2015年6月3日
2015年6月3日
翌日も翌々日もゲートは報道関係者で満員御礼だ。学校や仕事はどうしたのか、野次馬も減る気配がない。
村に入るには事前に訪問先の施設や住人が申請し、1人1人許可コードを得ておき、ゲートで待つ住人と来訪者の許可コードが手形よろしく繋がって初めて入村できるシステムになっている。さすがにゲート破りは影を潜め、表ゲート以外の山道からの侵入を企てる者が続出した。
「お前の村、大変だな。今度は山から侵入して逮捕だって?」外様がシャー芯を出しながら言う。
「ただ警察官に取り押さえられたんじゃないんだって? 自動小銃持ってる特殊部隊にぼこぼこにされたってテレビでやってたぞ」と本永。昨日、隣のクラスの女子から『金髪に映えるよ』と渡された金のピアスを前に思案に暮れている。
瑞生はと言うと、2人に出された課題を机に広げて、ガンガン指導を受けたせいで頭がぼうっとしていた。「…そんなに凄い事が起きたわけじゃないよ。音もなく組み敷いただけだ。少なくともぼこった顔は自業自得だ。ちょうど、早朝散歩してたから、僕パトカーにしょっ引かれるところを見たんだ」
「おお、お前らしくないキャッチーなシーンに出くわすとは」珍しく本永が目を輝かせる。「話せ話せ。で?」
「村を囲む施設の奥に半島中央の連山を走破するハイキングコースの入り口があるんだ。ハイキングコースは整備されているけど、元裸山の“自然森”は鬱蒼としている。その辺りわかっていない記者がコースから逸れて森に侵入し、フェンスを乗り越え村に入ろうとする。元々不法侵入者に備えてフェンスは頑丈だしセンサーが設置されている。警察はそれを有効活用していて、侵入者は簡単に捕まるんだ。確かに迷彩服を着て自動小銃を担いだ人に連れてこられたけど、顔が腫れてるのは蜂に刺されたからだよ。自分で言ってたもの。ハイキングコース外の蜂の巣は誰も除去しないからね」事もなげに言うと、本永はがっかりした。「なんだ、捕り物を見たんじゃないのか。つまらん」
「うん、どっちかと言うと、保護もしくは救助した感じ。スズメバチなら手当てしないとやばいからね」
「お前の村がやってる訪問者と住人がコードを合わせる方式を、かつて日本は貿易でやっていた。それは何だ?」外様が強引に勉強に戻す。
「え? に、日本史? えーと、日明とか日宋とかかな…」あらゆる教科を一斉に復習しているせいで、瑞生の頭はおもちゃ箱をひっくり返したように無秩序で混沌としている。
「ぶ~、時間切れ。勘合貿易・室町幕府。キーワードを出さないと。今更歴史を復習するのは眠いだけだから、家でサブノートを仕上げろよ。俺が抜き打ちで質問してやる」外様はシャーペン回しを何度も試みる。「前はずっと回してられたんだけどな…」
「連行される男と話なんかして、お前は警察官に注意されなかったのか?」本永が食い下がる。
瑞生はちょっと躊躇した。中学時代に学友にしたようにテキトーに話すことがこの2人には出来ないのだ。本永はスクールカウンセラーに、『カウンセリングより友達と勉強する方が重要だから』と時間変更を願い出たらしい。
「…本当は、男が連行された後、覆面パトカーの中に連れて行かれて、名前とか、なんでこんなに早朝に散歩してるのかとか、聞かれた…」
もちろんIDカードを持っていたし、住所も名前も警察官の持っているリストと一致したので問題はなかった。徹夜で勉強して外の空気を吸いたくなったから朝方散歩したのだと言ったら、警察官も突っ込んでこなかった。
「おお、覆面パトカー。非日常の極みだな。凄かったか?」
「別に。覆面なだけに、普通の乗用車に見えないといけないんじゃないの?」こう言うと、ノリノリだった本永が、急に虚ろな目になった。
「そう、非日常は日常と表裏一体だ。なんてことないいつもの道から、たった一歩で突然非日常の迷路に入り込んでしまう。そこの線引きなんて出来るわけないんだ…。どうせもう戻れないんだしな」
瑞生は本永に言い訳したかった。もっと覆面パトカーの話が面白く出来ればよかったのに。残念な事に工場の社用兼自家用のおんぼろ軽ワゴンと、黒塗りつやつやの伯母の輸入車しか知らないので、普通乗用車の内装と比較が出来なかったのだ。
「そうだな、非日常と日常との区切りがわからないから、用心も回避もできない。路地に例えるとは、うまいな」外様が落としたシャーペンを拾いながら呟いた。
「突然今までとは違う世界に来たみたいで。戻りようがなくて、新しい世界で生きるしかないんだよね」自分の場合、両親と(一応ね)暮らす世界から、両親の絶対いない世界にジャンプしたかのようだ。
こういうおよそ高1らしくない沈んだ話が出来るところが、3人でいる時間を特別なものにする。
「あ、そういえば、僕は男が連行された村の外れから、村の中ほどに連れ戻されてパトカーに乗ったんだけど、そこは夜叉の家の近くだったんだ」
瑞生は、朝靄の中見上げた邸宅を思い出していた。パトカーは、夜叉の家の真ん前に停まっていたわけではなかったのだが、その家がわかった。その家は一番の高台にある、洒落た窓のやたらある白い壁の洋館だった。ポルターガイストとかゴーストが夜毎に出没しそうな、平成2年以前に建っていたわけないのに、古めかしさを漂わせた屋敷だった。
「おお、それは凄い。プライバシーの保護ってことで、夜叉の家の写真すら公開されていないんだろ。写メ撮ってたらお説教じゃ済まなかっただろうな。でも家しか見えなかったんだろ?」本永は家には捕り物ほど興味を惹かれないようだ。その割にツンツンヘアが何か期待するように揺れていた。
「古びてて、ゴーストの出そうな感じのお屋敷。もちろん、夜叉を見たわけじゃないよ。それ以上近づいてたら、パトカーに逆戻りだったろうな」
本永は今まで視界に無いかの如く扱っていた、金色のピアスの小箱を指でつついた。小さな紙の箱の蓋はセロファンで中身が見える。「夜叉が世界的ロックバンドのボーカルで、凄いバンドなのは確かだけど…、今も歌えるのか? そこまでVIP扱いって、どうなんだ?」
「僕に聞かれても…。海外でも有名だからじゃない?」
今まで2人の雑談と距離を置いていた外様が、シャーペンを机に置いた。
「それは知識不足だ。警察官を派遣し、ミライ村をゲートで囲い込む事を許しているのは誰だと思う? 国だよ。お前たちの発想には夜叉の価値しかないが、重要なのは夜叉が感染しているゾンビー症候群のウィルスの方だ。感染者の報告が稀にあるらしいが、原因はおろか、生きたウィルスすら採取できていない。わかっているのは、死んだ人間をしばらくの間死ぬ前の状態に戻せると言う事。これは研究したくなるだろう? “不老不死”の手掛かりが発見される可能性を感じないか? 夜叉は今、体内にそのウィルスを飼ってるも同然だ。世界中の製薬会社やバイオ産業部門を持つ企業が、夜叉の体を狙ってる。テロリストや犯罪組織なら夜叉を誘拐して高く売ることも可能だ。だからわかったろ? 警護は本物。本気でテロ対策を実践してるのさ」
「ふ~ん」本永と瑞生は同時に感嘆した。
「お前はクラス委員だけあって、博識だな。登校前に新聞読んでくるくちか?」と本永。「やめとけ、そんな生き方。早く歳とるぞ」
思わず聞いた。「なんでゾンビー症候群にそんなに詳しいの?」
「そんなのネットでいくらでも調べがつく。自分の住む村の事なんだから、お前はもっと知ってて当然だ。“知らなくてもいい”存在に甘んじている時点で“お子様”だ」本永は容赦ない。
外様は笑いながら、「本永の言う通り、八重樫に当事者意識が無さ過ぎなんだよ。引退してたって夜叉は有名なミュージシャンだし、それが航空機事故で死んだだけでも大ニュースだっただろ? その時夜叉のいたバンド“The Axe”を調べて結構ファンになった。それが今度はゾンビー症候群だよ? しかも東京とかの隔離病棟じゃなく学校近くのコスモスミライ村に幽閉、となれば興味湧かない方がどうかしてるよ」と諭すように言った。
これにはちょっと参った。今のように手元のスマホですぐに何でも調べられる環境にいなかったので、ふとした疑問や興味は、突き詰められることなく、いつもそのまま消えていくだけだった。そのため、興味の目を向ける事がなくなってしまった。“調べる”なんて行為自体を思いつかない。先日、村の評判が気になり知ろうとしたのは、自分には珍しい事だったのだ。
“好奇心の欠如”、本永と外様それぞれに指摘されると、その信憑性が揺るがないものであるかのように思われた。落ちこぼれているという事実の上に、好奇心の欠如も判明したわけだ。
「で、外様大名の知るところでは何故なんだ? ウィルス持ちのミュージシャンが、LEVEL4の感染症研究所にではなく、トッタン半島の金持ち村にいるのは?」本永はピアスの箱を立てては倒す、を繰り返していた。
その様子を見ていた外様が、「そのピアス、どうしたいんだ?」と問い質した。「捨てたいなら、とっくにそうしてるよな?」
本永は首を竦めた。
瑞生は、隣のクラスの件の女子が、ピアスを本永に渡した時の事を思い出した。休み時間に、本永の机につかつかと歩み寄ると、「はい、これ。誕生日プレゼント。金髪に映えるよ。言っとくけど、好きとか、そんなんじゃないからね」と言いながら、机に小箱を置いていったのだ。
「好きじゃないと言いながら、好きでもない男にプレゼントなんてするかな」と呟くと、外様は「八重樫は女子から誕生日プレゼントなんかをよくもらっただろ? どうなんだ」と振ってきた。
「…バレンタインのチョコは放課後クラス男子で分けて食べることにしてた。誕生日は…基本、断った」
「断る? なんで?」外様も本永もひっくり返った声を出した。
「…」なんというべきか。食べ物は分けて食べればいいが、物を持ち帰ると、“子供の家”では上級生が大抵取り上げていじくって嘲笑って、台無しにするのだ。例えばマフラーをくれた女子は、瑞生がいつそれを巻いて登校するか期待しているのに、手元には墨汁に染まったマフラーしかない…という具合。中3になり自分が最上級になったので、大丈夫だろうと持ち帰ったのだが、やはり翌日タオルもマフラーも変わり果てた姿になっていた。
「下手に受け取ると、期待させちゃうだろ。基本、女子に興味ないのに…」いい言い訳を考えたつもりだったのだが、本永が固まって、外様が探るような目を向けてきた。
「あ、いや、男が好きと言う意味ではないよ。本永」と必死に取り繕った。「なんて言うか、中学の時は、女子と付き合う気が全然なかったんだよ。うちは…母が病気がちだったから…」
「そうだったのか、失礼した」とやけに大人びて外様が詫びる。
頬杖をついて小箱を見ていた本永が、ぼそりと言った。「…いくつか、やりきれない疑問がある。…俺の誕生日をどうして知ってるんだ? ピアスを喜ぶと本気で思ったのか? 俺の耳を見れば、穴なんて開いてないのはわかるだろ? プレゼントを着けるためにわざわざ穴を開けろって意味か? そこには強制的な意味があるのか? それとも…それとも、お前には、オカマみたいななりがふさわしいっていう…『私は知ってるのよ』とかそういう意味があるのか?」本永の顔の小刻みな震えがだんだん大きくなって、がくがくと揺れてきた。瑞生も外様も席を立った。
「おい、落ち着け」「本永、大丈夫だよ。考え過ぎんな、落ち着け」口々に言い聞かせ、外様は痙攣寸前の本永の肩を擦り、瑞生なんて手を握った。
「…ふう」極限まで達した感情のうねりは爆発せずに、少しずつ下がり始めたようだ。2人にアドレナリンを下げてもいいか、確認しながら。本永の目が猜疑心と恐怖で虚ろになる度に、2人は「大丈夫、気にしなくていいよ」と言い、擦った。
「ふう」
本永は何度か大きく息を吐くと、ほぼ平常モードに戻った。瑞生と外様もほっと安堵の一息をついた。それぞれ席に戻ると、外様は真面目な顔で「本永の精神状態には荷が重すぎるプレゼントだ。八重樫、お前これを返しがてら彼女に真相を聞いてこい」と箱を瑞生の胸に押し付けた。
「で、これを本永にプレゼントした真意を聞いている」瑞生は単刀直入に聞いた。女子とだらだら話すのは大嫌いなので、さっさと任務を果たして本永の心に平安をもたらしてやりたい一心で、昼休みに件の女子を階段の踊り場に連れ出したのだ。
鏑木(この女子の名だ)はほぼ同じ身長の瑞生をガン見している。「…別に。時間潰しにアクセサリーショップを見てたら、似合いそうなの見つけたから」
「金のピアスを見て、本永が浮かぶってことは本永の事いつも考えてるってことだよね。つまり『好きとかじゃない』ってことないだろう?」と追及すると、鏑木は目を逸らした。
「軽い…ノリであげただけだよ。似合うだろうなっていう…。それになんであんたが来るの? 本人が『いらない』って返してくれればいいじゃん」鏑木はお遣いに来た下っ端を見るような眼差しだ。
むっとして見返すと、鏑木の眉間のしわがすっと消えて、目を輝かせてこう言った。「八重樫って、ピンクのオフタートル似合うね。ほわほわしたニットなんか絶対似合うよ」
拍子抜けした。「君は人に似合う物を探すのが趣味なの?」
すると、鏑木は目をくるくるっと動かして、「そう。人に似合う物、映える物を考えたり見つけるの好きだね。ちょっとした…プロデュースするって言う感じ? ま、誰のでもやる気が湧くわけじゃないけど」と笑った。
「…ああ、安心した。本永は…ピアスの穴を開けないと悪いのかって、悩んでたから…」瑞生はほっとした。これは根の深いストーカー話ではなさそうだ。
鏑木は赤くなって慌てた。「ああ、そ、そう? あれ見つけた時『ああ、これこれ、めっちゃ似合う!』と思って、深く考えなかった。あとはもう渡したくて、すっかり…」言いながら意気消沈して俯いていく。
気の毒になって黙っていると、俯いた視線で瑞生の手元の小箱を見つけたらしく、素早く箱を奪うと、「これ返してもらうね。それで私、説明して謝ってくる」と言うや否や歩き出した。
鏑木を追おうとして初めて周囲に目をやったのだが、奇妙なことに踊り場の上下の階段に女子がやたらといる。
「鏑木…」後姿を追いながら、顔立ちは可愛くない事もないアニメ系なのに、見るからに『自分で切った』髪(特に前髪はひどい)と地味すぎるスカートが(この学校は指定ブレザーさえ守ればブラウスやスカート・スラックスは何でもアリだ)、他人の見栄えをプロデュースするという趣味と、ちぐはぐな印象を受けて不思議だった。セルフプロデュースが怪しいのに、他人のプロデュースなんて上手くいくのだろうか。
「あんたのせいだよ」振り向かずに鏑木が言う。「え?」
「みんな、八重樫が私なんかを呼び出して、何を言うのかと思って、気を揉んで見に来てたんだよ」
速度を落として横並びになりながら、「高校から入ってくる新人にはイケメンはいないって定説を破った『遅れてきたプリンス』って呼ばれてるの、知ってる?」とやや咎めるような口調で言う。
「それ、知らないといけないの? 鏑木は僕の何に腹を立ててるの?」
突然鏑木は立ち止まった。口をぽかんと開けて。
「やだ、あんた、馬鹿なの? 今まで外国にでもいて日本流の人間関係に無知なの? そこまで女子にストレートに聞くなんて。そもそも女子に説明を求めて、ほんとの事が返ってくるとでも本気で思ってる?」
「…ああ、馬鹿だし、無知だ…と思って説明して」
この3月まで、男女問わず常に他人から1歩引いて話していた。対等な会話の経験値が低すぎて、今も敬語になりそうなのを無理矢理途中で終わりにして体裁を整えたのだ。
背後に他の女子の気配を感じてなのか、たっぷり1人分距離を置いて、「ふ~ん。なんかおもしろいね。八重樫って見かけより」と瑞生を眺めながら言った。先程までのイラついた話し方から少し和んだトーンに変わった。「いいよ、説明してあげる。私があんたに怒ってるっていうのは間違い。イラついただけ。あんたみたいな美形って大体自分が他人にどう見られてるかを過剰に気にするじゃない? それが鈍くて疎いから、調子狂うし。それと、あんたといるせいで私が睨まれるのも迷惑だし。私はあんたみたいな王子様顔は好きじゃないの。どっちかっていうと、頬骨とか額とかごつごつしてて、危ない感じで痩せてて、本当は繊細で傷ついてて…」
瑞生がゆっくり口を開ける番だった。それはまるきり本永の事じゃないか。
「傷ついてる? どうしてそんなことがわかるの?」きゅうっと胃が締め付けられる。
「だって。…見てればわかるよ。貧乏揺すりしてない時、凄くぽっかりとした目をするの。空を見上げてるのに、空を映してない黒い瞳…」
空を映した瞳って、いつそんなのが見えるほど近づいたんだい、と心の中で突っ込みを入れた。でも2人にそんな瞬間がなかったとは言い切れない。ともかく、鏑木がからかうつもりなど微塵もなく、本永を見つめ続けた結果、ピアスを購入してしまったのだという事がわかった。「鏑…」声をかけた時には、鏑木は躊躇なく1年C組のドアを開けていた。
そのまま先日同様一気に本永の机に歩み寄ると、彼女の言うところの『空を映さないぽっかりとした』瞳を覗き込んで、言った。
「これ、返してもらった。ごめんね、ピアス穴開いてないの忘れてた。似合うって事に夢中になっちゃって。これ着けるために穴を開ける必要なんかないよ。私の不注意だもの。責任もって今度こそ似合う物探してくるね」
こう宣言すると、本永に一言の反論も許さずに、軽く瑞生に手を振りながら出て行ってしまった。
固まったまま鏑木を見送った本永は、硬い表情を変えずに「…これで終わりじゃない、と言ったのか?」と聞いた。思わず吹き出して、「ああ、気の毒に。今度は何を持ってくるか、期待しちゃうね」と言った。外様がどんな突っ込みを入れてくるかと周囲を見渡したけれど、いない。授業が始まりそうなのに、どこに行ったのだろう? 頭を抱えている本永を置いて、廊下に探しに行こうと席を立った時、先生が教室に入ってきた。
「席に着け~、週番、外様は医務室だ。あとで様子見に行ってくれ」
放課後、週番2人は医務室に行った。
外様はベッドで寝ていた。蒼白い顔に、思わず息を飲む。養護の先生が、「おうちの方がもう迎えに見える頃よ。外様君の荷物を持ってきてくれた?」と小声で言った。本永が、外様のカバンを持ち上げて示すと、先生は頷いて医務室から出て行った。
「パンダ、出てったか?」目を開けて外様が言った。
「なんだ、起きてたのかよ」と本永。「今の先生…垂れ目だからパンダ?」と瑞生。
「そう、垂れ目の下の隈もパンダっぽいだろ? 体型もクマだし」外様は上半身を起こしながら「高等部の養護の先生は『大人の女だ』って先輩から聞いて期待してたんだけど、『貧血で倒れた女子を担いで運べる』って意味だったらしい」と肩を竦めた。
「なるほど」
「そんな事より、大丈夫なのか?」と本永。
外様は枕を背中に当てて上半身を起こし、両腕を上げ指で長方形の枠を作った。パンダの出て行ったドア付近を指の枠に収めながら、「昼休み、八重樫が鏑木に交渉しに行くのを見守ろうと、トイレから戻ってたんだ…。廊下にいるのが双子で…どいつもこいつも双子なもんだから、これはおかしいな…。もしかして俺の目が変なのか?って。ここまで辿り着いたら、パンダも二人いたから、これはやばいってことで」と枠で瑞生たちを囲んだ。
「本永も僕もダブって見える?」と聞くと、「…いや、今は1人ずつに見える…」と澄まして言う。
「じゃ、原因はなんだったんだ?」「頭痛は? 吐き気は?」
畳み掛ける2人を驚いた様子で見た外様は、ぷっと吹き出した。「なんか、お前たちって母親みたいだな。さっき電話で同じことを言われたよ」
「心配してやってるのに、失礼な奴だ」本永がむすっとした。
「こういうのを母親ぽいって言うの?」瑞生は戸惑った。
他者の中にいると、“家族ネタ”はふいに繰り出されて、心臓を抉る。瑞生は一般的な母親像を結べていないので、話を深層では理解できていない後ろめたさと、それを暴露される恐怖に苛まれる。
「まあ、また検査だろうな。脳のMRIとか…」他人の事のように、外様は遠くを見た。医務室の壁を通り抜けたどこかの。
「それより、どうだった? 鏑木はすんなり箱を受け取ってくれたのか?」外様がいたずらっぽく笑いながら言ったので、“お遣い”した当人なのにつられて笑ってしまった。
パンダが戻る前に鏑木との話を2人にした。本永にも踊り場での話をするのは初めてだ。鏑木の、本永への恋心らしきものを第三者が勝手に語るのは無粋だと思われたので触れなかったが、ピアスを見た途端、“似合う”事に夢中になったらしい事は伝えた。
「…つまり本人が本永に言ったように、ピアス穴を開けさせようという意図はなく、穴がない事を忘れて買ったって事なのか? お前もそう思うんだな?」外様が冷静に分析する。
瑞生は頷いて「うん、無理強いして穴を開けさせようと思ってる風には見えなかったよ。そこまでさせようとする異常な印象は受けなかった。『しまった!』って感じだったよ。他人のプロデュースが趣味らしい…」最後の一言は、彼女の想いを確認したわけではないので、本永を楽にさせてあげたい方を優先して付け加えた。
思った通り本永はほっとした顔をした。これで鏑木が瑞生にピンクのもふもふした何かを持ってきてくれたら完璧だ。本永は訳の分からない女子の干渉から解放される。“似合う物をプレゼントしたがる性分”で片が付く。
心に余裕ができたらしい本永は腕時計をちらっと見ながら、「体育の空き時間に聞いた話、覚えてるか? 『なんで感染者のミュージシャンが隔離病棟ではなくミライ村にいるのか?』っていう。お前の言うように夜叉が持ってるウィルスが貴重なら、なおのこと隔離するはずだろう?」と外様に質問した。
外様はスマホのブルブルを感じて、LINEを見た。「渋滞で遅れるらしい。パンダと話してからここに来るって…」
瑞生と本永は顔を見合わせた。外様本人のいない所で病状について話をするというのは、いい感じではない。
「午後中1人で寝てたから、おしゃべりに付き合ってもらおうかな。少しならいいんだろ?」外様は枕に寄りかかって伸びをした。本永も瑞生も一斉に迎えに来てもらう相手に連絡を入れる。男子が揃いも揃って滑稽な光景だが、本永と外様は止むに止まれぬ事情で、不甲斐ないのは自分だけだ。
「俺の知る限り、夜叉がなまじ有名人だったせいでこんな事になったんだと思う。無名のパンピー(一般人)なら、内外に『政府の監視下に置く』と発表すれば済む。パンピーの家族も、感染者のゾンビが自宅に戻ってきても扱いきれないから、その方が都合がいい。面会さえできれば文句ないだろう。そもそもの死が大きく報道されていないしな」
「ところが夜叉の場合、旅客機同士の空中衝突というとんでもない事故の被害者で、しかもロックスターだったから、大々的に報道された。国民葬にしようなんて話も出たらしい。ところがカリブ海から他の日本人の遺体と一緒に貨物で戻ってくるはずが、夜叉だけ特別機になった。羽田に戻った時は厳重警戒で、すでにゾンビ化していたのだろうと言われている」外様は手振りで机の上のペットボトルを所望した。
「…しかし、2人とも喰い付きいいな。初めて聞くみたいな顔してる。全部報道されてたことだよ? そりゃ俺なりに記事を読み直して整理してみたけど」外様は少し呆れたような、不思議そうな顔だ。
ベッド脇の回転椅子をキコキコと反らせて、本永は5月下旬の自分の生活を回想したらしく苦笑した。「その頃…、俺は何とか狂った人生を普通の路線に戻したくて学校にだけは来てたんだけど、1日中誰とも口きかない状態だった。親に苛立ちをぶつけては家で荒れて、荒れた後には酷く後悔する事の繰り返し。精神科に行っても良くならないし、相当絶望的だった。世間が何に騒いでいるかなんて、気に留める余裕はなかった。夜叉の事故死すら、ミライ村に来るってニュースで認識したくらいだ」
瑞生は瑞生で、本永の回想を聞きながら記憶を辿った。「…僕も…疲れてたかな。その…突然伯父伯母の家に厄介になる事になって、風呂の入り方や食事のその家のルールがあるじゃない? 全部聞く訳にも行かなくて、気苦労の連続で…」
伯父は瑞生にIT機器を買い揃えてくれたのだが、保護者がする手続き以外のダウンロードや導入はしてくれなかったのだ。(そりゃ自分のためもあったけど)使いこなせないと落胆されるのではと思って、必死でマニュアルと首っ引きで習得していたのだ。生まれて初めてネットを介して、自室(そもそもこれが初めて)にいながら世界中のニュースや通販や個人に接続できるミラクルに、遅ればせながら打ち震えて、色々なサイトを覗きもしたが、その時話題になっているニュースの中身を地に足付けて受け止めることなど全く出来なかった。ただ活字や写真が瑞生の表層を通り過ぎていっただけだったのだ。
口には出せない回想を知る由もない外様と本永は、その境遇に同情して、「ああ、そうだな。慣れない家だとテレビも好きには見られないもんな」と頷いた。
「まあ、2人がやたら真剣に俺の話を聞く理由はわかった。じゃあネットで簡単に見られる経過は各自見てもらうとして、俺の私見でも語るとするか。カリブ海で旅客機同士が空中衝突して乗客乗員全滅という悲劇において、遺体はフロリダ付近で回収されるか、キューバの経済水域内を漂うか、サメに喰われるかだ。もし夜叉がアメリカの手に落ちていたら、日本に戻ってくる事はなかったのじゃないかな。ゾンビー症候群患者は格好の研究体として秘密の施設に連れ去られてしまったろう。日本には『生き返った』なんて絶対報せずにね。アメリカってそういうとこあるだろ?」
「キューバが夜叉を監禁しなかったのは何故? ゾンビー症候群のウィルスはキューバにとっても貴重なものなんでしょう?」と瑞生。
「キューバにはそんなウィルスを扱う病院や技術がないんじゃないか?」と本永。「キューバって“キューバ危機”とかサトウキビとか…遅れた社会主義国ってイメージしかないぞ」
パチン、と外様は指を鳴らした。「いい線いってるな、本永。俺もそう思ったんだよ。チェ・ゲバラとか革命軍とかの映画。カストロのニュース映像の古いイメージだろ? 売る物と言ったら葉巻と砂糖くらいの貧乏な社会主義国って感じ。アメリカと国交断絶して以降頼りにしてたロシアやベネズエラが不況になってから確かに経済はやばいんだ。でも調べてみると、実は資源国だし、一党支配のお蔭で文化水準が高い。無償教育、特に医学教育に熱心で、医師を他国に派遣しているし、医学研修も受け入れている。国民の医療費は無料だよ! アメリカと喧嘩してる分、近年フランス・カナダ・中国と資本提携して観光開発が進んでる。これからはもっとリゾート地としてブレイクするだろう。ノビシロいっぱいの国だったんだ」
「世界で一目置かれる医療充実国家なんだから、ゾンビー症候群を扱いきれないと言う説は外れだ。推測するに、『夜叉が遺体で発見された』と発表した後で、ゾンビー症候群だと判明したのじゃないかな。ほとんどの遺体が海上で発見されたのに、夜叉を含む3人の日本人はキューバの海岸で発見されたらしい。特に夜叉は座席シートごと砂浜に埋まってたから驚くほど損壊の無い状態で、パスポートの写真と同一人物だと一目でわかり、すぐ外務省に連絡がきて『ロックスター夜叉死亡』ってニュースになったんだ。その後ゾンビ化したのだとしたら? キューバ政府だって研究したいのは山々だったろうさ。でも日本中が悲劇のロックスターの(遺体の)帰国を待っている。時間稼ぎで夜叉を留め置けばあらぬ憶測を呼びそうだし、遺体がなくなっちゃった事にもできない。ゾンビーウィルスをアメリカの手に渡すくらいなら、確実に日本に帰そうとキューバ政府は考えたのじゃないか?」
「初耳なことだらけだ。めっちゃ面白いな」本永が楽しそうに貧乏揺すりをする。
「却って日本政府の動きの方がわからないんだよ。だから本当に推察しかないんだけど…。普通遺体は遺族に引き渡すから、ゾンビになった事を隠し通すのは無理だ。公表した後は、感染者なんだから政府肝いりの施設で隔離するのが当然の流れだ。…そこに、アメリカや国連関係の団体が噛みついた。夜叉はユニセフに巨額寄付をしていたんだ。で、曰く『傑出したアーティストには相応しい余生の過ごし方があるだろう。感染の危険に考慮しつつ、安全で快適な生活環境を国家によって保障されて然るべきと考える。日本政府が夜叉をモルモット、或いは忌むべきゾンビ扱いをするようならば、重大な人権侵害としてWHOの医療施設に保護する用意があるが如何なものか』とかさ」
「凄い、今の外様が考えたの?」と瑞生は感心し、本永は「受け売り無し? 全部お前の考えならマジに尊敬する」と聞いた。
外様は真面目に首を傾げて「むろん、俺一人で考えられるわけないだろ。色々な記事を読んで…ミックスしたんだよ。ネット上の“真実”を全て信じちゃ馬鹿だけどな。でもまるきり大外れじゃないと思わないか? 日本政府は想定外の突発事案に極端に弱いだろ。何も決められない間に外圧が来る、いつものパターンだ。各国のアーティストが声明を出したのは本当だし。世界中のファンから署名や嘆願書が届き、日本の国会前では多くのミュージシャンがデモ行進した。『夜叉に自由を!』ってね」
「それなら知ってる。デモなんてやりそうもないロック系の連中がぞろぞろ歩いてるニュースをテレビで見た」本永がツンツンさせている金髪に触れた。追い詰められて他者を寄せ付けないためにした髪型と言っても、好みじゃない髪型にはしないだろう。本永はきっとパンクかメタル系のロックファンに違いない。
「八重樫は? この話についてきてる?」外様が気遣ってくれた。さすがクラス委員。
瑞生は正直に答えた。「うん。キューバの話の横文字がほとんどわからなかった。それと“社会主義国”って何?」
本永が貧乏揺すりを止めて、顔を覗き込んだ。「俺たちが住んでる日本やアメリカが資本主義なのはわかってるな? 個人が個人の能力で稼いだ富は個人の物って主義だ。稼げないのも個人の責任。若干異論はあるけど北の某国やキューバは国家が元締めで稼ぎは平等に分配するのが社会主義だ。本当にそうならヨーロッパの社会主義国は崩壊しなかったよな。…他人の生き方に口出しする趣味はないけどな。ひょっとしてお前その人形みたいな顔でジャニーズとか入って一生楽に暮らそうと思ってるのか?」
あまりの発言に、瑞生は言葉を失って本永を見つめ返した。
外様がベッドで気を遣って、「…仮にそうだとしても、俺たちには口を出す権利はないよ。それに本永の認識は間違ってる。ジャニーズに入っても楽になんて暮らせない。アイドルだって努力努力だ。個性を発揮しないと埋没する。そのため無理矢理に個性を作り出してはいるが、求められてるのはかなりのクオリティだ。…それはさておき、八重樫の天然ボケは、まぁ個性ということで捉えておこう」と言ってくれた。本永は『到底納得できない』という顔をしていたが、それ以上突っ込んでこなかった。
喉元まで言葉が出かかっていた。いつか話せる時がきたら話すから、今は聞かないでほしい。自分が今までどんな暮らしをしてきたのかを。
本当は本永は待ってる。自分が話すのを。そう思った時、口から出たのは、まるで逆の言葉だった。
「話せる時が来るとは思えない。…たぶん、僕は、きっと誰にも話せない…。君たちが、君たちと、とも…ともだちに…」あろうことか涙が溢れ出して、俯いた頬から顎を伝って、医務室の床に落ちた。落涙とはこのことだ。
いつのまにか友人のように思っていた二人に、自ら別れを切り出したのも同然だ。頭より体が反応して涙が出たに違いない。突然涙したりしてばつが悪かったが諦めにも似た気持ちで顔を上げた。
その途端、両腕をがしりと本永に掴まれて、上下に揺さぶられた。悲鳴をあげそうになったけど、アップで迫る本永の怪しく光る瞳に体の自由を奪われて固まってしまった。
「それが、お前の本音だろ? …信用できる。それなら信用できる」「…え?」
「八重樫は、妙に平均的な高1像を演じてるような気がしてた。親戚の家に引き取られたせいだと思えば納得はできる。それでも、生身のお前が全く見えてこなくて、変だと感じてた。そんなお前が真実を晒すのが、馬鹿を見せた時だ。常識もない、知識もない、探究心もない。あるのはモデルみたいに整った顔だけ。でも、お前はその顔を利用して得をしようとはしない。格好もつけない。愚直に馬鹿を晒す。…俺はそこが不思議でしょうがなかった。それからお前に興味を持って見ていた。知能になんら問題の無い奴がここまで馬鹿に育ってきたのには理由があるに決まってる。しかも他人に話せるようなレベルじゃない事は想像がつく。だから、今のお前の言葉は信用できるんだ」
「…」瑞生は涙の痕を袖口で拭った。肩だけでなく腕にもあるアイロンを押し付けられた痕が見えるから夏でも長袖のワイシャツを着ているお蔭だ。そういえば、夏も長袖を着たいと言った時、伯母は何も聞かなかった。
「僕は…擦れてる…」
「すれ? 何?」本永が面喰って言う。外様も訝しげだ。
「…僕は擦れてる。擦れっからしだ。…そう卑下して自負もしてた。なのに、今まで生きてきた世界が一瞬にして消えて…、ここにきたら、僕は何者でもなかった。出来ることも何もない。あるのは馬鹿な自分だけだ」
ポン、ポンポン、本永が瑞生の頭を何度も優しく叩いた。「自覚があるなら望みはある…。俺と外様がスパルタしてやるよ」
「それ、女子が喜ぶやつじゃないか?」外様が笑いながら囃した。
「え? 女子?」本永の長身から降ろされる掌を、懸命にガードしながら問い返す瑞生を、「こいつは漫画もアニメも疎いから通じないって」と本永が叩き続ける。ポンポン。
「本永、人の事馬鹿って言い過ぎ」と笑いながら外様が窘めたけど、本永はにやりとしただけだ。
「夜叉がミライ村に来た理由の全部を聞き終った気がしないのは本永のせいだよね?」帰り道、ボールみたいに叩かれ続けた恨みもあって、本永に文句を言った。本永は澄まして「話が脱線し過ぎたからだろう」と言うと、手を挙げて保護者用駐車場にいる母親の方へと行ってしまった。
瑞生は少なからずショックを受けた。外様と本永の母親を立て続けに見て、自分の母とも伯母とも違う共通性を見せつけられた気がしたのだ。もっと以前に“友達のお母さん”に抱いた漠然とした印象が懐かしく蘇ると同時に、より明確に言葉となって認識できたからか。
落ち着いている。如何にも高校生の母親らしい“落ち着き”。“主婦らしさ”とでも言えばいいのか。“生活者”だろうか。
自分の、火事で死んだ母親は、自分を愛していなかった。
「なんで?」 母はいつも瑞生をそう言いたげな目で見た。
「なんで?」の続きが「そこにいるの?」なのか、「生まれたの?」なのか、「あなたなの?」なのか、聞くこともできない。聞きたくもないけど。
ともかく母は“主婦”感ゼロで“落ち着き”がなく、“生活者”ですらなかった。17歳で瑞生を生んだ自称“下町の太陽”は、それまでは本当に工場街の太陽のような存在だったらしい。出産後は不安定な精神と数々の奇行で“街の困ったさん”だった。病的(というより実際病気だったはずだ)な精神のアップダウン。それが容姿にも表れていた。瑞生の中の母は、痩せて目ばかりがぎょろりと大きくて、何時ヒステリックに喚きだすかわからない怖い人だった。だが母の昔を知る人によると“エキセントリックな美人”となり、近年しか知らない人は“映画に出てくる如何にも精神に異常を来したらしい美人”となる。
瑞生は母の笑った顔を見た覚えがない。何度か“実の父”という男の所にいる母を見かけた事があるけど、ちっとも楽しそうではなかった。どこに行っても誰といても、不満げで自分の気持ちばかりに気を取られている、そういう人なのだ。
一方、伯母はというと、陶器のような白い肌で道行く人が振り返るほどの凛とした美人だ。瑞生を愛してくれた血の繋がらない父と瓜二つだ。母と違って主婦をしているのに“主婦”っぽくない。“生活者”っぽくもない。“落ち着いている”というより“感情の変動がない”ように見える。
瑞生の知る“母親”の立ち位置の2人は特殊すぎるのだろうか。