2015年6月14日① 石見葉月殺人事件
2015年6月14日
「昨日は大変だったわね。この家が手薄になっているなんて、全然気づかなかったわ。ごめんなさいね」とクマちゃんが豪快に笑い飛ばして迎えてくれた。
すでに面会室に皆揃っていた。「メールしておいたキューバの杉窪さんから返信が来たの。キューバ版のスカイプでサニに出てもらい、身元は確認できてる。今午前10時、キューバは13時間時差があるから21時。直接話し合うことにしたの」
画面の向こうの人は、栗色の髪をアップにした細面の、知的な目をした女性だった。
:そちらには、存命中の娘をご存知の方はいませんよね? この事件のこと、ピンとこないこともあると思います。できるだけ冷静に、皆さんにご理解頂けるようにお話しするつもりです:眼鏡のチェーンが揺れて、白い綿のシャツと化粧っ気のない顔のアクセントになっている。
:社会主義国の公務員はやる気がないし気も利きません。警察もしかりで、公然と賄賂を要求してくる者もいます。娘は旅行客ではないけれどキューバ国籍でもありません。外国人が犯罪に巻き込まれた場合はきちんと捜査するだろうと友人は皆言います。それでも、監視の目がないとちゃんと動かないので、私はピナール・デル・リオ州警察に何度も足を運び、捜査の進捗状況を聞きました。日本からも警視庁の刑事が来ていました:
杉窪さんはカメラをじっと見た。見る間に目に涙が溢れそうになってきて、それをこらえるように唇を噛んだ。
:…私は犯人は服部賢一だと思っています。今の所キューバ警察の捜査でもそう示す証拠しかでていないようです。…それなのに、服部は小中君に濡れ衣を着せようと画策している。しかも小中君は航空機事故で死んでしまった。このままでは、『死人に口なし』で事実が歪められ小中君が殺人犯・被疑者死亡で幕引きされてしまう。キューバで起きた事件ですが、日本人が日本人に殺されたのなら、この国の警察には犯人がどの日本人でも構わないわけです。それでは犯人は罪を贖うことも反省することもなく、人生を謳歌出来てしまう。葉月を殺して土埃だらけの道路脇に転がして逃げた人間が! 私はとても不安なのです。日本から派遣された刑事さんは、『犯人は服部だと思う。最初から葉月を変な目で見てたし、強引だったし』と私が言っても、見立てを口にしないし逮捕に関しては言葉を濁していた。警視庁は『犯人が現地人ではない可能性がある』だけで嫌気がさしているのでしょうか。その上服部の父親は、有名なニュースキャスターだから息子を誤認逮捕してはマズイ、という感じらしい。このままでは、日本の警察まで、『犯人は小中にしておけばいい』ということになりかねないと思うと、本当につらいです:
:私が集めた情報を全てお話しします。皆さんの意見を聞きたいです。やはり服部賢一が犯人だと考えるならば、協力してください。出来れば日本に戻り、服部逮捕を警察に訴えたいのですが、キューバの警察が私に返却するはずの遺品を勝手に処分しないか見張らないといけません。皆さんに日本の警察が出す結論を注視してほしいのです:
:娘の葉月は、キューバに生活拠点を移す準備をしていました。私の会社を手伝いながら、キューバ美術の輸出をやってみたいと言っていました。キューバとアメリカの国交正常化が始まり、古き良きキューバらしさを求めて、観光客は増加する一方です。日本からはツアー客がほとんどですが、中にはフリーで来て私の会社に相談される方もいます。服部賢一は小中高大を伴い現われました。フリーで来て、キューバを一周するつもりだと言いました。特にグアンタナモ収容所に行ってみたいと。あの悪名高い収容所は、キューバであってアメリカです。周囲を地雷で囲まれていて遠目で見るのがせいぜいですが、時折『見学できるのでは』という誤った認識で来る人がいます。知識がない割に現地に入っていこうとする観光客はよく現地人とトラブルを起こします。ここは経済封鎖のせいで貧しく、なんと言っても社会主義国です。服部の無知を警戒して色々説明していた時に、娘がオフィスに現れました。すると、服部は露骨に娘に興味を示し、レンタカーで案内してほしいと言い出したのです。キューバは細長い地形で長距離の移動にはバスが使われます。鉄道は遅れるので観光客には向きません。道路は照明が乏しく夜間真っ暗な所も標識がない所もあり、やはり観光には向きません。私は男性2人を娘1人で案内することに抵抗がありましたし、服部の目つきが気になりました。ですが金持ちの匂いも感じていました。案の定、服部は自分の父親が有名なキャスター“服部順之助”であると明かし、一緒の写真や免許を示しました。娘は適当にあしらっていましたが、居座り情報を聞き出した服部は、娘の推す工芸家の展示会の宣伝も父親が取り上げれば効果てきめんだと言いました。これに心動かされた娘は、何度も行ったことのあるビニャーレス渓谷ならば案内すると申し出てしまったのです:
杉窪さんはがっくりと項垂れた。:後悔しています。何故反対しなかったのだろう。服部を追い返さなかったのだろうと。私の中にも、服部にお客さんを紹介してもらえれば、という気持ちがあったことは否めません。外国に来てまで日本人の女の子を強姦などの暴力的行為の対象にするとは思ってもみなかったのです。彼にとって現地に通じた私たちは、頼みの綱だとも思いましたから:
:小中君は静かでした。服部というボス学生が取り巻きをコンビニに付き合わせてる感じでした。話しかけると返事はきちんとしますが、キューバのこと全く知らずに来ていました。娘と行動する話に興味はないようでした。後から思うに、小中君は当日自分が外されることを予期していたのでしょう:
:彼が驚くほど反応したのは『就職は決まったの?』と質問した時でした。血相変えて『あなたには関係ないでしょ』と言った後、声を荒げたことを恥じるより服部の機嫌を露骨に気にしました。就職先を服部のお父さんに斡旋してもらうのかな、と思いました。再び彼がキューバに戻ってきた時に、就活の話がまた出たのですが、斡旋依頼の件を悔やんでいました。でも、なんというか、小中君は就職の手前で転んじゃってるような印象でした。『服部みたいな奴に就活を頼った』点や『マスコミ以外の大手にも目を向ければよかった』という後悔で、自分の能力にシビアな目を向けてはいないようでした。彼は素朴ないい子ですが、その点だけは現実逃避も甚だしいと思いましたね。就活って今までの人生を総括しないと取り組めないから、彼にはそれが難しかったのかもしれませんね:
:…結局娘は4月26日にビニャーレス渓谷の日帰り観光案内を引き受けました。魅力的なバイト代だったようで、いい顔をしない私を振り切るように出かけて行きました。ですから、最後の会話は楽しいものではありませんでした。地方には電波塔もありませんからスマホも護身に役立ちません:
:ビニャーレス渓谷のツアーは人気があります。世界遺産に登録された美しい景観とラム工場とたばこ農園の見学、インディヘナの洞窟観光が一度に出来るので。オプションのツアーだと、朝出発して夜7時頃戻る感じです。家はインターネット環境にないので、私は高い賃料を払って最新のオフィスビルに事務所を構えています。ですが、『戻った』と言う連絡が夜になっても来ず、何度も電話やメールをしましたが返事はありません。午後8時近くでしょうか、服部にも連絡を取りましたが出ません。レンタカー店は閉店で通じません。パートナーのホセが伝手を辿ってレンタカー店主の自宅を突き止めてくれたので訪ねました。そんなに店は繁盛していませんから、娘のことを覚えていましたが、『一緒にいた男は1人』『返却時に話したのはその男とだけ。彼女はどうした?と訊いたが言葉が通じずわからなかった』と。服部1人と知った途端、本当に背筋が凍りました。私は腰巾着の小中のスマホ番号は聞いていなかったので確認しようがなく、急ぎハバナ市街に戻り、服部が滞在しているホテルに行きました。しかし、もうチェックアウトしていたのです。それからホセ・マルティ空港に駆け付けましたが、2人は見つかりませんでした。すでに出国していました。警察にも行きましたが、公務員は夜は仕事をしたがりませんから、『娘が帰ってこない』だけでは動いてくれませんでした。翌日市内で色々情報を集めてみたのですが何もわからず、午後、観光バスが道路脇の鳥の集っている黒っぽい塊に気づいて、娘は発見されたのです:
杉窪さんの肩に手を置き、黒人男性が横に座った。
:こちら、私のパートナーのホセ。サンテリアの司祭です。…賄賂を渡して見た検死報告では、娘は着衣に乱れはあるものの乱暴はされていませんでした。おそらく大人しくさせようと先に首を絞めたら死んでしまい、慌てて遺棄しレンタカーで逃げ去ったのだと思います。服部とは一応日帰りツアーの契約書類を作成してありました。コピーした服部のパスポート写真を見せると、レンタカー店主は『一緒にいたのはこの男だ』と言いました。それならば、服部が犯人だと思いますよね? 私は葉月のベルトや鞄に付いていた指紋と書類の指紋が証拠になると考え、提出したのですが、キューバ警察は結論を出して日本の警察に引導を渡すという動きに出ません。私が知っているのは、日本に戻った刑事さんが服部に任意で聴取し指紋提出を求めた際に、服部の父親が噛み付いて拒否したという話です:
:そして、突然小中君がまたキューバにやってきたのです。小中君が言うには服部が、『確かに自分は葉月さんとビニャーレスに行ったけど、タクシーに乗って追ってきた小中とも一緒だった。帰路で自分が運転させられ、後部座席で葉月さんと小中がいい感じになりラブホに行くと言い出したから、バカバカしくなって2人を下ろした。葉月さんはあの辺りにホテルの心当たりがあると言っていた。夜に小中は血相を変えて戻り、すぐに帰国したいと取り乱すので、仕方なく荷物をまとめその日のうちの飛行機で帰国した。葉月さんのニュースを知り大変驚き、小中を疑ったが、友人として警察に突き出すようなことは出来なかった』と聴取で答えたと言うのを間接的に聞いたのだそうです。小中君も任意の聴取を受け、『自分は服部に別行動をとろうと言われて、26日は1人でハバナの観光をしていた』と言ったのですが、『キューバにはあまり防犯カメラがないから証明できないね』と刑事さんに言われたそうです。小中君は26日の自分の行動を証明する証拠を求めて再訪したのだと言いました:
:でも小中君は元々服部の太鼓持ちでキューバに来たくらいですから、お金がそうあるとは思えません。飛行機代やホテル代などの出所を問い質すと、呆れたことに服部だと言うのです。服部は小中君に海外に身を隠すよう提案しお金をくれたそうです。案の定、小中君の出国直後服部は『小中が真犯人だからこそ国外逃亡したんだ』と騒ぎたてました。まさか証拠を求めて小中君がキューバに来たとは思わなかったでしょう。小中君にしてみたら服部に嵌められたのだから服部の金で無実を証明することは、後ろめたくもなんともないようでした:
:小中君は突然オフィスに訪ねてきました。私はどんな嘘も見逃さないつもりでじっくりと彼を観察し話を聞き、葉月の事件には加担していないと思いました。小中君ほどキューバについて無知な人が、片言のスペイン語でタクシーの運転手に的確に説明して、ハバナから遠く離れた2人に追いつくなんて不可能です。観光地でもない幹線道路の途中にホテルはないし、社会主義国にラブホなんてジョークにもなりません。小中君の言う通り、飼い主の服部に『お前はハバナに留まれ』と言われて、大人しく市内をうろついていたという話の方が余程信憑性があります:
:私は彼に言いました。『あなたが本当のことを言っていると信じる。あなたの無実、彼の有罪を証明する証拠を揃えましょう』と。すると彼は、『実は26日に行動を共にしていた日本人がいる』と言い出したのです。何故最初からそう言わなかったのか? それが問題でした。ハバナの路上で知り合い、一緒に土産物屋や記念館を訪れた女性は事情があって彼のアリバイを証言できないのです。そこで彼は他の証人や証拠を求めて再びキューバに来たのです:
ここで、クマちゃんが初めて口を挿んだ。
「その女性の事情とは何でしょう? こちらで働きかけたら証拠の写メと共に証言をしてくれるのではないでしょうか。私たちには課題が多く、限られた時間しか使えないのです」
:私は葉月の葬儀で帰国したのが5年ぶりなもので、日本のテレビ事情に疎くて。小中君の説明をよく理解していない私が説明できるとは思えません。おっしゃる通りそちらで直接コンタクトを取って頂く方がいいと思います。その女性は、小中君のアリバイ証言の依頼を断っただけでなく、写メはもちろん、キューバでの出会いについても一切の沈黙を要請してきたという事です:
「随分と上から目線な印象を受けますね! 小中君と遭った事すらなかった事にしたいのかしら。何様なの」
:ええと、タカヤナギミユキ…らしいです。小中君の写メを転送しますね:
クマちゃんはメモしながら「その女性の件はこちらで調べてみます。写メがあれば確認しやすいでしょう。杉窪さん、キューバに行った警視庁の刑事とはどんな話をしましたか?」と訊いた。
杉窪さんは、浮かない顔をした。:遺族に捜査状況を教えられないのでしょうけれど、はっきりしない刑事さんで。キューバ人警察官に袖の下を渡して得た情報が頼りです。捜査状況視察に日本の刑事が来たので、キューバ警察はキューバ人が犯人である可能性も含めて一から丁寧に捜査して、余計に時間がかかったのだと思います。その上で『日本人が犯人』と目処が立ち、情報を洩らしたのかもしれません。ホセの友達が証拠品の写真も撮ってくれました。無いよりマシでしょ? レンタカーから服部の指紋が検出されのは当然として、途中参加したのなら小中君の指紋も出るはずです。私がそう指摘しても刑事さんは黙って聞いているだけでした。もしかしたらもう服部に買収されているのかしら…:
クマちゃんは首を捻った。「国際捜査担当の刑事ならばエリートですから買収はないと思いますが、上層部の意向に沿う可能性はありますけど。小中君が2度行ってるとなると、その刑事と遭ったということはありますか?」
杉窪さんは頷いた。:新林刑事が再度キューバに来た目的は謎でした。迷いましたが、隠しておいて小中君に有利になるはずがないと思い、2人を引き合わせました。新林刑事は本当に驚いてました。服部は警察に『小中はタイに高飛びした』と言っていましたから。小中君は自分の無実を訴えていました。女性の話は伏せて。新林刑事は小中君が亡くなった直後に帰国命令が出たとかで、帰ってしまいました。夜叉が蘇ってる頃飛行機に乗ってたのじゃないかしら:
「ふーん」クマちゃんは眉を顰めて考える。「航空機事故が20日早朝。日本人3人が巻き込まれたと通知が来たのが午後。夜叉が蘇ったのが21日午後…。大事故だから全員絶望は推測できるし、搭乗や遺体の確認をするのは大使館員の仕事だとしても、20日の便に乗ったのなら早いですね。まるで小中を空港に見送りに行ったみたい。そうでなければ直後の便は取れませんよね…」
:…:杉窪さんは俯いた。瑞生にすら何かあるのだとわかった。
クマちゃんは待った。が、2分で諦めサニを見た。
サニは言いにくそうに、「これには、キューバならではの、その…風習というか。日本人のあなた方にすぐには理解できそうにないので、シャチョーは言えないでいる…」
クマちゃんは、自分を取り囲んでいる者をぐるりと見回した。夜叉、キリノ、門根、サニ、瑞生、本永。
「私は、夜叉がこの村に来てから、難しい案件を任されてばかりの上に、『実は…』とか『本当は…』とかをやたらと喰らっている気がする。後から後から“真実”が出てくるのはもうたくさん」
キューバと繋がっている画面に向き直り、「聞こえたと思いますが、信じるかどうかは別として、後出しされるのはもう嫌なの。言っちゃってください。キューバの風習とやらを」と言った。
目を点にして聞いていた杉窪さんは、居心地悪そうに体を揺すり、隣に座るホセに何やら囁いて、二言三言交わすと、ホセは何やらテーブルに並べて準備をした。
:今話すつもりではなかったので、ちょっと勇気がいりますね。ええと、皆さんが戸惑ったら、その都度説明しましょう:
そして話し出した。今までこの蘇りの物語からぽっかりと抜け落ちていた部分について。
しかし杉窪さんはのっけから穏やかならざることを告げた。
:私が話せるのは私が関わった部分だけです。他の人のはそれぞれに聞いてください:
クマちゃんが夜叉とサニを睨みつける。
夜叉は平然と「今日から始まるパーティでおいおいね…。死ぬにも段取りがあるんだよ。ゾンビに免じて、ね、クマちゃん」と微笑んだ。サニは「僕は、先には無理。時が来なくては無理」とお手上げポーズをした。
「どいつもこいつも、全く」クマちゃんは悪態をついたけど、譲歩せざるを得ないのは明白だった。「わかりました。話を始めてください」
:キューバは1959年に革命軍が勝利し社会主義国となりましたが、それ以前は大国の植民地として、さらに以前はスペイン人による奴隷産業の中継地点として複雑な歴史を歩んできました。“ルーツ”という映画を知っていますか? まさにあれです。西アフリカの黒人を無理矢理奴隷船に乗せて北米・中南米に運んだのです。その中にはヨルバ語族の司祭たちもいて、連行された先の土地で宗教を発展させました。ハイチではブードゥ、キューバではサンテリアと呼ばれています。黒人奴隷の宗教は支配者のキリスト教に弾圧されますから、上手にキリスト教の聖人と融合して生き延びました。先ほどから“宗教”と呼んでいますが、サンテリアには教会も寺院も経典もありません。魂の救済や死の恐怖からの解放のためにあるのではなく、現世利益追求型の信仰なのです。支配者の目から隠れ、粗末な聖域で儀式や占い、護符作り、お祓いなどをするのです。その儀式・占い・薬草などの知識は脈々と継承されました。ホセはサンテリアの司祭だと言ったでしょう? サンテリアの太鼓儀礼を知っていますか? 太鼓でアチェという動的エネルギーを起こし、あの世の魂をこの世に呼び込み、生者たちと交流させるのです。生者に神霊や先祖霊が憑依し、生きていくための知恵とエネルギーを授けます:
杉窪さんはホセが並べた薬草やココナツの殻に目を落とした。
:娘の葬儀を済ませ、日本の親戚や保険や…事務手続きを終えるのに時間がかかりました。キューバに戻りようやく落ち着いたので、皆が娘のお別れの会を催してくれたのです。そして…太鼓儀礼が行われ、私に娘が憑依しました。憑依している自分を撮ってもらっていましたから、後から繰り返し見ることが出来ました。憑依を撮影するなんて悪趣味だと思われるかもしれませんが、娘が何を伝えているのか正しく理解したかったのです:
瑞生の隣で本永がごくりと唾を呑んだ。瑞生の質問するだろうことを先取りして「”憑依”って”乗り移る”ってことだからな」と囁いた。
:娘は『死者の仲間になる人。また来る。彼は私を救う。苦しんでる女の子を救う。だからママは彼を手伝ってあげて。ママは彼をマカンダルの息子の所に連れて行かなきゃならない』と言っていたようです。これだけでは意味が分からなかったので、私はホセを指導した司祭にイファ占いをしてもらいました。イファ占いはとても重要です。ココナツの実の殻を用いて二進法で複雑な運勢を読み解くのです。私の質問は娘の言葉の意味です。司祭たちが協議して選んだ言葉はこうでした。『ヤヨイはこの男性と会ったことがある。彼はハヅキを殺した人間ではない。苦しんでいる女性を救う運命にある。ヤヨイはそれを手助けするのに、彼には影が迫っている。分が悪いようだ。同時に彼は命が尽きようとしている。大きな鳥が共に海に落ちていく。…彼が成すべきことをやり遂げる前に命尽きないように守護霊の石と薬草でお守りを作ってあげよう』と。私は知っている人がまた来るとは誰のことか、はっきりとはわかりませんでした。服部以外は皆葉月を殺した犯人ではないわけですし。でも、その日の夜、玄関のブザーでドアを開けたら、小中君が立っていたのです。私は全てを悟りました:
:『マカンダルの息子の所に連れて行けとは?』司祭たちは議論を重ねました。『“マカンダルの息子”の噂は我々も聞いたことがある。実在の人物かはわからない。運命に導かれて会うものだと思うが、ハヅキの霊から“橋渡し”が求められていると解釈すべきだろう。心当たりを当たってみるよ』と言われました。私は“マカンダル”なる人物が何者なのか知らなかったので、ホセに教えてもらいました:
杉窪さんは寄り添う大柄な黒人男性のホセを慈しむように見た。視線に応えてホセはパートナーの手を握った。
:簡略に説明すると、マカンダルは黒人奴隷のヒーローです。ただし、キューバではなくハイチのヒーローです。西アフリカから拉致された黒人はどこの国に送り込まれるかで運命が変わりました。奴隷が結託しないようにわざと異なる部族を一緒に働かせた国では、奴隷同士で言葉も習慣も違い、一層苛酷な生活を強いられたのです。対してキューバでは部族単位で居住させ管理したので、故郷の言葉や習慣・宗教も継承できたし、コミュニティが存続できました。18世紀中頃のことです。キューバの隣の島ハイチに送り込まれた奴隷の1人マカンダルは事故で片腕を失ったにも係わらず、逃亡奴隷マルーン3000人を率いて白人と闘いました。マカンダルは雄弁なる施術師で、薬草の知識を持ち、獣・鳥・魚・昆虫に変身できました。特に、緑色のイグアナ、見かけないイヌ、場違いな所にいるペリカン、夜行性の蛾はマカンダルの化身と言われました。マカンダルは命知らずの部下と献身的な女に支えられ、決して捕まらず7年に及んで白人に抵抗闘争を続けました。最後は裏切り者のために火焙りの刑になりました。しかしマカンダル生存説は根強く、年月を経ても救世主となって戻ってくると信じられていたそうです。今ではロアすなわちサンテリアのオリチャ、つまり神聖としてカトリックの聖者と融合しています。これがマカンダルの物語です:
ホセが話すことを杉窪さんが翻訳してくれた。
:“マカンダルの息子”とは何者なのか、不明です。私も噂は聞いたことがあるのですが。こんなにもはっきり死者の魂が口にするとは驚きでした。ハイチの英雄が何故キューバに出現するのか? しかも“息子”という触れ込みで:
「確かに“何とかの息子”って言い方は胡散臭い。“サムの息子”っていたよな」門根が口を挿んだ。
「犯行声明に用いる自称だね。つまり実質的な意味でマカンダルの偉業や能力を継承しているわけではない。マカンダルの何かに自身を結び付けているが、他人が見ても納得できる結びつきか怪しいところだ」と珍しくキリノ。
「伝説の英雄が、実は死んでいないとか、逃れて外国に渡って生き延びたなんて…まるで義経伝説ね」とクマちゃん。
瑞生は小声で本永に訊いた。「ヨシツネって?」
「源義経。鎌倉幕府の時出てきただろ? 兄ちゃんの頼朝に嫌われて奥州平泉に落ち延びた悲劇のヒーロー」本永はヒントしかくれない。
「あ?『イイハコ(1185)ツクロウ鎌倉幕府』しか浮かばない」今回の試験範囲外の歴史は瑞生には不要な記憶だ。
「日本人として試験と無関係に日本史はマスターしとけよ」と本永。
「クマちゃんが言ってるのは、非業の死を遂げた義経に対して、実は北海道に逃げたとか、モンゴルに逃れてチンギス・ハンになったとか、義経生存伝説が独り歩きしたってことだぞ」と夜叉。
「ふ~ん」瑞生の生返事を聞いて、皆無駄な努力は止めて杉窪さんの方に向き直った。
:お話ししたように、私は小中君と一緒に彼のアリバイを証明する物や人をハバナ市内で探し回りました。革命記念館など公共施設には防犯カメラがありますが、映像を見せてはもらえませんでした。土産物屋の店員が2人の写メを見て『あんたたち来てたね』と言うものの日付の記憶は曖昧でした。実際に小中君が目立つことをしたわけではないので誰の記憶にも映像にも残っていないのです。彼に殺人事件の嫌疑が掛かっているのに皮肉な事です。結局成果はゼロでした。イファ占いの事を信じてもらえるか悩みましたが、彼に死期が迫っているのですから伝えました:
「小中の反応は?」門根が身を乗り出して聞いた。
杉窪さんはイファ占いの道具と言うココナツの実の殻を撫でた。
:最初は受け入れられずに『冗談でしょ』とか『そんな馬鹿な』とかぶつぶつ言って歩き回っていました。私たちは慰めるより見守ることにしました。彼はこの部屋の祭壇に飾られた葉月の写真や花やキャンドルを見てずっと、ずっと立っていました。そして葉月のために祈った後、『死は思ったより身近だ。死期を教えてもらえただけ俺は恵まれている。高柳さんにアリバイ証言を無理強いして窮地に立たせるのは、もうすぐ死ぬくせに傲慢すぎる所業だ。きっと正義はどこかにあって、なるようになるさ』と決意したのです:
:一方司祭がマカンダルの息子について知っているという一族を見つけたと連絡をくれました。ですが彼らは姿を見せることなく、小中君とだけ会ったので、私にはどんな人たちなのかわかりません:
:新林刑事は小中君の人生最後の数日をキューバという異国でニアミス状態で過ごしていたことになります。そして小中君は離れて暮らしているご両親に会うために帰国することにしました。担当の新林刑事がここにいるのですから、羽田でいきなり逮捕はないでしょうが、私は心配でした。予感は的中し、新林刑事は上の指示で小中君の乗る飛行機に同乗すると言い出したのです。私は小中君を空港まで送りました。彼はずっとうちに泊まっていましたから。もちろん新林刑事はホテルです。小中君は司祭とホセが作った守護石と薬草の入ったお守りを首から下げて大事そうに手で押さえていました。何故か私の胸は締め付けられるようでした。彼を搭乗手続きのカウンターで見送った後、ふと見上げると、蛾が、2匹の蛾がふわふわと飛んでいたのです。美しい水色の蛾でした。2匹は空中でぶつかると絡まるようにそのまま失速し、地面に墜ちました。蛾はマカンダルの化身です。私は狂人のようにロビー内を走り、新林刑事を探しました。早朝便は人気があり乗客は大勢いましたが、鬼を見たような顔で走り回る私を不審に思ったのでしょう。新林刑事は列を抜けて声をかけてくれました。私は…必死でした:
杉窪さんは辛そうな顔でこちらを見た。
:お前の方こそ鬼じゃないのか?と思いますよね。何故小中君を呼び戻さなかったのか?と。でも私は、私の役目を果たすしかなかった。私は新林刑事の袖を掴んでこう言い続けました。『この飛行機に乗ってはいけない』と。新林刑事は私が小中君を逃がそうとしていると思ったのでしょう。搭乗手続きに間に合わないと空港職員は融通が利きませんから乗り遅れます。焦った新林刑事は『力づくであなたを排除しますが恨まんで下さい』と手に力を込めてきました。私はついに言ってしまいました。『この飛行機は墜ちるから乗ってはいけないのよ!』と。私の鬼気迫る表情から、冗談でも脅しでもないと察したのでしょう。新林刑事は棒立ちになりました。次にどうしたと思います? 『小中!小中を助けんと! あんた何やってるの!』と駆け出そうとしたのです。私は取り縋って止めました。『彼の運命は変えられない!』新林刑事は信じられないと言う顔で私を見ました:
:それは運命に与えられた私の試練でした。新林刑事が爆発物云々と物言いをつけて飛行機の離陸を止めたなら、墜落の原因を知っているわけではありませんが、おそらく蛾のように2機がぶつかって墜ちることはなくなるのでしょう。運命の流れを変えさせるわけにはいかないのです。新林刑事は容疑者を見るような目で私を見ました。『あんたがそんなキューバの呪いやお告げのカルト信者だったとは知らなかった。日本を捨てた理由はそれだったのか? 良識も一緒に捨てたのか?』と。私は『新林刑事が日本に連絡を取り、羽田で小中君を拘束できればそれでいいじゃないですか』と言いました。『私が彼を逃がすためにあなたの搭乗を阻止したのではないとわかればいいのでしょう? 娘の霊のお告げ通り飛行機が墜ちたなら、命拾いしてよかったと思えばいいのだし。それとも今公務執行妨害で私を逮捕しますか?』と。そこで新林刑事は次の便の座席を確保し、私を睨みつけながら、小中君を乗せた便が無事に離陸するのを見守ったのです。私は内心びくびくしていました。本当にあれだけの人を乗せた飛行機が墜ちるなどということが起こるのだろうか? お告げを受けながら人々の搭乗を阻止しなかった私の罪は永遠の地獄です。でも阻止した挙句墜ちなかったら? 他人の運命に干渉し過ぎたと言えるのではないでしょうか? みるみる遠ざかる飛行機は蛾というより鳥のようでした:
:新林刑事が『ぶ』と言った時でした。『無事飛び立ったようだが?』は最後まで言えませんでした。旋回した飛行機は衝撃音と共に火の玉になりました。2機分の機体や座席、人が炎に包まれて煌くのがロビーの窓から見えました。私は座り込んで泣いていました。…気が付くと新林刑事が電話していたのです。『小中は死亡しました。今目の前で飛行機が衝突爆発炎上。誰1人助かりっこないですよ。…次の便で戻ります』電話を終えた新林刑事の顔は無表情で、私はぞっとしました。でも、小中君を救おうとした新林刑事が本当の姿だと思います。刑事は最後にこう言いました。『命を救ってもらったお礼を言わなくては』。私はこう返しました。『あなたの成すべきことを。小中君と葉月が悲しむような結論に、あなたならしないと信じています』。これが私の話です:
杉窪さんは、ようやく罪を告白できたと呟いて、苦悩の溜息をついた。:私の後悔は一生続きます。でも葉月の無念を晴らしたいのです…:
クマちゃんはじめ聞き手は皆、戸惑いを隠せなかった。
「あー、本当に占いとか憑依のお告げを信じて行動するのが一般的なのか、キューバでは?」門根のいい所は頭が柔軟な所かもしれない。
「それで、結局日本の警察は小中を被疑者死亡で送検したのか?」とキリノが言えば、「服部逮捕とも聞かないな、何故動きがないんだ?」と本永。
瑞生は夜叉とサニを見た。さっき“マカンダルに詳しい一族”と言っていた。サニは前に『本名は人前では言わない。僕の一族では大切なものだから』と言っていなかったっけ?
:夜叉が蘇る前に帰国した新林刑事が、後から電話で不思議な事を聞いてきました。新林刑事は小中君と面識があったので、頭部だけの遺体の確認をご両親とは別に行ったとかで。『蘇った夜叉と関係あるのか? 俺には小中の頭部が蒼く光り[夜叉を待て]と言った気がしてならん。俺だけが見た幻のようなんだが』と。私はただ『よろしくお願いします』とだけ言いました。新林刑事はキューバを体感した。きっとわかってくれています。捜査で苦しい立場にあるのだと思いました。で…その後は進展が全くわからないのです:
杉窪さんとはお互い動きがあったら逐一報告し合うことを確認して、通信を終えた。
黙っていた夜叉が腰を上げた。
「俺が狼煙をあげる。多分刑事にはわかるだろう。門根?」夜叉に聞かれて我に返ったのだろう。門根はいじっていたおしゃれなブルーの帽子をテーブルの上において説明した。
「『夜叉が自宅からファンに向けて、本日午後5時からメッセージを配信します。扱いは各社にお任せします』とばらまいた。出向いて説明もした。民放大手は5時きっかりに横並びで流すそうだ。無料動画サイトも何社か5時のをそのまま流すと。それから、『おそらく亡くなるまで毎日夜叉通信を発信すると思います。夜叉次第なところはありますが。全曲新曲のアルバムをキリノと製作中です。夜叉通信にはキリノも出演します』としたら、けっこう怒った。『毎日枠を開けろなんてThe Axeじゃなきゃ許されないよ。夜叉は信用できないがキリノも一緒なら確かだろう。ファンは大喜びだ。ゾンビに興味ある一般視聴者も釘づけだろう。こちらからの取材はウィルスの関係でダメなんだろ? 視聴率取れるだろうなぁ。例の少年とかは出るの?』って、さすがに毎日は枠取りが大変だってぼやかれたよ」
「じゃ、今日の5時に夜叉が狼煙をあげるとどうなるの?」瑞生が訊くと、夜叉はスタジオに移動しながら薄っすらと笑った。それを見てクマちゃんは「どうせもっと忙しくなるのよ。それだけのことよ」と荒く鼻息を吐いた。
夜叉とキリノがいなくなった面会室で、クマちゃんが経過報告をした。「夜叉たちは浮世のことはどうでもいいでしょうから。夜叉のオークションサイトを起ち上げる準備をしている。売上金の使い道は、夜叉の最期の事業に投資すると明記してね。このサイトで扱う物は正真正銘夜叉の私物であることを所属事務所が保証するわけ。今後山ほど出る夜叉便乗商法に本家が飲み込まれないようにする作戦よ」
瑞生のスマホがブルった。「伯母さんからだ。お昼を適当に作ったけど持って行きましょうか?だって」
これには皆が歓喜した。「カスミにまた会えるの、素晴らしいね」と喜ぶサニを、クマちゃんが睨んだ。でも瑞生の心は違うことを訊いていた。ねえサニ。マカンダルの息子ってサニの一族のことじゃないの? 本当はサニは何をしに日本に来たの?




