のネクタイ。
だが俺の目には、捻じ曲がった精神を宿したモンスターの片鱗が見え始めていた。蕨田は、俺の弱みを握っていると言い、礼儀がなっていないと説教をした。約束を果たせと迫った。いつもの定食屋の片隅で。
こうして俺のバイトは理不尽に始まった。
埠頭にあるAZ運輸の倉庫はともかく巨大で、長方形の敷地の一辺の長さは溜息が出るほどだ。搬入搬出口や一般の玄関ではない裏側に回り込むと清掃員用の通用口があり、訳知り顔の警備員が入れてくれる。
そこは会社にとって重要な部署からもっとも離れている一画だろう。巨大な掃除機や清掃車両の保管スペースの真上に、後から改築したと思われる中2階があり、鉄製の階段の上に小部屋が並んでいる。そのうちの一つが俺の仕事部屋だ。階段を上る俺の足音を聞きつけると蕨田が部屋から出てきて、俺の部屋にノートパソコンを持ってくる。それから仕事が始まる。
仕事は清書だ。各小部屋から集まる原稿をパソコンに入力し直し、同じフォーマットにする。はっきり言ってスキャナーで読み取るか、端から入力させれば、チェックを入れるだけで済むことだ。
表題は全て“反省文”。小部屋を使用しているのは4人らしく、4通りの反省文が上がってくるのだが、内容が酷い。ひたすら『申し訳ありません』を繰り返す。『取引先が悪い・競合会社が卑劣・部下がゴミ(上司が悪いとは言及しない)』と責任転嫁。自分の半生を振り返り『如何に自分が至らない人間か』述べる。散文、日本語になっていないのもある。
これは以前テレビで見た“追い出し部屋”とかいうリストラ或いは企業内いじめの部屋ではないか? どんな人物が原稿を書かされているのか見たことはないが、文面からして極限状態に置かれているに違いない。同じ書きようの物が何枚も上がってくるから、おそらく就業時間中ひたすら反省文を書かされているのだ。改築された狭くて天井の異常に低い小部屋で。これでは書体を整えるのは無理だろうから、第三者が清書するのはわからないでもない。
何故蕨田が清書しないのだろう? エクセルは出来なくてもワードくらいはこなせるはず…、出来ないから俺を雇っているということか。ケチな蕨田がバイト代を出すほど必要に迫られているのか。
俺は勝手に解釈して楽なバイトをしているつもりだった。
だが単純作業とは言え、出来の悪い文章を打ち直すには、ちゃんと読まなくてはならないのだ。俺はやむなく、精神が崩壊している人物の半生や壊れっぷりを繰り返し読むことになった。
そういうものを読み続けるということは、じっくりと内側に毒物を取り込んでいるのと同じだ。
当初は夕方2時間溜まっていた原稿を打つだけだった。終了後、蕨田とバスで最寄駅に出て、例の定食を食べて別れた。
3日目に蕨田が、「小中君、体調に変化はない? 眠れないとか、嫌な夢にうなされるとか、食欲が落ちたとか?」と聞いてきた。
「いえ、別に」
俺の答えを聞いて、明らかにがっかりした様子を見せた後、「夏休み中なんだから、明日からは9時~5時にしよう」と言ってきた。時給千円だから断るわけない。翌日からは専用通勤バスに乗ることになった。埠頭倉庫勤務は社内で出世コースとは言えないだろうが、上場企業の正社員なりの高給取りに違いない。俺は周囲のAZ運輸社員の会話に聞き耳を立てた。しかし、ほとんどの乗客が仕分けなどの作業員で派遣やパートだとわかり、がっかりした。皆スーツを着ていない理由はこれだったのか。バスが揺れ、人垣の向こうの座席に座るスーツ姿の男が見えた。
反省部屋の1人だ。瞬間、そう思った。
あの反省文に通ずる何かを感じたのだ。その男の、くたびれたスーツに、覇気のない口元に、死んだ魚より腐ったように見えるその目に。
作業員用通用口で降車する選択肢しかなかったので、俺は建物の外側をぐるっと回らなくてはならなかった。でも、あの男が通用口から入って行くのを見てほっとした。清掃員用の出入り口までつかず離れず歩くのかと思って恐怖心を抱いていたのだ。反省文の書き手、すなわち正常を装いながら意味不明の文を書き連ねている異常者だと判明してしまうのが怖かった。
9時から3時間びっちり、例によって4通りの反省文を入力していく。単純作業だから楽勝と思いきや、午前中の清明な頭脳は、濁り淀んだ戯言のオンパレードに対し、どうしても整合性を捜し秩序立てて分析しようとしてしまう。しかも昼休みに外に出て気分を変えることは許されなかった。蕨田に言われた通り買っておいたコンビニおにぎりをぼそぼそと齧るだけの昼食、低い天井、四方から迫る壁、その薄い壁の向こう側にはあの反省文の書き手がいるのだ。じわじわと暗い影に覆われていくような不安を抱いた。
昨日まで、反省文の書き手は同情の対象ではなくて、人生の負け組として蔑むべき人物だった。俺とは原稿用紙1枚ほどの関わりしか持たない存在。まして原稿の内容など、熟読する価値に値するとは欠片も思わなかった。
それが一日中読み込んでいくうちに、震える文字で綴られた言葉は意味不明ではなく、反省文の体を取った魂の叫びのように思えてきた。キーボードを叩いて0と1の世界に変換して終わりではなく、俺の中に変換して収納されていくような気すらしてきた。
2時間ごとに蕨田が新しい原稿を持ってきた。時折自動販売機のコーヒーを添えて。
「表に出せないバイトなんだよ。わかるだろ? だから社内をうろつかれちゃ困る。トイレ帰りに自動販売機にも寄るな」と言った手前気を遣っているのかと思ったのだが、そうではなかった。ワード以外インストールされていないノートパソコンでも、長けた者なら建物内のWi‐Fiを使い外部と通信できるようにしてネットと繋がることは可能だから、それを警戒しているのかと思ったが、そうでもなかった。原稿を机に置く時、コーヒーを置く時、蕨田の目は異様な光を帯びて俺の顔を窺っていた。
閉ざされた空間で座りっぱなしの作業は想像以上に苛酷だった。黙々と定食を掻き込む俺を、蕨田は何故か嬉しそうに見ていた。俺は足取りも重く帰宅すると、夜の8時前に風呂にも入らず就寝した。
正直2日目にして挫折しそうだった。気が重い。それでも蕨田に中傷されたくなかったので、バイトに出掛けた。
また4通りの原稿を渡されたが、1人、いつもと違っていた。他人に責任転嫁する論調が失せ、自分が至らなかったと書いていた。2時間後に蕨田が来て、3枚の原稿とコーヒーを置いた。見たところ、責任転嫁系の原稿がない。問うように蕨田を見上げると、嬉しそうに頷いた。「昨晩、飛び降りてしまってね。反省文を書けなくなったんだよ」
蕨田の去った後、3人分の原稿を見た。入力を終えた原稿はさっさと持っていかれてしまうので、責任転嫁系の最後の原稿はもうない。自分の非を認めなかったのには理由があったのではないか? 閉じ込められ、反省を強要される日々に遂に絶望したのか。
紙コップのコーヒーを口に含むと、吐き気が込み上げてきてトイレに駆け込んだ。
その日の帰り、食欲がないので定食屋はパスして帰る旨を伝えると、蕨田は目を細めて、「定食屋はバイトの一環だ。中1の時バトルカードを万引きした話を拡散させるぞ。お前の名前を検索したらトップでヒットするようにしてやるからな。さ、今日は回鍋肉定食の日だったな」と言った。
いつもの席に収まって呆然と見やる俺を楽しそうに見つめ返すと、「俺に若者が壊れるところを見せてくれ。退場なんてないんだよ」と微笑んだ。
出勤を強要されたようなものだが、翌日もバスに乗った。あのくたびれたスーツの男を見かけてほっとした。
驚いたことに、原稿は4通りあり、反省部屋の住人が補充されたことを知った。今日は内容に引き摺られないようにしたので入力は順調だった。蕨田はそれに気づき、「あの原稿の書き手、この会社の亡霊みたいな社員は皆超一流大卒だよ。そこまで優秀でいながらサラリーマン人生の最後にこんな目に遭う。社会は厳しいんだ。ましてスタートからFラン大で躓いた君に、逆転のチャンスなんてあるわけないじゃないか。人生の負け組の原稿を入力している君こそが最も負けているという喜劇をどう思う?」と言ってきた。
俺にも薄っすらと蕨田の真の姿が見えてきた。Fラン大に通う俺を蔑んでいる。反省文を書かされている同僚を“負け組”と嘲笑っている。原稿の入力は本当に必要なのか。俺の反応を観察して楽しんでいる節がある。本当に俺が壊れるところを見るつもりなのだろうか。
翌日、散文調の奴が離脱したことを知らされた。動揺して胃液が逆流しそうになったが、蕨田の目が爛々と輝いているので、必死に耐えた。俺はこれから一生、会ったこともない自死した男の散文をことあるごとに思い出すのだろうか。一日中、原稿の中の絶望と蕨田の悪意の中で、擦り減る自分を懸命に盛り立てた。こんなバイト辞めてしまいたいのに、酔って弱みを握られた自分の迂闊さが、また気分を落ち込ませた。蕨田の目論見通り、鬱々としてくることが腹立たしかった。
自分の無力、無能力がこれから先の人生もずっと、大したものにはならないと示している気がした。蕨田と夕食を共にするようになって十日余り、俺自身が蕨田のスーツの色になっていくようだ。もはや定食の味が不味いとすら感じなくなっていた。
翌日、疲労からか定食に中ったのか、腹の具合が悪くて頻繁にトイレに行く羽目になった。今まで何時行っても無人だったトイレで、遂に他の人物に遭遇してしまった。
「…」
よりによって、あのくたびれたスーツの男だった。俺もビビったが、相手も他人に遭うとは想定していなかったようで、驚いた顔をしている。急いで出ていこうとする俺を、男は呼び止めた。
「君、最近バスで見かけるけど、運送部門のバイトの子?」
「いえ、事務…作業です…」
「ふうん」相手はトイレに行くのを忘れて俺の方を見ている。はきはきとした話し方をするのが意外だったので、こちらの方も帰りそびれた。手を洗いながら、俺の中で湧き上がるものがあった。
伝えなくては。それは今じゃないのか? 『自殺しちゃダメだ』とか、『反省部屋に負けちゃいけない』とか。
「事務作業でバイトって、何してるの? 君に指示を出しているのは何と言う社員?」
虚を突かれて、俺は正面から相手を見た。「わ、蕨田さんです」
「蕨田? 君の仕事場に案内して」
例の小部屋を見て、男は絶句した。俺の今日の4時間ほどの労働の成果をパソコンで見て、再び絶句した。パソコンを小脇に抱え、俺を部屋の外に連れ出すと、男はスマホを掛けまくった。
訳が分からなかった。だが、俺の理不尽なバイトが終わったのはなんとなくわかった。
あの反省部屋とは比べものにならない程、広々とした応接室のソファで、紅茶とマドレーヌを前にどれくらい待たされたのだろう。戻ってきたくたびれた風情の男は自己紹介しながら名刺をくれた。川越と言うその男は監査室の社員だった。ノートを広げ、レコーダーをテーブルに置くと、俺に蕨田の元で働いた10日間の出来事と、働くきっかけについて、細かく聞き取りを始めた。
何故強要されてバイトすることになったのかも、隠さずに話した。どうせこの会社に採用されることはないからだ。
「そうか、酔わされ告白させられた昔の古傷をネタに脅されたのか。…それは気の毒だったね。9時から5時まで働いて、定食屋まで強制されたのじゃ逃れようがなかったろう。給与はまだ払われていないのだろう? 警備員の記録で君の出退勤を確認してからになるがバイト代は払うから安心して」川越は手つかずの紅茶を勧めた。思っていたより若々しい手だった。顔も近くで見ると、苦虫を噛み潰したような顔だがくたびれても虚ろでもない。
「あの、俺、よくわからないんですけど…」疲れがドッと押し寄せてきたので、正直解放してほしかった。
川越が俺を気の毒そうに見て何か言いかけた時、スマホが鳴った。席を立ちながら漏れ聞こえたのは、「蕨田が見つかった? どこだ?」だった。それきり、俺はまた1人取り残された。
仕方なく紅茶を飲み、マドレーヌに手を伸ばした。朝からトイレに行ってばかりでろくに食事を摂っていないことを思い出したのだ。川越と出会ってから、腹具合を気にする暇などなかった。乾いた口にしっとりと甘いマドレーヌは、圧倒的な美味しさだった。
昔、読み切れなかった小説にあったな。紅茶とマドレーヌ、瞬時に脳裏を駆け巡る繊細な記憶…。俺には優雅とは程遠い蕨田との奇妙な記憶か…。俺のスマホがブルっている。
:小中君?:
発信者を見ずに出たら蕨田だったので、驚いた。マドレーヌの塊が喉の奥に消えていった。脳にブドウ糖が届いた瞬間、閃いた。テーブルに置きっ放しになっていた川越のレコーダーを手繰り寄せ、スマホに密着させて通話を記録し始めたのだ。
:小中君、君にはがっかりだよ。朝から晩まで反省文を入力したって、感受性が鈍い君は壊れなかった。狭くて天井の低い部屋に閉じ込めても、元々頭のよくない君にはあまり響かなかったようだ:
「蕨田さん? 何言ってるんですか」
:…まぁ、君のせいではない部分もある。期間が短かったからな。それにバイトという身分は気楽だ。正社員で反省文を書かされると相当キツイ。私の息子は、3ヶ月で壊れた。…なんでだ? 難関大学を出て超一流企業に就職したのに、なんで壊れるんだ? だから私は試してみたんだ。取るに足らない存在の若者を使って、同じ環境下に置けば壊れるのか、それとも息子が特別弱かったのか。…やはり生来気の優しい繊細な息子と定食屋が似合いのFラン大学生とでは、比較にならなかったようだ。…最後に見せたいものがある。このまま通話を切らずにいつもの通用口から外に出てくれ:
「なん、ですか?」レコーダーをスマホに付けたまま応接室から飛び出した。いつもの小部屋ではないから、清掃員用の通用口まで迷いつつ急ぐ。
自分が移動しているので、電話の向こう側がざわついたようだったが大して気に留めなかった。
:小中君、私が謝ると思うかい? 『君を意味のないことに付き合わせて悪かった』などと:蕨田の口調は自虐的だが、早口で若干余裕がない。蕨田の後ろから今度ははっきりと別人物の声が聞こえた。:蕨田、何のつもりだ。早く来い。バイトの件じっくり聞かせてもらうぞ:
しかし蕨田はそれに答えず俺に語り続けた。:私は東大卒だぞ。君みたいな凡人に謝る必要などあるわけないだろう。それより、わかるか? 今私にあるのは怒りだよ。私の息子のような優秀な人間が死を選んだと言うのに、君のようなごみカスが生き続けている理不尽にだ。私はもっと早く気付くべきだった…:
ようやく通用口に辿り着いて、警備員にジェスチャーでドアロックを解除してもらう。
「蕨田さん…?」
:蕨田、やめろ!:
:ごみカスを排除して息子が生きやすい世の中にしておくのだった…:
スマホからではなく、人の叫び声が頭上でして、俺は上を見上げた。黒い布袋が降ってきた。
俺の真上に。俺を目指して。
なす術などない。落下物を避けようと腕で頭を守りその場にしゃがみこむので精一杯だった。その僅か数センチ横に蕨田が落ちてきた。俺の頬にヒュンと風を当て、グジャッとゴギッを合わせた音を立てて、アスファルトに激突した衝撃はかなりのものだった。
建物の屋上から数名が身を乗り出して叫んでいた。「救急車!」「おい、巻き添えか? やばいぞ」「警察だ! こうなったら警察を呼ばないと」「お~い、生きてるかぁ?」
俺は悲鳴も出なかった。息をするのがやっとで、僅かな傾斜のお蔭で蕨田から流れ出る血が俺の方に来なかったのを見ていた。尻餅をついたまま足が震えて、後ずさる事すらできなかった。
失敗は二度人を傷つけると言う。傷つくのは勿論本人だ。一度目は失敗した時、二度目はそれを他人に知られた時だ。
ともかく俺は病院に連れて行かれ、怪我をしていないか検査を受けた。体は何ともなかったが、精神のダメージは深かった。だが、AZ運輸の連中が気にしたのは体の方だけだった。
会社の態度に不信感を覚えた俺は、川越がレコーダーの紛失に気づかないのをいいことに、ずっと私物のふりをして肌身離さず持ち歩いていた。そして警察に参考人として事情を聞かれた際、蕨田の最後の通話を聞かせた。その前の川越と俺の聞き取りも入っているから、俺の供述の一貫性を証明できる。警察は、単なる投身自殺ではなく俺を巻き添えにしようと目論んだ殺人未遂を疑う事件として調べ始めた。“反省部屋”の件で厚労省も動くだろうと刑事は言った。
結局厚労省の立ち入り検査がAZ運輸の埠頭倉庫に入ることはなかった。AZ運輸は国土交通省の天下り御用達企業だったのだ。
俺は1日検査入院しただけで、タクシーで下宿に帰された。実家に戻ることを勧められたが、それは固辞した。俺はテレビやネットで蕨田に関するニュースを探し求めたが、BS首都ニュースで『社員が勤務先の倉庫から飛び降り自殺か』と一行出ただけだった。サラリーマンが自殺した位で大きな記事になるはずもないと気づいた。皮肉なことに、俺を巻き添えにしていたら別な扱いだっただろうとも。
川越からは毎日電話が入った。俺の体を気遣うのではなく、俺が週刊誌とかにタレこむのを警戒しているようだ。3日後に弁護士を伴い、下宿にやってきた。
「警察から聞いたよ。驚いたね、最後の通話を録音していたとは」挨拶代わりに川越が言った。目が笑っていない。
「蕨田のしたことの証拠があるといいかなと思って」俺は被害者だと目で言い返す。
「…これが電話で話した書類だ。今回の件に関して2度と交渉はないと考えて、よく読んでサインするように。君は成人だから、後から取り消しはできないよ」と“誓約書”を机に置いた。
俺は黙って手に取り読んだ。手持無沙汰の弁護士と川越は、つまらなそうに俺のワンルームを見渡すと、各々俯いてスマホいじりを始めた。わからない言葉に戸惑い顔を上げると、弁護士が説明してくれた。
要するに、反省部屋や反省文の内容を漏らさないという誓約だ。別紙には、蕨田個人について知り得た情報を外部に(SNSなどの発信も含めて)漏らさない事、蕨田から受けた精神的肉体的苦痛に関して会社は誠意をもって対応する事、俺が会社からの誠意を受けた後は、如何なる補償も行わない、とある。蕨田個人と遺族、会社相手にどのような形の訴訟も起こさない事、ともあった。
最後に、バイト代として8日分の給与プラス交通費と昼食代・定食代で6万円。見舞金として100万円、と記されていた。
正直、具体的に金額を思い描いていなかったので、額の大きさに驚いた。「慰謝料、ですか…?」
「実費も気持ちも含めてだ。金額に不満なら弁護士に相談するといい。君の求めていた…」
俺は頷いた。「教えてください。蕨田は何だったんですか。それを教えてもらうのが俺からの条件です」
川越は手元のファイルを軽く叩いた。
「調査結果をまとめてきた、進呈することは出来ないが、私の報告の後、実際目を通してもらうのは構わない。…あの録音だけでは、蕨田が君を道連れにしようとした証拠にはならない。単に自殺を見せつけたかったという可能性が高い。警察は殺人未遂で立件できるとは考えなかったようだ」
言葉を切って俺の様子を窺う。
「…」頭上から人が落ちてくる感覚。しかも相手は俺を殺す気満々で、俺目指して落ちてくるのだ。“立件”の枠から外れたからと言って、あの恐怖が考慮されないのは到底納得できない。
川越がとりなすように続ける。
「捜査とは別に、君に対して蕨田が行ったことを調べる必要があると社でも考えた。ただ、まぁ、計画的に君を殺めようとしていたわけではないとは、君も思うのだろう?」
窓の外に目をやり考えた。殺意を感じたのは、あの数秒だけ。遡って俺に電話を掛けてきて、通用口から出ろと行った時から。つまり俺と川越が出会って、追い詰められた蕨田が自殺を選んだ時からということだろう。俺は小さく頷いた。
「よかった。君が冷静に聞いてくれるとわかって嬉しいよ」この川越の持ち上げっぷりは俺の警戒心を強めただけだった。
案の定、咳払いの後に川越が話し始めたのは、にわかには信じ難い話だった。
「事件前に、小中君に蕨田との出会いからバイトを始めたいきさつまで聞かせてもらったね。今度はこちらが伝える番だ。正直我々にもわからないこともあるのだが」
「蕨田は当社の正社員として1985年入社した。営業部に配属されたが成績が悪く、トラックの手配などの部署に移動した。物流は運ぶ物も大事だが運ぶ人も大切だ。トラックのドライバーに学歴自慢は禁忌なのに、蕨田は東大出を鼻にかけよくトラブルを起こした。結局全国の倉庫を転々として、その間有名私立校に通う息子と妻は動かなかったから、ずっと単身赴任だった。2年前あの埠頭倉庫勤務になった。蕨田のしてきた仕事はどんどんコンピューターにとって代わられていた。生き残りたい者は勉強し努力をしていたよ。蕨田は、ただ出勤して帰っていくだけ。それでもリストラされなかったのは、人事部長の弱みを握ってるからと噂されていた。今回噂の真相が確かめられた。…本当だった」
「人事部長の息子は官僚なんだが、その不祥事ネタを持ってた。金銭の要求はせずに、定年まで席をおかせろと要求したらしい。無理に役職なんかを求めなかったところが小賢しいだろ? 下手に出世すると目立つし成果が求められるから。いい事もしないが悪い事もしない給料泥棒さ。この程度の優遇ならば人事部長の良心も傷まないし、息子は大事だしで、引き継ぎまでしていた。君の仕事場になっていたあの部屋、何と呼ばれていたか知ってる?」
「俺、僕は“反省部屋”と呼んでましたが…」
「まぁ、そう。“リストラ部屋”“追い出し部屋”とか、仕事を任されない社内失業者を集めて、自己都合退職に追い込むための部屋。それがあの部屋なんだが、もう使用してはいない」
「は?」
「わざわざ追い出し部屋まで作って辞めてもらう、なんて二昔前の話だ。わが社は組織改革を断行し、無駄な役職を無くしリストラもした。今物流で活躍しているのは必要な人材だけだ。あの部屋の解体に予算がつかず、放置されていただけだ」
「それを蕨田が何で?」
「先ほど言った通り、蕨田は『仕事が出来ない・しない』だから、出勤していれば社内のどこで油を売っていても誰も気にしないわけだ。“事業・人材強化センター”っていう部署は、本社にあれば別だが、通常“追い出し部屋”レベルの意味だ」
「…知らなかった。人事っぽいから…」
川越は鼻で笑った。「まぁ、知らない人は知らないがね」
「ここからが特殊になるんだ。蕨田は次の移動で、また地方に行くことになっていた。本来ならここのような都市部の倉庫にいるべき人間じゃない。奴はあの追い出し部屋の存在に気づいていた。そして移動前に使おうと考えていた…」
「私も調べて知ったのだが、蕨田の自慢の息子は難関大学を卒業後、一流企業に就職、そして自殺していた。遺書はなく、パワハラの疑いで内部調査がなされたという報告書を見せてもらった。上司は熱血系で人前での叱責や反省文提出が日常化していた。だが蕨田の息子が標的にされた事実は無く、皆平等にやられていた。そのため上司はそれなりに慕われていた。だから自殺の際も、皆首を捻り、プライベートが原因かと言われていたそうだ。母子家庭同然で甘やかした結果、社会性が欠落し必要以上に繊細だった可能性がある、と締めくくられていた」
「蕨田は労災やパワハラで訴えることはなかった。ずっと別居だった蕨田にとって、ようやく同居できて数か月の悲劇だった。蕨田は、母親である妻を全く責めなかったそうだ。奥さんは、こうなったから言えるけれど、20年ぶりの父子同居が却って息子をおかしくしたのかもしれない、と言っていた。息子さんの日記には、仕事の辛さや自分の未熟さを愚痴る言葉は散見されるが自死する程追い詰められた様子は窺えない。だが、同居が始まって以来、『お父さんが見ている』というフレーズが出てくる。そのフレーズだけが書かれている日もあった。私も奥さんの解釈が正しいように思う。息子さんは自宅ではなく、受験時利用していた自習室のある図書館の屋上から飛び降りたのだそうだ。…おそらく、これが今回の蕨田の不可解な行動の原因になっていると考えられる」
「飛び降り…。俺に『自分に若者が壊れるところを見せろ』と言ってた」俺は休むことを許さなかった蕨田の言い様を思い出した。
「最後は、なんかもう、『何故息子が死んでお前が生きてるんだ』的な言いがかりになってた。今の話を聞いて…息子さんが何故壊れたか、何故死を選んだか、ずっとわからなくて、答えを求めていたのじゃないかと思う」
川越が俺を見て驚いたような顔をした。
これで、誓約書に署名し、俺は理不尽な10日間の報酬に100万円を受け取り、社会勉強として終りになるはずだった。
差し出された高そうなペンを眺めながら、気になっていたことを口にした。
「あの、反省文を書かされていた人たちはどうしてますか? 大分精神的に追い詰められている風でしたけど…」
今度は川越は怪訝そうな顔をした。
「小中君、言ったと思うけど、『追い出し部屋は使われてない』のだよ? 反省文を書く人間などいないんだ」
「え? あの『責任転嫁』男は? 自殺したって蕨田が…。『散文』男も離脱して…すぐに補充されて4通りの反省文を持ってきて…」
自分の顔の筋肉が強張ってどういう顔になっているのだか、わからなくなった。え? え? ちょっと待った。それじゃ
「それじゃ、あの反省文は蕨田が自分で書いていたって言うんですか? 2時間おきに4通りも? 字体も変えて? 何のために? 俺を騙すため? 俺を騙すためにそんな努力をしてたって言うのか?」
俺に掴みかかられて、川越は身をかわしながら慌てて言う。
「調査の結果から考えるとそうなる。息子さんと同じ環境には出来ないから、精神的に追い詰めるために、多種の反省文を君に読ませる工夫をしたんだろう。日がな一日暇なんだから、反省文を偽造する時間は幾らだってあったろう。君も迂闊だとは思わないか? いくらうちが大会社だからってあの倉庫にいる人数は限られたものだ。自殺者が出たらそれなりに騒ぎになる。まして次々自殺したらニュースになるはずだ。途中で気付いて当然のことだ。10日も騙されて、殺されかかるなんて、頭が悪いにも程があるんだよ!」
最後は弁護士に押しとどめられて、川越は黙った。
俺は誓約書を眺めていたが、高いペンを握り直して署名した。それを見ながら、川越がぼそぼそと詫びた。
「すまなかった。感情的になってしまって。酷い目に遭ったのは君なのに。私も…こんなわけのわからない社員の不祥事に、何を反省していいのかわからないんだ…」
後日、見舞金とバイト代はきちんと振り込まれた。俺の大学1年の夏は終わった。この事件は、俺の中の、自分の可能性を信じる心を葬った。蕨田の光る目や、川越の蔑んだ顔を忘れることはない。ただ一点、大企業に入社できれば俺は勝ち組になってみせる、それが蕨田や蕨田の息子と俺の違いで、それさえやりきれば学歴で負けた俺の勝利なのだという妙な確信を形成していた。
俺は負けたのかもしれない。蕨田の、息子以外の若者を破壊したいという狂気に。自分が息子を破壊したと死んでも認めたくないという妄執に。
3年になり、学内はインターンの話で持ち切りになった。仕方なく勉強会に出たが、ピンとこない。
そのまま何も改善することなく4年になってしまった。
就活戦線はどん底の就職難の頃より遙かに好転している。企業の採用者数が軒並み上向いているのだ。『採用されればそこに行く』時代が終わったのは、学生にとって嬉しい変化だ。人気企業にもアプローチ次第では可能性があるということでもある。
今までディベートや就活塾に参加したことはないが、面接に漕ぎ着ければ、熱い思いを語って採用までいけるのではないかと思っていた。軽薄に物事を考える悪い習性がまた出ていると気づいていなかった。
学歴フィルターを超えられれば、Webテストをクリアできれば、そればかり思っていた。
そこに服部賢一が現われた。周囲が泥の中を這い回るように、Fラン大の逆ブランドと必死に闘っているのに、親のコネで生きる事を自慢して取り巻きさえ失った奴だ。奴はほぼ経済学部全員に誘いをかけ、皆に断られていた。だから、俺の所に話が来た頃にはおまけがぞろぞろくっついた商品になっていた。『キューバ往復旅費プレゼント』『五つ星ホテル』『自由行動あり』『親父のコネでマスコミ関係就職先が洩れなく付いてくる!』
俺は飛びついた。ご機嫌取りくらい、幾らでもしてやるさ。
俺は全く学習していなかった。蕨田の悪夢から、何も。




