2015年6月16日① 青山
2015年6月16日
本永は端からそうなのだろうが、瑞生にとっても定期試験は軽い行事になっていた。目下の注目事項と言えば、夜叉邸で日々引き起こされる想定外の事件こそが、エネルギーを注ぐべき対象だった。
それに、テキストの穴あき問題を出す先生や授業中に言ったジョークを出す先生、T大入試問題を出す先生など教師の傾向を習得するのを競うのは“テスト”から逸脱している気がしたのだ。
ということで、2人は昼食後には夜叉邸にいた。午前中に夜叉が警察の聴取を受けて、2時には青山とキューバで会ったと言う人物がやってくることになっている。
「彼はゾンビだから無礼なのか、元々無礼な人間なのか?」二係の係長は芸能ネタに疎いのだろう。来たばかりの瑞生たちに訊いてきた。若い刑事などは、夜叉と係長の間で通訳をしながら気を遣ったと見えて、魂の抜けたような顔をしている。
クマちゃんも立ち会ったせいで疲れているのかと思ったが、疲労の理由は異なるようだった。
「大丈夫ですか?」瑞生は若い刑事に訊いた。新林のついた溜息で、新林もいたことに気づいた。
「…彼は毎日地元のバーやホールに演奏を聴きに行き時には飛び入りし、空いた時間に子供らにギターを教えるという生活をしていたから、日にちや時間の記憶がほとんどないんだ。感染時と場所を特定するために、入国記録から順に3ヶ月間辿って…ほとんど成果無し。昨日の放送で言ってた、港でイグアナを見た以上の事が出てこないなんて」新林がこめかみを揉みながら言った。
「新林さん、キューバでは街にイグアナがいるってありふれたことなんですか? 行ってきたばかりでしょう?」若い刑事が訊く。
「俺は事件現場とハバナ市街しか知らないからなぁ。バスを乗り過ごしたとすれば、おそらくハバナの旧市街にある要塞に行ったのだろう。俺は滞在中一度も見かけなかったが、海岸沿いや島にはイグアナだらけの場所があっても不思議ではないな」
「イグアナを見ただけで感染するなんてこと…ないだろ?」本永が自信無げに問う。
「彼は『見た』と言っていたが、実際は見かけた後に噛まれたのかもしれない。それで気を失ったので記憶が曖昧だとも考えられる。いずれにせよ、青山と行動の被りも出ないし、感染の謎は解けそうにない」と新林。
「案外、港で拉致られて人体実験を施されたのかもしれないぞ。イグアナなんて薬のせいで見た幻かもしれん。ともかく感染経路を解き明かすのは厚労省の仕事だから深入りするのはやめよう」と係長。
当の夜叉はレコーディングの最中だった。おそらくレコーディングしたいものだから、余計に『わからない』を連発して、係長たちを悩ませたのだろう。そりゃ、バンドが全員揃ったのだから音楽を創りたくて堪らないのもわかるけどね。
係長はタフガイで、巨大テレビを点け、「あの爆弾動画の話でもちきりらしい。メディアはまず『動画は偽物か本物か』『ゾンビーウィルスはちぎれた腕をも単独で動かせるのか』の検証で大騒ぎだ。当然名前の挙がった人間は追い回されている。が、関原本人は留置所で、関原妻は朝から家宅捜索を喰らい、家の外は記者だらけ。従妹のだんなの大橋は雲隠れ、坂上逍造は緊急入院している。二係は提供してもらった資料を徹夜で分析、裏取りに皆走り回っている。ここでデータ以上の成果が期待できないのならば、我々も戻らないと」と午後のニュースワイドに目をやった。
:夜叉のマネージメント会社Woods!には問い合わせが殺到しています。『子供が怖がって眠れなかった』『ゾンビネタに引っかけた軽薄なドッキリ動画を真面目ヅラして流すな』といった抗議も多く寄せられているようです。ただアメリカCDCは『一概にふざけた動画と決めつけるべきではない。ゾンビーウィルスの特性から言って、短時間ならば可能なのではないか』という意見を寄せています。本日は、国立感染症研究所から研究員をお招きする予定でしたが、このゾンビーウィルスについて夜叉邸に派遣されていた研究員の規約違反が発生し、研究所としては経緯と今後の安全対策を、政府とK県、夜叉側に提出し了承されてから、再び夜叉の生命維持チームに加わりたいとのコメントを発表しています:
キャスターの説明が済むとコメンテーターは:昨日から『あれは何だ?』と大騒ぎというか動揺が広がっていますよね。先生、あれはやらせですか? 本物ですか?:と招かれた医師に質問した。
:常識で考えれば、あんなもの、冗談動画に決まってます。ですが、ゾンビーウィルスですからね。そもそも何故“ゾンビーウィルス症候群”と呼ぶか諸説あるのですが、ゾンビそのものだけでなく先程の映像のように“腕”などのパーツだけが“生きている”“蘇った”状態であるケースを指してカテゴライズされたからと言われているのです。写真動画はないが存在が確認されているということでしょうね。そうなると、なんとも言えません:
:あんな動画わざわざ作るメリットがないですよね。自分たちを嘘つき集団だと宣伝してるようなものですからね。…と考えると、真実ということになる:
:つまり夜叉たちは、『動画は真実』『一緒に公開した詐欺グループのマネーフローデータも真実』と言っていると?:
:そういう事になるでしょうね:
:ここで関連したニュースが入ってきました。警視庁は今朝、動画に出てきていた関原喜一、グローバルコンサルト株式会社社員、37歳の自宅を家宅捜索しました。セミナー詐欺共謀の嫌疑に基づくものです。関原氏は2日前、今回家宅捜索が入った自宅に侵入した、自称セミナー主催社従業員と揉み合いになり互いに怪我をさせた疑いで世田谷警察署に留置されています。捜査二課は『今回の家宅捜索は昨年からの地道な内偵調査を受けてのもので以前より予定されていたものだ。夜叉が公開した動画によるわけではない』とのコメントを発表しています:
:…なるほど。警察も捜査をしていたということは犯罪が行われた疑いが濃いわけですね。あの告発も動く腕も真実である可能性が高いと。青山と言う人の動画をもう一度見てみたくなりました…:
演出なのか、偶然なのか、皆が口を噤んだ間ができてしまった。
:“ランチニュース”では、専門家の先生方に動画が本物の場合に、それが意味するものとは何なのか検証して頂きました…:キャスターは滞りなく番組を進行した。
午後2時。現われた人物は、体育会系の体躯でスーツを着こなした30代前半のビジネスマンだった。
戸上というエリート商社マンは、5月に日本の外務大臣が商社・金融・医療などの企業代表を引き連れてキューバを訪問した際に同行したのだという。アメリカとの国交を回復したキューバを世界中が新たなビジネス市場とみなしているためだ。
「正確には外相と一緒に会談に参加する上司のサポート要員として同行したのです。他社も似たようなものです。ですからキューバ高官との懇談会が始まり、ようやく自由時間を得た下働きの若手でハバナに繰り出したのです」
「外相と日本の勝機を賭けて遠征している精鋭という自負の反動で、お決まりの高級レストランに行くのでは物足りず、敢えて地元民の行く店を選びました。しかし、キューバ人ウェイターを白人黒人ムラートで差別した者がいたためにトラブルになってしまいました。その時仲裁に入ってくれたのが青山さんだったのです」
「青山さんが少し話すと皆納得し騒ぎは収まりました。エリート軍団としては、ここで騒ぎになったら出世の道が断たれるだけでなく、外交問題になりかねないと肝を冷やしていたので、感謝の気持ちを込めて青山さんにご馳走すると申し出たのですが、固辞されてしまいました。店の者が『ヤオーマはキューバ人のために動いてくれる人だから、彼に免じて無礼な日本人を許したんだ』と言っているのが聞こえました」
「私は青山さんの暗い影に惹かれていました。そこで、次の晩1人で同じ店に行ったのです。一対一だとちゃんと話してくれました。彼は生きる希望など持たない人でした。『日本では人を騙すような事をしてきたから、俺と知り合いなんて言うと、出世に響くよ』と笑っていました。私は商社の中で熾烈な出世競争に疲れていましたから、彼の執着のなさに惹かれたのかもしれません。どうして現地の人に信用されたのか尋ねると、『死ぬ前に騙される側を守りたくてね』と答えました。本当かどうか知りませんが、彼は育ての親がヤクザだそうで、『憎んでも憎み切れない相手なのに、どこか情もある』間柄だったと言ってました。そのヤクザが『キューバの写真を送ってこい。妹のたむけに』と日本から送り出してくれたとか。『そのまま逃げていい』とも言われたと。この辺りラムを飲みながらだったので、私は半信半疑だったのですが、昨日の夜叉の動画を見て、このことだったのか、と思ったのです」
「上司は外相たちと一緒に帰国しましたが、私はスペイン語が堪能なのでオフィスの候補地や手続きの確認に1人残りました。そこで、毎晩青山さんと食事をしました。キューバの公務員は接待よりは袖の下を好むようで、夜はプライベートな時間が持てたのです。初めはストレスもあって私が話してばかりいました。しかしたまに青山さんも自分の話をするようになりました」
「T大・一流商社というエリートのレールをひた走ってきた私には、想像もできない世界の話でした。彼は、妹さんを救えなかったことをとても後悔していました。そして、海外の資本がキューバの美しい海岸線の観光業を駄目にすることを憂えていました。以前中国マフィアに嵌められて古いホテルを奪われそうになった老人を守った事があるそうで、その縁で外国資本と揉めている相談を持ちかけられては出かけていました。『とても美しい洞窟を見つけた』『気づいたら緑のイグアナがいて、俺たちはずっと黙って見つめ合ってた』と言っていました」
「その日以降、黒人がよく青山さんと一緒にいました。イファ占いで『あんたはもう死んでる。花に囲まれているよ』とでた、と笑っていました。『儀式に誘われている』とも。私はなんとなく危険な気がして心配でした。私の帰国日が迫り最後に会った日、青山さんは上機嫌でこう言いました。『妹は裏切った恋人に報復したい一方で、まだ愛して迷っていたんだ。だから遺書にパスワードが書いてなかった。俺はずっとそれを考えていた。それが解けた! 答えはイファ占いで告げられていた。家を乗っ取られる前、母も家の不動産事務所で働いていたから、俺と妹は小学校からいつも一緒に帰っていた。母が交差点の花屋まで迎えに来てくれるのが嬉しかった。2人で花屋の看板にある電話番号に節をつけて歌いながら待っていた。それだったんだ…。嬉しいよ、妹ともうすぐ会える』こう言って微笑んでいるものだから、私は不安で仕方なかったのです」
「キューバは、黒人の国というイメージがありますが、人口比率では白人やムラートの方が多いのです。彼の周囲にいる黒人の影響で彼が今にも死ぬような事を言うのだろうと私は思い込んでいました。人種差別が根底にあったのかもしれません。焦った私は以前読んだ本の話をしました。『知ってる? 黒人は幽霊を見ないのだってさ』と」
「もちろん彼は喰いついてきました。そこで私は浅い知識を披露しました。『キューバやハイチの黒人って、皆奴隷としてアフリカから連れてこられただろう? だから根っこはアフリカなんだ。アフリカじゃ死は全ての終りじゃない。生と死は永遠に続くサイクルなんだ。死者は誰それの霊ではなく、単に“先祖の霊”になる。だから“祟り”がない。“この世に未練を残して”とか“地縛霊”とか言った感覚はないんだ。死んだら“村を守る先祖”になるだけ。だからお化けや妖怪はいるけど幽霊はいないんだって』。こう言うと彼は『初めて聞いた。へぇ~』とラムを啜ります。『面白いよね。代わりに予知夢や虫の知らせはあるんだって。アフリカの死者には個性がない。キューバで根付いたサンテリアでは、アチェというエネルギーの波によって交流し、死者の霊は夢に現れ、トランスを通して生者との関わりを保つこともあるが、普段は交わらないのだって。お岩さんや貞子の国から来た者にとって、まさに異国だ』私は彼に日本人であることを再認識して欲しかったのかもしれません」
「青山さんはこう言いました。『殺されてもそうなのかな? 非業の死を遂げても…?』。私は『さあ? でも祟りがないなら、どんな形でも死は死だってことじゃない?』と言うので精一杯でした。『君もいずれは日本に帰るだろう? 日本でまた会おうよ』と言った時、彼を迎えに来たいつもの黒人の影がドア越しに見えました。立ち上がった彼は胸ポケットから封筒を出してテーブルに置きました。『どうしても捨てられなかった。よかったら、捨ててくれないか。読む必要はないから。出来れば破ってほしい』と。私は必死に呼び止めました。『わかった。わかったから、死ぬなよ』。最後に青山さんは笑いました。『俺は祟らないよ。アフリカの魂を持ってるから。最後に君と知り合えてよかった』」
戸上は鞄から封筒を出した。「捨てられなかったのです。5月20日にあの事故があって、死亡した3名の日本人の中に彼の名前を見つけてからずっと、処分しなくてはいけないと思いながら持っていました。昨日彼の腕の映像を見てから、初めて読みました。妹さんの遺書と青山さんのメモでした。メモは私宛にも見えますが、そうではない気がします。…警察にただ渡してしまうと、捜査に使わない場合、単なるお蔵入り書類になるのでしょう? それならば私はまず、青山さんの最後を看取り証拠を託された人にこの封筒を渡したい。彼の遺志を汲んで発表すべきだと判断したら、どうぞ実行してください、と」
係長と前島と新林は揃って顔を見合わせた。
「ヒネメス先生に渡すのは止められないが…読ませてくれませんか?」係長が言いながら、壁際のサニの方を振り向いた。
サニは立ち上がってゆっくりと戸上の方に歩み寄り、「初めまして」と言った。
「あなたが…」戸上は蚊の鳴くような声でそう言うと、視線を落とした。封筒を持っていた手に力が入るのが見えた。
*青山陽斗の独白*
想像もできない人生だ、と戸上は言った。目の前にいる前途有望なエリート商社マンにしてみれば、親が無能なばかりに家業を地上げ屋に乗っ取られた挙句、偽装自殺で消されるなんて、小説の中でしか成立しない奇怪な話なのだろう。
挫折知らずの彼を羨む気持ちも妬む気持ちも湧いてはこない。そんな感情は生命力の副産物だ。むしろ俺には彼を危ぶむ気持ちがある。彼が特にどうこうと言うのではない。遠からぬ将来、ほとんどの日本人が被る国家によりもたらされる様々な苦難、斜陽の鬱々とした光景を気の毒そうに対岸から眺める心境だ。
俺を育てたオヤジは、両親を殺した憎むべき仇だ。だが一言では片付けられない関係でもある。食事は一緒に摂る。俺が小学校でいじめられた時、頼みもしないのに授業参観にスーツで来た。親同士ではわかったのだろう。いじめはピタッと止まった。
妹のまゆりを可愛がった。だが、自分の女にした。だが、まゆりを無理にヤクザに嫁がせたりはしなかった。まゆりの脆い精神を見抜いて、傍に置いて気を遣っていたし、男女の関係はきっぱり断っていた。
豪邸の別荘詐欺が好きで、販売用の写真を撮りに行くと言っては、俺を連れて色んな所に出かけた。今回もオヤジが『キューバに行ってクラシックカーに乗りたい、写真に撮りたい』と言い続けたから、きっと付き合わされると思ってスペイン語を勉強していた。なんだかんだ言ってオヤジを連れて行くのは俺の役目だから。
そんな時に関原と知り合った。関原は落ちぶれた後、悪の道で圧倒的頭脳と冷酷な思い切りの良さを活かして頭角を見せ始めた所で、周囲の根っから悪人に気を許せずに消耗していた時だった。うちは気安いらしく毎日来ては『ここはいいな』を連発していた。
スペイン語を勉強している俺を『人を陥れる目的以外に勉強する人間がこの裏世界にいるとは』と驚いて見ていたし、まゆりに対しては『存在が奇跡』と言っていた。俺から見ても、まゆりは白いユリの花のように可憐だった。人から奪ったり自己主張したり、媚びたり纏わりついたりしない、ただ儚く風に揺られ静かにその場で咲いているような女だった。俺の知る限り、関原はまゆりを大切にしていた。結婚するかどうかは、関原のひねくれた性格から言って難しいと思っていたが、他の女と結婚するために身重のまゆりを捨てるとは。
しかも結婚相手の女が、まゆりの元を訪ねてきて、関原と付き合っていた女がいること自体が許せないと怒鳴り散らし、堕胎を迫るとは。今度訪ねてくる前に堕胎しておくように、と宣告されたまゆりが自殺したのは、女が再訪した直後だ。これは自殺の幇助、堕胎の強要にはならないのだろうか? まゆりを何より傷つけたのは、女が、自分は関原に依頼されて来たのだと言ったことだ。
関原は知っていたのか? 本当に女を差し向けたのか? 3人でこたつに入って雪見だいふくを食べたささやかな幸福の時間は、後足で砂をかけていかずにはいられない程の、負の価値しかなかったのか? まゆりは遺書に、女になんと言われたか細かく記していた。おそらく、関原に読ませたかったのだろう。あいつは心の中で関原を信じていた、信じていたかったのだろう。
俺はオヤジと島根に写真を撮りに行っていて、妊娠も別れ話も女に怒鳴り込まれたのも知らず、土産を持って帰ったら、風呂場で死んでるあいつを発見した。
まゆりが関原から預かっていたメモリーを隠して自殺した時から、こんな日が来ると思っていた。いずれ俺は関原に殺される。俺の口を封じれば、メモリーが日の目を見る事もない。
俺は何もできない男だ。詐欺だって、関原みたいに自分で編み出して、手下を使って、ルールを守らせて、なんてとてもできない。俺はオヤジに付き合って、不安定なまゆりの面倒を見て、小遣い稼ぎに悪人のパシリをして、飯作って、…それだけの人間だ。
だから、まゆりがいないと困る。俺の言い訳の元がいないと、何もする事がないのが顕在化してしまう。
俺は、オヤジに感謝してる所がある。そもそもオヤジに親を殺されなければこんな人生ではなかったはずなんで、感謝する必要ないか。でも俺をキューバに来させてくれて、俺を人生から解放してくれて、この青い空の下で死なせてくれて、やっぱり感謝、だよな。
ここに来て、もう騙す・騙されるなんてことと無縁でいようと思った。でも俺に染みついたヤクザな匂いが呼び寄せるのかな。だから、ここの人を海外の強欲な資本家に騙される前に救おうと思ったんだ。してきた事がチャラになったとは思わない。でも最後に少し、楽しかった。
イファの占いで、パスワードが解けてほっとしている。このまま俺に解けなければ、関原の息の根を止められないままになるところだった。司祭が『もうあんたは死んでる。でも死者を占うことは出来ないのに、占えるのは何故だろう?』と首を捻っていたのが可笑しかった。もっとキューバに居たかったな。でも、大橋たちが選挙に出る前になんとかしなきゃ。もし日本に戻れて、メモリーを公開する味方を見つける前に殺されても、最後の手段が使えるようにしておくんだ。ささやかな保険、マカンダルの息子たち。
本来なら知り合うはずもないエリートの戸上、君に迷惑をかけるつもりはないよ。じゃ。
戸上は、封筒をサニに渡すのを躊躇った。話の流れから言って、急に向きを変えて警察に渡すのも本意ではないのだろう、戸上はサニに「2人だけで話がしたい」と申し出た。
初期のしんとした静けさはどこへやら、今夜叉邸には人目のない場所を探す方が難しい。結局サニと戸上は、刑事に読唇されるのを避けるように動画用のスタジオを徘徊して話をした。
瑞生は、戸上の硬い表情を係長たちが見逃すはずがないと思った。戸上はキューバでサニを見ていたに違いない。青山とよく一緒にいた黒人というのがサニだったのかもしれない。
しかし話はすぐに終わり、戸上はすっきりした顔で、サニは手に封筒を持って、戻ってきた。
帰ろうとする戸上に、係長らは青山が薬物を服用していたか訊ね、完全に否定されていた。挙動に関しても、「一貫していて、感情の高ぶりや落ち込みなどなく、いつも明晰で悟った感じでした。でも、負け犬ではない。私は負け組の匂いをさせてるような人間に惹かれたりしませんから」と述べて去って行った。
サニは椅子に腰かけると、皆が遠目に見ている前でおもむろに遺書を読んだ。
読み終わり視線を上げた時に、瑞生とばっちり目が合った。
「僕は警察の人に読んでもらった方がいいと思う。その前に意味がわからない所があって…」
そこで、クマちゃんと門根も加わりサニに日本の事情を説明した。瑞生と本永は、遺書を回し読むなどと言う行為が青少年の育成上不適切だと判断されて、読ませてもらえなかった。
本永は不満げだが、“高校生の壁”を突破する方法を考えているのか、珍しく黙っていた。
「どうせ、その話が出た時だけ僕たちを排除することなんて出来ないんだから、時間の無駄でしょ、読んだって何てことないし」何となく大人の手続きにつき合されるのが腹立たしくなって、瑞生はそっけなく言った。
門根の眼鏡越しに目が光り、クマちゃんは黙って瑞生を見つめた。
この二人の反応は予想通りだったけど、前島がいることを失念していた。案の定、前島は口の端で笑っているように見える。
「やめておけ。これから命を絶とうという人間の書いた物を読むには、もっと覚悟が必要だ。読んでしまってから、後悔しても遅い。引き摺られるぞ」係長にびしりと言い切られて、話は終わった。
結局瑞生と本永は一階にある控室Aで勉強して時間を潰した。
意外なことにクマちゃんが呼びに来てくれて、ざっと遺書の話をしてくれた。青山のメモはいずれ読ませてくれるようだ。
「正確に言うと、まゆりさんのお腹の赤ちゃんは育っていなくて、残念ながら病院で処置をすることになったのね。そのため入院に必要な物を取りに一時家に戻ったところに、関原の婚約者が現われた。それが2度目ね。そこでさらに酷いことを言われて、彼女が帰った後にまゆりさんは自殺をした。これが真相のようよ。元ヤクザのオヤジさんも陽斗も不在だったからどうにも防げなかったけど、関原と恋人らしく過ごせるようにと、1人暮らしをさせてあげて数か月でのことだった。もしオヤジさんの家で同居したままだったら、高飛車な婚約者も押しかけては来なかったのじゃないかしら。その点は悔やまれるわね。後は兄へのお礼と、例の物の隠し場所が書いてあった。…まぁ、あなたたちは読まなくて正解ね。女の業というか、情念の滲む文章だから。まゆりさんのナイーブな部分とそれだけではない凄味も読み取れる。怖いわよ。そういうものを中途半端な理解力で読んでも、プラスになることは何もない。あなたたちにとっては現実の人間関係の中で、これからすったもんだして学んでいくべき分野なの。敗れて、闘うことを放棄して、この世界から自主的に退場する人に学ぶものじゃないわ」
「遺書は捜査に役立ちそう?」と本永。
「まゆりさんとの関係で関原の犯罪行為を問えるかと言うと、無理でしょうね。でも記された事から、関原の行動の裏を取り供述との矛盾を炙り出すことは出来るかもしれない。だからじっくりと分析する必要があるのよ」
「じゃ、提供するんだ」
「指紋など鑑定して少しでも役立ててほしいから。それがまゆりさんと陽斗の願いだと思うからね。…本永君はそれが不満なの?」
「…いや。その遺書、青山の墓に入れてやれればなって思ったから」
今度は瑞生が引っ掛かった。「あれ? 青山の遺灰は区営の墓地に納骨したんだよね? 元ヤクザのオヤジさんは何故引き取りに行かなかったのだろう? まゆりの骨壺だってオヤジさんが納骨していてもおかしくないのに」
瑞生の疑問はあっさり解決した。階段上でこの話を聞いていた前島が、急いでファイルを捲ると答えてくれたのだ。
「元ヤクザのオヤジとは養子縁組したわけじゃないから、苗字も違ったはずだ…。だから戸籍上の血縁者を調べて引き取りの打診をしていったなら、オヤジには連絡が行かない。それでもニュースを見たら、引き取りには行っただろうに…。ああ…なるほど、行かなかったわけだ。亡くなってる」
「え? いつ?」思わずため口をきいていた。
面会室にはまゆりの遺書を検討するために、バンドマンと高校生以外が揃っていて、前島のファイル周辺に寄ってきた。
「まゆりの自殺が2月2日。不審死だから解剖して、自死と判明、葬儀をして…。陽斗がキューバに向けて出国したのが2月10日。考えてみれば、非常に慌ただしい出国だ」
「両親の遺骨は青森にある先祖の墓に納めてもらっていた。葛飾区の役人が陽斗の納骨を打診した時、遠縁というお爺さんが『両親揃って家業をなくし自殺なんて恥知らず、渋々入れてやったんだ。挙句娘も自殺? いや、娘の自殺話は今初めて聞いた。で、息子は飛行機事故で腕だけ? もう運が悪いでは済まない死に方だ。冗談じゃない。本家に祟りを成したらどうしてくれる。以前の両親の骨壺も出して持って行ってほしいくらいだ』とまぁ冷たくあしらわれたそうだ」
「馴染みのない遠方の墓にまゆりを1人葬りたくはなかったのか。それと、時間に猶予がなかったか。なにせ、関原にとってまゆりの持つメモリーは致命傷になる証拠だからな。当然陽斗が所有しているのではと疑い探りを入れ、何らかの解決を諮っていたはずだ。脅して回収するとか、殺害を図るとか」
本永が突っ込む。「だからオヤジは青山をキューバに逃がしたってことか」
「オヤジが周囲にキューバ行きの話をしていたとすると、逃亡に見えないように陽斗を出国させるには、予定通りを装ってキューバに行くしかなかったのかもしれないな」と新林。
「そうすると、このオヤジの死は何か不自然だな。タイミング良すぎないか?」と係長。慌てて若い刑事が「調べます。所轄に連絡してきます!」と立ち上がった。
「もう一度、時系列に見よう。2月2日まゆり自殺。10日陽斗出国。3月30日元ヤクザのオヤジ死亡。その前の3月初旬に関原が結婚したはずだ…。5月20日事故で陽斗が死亡」前島も係長も手元のファイルに目を落として多くは語らない。
係長が刑事に「青山陽斗名義の携帯電話の通話記録。キューバで陽斗のスマホは? 下半身が不明だと尻のポケットの物はなぁ…。オヤジの方もだ。オヤジの死後使用された形跡があるか、陽斗との履歴を消されていないか調べろ。病気のボンクラ息子の所にはお前が行け。気を付けろよ、オヤジの死を知らないかもしれない。見舞いに誰も来ないのを利用して、関原らに情報操作されている可能性がある。先に病院関係者から息子の周辺事情を聞き出しておくんだぞ。入院費の振り込みは途絶えていないか。不審な見舞客はいなかったかも聞いて来い」と指示を出し自身は電話を掛け始めた。応援の人員を要請しているようだ。
本永がごくりと唾を呑んだ。と思ったら、自分だった。
「捜査が始まる? …オヤジさん、陽斗の居場所を教えなかったせいで関原に殺されちゃったの…?」
報告を受けて係長が言った。「オヤジは風呂場で遺体で発見されている。検死の結果は『入浴中の心臓発作に起因する溺死』で、通常の葬儀が行われ火葬された…喪主は誰だった?葬儀社に聞き取りだ。ただ担当刑事が、ヒートショックの季節でもないし、元ヤクザだし、ということで爪に入っていた皮膚片だけは証拠品として冷凍保存していた。DNAを調べるよう依頼する。息子の聞き取り次第では、殺人事件の線で追える可能性が出てくる。じゃ、俺も所轄の方に行くから」
「そうか、では私も戻るかな。二係と夜叉邸の皆さんの仲を取り持つのが目的だったのだから。組対四課から土屋組の資料を入手したら見せてくれ。大橋や坂上と通じてる組はどこかな…。新林さんも戻るよな? 警察庁に報告に行かないのか?」
前島の言葉に、新林は首を振った。「俺は残るよ。確認したいことがあるから」