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ゾンビの顔色  作者: Nemuru-
26/57

2015年6月15日①

2015年6月15日



 昨日くらい予想外のことが怒涛のように起きた次の日がテストの初日なんて、間抜け感が半端ない。

「俺行くの止めようかな」本永は5分に1回は言っていた。

トーストの追加を皿に載せてやりながら伯母が、「本永君、入学してから初めての定期テストでしょう。自信無いの?」と微笑んだ。

他所の家でも何の遠慮もなく3枚目のトーストを齧りながら平然と、「自信は余ってるけど。この村で起こる事件のわくわく感に比べて、テストなんてしょうもない。全くつまらない」と言い放った。

「…テストに行きなさい」

伯母にしては珍しく命令形だったが、瑞生も同意見だったからうんうんと頷いて流した。


 実はこのやり取りはいつもの登校時間の2時間前に交わされていた。

朏巡査部長が昨晩くれたアドバイスに従い、“夜叉の愛人狩り”を競う記者たちに尾行されないように、通勤時間帯に後部座席に身を潜めて出る作戦は成功した。ただ、テスト中に睡魔に襲われて、瑞生はシャーペンの先で手の甲をチクチクやって耐えたが、本永は金髪を揺らして寝ていた。

図書館で勉強して、他校と下校時間を合わせてから帰ろうとした時、伯母から『榊先生の車で帰るように』と連絡が入り、2人顔を見合わせた。


 「八重樫さんに早朝登校の話をもらった時に、事情を聞かせてほしいとお願いしたんだ。本永が八重樫の家に泊まっているのには驚いたし、生徒の間で『美少年ってうちの生徒?』と噂が広まっていると知ったから」運転しながら榊先生は説明してくれた。

「八重樫が夜叉の家に本当に行っているとは、もっと驚いた。しかも本永まで。…まぁその話はいずれ聞かせてもらうとして、今重要なのはメディア対策だ。連中はゲートから出てくる車のナンバーを撮影して出入りのチェックをしているらしい。車のナンバーだけでは持ち主を調べられないが、出入りの記録を取られると数日で行動パターンがわかってしまうだろう? この時間の送迎なら学生だなという風にね。それで、僕やご家族が送ったり、セレブ御用達のハイヤーを利用したり、帰りの手段をランダムにすることにしたんだ」


 「先生、外様の具合は…?」本永が唐突に訊いた。

榊先生はハンドルを握ったまま真っ直ぐ前を見ていた。

「外様の場合、不運が重なって…。事故当時顧問が不在で、サブの先生は一番近い整形外科に連れて行った。外様は最初は意識もあり静かなもので、対照的にぶつかった相手は痛い痛いと泣いていたから、そちらを優先してしまったようだ。そいつはただの打撲だったのに。専門外の病院は対光反射の検査を行わなかった。そのためすぐに眼科で治療するチャンスを逸してしまった。途中で外様が意識を失って総合病院に運ばれ、画像診断を受けた時には、視神経管骨折とは診断されなかった。症状の現われ方には個人差があるそうだ。外様はかなり経ってから目の症状が出た。そういう場合、治療しても治る可能性は低いらしい。視覚の異常が出た際に、担当医は診断ミスを問われると病院を辞めてしまった。再画像診断で視神経管骨折片を発見した医師が、『治療の主流は薬物療法だが、視神経を圧迫する骨折片を手術で取り除くべきだ』と強硬に主張した。『治療の遅れを取り戻すには原因を除去するしかない』と。…そして手術は不調に終わった…」


 灰色の空、灰色の道路と無駄に緑色の街路樹の合間を車は法定速度を順守して通っていく。大きな交差点の先に、村へのゲートが見えた。

「最初に適切な病院に連れて行かなかったのは、学園のミスだ。そもそも顧問の不在時に新入生同士にラフプレイをさせてしまった所もだ。総合病院は初期の診断ミスを認め、手術の不調は外傷時から経過していたためと主張している。学園としては誠意を示すつもりだ。病院側は今後の治療費を…」

「誰のせいとか、金の話はいいから。…外様は目が見えなくなるのか?」本永が焦れて話の腰を折った。


 ゲートに着く前にカメラのフラッシュが焚かれたのが、座席に沈み込んで隠れている瑞生にもわかった。隣に窮屈に屈んでいる本永の顔を見るのは正直勇気が必要だった。不安に苛まれているかと思ったのだが、意外にも冷静に榊先生の返事を待っていた。

 一旦警察官に停められて、免許証と目的を告げ、ゲートに並ぶ。瑞生と本永の送迎に関しては同一のIDカードを持ち回りで使うのだ。

ゲートが開き、体感慣れした連続カーブの揺れが続く。

 「おそらく、左目の視力は戻らない。…今後は左目の回復よりも、右目の視力を守ることに力を注ぐことになるらしい」

シートの隙間から見上げる榊先生の顔はやるせなさで彫った彫刻のようだ。「隻眼に慣れ、右目を守るための指導を受ける必要があるそうだ。外様が望めば自宅近くの学校に転校出来るよう頼みに行く。勉強も運動も優秀だっただけに、辛い思いもするだろうが…薫風学園は全力でサポートするつもりだ」


 「外様はこっちに来ちゃいけないんだ。俺と八重樫のいる日陰の世界に一時落ちてきただけで、また光の世界に戻ると決まってる奴なんだ。そうじゃなきゃ、俺たちを照らすことも出来ないだろ」

ワゴン車の後部シートに丸まって、土の中の虫が、頭上を飛び回る羽虫に憧れるように、外様を思って本永は泣いた。


 家に帰ってからも空虚な気持ちを抱えたまま、瑞生と本永は話すでもなく、かといって勉強に身が入るわけでもなく、昨日の夜叉通信に対する反響を見ていた。


:夜叉、ゾンビになっちゃって、可哀想だった:

:まず、謝罪だろ。解散してどっか行っちゃってたんだろ? 借金やキャンセルで、世間騒がせたんだから:

:態度デカい。美形おじさんゾンビ:

:一昔前のバンド感、半端ない:

:アルバム作ってるんでしょ? いいじゃない、ミュージシャンなんだから。作品で評価すべきだよ:

:良くも悪くも、夜叉そのまま。ゾンビになっても唯一無二:

:The AxeのCD買ってみた。凄くよかった。その後で今日の夜叉を見たら、あの美声の持ち主がこの小声のゾンビなのかって、今更ながらにショック受けた:


 瑞生は夜叉の家に電話を掛けてみた。以前は森山が出たのだが、今日は門根が出た。:なんだ、もう来るのか? テスト大丈夫だろうな?:かなりハイテンションになっている様子だ。

:見たか? すんごい反響だ。久々に鳥肌立ったよ! 世界中のファンが新譜に期待してる。夜叉とキリノを待ってたんだ!:

横にぴったりと来ていた本永が、「音楽の話はともかく、それ以外はどうなんだ。炎上してるのか、好意的なのか。オークションは上手くいきそうなのか?」と割り込んできた。

:…ああ、複雑だ:一気に門根のテンションが下がった。:いい事も悪い事も起こる。夜叉が動けばな。昔からそうだ。…来いよ。直に話そう:


 家を出る支度に手間取った。写真に撮られてもいいように変装しようとしたためだ。

「お前のところって、本当に面白い物がないな」本永がキレた。

「クマやカエルの着ぐるみでもあると思ってたの? あるわけないじゃん」瑞生を負けじとキレる。

「中学の時にドンキで買わなかったのかよ。ハロウィン用に」

「ハロウィンなんてお父さんが絶対行かせてくれなかった。魔女に化けた母に殺されるんじゃないかって妄想してたから」

「本当か? “心配”じゃなくて“妄想”というのは何でだ?」

「母を見てれば“魔女”が浮かぶのは無理からぬことなんだけど、母ならシンデレラかキャリーぱみゅぱみゅかキティちゃんのコスプレだよ。お父さんは母のこと全くわかってなかったから。あの人は幾つになっても自分がヒロイン。お姫様役しかやらない」

「お前、“母”じゃ“お父さん”と対になってないぞ」

「“お父さん”に親愛の情が籠るのなら、籠めるつもりのないあの人に“お母さん”は変だから」


 本永は少しの間引いて躊躇ったが、同じ調子で続けた。「お前なりに、拘りがあるんだな」

「そう、それにドンキは怖くて行かない。小でも中でも、万引きを強要されたことがある。どっちの時も、擦れた子供らしく大人を利用して切り抜けたけどね。仮にターバンとか付け鼻のついたメガネとか持ってたとしても火事で燃えちゃったから、ここにはないよ」

根本的な指摘に、他人の家の不幸を失念していた本永は、神妙に「ごめん」と謝った。


 結局、本永はタオルを巻いて金髪と口元を隠し、持参のサングラスを掛けた。瑞生はいつもの鉄板スタイルで大差ない仕上がりになってしまった。並んで歩くと、目立ちたがりの不審者にしか見えない。

 夜叉の家まで約5分、それなりに緊張して歩いた。瑞生はバットもラケットも持っていないので、キッチンからおたまを借りて持っていた。ほんの少しは戦えるだろう。


 キコ ギコギッ ギッギッギコ

後から、金属の軋む嫌な音が近づいてくる。

 「なんだ?」本永は瑞生を自分の隣りに引き寄せた。瑞生はおたまを構えながら「どこかで聞いたことある音だなぁ」と呟いた。


 丘を登りきって姿を現したのは、森山とオンボロ自転車だった。

 「あ、前に送ってもらった時だ」音も乗り心地も知っているはずだ。


 「やぁ、久しぶり。夜叉の家に行くのかい? ちょうどいいから一緒に行こう」森山はギギッと自転車を寄せてきた。

「なんでここ数日来なかったんだ?」本永がストレートに攻める。

「いやぁ法事でね、田舎に帰ってたんだよ。こっち、大変だったみたいだね?」サラサラヘアを振って、森山は明るく答えた。

 大人の言い訳“法事”は信じるなって常識だよね、と擦れた瑞生は思う。AAセンターからこの自転車で来るくらいなら歩いた方が楽じゃないだろうか。

 「西方っていう医者がサニに毒入り弁当を食わそうとしたのに、責任ないのか?」またもドストレート。

「え、いや、僕はいなかったから。責任と言われても…」森山の顔が引き攣る。


 夜叉の家に着いた。森山も当然のように入る。今日の担当は朏巡査部長ではないので、3人のIDを丁寧に確認した。

 いつも通り控室に入ると(ここ数日医師はサニ1人なので、雑菌を持ち込まないための身支度は自分たちですることになっていた)、藁科がいた。

 そこへダンダンと音を立てて2階から降りてきた門根が入ってきた。「藁科、何故こんな所にいるんだ?」問いかけに藁科は答えない。

門根はイラつきを隠そうともせずに、「森山、無断欠勤の件をクリアにしてから来いと伝言を入れといたのに、AAセンターから何の報告も来てないぞ。藁科は感染症研究所から会議の報告と連絡不備の詫びが来てるのに」と森山に詰問した。

 森山は目を点にして「感染症研究所が?」とオーム返しした。

 「そんなことより、聴取の話を聞きたいのじゃなかったのか」と藁科が切り返した。

 門根はむっとして「お前が『報告したい』と言ってきたんだろう。こっちから『聞かせてください』と言ったわけじゃない」と訂正した。

 

 2階に上がると、クマちゃんとサニの他に、撮影やレコーディングのスタッフが更に増えていた。面会室だけは長テーブルも椅子も今まで通りだったので、いつものメンバーで座るとほっとした。

 藁科が森山に除菌スプレーが足りていないと言って、まだ噴射している。


 門根は自分の指定席にどすんと座ると、「じゃ、とっとと報告してくれ。みんな忙しいんだから」と藁科に催促した。藁科は意外そうな顔で「夜叉は…?」と訊く。「夜叉には関係ない話だ。わざわざ聞かせることもない」門根に退けられて、藁科は僅かな間唇を噛んで目を泳がせたように見えた。

 藁科の話は、国立感染症研究所からWoods!に送られてきたメールと同内容だった。会議の延長を、藁科と事務方は互いに相手が連絡していると思ったため、無断欠勤になったと説明した。

 森山は、法事で実家に帰っていたが、親戚の具合が悪くなったので帰るに帰れなかったと話した。

 当然突っ込みの連射を浴びた。

「AAセンターに連絡したのなら何故こちらに周ってこないんだ」

「西方の聞いた森山の声ってのは、どういうことだよ」

「あなたと藁科さんは連絡を取り合っていたのじゃないの? 戻れないなら藁科さんに代わりに出てもらうよう頼めばいいでしょう」

「私は会議が…」

「そう、無理なことがわかった。そうしたら、AAセンターに代わりを派遣してもらえたでしょう。少なくとも終日サニ一人体勢の準備が出来たわ。昨日になっても連絡が来ないのは随分と無責任ね」クマちゃんは理詰めでいく。

「あんたの実家って離島か? 親戚を連れてった病院を調べてもいいよな? これは信用問題だから」門根がこう言うと、森山はサラサラ前髪を垂らして俯いたので、表情が全く見えなくなった。

 

 「警察の聴取を受けたのなら、朏さんに聞いてみようか」瑞生がこう言ったのは、警察の聴取と同じことの繰り返しも無駄に思えたのと、公開処刑みたいに森山のボロを暴くのには抵抗感があったからだ。

しかし、森山はそうは受け取らなかった。突然大声で、「警察に聞く必要などない!」と椅子を倒して立ち上がった。


 ちょうどその時、夜叉とキリノがスタジオから出てきた。見たことのないおじさんも2人いた。瑞生の後ろで本永が息を呑んだ。

「すげぇ、The Axeだ! 本物だ!」と頭を揺らしだす。

「みんな揃ってガンタとトドロキに挨拶か?」夜叉が首を傾げて、間抜け面を並べて見るというように見渡した。

 キリノが「そんな和やかじゃない声だったぞ」と言った瞬間、藁科が夜叉に飛び掛かり、右手を掴んだ。「森山!」と叫びながら、夜叉の右腕を長テーブルに押さえつけると、どこから出したのかギラリと光る鉈みたいな物を振り上げた。

 

「待て! 切るな!」門根が絶叫した。

「夜叉を放せ!」瑞生も叫んだ。

「やめなさい!」クマちゃんがとてつもない大声で言った。

あまりのボリュームに藁科がビクついて動きを止めクマちゃんを見た。

「黒金さん、あなたならわかる。これは人類のためだ…森山早く!」クマちゃんを見つめる藁科の目は必死で異様で、瑞生の背筋を悪寒が走った。

 森山が通路から工具箱のような物を重そうに抱えてきてテーブルの上の、藁科の前に置いた。夜叉が押さえられているので、誰1人動くことが出来なかった。


 全員で睨み合っていた。

 瑞生のテーブルを挟んで向こう側にいる門根はギラギラと藁科を睨みつけていた。夜叉より一歩遅く出てきたキリノはそのままの位置で森山を見ている。ガンタとトドロキという2人は目を白黒させながら異常事態に身を固くしている。

 隣のクマちゃんは一声で藁科を圧したものの、鉈を構える相手にどうすることも出来ないでいる。話しかけて、抑えられる状況ではなさそうだからだ。気になる本永は瑞生の左隣なのだがやや後方なので表情を窺い知ることが出来ない。とんでもない行動に出なければいいと思う反面、頭のいい奴なので期待もしていた。


 一瞬、風で空気が切り裂かれた。キラリと何かが翻った。


 藁科の手首から血が噴き出した。噴出する血潮に藁科は絶叫し、鉈はテーブルの上に落ちた。

 

 「わああ」頭の上で本永が叫んだ。血しぶきを無視して門根が「夜叉っ」と言いながらテーブル沿いに駆け寄る。瑞生も駆け寄る途中、右隣のクマちゃんを見たが、トマトのように頭に血を登らせて立ち尽くしている。

 森山が「止血止血」と言いながら藁科の右腕を押さえている横を抜けて皆が見たのは、壁際まで飛び退り、夜叉を抱きかかえてなお跳躍の構えを見せているサニだった。右手に血の滴っているメスを握っている。


 本永の出したハンカチの上にそっとメスを置いて、サニは慎重に夜叉を立たせながら自分も立ち上がった。門根に2人から目を離さないよう目配せすると、椅子に夜叉を座らせて、藁科に掴まれた右手の具合を確かめていった。

 悲鳴を聞いて1階の警察官が抗菌服を片袖だけ通した状態で上がってきて(警察官は“雑菌の宝庫”と決めつけられて2階に上がるのには抗菌服装備を条件づけられていた)、開口一番、「何が起こったんですか!」と絶句した。テーブル上に放置された鉈を見て、拳銃のホルダーに触れたのが見えた。

 「救急車を…」森山は哀しそうな声で言った。

瑞生は「朏巡査部長は来られますか?」と聞いた。



 後番でちょうど村に入ったところだった朏が駆け付けてくれた。AAセンターから救急車の音が近づいてくる。

血だらけの面会室の様子に、息を呑みながら、「みんなが揃っているのに何故こんなことに? 誰が誰を襲ったんだ?」と尋ねた。


 「手柄を立てなければ、研究から外される。『手ぶらで戻るなら、もう席はないよ』と言われた…」止血されて、一応落ち着いた藁科が話し出した。

「ゾンビーウィルスは宿主が死ねば死ぬ。ウィルスが死ねば宿主も死ぬ。どちらかの僅かな隙間に採取のチャンスがある。『女だから夜叉に近づく隙があるはずだ』と上は私を送り込んだ。私にハニートラップなんて出来るわけないのに。夜叉の指がとれた時が最大のチャンスだった。なのにサニが台無しにしてしまった。『サニがいれば自分たちは必要ないので戻りたい』と言ったら、『手ぶらで戻るなら』発言を喰らった。もうチャンスを待ってはいられない、攻めなければと思った。AAセンターは身体の部位の保存技術の開発を進めている。その持ち運べる液体窒素ケースがいい例だ。夜叉の腕を切り落として直ちに液体窒素ケースで保存すれば、腕の表面はダメだろうが内部のウィルスは生きているうちに冷凍保存できる可能性が高い。だから…」


 救急車が到着した。警察官は村のそこいらじゅうにいるから屋敷内に入ってはいるのだが、消毒や除菌に手間取っているようだ。ストレッチャーを断って藁科は自力で歩いていく。

朏に目で挨拶した抗菌服姿の刑事が「刺したのは?」と訊くと、皆がサニを見る前に、森山が「彼女の暴挙を止めるには仕方なかったんです」と進み出た。いつの間にかハンカチごとメスを持っている。「サ、サニが床を滑らせてメスをよこしてくれたから…」とこちらを見ながら言う。「僕には責任があるから。藁科に頼まれて、センターから保存ケースを持ち出した。西方先生を結果として犯罪者にしてしまった。…はっきり断れなかった僕の弱さのせいです…」


項垂れる森山に掛ける言葉が見つからない。瑞生は焦った。このまま森山を行かせたくなかった。


 ドアの手前で藁科が立ち止まって振り向いた。出血のためか顔が真っ白だ。

「人類は常に2種類の病気と闘っている。1つは外からくる病気。インフルエンザやエボラ出血熱など感染して起きる。もう1つは内からくる病気。癌や自己免疫不全など体内で発生する不具合だ。ゾンビーウィルスは前者、外部から感染するものだから、可能性に満ちている。ウィルスを操作して、アンチエイジングの切り札にする。誰だって皺くちゃな姿で長生きしたいのじゃない、壮年を維持したいのが本音だ。それを叶えられるかもしれないんだ。このウィルスの凄い所は、夜叉が証明している。脳の働きが全く衰えていない。ウィルスが活性化してからも、新しい環境に馴染み、仲間を増やし、作曲している。夜叉があと2年生きてみろ、想定より2年分多くの曲が作られるんだ。ゾンビになってからも創造的でいられるなんて、どんなゾンビ映画も描かなかった姿だ!」興奮した藁科の腕の包帯に血が滲む。

 「夜叉を見てるのなら短所もわかっているだろう。体の自由が利かないし行動が制限される。食事の楽しみなんてないぞ」キリノが珍しく憮然と言う。

「改良すればいい。何年か掛かるが、コントロール出来る」夢見るように藁科が言う。「だから、夜叉が生きてるうちに、何としてでもウィルスを採取して培養しなければ」


 「お前、利き腕を切り取られる夜叉の気持ちを考えたこと、ないだろう!」本永の怒りが爆発した。

「コントロールって言うけど、今の夜叉を見ていたら、嬉しいとか楽しいとかじゃないってわかるはずだよ。そりゃ、望んでゾンビ化する人は心構えが違うのかもしれないけど。それでも夜叉の辛い気持ちを考えれば、ゾンビでいることを推奨するなんておかしい。哀しさを考えないなんて、人間らしくないよ、ゾンビよりよっぽど」瑞生なりに藁科に思いをぶちまけた。


 藁科は無表情になった。

「ウィルスに“気持ち”なんてない。人体に入り込んだら、気持ちなんてお構いなしに増殖して細胞を組織を侵していくんだ。そういうものと向き合い闘う研究者は、人間の感情を優先して考慮なんかしない。私と…森山も同じだ。保存ケースを持ってくるように話した時、森山も似たような事をうだうだ言ってたが、最終的には研究者としての使命に気づいて協力したんだ」


 「森山さんは…ブレたかもしれないけど、あんたとは違う。その…何が違うって…何というか、ハートがあるんだ」瑞生は胸を張って言った。なんとか言葉にできた。


促され藁科は歩き出した。森山はサラヘアで涙を隠しながら、お辞儀をして去った。「サニ、みんなをよろしく」と言い残して。




 ドタンッ


地響きを立てて、クマちゃんがぶっ倒れた。




「藁科と同じ救急車に乗せる…のは無理だろうな」

「クマちゃん1人乗せるのだって積載オーバーなんじゃないか?」

「そういう意味じゃなく車内乱闘って意味で」

「サニ、どうなんだ? 心筋梗塞か脳出血か?」

「脈が乱れてる。血圧も…ともかくMRIを撮らないことにはなんとも」

「高血圧そうだなぁ。生活習慣病の塊にしか見えないもんな」

「でも、酒もたばこもやらないだろ、クマちゃんは」

「ストレスは夜叉が人の何倍も掛けてると思うよ」

「瑞生、お前さらっと厳しいこと言うなよ」


「病院なんて冗談じゃない。私は忙しいのよ! それよりか、あなたたち言いたい放題ね!」

突然目を開けて、クマちゃんがガバァッと体を起こした。


 ガンタだかトドロキだかが感慨深そうに「クマちゃん久しぶりだけど、質感アップしてる。凄いなぁ」と言った。

「病院に行こう。クマちゃん、検査必要」サニが跪いて諭す。何か言いかけたクマちゃんを制し、有無を言わせず救急隊員と3人がかりで立ち上がらせ、救急車まで送った。「AAセンターは敵地だから危険かもしれない」と門根に命じられてWoods!スタッフが同乗した。



 朏巡査部長と抗菌服の鑑識と数名の刑事たちは、現場を検分しながら小声で話している。瑞生たちは自由に話が出来なかった。

もし前に聞いた通りなら、この部屋の監視カメラの映像が残っているはずだ。藁科を切ったのがサニだとわかってしまう。それに、森山は本当にサニの傷害の罪を背負うつもりなのか? サニは夜叉を守るためとはいえ罪を肩代わりしてもらうことに抵抗はないのか、良心は痛まないのだろうか。


「…警察も忙しくなるな…」

夜叉がぽそりと言った一言が、その後の展開を暗示していた。


 結局、現場となった面会室にはいられないので、The Axeのメンバーは揃ってスタジオに入った。

居合わせた全員から聞き取りをする前に口裏合わせさせないために一階のABCDの部屋に瑞生・本永・サニ・門根を分けて待機させようとしたのだが、そこは藁科や森山の控室だったことが判明し、現状維持を優先して調べなくてはならなくなった。やむなく鑑識作業の進む面会室で待機となった。

通路から朏と刑事たちの話し声が聞こえた。

「自分で切ったって言ってるのか?」

「そう、止めようとした森山と揉めてるうちに誤って切ってしまったと」

「森山が名乗り出たじゃないか、連行する時は」

「それが、メスから誰の指紋も出ないんです。力んで拭いてしまったそうで。ハンカチに付着した血液は藁科のものでした」

「キューバ人は? メスを出したのは彼だろう?」

「自分は最初に部屋に入りましたが、あの位置じゃ藁科を切るのは無理ですよ。夜叉を抱えて守ってたのでしょう」

「高校生2人は?」

「1人は貧弱だし、1人は如何にもやりそうに見えるけど傍らで立ち尽くしていました。2人とも『何故暴力行為を?』というタイプ、つまり育ちのいいお坊ちゃんです。服に血がほとんど付いていませんでしたし」

「倒れた女性は問題外だな。マネージャーは…あの男ならメスでも切らずに刺したろうな。それか殴るだろう。…つまり暴挙に出た同僚を諌めようと揉めた結果の偶発的な事故ということか。殺意があったらもっと深い傷になっただろうしな。血だらけなのは藁科と森山だけなんだし」


 見張りの警察官がいるから、本永と話が出来なかったが、瑞生は朏がわざと聞こえるようにしてくれたのだと思った。


 結局藁科の負傷は事故と結論付けられた。夜叉を襲う目的で鉈を持ち込んだのは藁科だからだろう。傷は出血の割に浅く切られていて軽症とわかった。

 訓練を積んだアサシン(暗殺者)のように、サニは目にも留まらぬ早業で血管の表層だけを切ったんだ…。

 警察は、国立感染症研究所の上司の指示が藁科を暴挙に駆り立てたのかと、森山との共謀が、藁科による脅迫だったのか、友人関係もしくは金銭授受によるものなのかを解明したいようだった。AAセンターの関与も気になるが、おそらくそこまで捜査が及ぶことはないだろう。


「ここは、全ての部屋に監視カメラがあるのだろう? それを見れば全てがわかる」

「カメラはありますが、作動していませんでした。動いてたのは玄関のカメラだけです。見ますか?」

「なんだい、稼働してなきゃ役に立たないじゃないか。しょうがないな、じゃ、裏取りにそれだけでも見るか」


 瑞生はびっくりして門根を見たが、ブーツの汚れをこすり落とすだけだった。


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