2015年6月13日 ⑦ 侵入
夜叉とキリノはスタジオに籠った。森山が休みで藁科が不在では、キリノの健康状態にも注意が必要で、この屋敷が人手不足な印象は免れない。夕食にサニとキリノには“安全な”弁当が届くらしい。回収予定の容器を見ると、AA製だった。
「なるほど、近くて医療機関で安全だな」と本永。瑞生は自分をネタにしたおさげ髪の小学生が『近いし空いてるし綺麗だしご飯おいしいし』と言っていたのを思い出した。
7時少し前、瑞生はそっとドアを開けて様子を窺った。幸い、瑞生のことを気にかけてくれるジョガー警察官がいた。
「夜叉邸を手薄には出来ないから、警護が必要な時は事前に知らせてくれる方がいい。君に直接関係することは人手を惜しまず動くように言われてるから、警察官は動くと思う」
「何故僕の場合は? 夜叉に関係してるから?」
「そうだと思うが。前島さんから直に命令が出てるんだ」
前島と聞いて、瑞生は警戒した。
「これ、俺のスマホ番号。緊急時は110番に。迷った時掛けてきていいよ」ジョガー警察官は小さな名刺をくれた。
伯母に頼んでおいた3人分の弁当を持ち帰り、サニも一緒に夕食を始めたところに、夜叉とキリノが加わった。「いいな~。サニの弁当を見た時は羨ましいと思わなかったけど、瑞生の家のは懐かしい味覚ってのを思い起こしそうだ」と夜叉。「お前、匂いわかるの?」とキリノ。
「いや、嗅覚・味覚はゼロだ。触覚なんとか。視覚と聴覚が大丈夫なだけ、俺はラッキーなゾンビなんだろうな?」
明るく話す夜叉の横でサニはおにぎりを美味しそうにほうばった。「何か入ってる。サーモン?」
「それ鮭だ。サニが食べられないと困るから梅干しは止めたって言ってた」
「カスミは美しいだけでなく優しいね」サニの言い方がいつになくチャラかったので、瑞生は聞き咎めた。「いやらしい目で伯母さんを見てるような言い方、止めてよ」
ところがサニには解せないらしい。「何言ってる。ミズオ、恋愛は国も性別も既婚未婚も選ばないんだよ」
これには本永とキリノが同時に反応した。「悪いが、恋愛自由主義は今回は引っ込めといてくれ。これ以上ややこしくしないでほしい」
夜叉が小さな声で笑った。瑞生は不機嫌な眼差しを向けたものの、すぐに真面目にしげしげと夜叉を見つめた。
「どうした?」と本永。
「うん。色がどうかなって思って…顔色」
「老中田沼意次が言ってたみたいに、顔色を窺うって?」
「ううん、そうじゃなくて。サニが森山とやってた、顔色というか蒼い色はゾンビーウィルスの濃度だっけ元気度だっけ?を表してるから、それを比較して夜叉の状態を推し量るってやつ。そういえばこの前より蒼みが増して発色が綺麗な感じだなぁ、と」
「へぇ、そんな基準で見てるのか。…夜叉の状態はゾンビーウィルスが元気かどうかに掛かってるってことだもんな」本永は感心したが、夜叉は「瑞生は一度も俺の顔色を窺ったりしたことないだろ」と冷ややかだった。
「お前、機嫌とってほしいの? 自分が他人の顔色も機嫌も窺ったことないのに、ずうずうしいだろ」とキリノ。
いつの間にか食べる物は手つかずのサニ用AA製弁当だけになっていた。「ある意味興味深いな。この弁当は」こう言うと本永はきっちり3等分した。見た目はやはり病院食に見える。「清潔だけが重要なのかな?」
「おお、普通のだし巻き卵なのによくもまぁ無味乾燥に作れたな、ある意味技術だ」「伯母さんの弁当を100とすると、30かな、一応きちんと出来てるから。母のケチャップご飯は10以下だったから…」「日本の食事は初めてで、キューバと違ってこういうものかと思ってた。カスミのご飯食べたら、これはマシン製だと思う」
横で普通の食事の摂れない2人が愉快そうに聞いていた。
その時、インタフォンが鳴った。いつも仕切ってくれる森山がいないので、「ここの責任者は今は僕じゃないかな」と言いながらサニがパネルに向かう。
家の玄関前で警備している警察官だった。「アンチエイジングセンターから弁当の配達だと言ってます」
「え? 先ほど届きましたが?」
インタフォンのカメラは定点なので警察官が体を捻って話している人物が誰なのかは見えない。「…弁当に入れ忘れた物があるから持ってきたそうです」警察官も困惑しているようで、誰かが出ていかなければ済みそうにない。
サニはマスクをしながら、「身分証は確認しましたか?」と警察官に指示を出す。あいにくジョガー警察官はいないようだ。
「警察官は本物なのか?」と本永が呟いた。
しかしドアを開けるまでもなく、相手は警察官に弁当を渡すとあっさり去っていき、サニの手元にはシャカシャカ袋に入った弁当1個が残された。
「なんか、拍子抜けするな」1階入り口付近の除菌部屋のテーブルに袋ごと弁当を置くと、言葉とは裏腹に、皆深刻な面持ちで黙ってしまった。
「あの弁当、特におかずが抜けたような隙間なかったよね?」と瑞生。サニも「いつもの人が持ってきた。いつもの時間にね」と顎を撫でる。「これ、X線で見てないよな? 爆発物は大丈夫なのか? サソリとかタランチェラとか入ってたらどうする?」警戒心も顕わに本永。
「そうか」サニが突然部屋を横切り、固定電話の傍らのマグネットボード前で立ち止まった。張り付けてあった名刺を手に電話をかける。「AAセンターですか? 給食室のコシバさんお願いします…」
電話を終えると、サニはきっぱりと言った。「その弁当、開けてはダメ。いつも持ってくる人に訊いた。弁当は通常通りで欠けたおかずはない。さっき持ってきたニシカタと言う医師は在籍しているが、今日は午後半休を取っているそうだ」
3人はじりっとテーブルから離れた。
思いつくことと言ったらこれだけだったので、瑞生はジョガー警察官に電話した。
:ドアは開けずに外の警察官に知らせるんだ。弁当は証拠だから捨てないように。俺も駆け付けるが30分はかかる。それまでドアを開けるな:
ピンポーン
手持無沙汰な静けさが突然破られ、瑞生は飛び上がって驚いた。サニはしなやかな豹のように音もなくドア前に移動していた。本永が瑞生を制して「夜叉のとこに居ろ。お前が2人を守れ。スマホを通話中にしておこう。俺は中間地点に行く」と言った。
:はい:
本永のスマホから応答するサニの声が聞こえる。瑞生が2階に上がると、まだ面会室にいた夜叉とキリノが訊いてきた。「さっきから弁当がどうしたって?」
「うん、トラブルかもしれない。安全のためにスタジオにいてもらった方がよさそう…」言いながら2人を送っていった。スタジオは夜叉がこの家を買った時にリフォームして作っておいたもので、防音壁とドアは立派な造りで器機がずらりと並んでいた。これでも、正式なレコーディング用ではなく、思いつきを曲にしておくための設備なのだそうだ。
一昨日にサニとピアノを弾いた部屋が、にわか撮影スポットになっていた。グランドピアノはやむなく隅に寄せられている。
つい撮影スポットに気を取られていた瑞生は、スマホから聞こえる声で我に返った。
:はぁ?:サニの声だ。
:ですから、私が必要だと思うんです。私は医師です。具合の悪い方がいるのではないですか?:甲高い女性の声。
:おい、何してるんだ。勝手にこの家に近づくな:さっきの警察官だ。
:私は必要とされているんです。中に病人がいます。2人の日本人医師は不在で、1人残ったキューバ人の医師が急病なんです。早くドアを開けて入れてください:
:こう言ってるが、病人は大丈夫ですか? 救急車を呼びますか?:
:僕がそのキューバ人医師ですが、元気です。その人先ほど弁当を届けた人ですよね? ということは僕が食べるはずの弁当に何か毒物を入れたということになります。テロリストの手先かもしれない。拘束してください:
:動くな、このっ…::私を入れなさい:
鳶の一啼きのような笛の音が響いた。
後はもう、想像で十分だった。駆け付けた警察官らが飛び掛かり押さえつけている音が聞こえるようだ。
「一件落着、か」ちょっと格好をつけてカメラに肘を乗せもたれるように独り言を言った直後のことだった。
時刻は8時過ぎ、辺りは夕闇に包まれていた。夜叉が通りから見上げる瑞生を見ていた窓のある部屋はここではないが、この屋敷はベランダはないけど窓がやたらと多い。
今、がりがりっと妙な音が聞こえた部屋は面会室で、音は外からしたように思われた。
スタジオのドアをちょっと開けて、成り行きがわかるようにしていた夜叉たちに手振りで異常事態を知らせるとドアを閉めた。
:おお、さっきの弁当、食べないで大正解だ。犯人の女が捕まった…:
「本永、2階の窓に誰かいる…」
瑞生は武器になる物を探した。テーブルの空のトレーを掴むと中腰で音のする方向に進んだ。武器にならなくても盾にはなる。
面会室は大きなテーブルと、ばらばらにたくさんの椅子がある他は、部屋の隅に例のカラスみたいなカメラの乗った飾り棚があるだけだ。西側に常にカーテンが閉まっている大きな窓があり、カーテン越しに夕陽や月が見えるのだ。
そのカーテンに今、はっきりと人影が映っている。ヤモリのように壁面に張り付いて、ガラスに穴を開けようというのか、がりがりと音を立てている。
警察官に丸見えのメイン道路側ではないから、街灯に照らされないと踏んで登ったのだろうか。残念ながら強い月明かりで姿が浮かび上がってしまっている。
そういえば、今日は屋敷内に警察官がいない。いつも外と中の警察官で安全確認をするのに。それに外の警察官は初めて見る顔で明らか不慣れた。瑞生は、安全を確信していた足元が、突如液状化して地中に引きずり込まれていく自分や本永や夜叉のイメージが浮かんできて、ぞっとした。
「おい」
後ろから肩を掴まれて、心の中で絶叫した。
落ち着いてよく見れば、中腰で同じ高さに顔がある本永だったので、「見下ろされるのに慣れてるから、驚いた」となんとか取り繕った。
「何してんだ。スパイダーマンは?」
「がりがり音を立ててるからガラスを切ろうとしてるんじゃない?」
「このトロさ加減はテロリストやプロの泥棒じゃないな。このまま、ガラスを壊されるのを待つのか?」
「だって、ガラス越しに写真を撮られてもマズイだろう?」
「確かにお前は出ない方がいいな」
こう言うと本永は低い姿勢を保ったまま椅子の陰から陰へと前進し、ついに窓枠の下へと到達した。瑞生が本永と通話中にしていたスマホを切った途端、ブルブルっと振動が来て、再び心臓発作を起こすかと思うほど驚いた。
ジョガー警察官からで、:無線で夜叉邸に侵入を企てた女が逮捕されたと聞いたけど、大丈夫かい? もう着くのだけど…:と言う。瑞生は天の助けとスマホに唾を飛ばしながら告げた。「壁面に張り付いてる人がいます。2階の窓ガラスを破ろうとしてます。今家の中は手薄なんです。急いで見て…本永?」
本永が突然窓の前で立ち上がりカーテンを開けた。
:お、見えた。ヤモリみたいだ。緊急連絡、ひさご亭に侵入者、別件!:ジョガー警察官の緊急連絡が聞こえた。
突如現れた本永に驚いた侵入者が何か叫んだ。叫んで手を放して、瑞生たちの視界からいなくなった。
:身柄確保! 生きてる! けど救急車!:
できれば駆け下りて騒動の顛末を見たかったけれど、さすがに野次馬も出てきて茂みをライトで照らしたりしてたから、諦めた。
外のざわめきも落ち着いた頃、ジョガー警察官が説明に立ち寄ってくれた。
2階外壁から落ちたのは村の住人で、事前会議で夜叉の具合が思わしくないと聞き、なんとしても本人に熱き想いを伝えたいと行動を起こしたらしい。お手製のダイヤモンドカッターで窓を切る予定が、カッターの先端すなわちダイヤが落下の衝撃で取れてしまい、落ちた時より大騒ぎだった。曰く『家で一番大きいダイヤモンドを付けてきたんだ! 頼む、探してくれ!』
「それで、ライトで照らしてたのか」と納得した。本永が嬉しそうにお茶を出す。
「本当にはた迷惑な話だ。ネコババする者が出ないとも限らないから結局庭木の中を這いつくばって探したのは警察官だ。…先日来県警に『たった1人のゾンビのために警察官を多数配備しておくのはおかしい。県民の安全は二の次なのか。そもそも夜叉が税金払ってるのは県にでなく東京都にだろう!』というような抗議が多数寄せられて。県警と自治会の田沼爺さんが会合した。県は無理に夜叉を押し付けた手前、田沼に頭が上がらない。しかし田沼も村の評判を落としたくないからと、自治会で警備員を雇い、警察官を減らすことになった。それでフォーメーションの変更のために俺も県警に呼び戻されたんだ。その引き継ぎの完了しない隙をついて2件も立て続けに騒ぎが起こったというわけだ」ジョガー警察官はズビッとお茶を飲んだ。
「それで、家の中に警察官がいなくて、外は不慣れな人だったんだ」瑞生は警備する側のおかしな雰囲気に理由があったと得心した。
「ああ、交通安全課から急遽駆り出された奴だ。弁当医師に引っかかれて気の毒だった。テロリストに対応できない者が配置されるなんて酷いものだ。2件も騒動が起きて再びフォーメーション変更だ。危機はもう起き始めてる…」ジョガー警察官は少し休んで、言葉を探すように遠くを見た。
「情報が人の心に作用して、通常ならしないような物騒な事を起こす原動力になると改めて思い知らされたよ。金持ちの素人がスパイダーマンみたいなこと、急に出来るわけないのに。『今行かないと一生後悔する』と焦ったみたいだ。名前は出さないでくれと懇願していた。腰の骨にひびが入って一生の後悔だと思うが。弁当の医師も、突然チャンスが到来したと考え、慌てて行動を起こしたらしい。AAで森山さんの有給休暇を知り、偶然感染症研究所から藁科さんが呼ばれた話を聞いてしまった。そうなると邪魔なキューバ人医師を急病にすれば、自分が代わりに夜叉宅の当番医になれると考えた。弁当に盛ったのは筋弛緩剤らしい。食べないでくれて本当によかった。サニ先生だっけ? わざわざキューバから来てるのに、狂人的ファンのせいで病気にされないで本当によかった」
今まで『情報が人に作用する』とは、鏡のような水面に落とされた小石の起こすさざ波をイメージしていた。ジョガー警察官の話を聞いていて、少し異なる『情報が作用する』アニメが植物の姿で描ける気がした。
心の奥に仕舞い込んでいた欲や願いの種子が、情報と言う魔法の水をかけられて、突如発芽し本人が制御不能になる程急激に大きく茎や葉を伸ばしてしまう。
そうして暴走してしまった植物の最後は、もの悲しい。想いを伝えたからと言って、受け入れてもらえるとは限らない。無かったことに出来るどころか、一夜にしてネット上に隠したい事の全てが暴かれる。
医師たる者が犯した犯罪は、知り得た情報を倫理観を持ち合わせぬ医師が自分のために利用する、その狂気の工程を想像するだけでぞっとする。
その情報さえ耳にしなければ、発芽することのなかった欲望の種子。
それにしても、ありがたいのはジョガー警察官だ。この人のブレない温かさに触れると、本当に安心する。
瑞生はポケットの名刺を取り出した。ジョガー警察官が渡してくれたスマホの番号が書いてある。「あの、お名前、なんて読めばいいんですか?」
「朏って読むんだ。読めないよね?」ジョガー警察官は笑った。
「ミカヅキさんかぁ。カッコいい名前ですね」瑞生は素直に感嘆した。ミカヅキが月夜に救ってくれたのだ。日中も救ってくれていたが。これまで勝手に“ジョガー”などと呼び、名前に興味すら持たなかった自分が恥ずかしかった。
「弁当のおばさんと壁のおっさんと、本当に連携していないと思いますか?」本永が真剣に突っ込みを入れる。
「現時点では連携の証拠はあがっていない。スマホや家宅捜索で押さえるパソコンの通信記録で、連絡を取り合っていた痕跡か、共通で利用していたサイトや伝言板がないか調べていく。イマドキは一見無関係そうな者同士がネットで繋がっていたりするから侮れない」
さらに本永は朏に「やはりロハス女の行動が誘い水になったということでしょうか?」と問うた。
朏は首を捻りつつも、「確かに。誰かがどえらく派手に禁忌をやってくれちゃうと、『自分はあれほど酷くないから』と罪の意識が軽くなることもある。『夜叉が死ぬ前にやっておかないと』という動機づけが今後もファンを駆り立てる可能性は無視できない」と沈痛な面持ちで帰って行った。
本永が瑞生に「お前、クマちゃんや門根の連絡先わかってるのか?」と訊いた。瑞生は首を捻る。「もらった名刺は机の引き出しに入れたような…。あ、メアド登録してある…」
「お前、ぼけっとし過ぎ。世の中スピード勝負なんだよ」本永はクマちゃんに事の次第を知らせると、「このニュースはあっという間に広がる。聴取で壁のおっさんが『夜叉の死ぬ前に一目会いたくて…』なんて言ったと漏れてみろ。夜叉関連の物の価値が上昇し、離婚妻が態度を変えるかもしれないだろ? クマちゃんや門根に早く正確な情報を伝えて、動きやすくしてこそ後方支援と言うんだ。わかったか?」
このやりとりをげらげら笑いながら見ていた夜叉とキリノは、すぐに真顔になり、「スタジオに籠るからもう帰っていいぞ」と言うと行ってしまった。屋敷内には朏がいてくれることになり、サニも「クマちゃんたち、あと少しで戻るからダイジョブ」と言ってくれるので、覆面パトカーで自宅に戻ることになった。
通い慣れた道、その両側に並ぶセレブな人々が住んでいるらしい高級住宅。取り澄ましていても、ダイヤモンドを缶切りに括り付けて強化ガラスを破ろうなんていう、狂気にかられた行動をとってしまうのが人間なのか。愛する人を目の前にして、狂気に憑りつかれた母を見ているので、人が病んだ行動をとる生き物だとは理解している。それはセレブだろうと庶民だろうと変わりないようだ。
「あっちのドラマ『なんとかな妻たち』とか。セレブな街のドロドロ人間模様、挙句起こる事件ってやつ。あんなに誇張されると滑稽だけど、日本でも似たようなことが起きるんだな。そりゃゾンビとダイヤ壁男となるとドラマ超えてるけど。…知ってるか? 近隣トラブルって殺人事件になる確率が高いんだと。数値的には覚えてないんだけど、ローン組んで家建てて、隣が嫌なのにそう簡単には引っ越せない…というがんじがらめな拘束感が事を拗れさせるんだと」
本永も街並みを見て、似たようなことを考えていたと知り、瑞生は本永のごつい顔を見つめた。本永は続けた。「あのさ。2軒先に不倫相手とお母さんが暮らしてる状況をさ、なんで八重樫のお父さんは放っておいたんだ?」
沈黙が流れた。ドライバーの警察官の呼吸音ばかりが聞こえる。ついに耐えられなくなった警察官が、「タクシーの中じゃないんだよ。ここはパトカーの中なんだから、聞かなかったことに出来ないからね! それになんでそんな深刻な話を子供がしてるんだ?」と早口で抗議した。あの弁当女の捕り物帳に係わった交通安全課の人だ。
申し訳なく思いながら警察官を無視して、瑞生は本永の方に向き直って答えた。「それはね、お父さんが母をケシ粒ほども愛してなかったからだよ」
交通安全課の警察官は唾を呑み損ねて咽ながら必死にハンドル操作をし、覆面パトカーは八重樫家の前に停まった。警備会社のマッチョの誘導で、瑞生たちはダッシュで家に入った。
「いつもこれだと…お前キツイな」瑞生の答えにノーリアクションで本永は呟いた。
「俺、テスト中は一緒にいてやるよ。それで事態がどうなるというのでもないが、話し相手にくらい…なる。お前の伯母さんがいいって言ってくれるかわからないけど」
本永の申し出に対して瑞生は手を洗う間中黙ったままだった。話を聞こうと待っていた伯母を邪険には出来ないので、時間稼ぎに紅茶を所望して、宗太郎の目のない自分の部屋に落ち着いた。
「僕が2月まで住んでいたのはそこいら中が小さな工場で、常にプレスマシンやモーターの馬鹿でかい音がしてる街だった。そんな所は高齢化が凄い。後継者がいなくてどこも潰れかかってる。機械の騒音が止んだ瞬間、どこかの家の馬鹿でかいテレビの野球中継が響く、そんな場所だ。…こことは大違いだ。この村に帰ると包まれる、樹木のむっとする生命力と水分…ああいうの光合成の匂いって言うのかな? 潤滑油と軽油と蒸気と汗の混ざった匂いとはまるで違う。僕は自分がここに居ていいのかわからない。ジオラマの小さな人形が調整のために、ひょいと1体だけ展示室を移動されたみたいだ」
紅茶のいい香りがする。伯母がドアの前で固まって聞いているのだろう。今すぐ飲みたい渇きを感じるが、伯母に聞かれるのも運命かもしれないと思い、そのままにした。
「ここに馴染めないせいか、僕はふわふわしてる。金持ち学校でも居場所はないけど、少なくとも小・中と違っていじめの心配がなくて、正直有り難いと思ってる。想像つくだろ? 僕みたいに貧乏で母親がおかしいって有名で体も小さい奴がターゲットにならないわけない。…思い出したくもないから詳細は省くけど、結論から言って、子供の家でも学校でも、僕はヒモになって生き延びた。いじめの首謀者から『あの女が怖いから手を引いてやる』的な事を言われて知る。口をきいたこともない高学年生だ、そういう強い女子は。で、『あんたは私の物だから』的な発言を食らう。なんとか誤魔化しているうちに相手が卒業。4月にまた別の女子が現われる…この繰り返し。小学校のうちは『キスして』くらいだからよかった。でも中学になるといじめもキツイし女子からは肉体関係を迫られる。どちらも不思議なくらい邪魔が入って難を逃れた」
「後から子供の家で一番大人しい女子が裏番張っててちくったりマフラーずたずたにさせてたと知った。この子は凄かった。初めてだっていうのに『妊娠させて』って迫ってきた。この時は何故か父の予定が急に変わって助かったんだ…。悪夢だろ?『でき婚狙い』なんて母みたいで。その子は直後に養子縁組が決まって遠くの街に行った。学校のしつこい子も、親が転勤になっていなくなったな。お蔭で僕は童貞を守ったわけだけど。子供の家の子のことは少しは買ってたんだけどね。静かな子で。女子に対する歪みはこうやって培ったんだ。スタートは母だけど。…何故こんな話したか、わかる?」
本永は貧乏揺すり抜きで聞いていた。質問を向けられると、揺れ始めた。「…もう鏑木の相手はしない、と示唆してるのか?」
瑞生にとって鏑木が出てくるとは予想外だった。「…そうだね。どっちかって言うと彼女の方が僕に係わってこないと思う。なんだか、僕にイラつくようだから」
「僕のために1週間もここに泊まってくれるという案は、君の親切心から出てると思うんだ。でも僕は今話したようにとんでもない経験の持ち主だ。軽く歪んでるんじゃなくて、醜く捻じ曲がってる。同じ境遇でも、君ならいじめる奴に立ち向かっていたかもしれない。森山なら頭がいいから先生に守ってもらえるかもしれないし、藁科なら流血沙汰になるまで戦ったかも。約7年間(さすがに低学年は除くから)来る者拒まずで女に庇ってもらってたなんて、多分男の風上にも置けない奴だ。その上、感謝もしてなければ、童貞も捧げなかったんだから、相手の女子にしてみたら詐欺にあったようなものだ。…だから、僕は君を後悔させたくないんだ。『あいつに係わって俺の人生台無しだ』みたいな思い、してほしくない。こんな僕のために駆け付けてくれた友達だから。でも1週間もここに居たら、このまま夜叉の件に深く係わっていったら、もう以前には戻れない気がする。本永だってそう思うだろう?」
「正直言って、夜叉やクマちゃんたちの話とミライ村で次々起こる事件に心惹かれてる。面白くて興味津々だ。それが、八重樫に対して失礼なのかもしれないとは思ってる。人間てさ、『追い詰められて本性見せる』って言うだろ? まだ追い詰められてないからだ、という解釈も成り立つが、俺にはお前の性根がそう腐ってるようには見えないんだ。だからお前が恐れるほど酷いことを俺にするとも思えない」こう言い切って瑞生を見つめる吊り上り気味の目は、内面に怯えを隠しているようには思われなかった。
「僕には頭のキレなんてないから、いっぱいいっぱいだ。外様みたいに頼りがいのある友達にはなれない。どっちかって言うと、君が面倒見なきゃならないお荷物だ」瑞生は自分を客観的に捉えるほどに情けない気分になった。
本永は椅子の背もたれに寄りかかって遠くを見た。
「…あの日、外様が声を掛けてきた日。外様はクラス委員だから動いたとはいえ、俺には俺たち2人の周りの結界を破ってくれたヒーローみたいに思えた。そしてあいつは俺とお前を引き合わせてくれた。前後の席なのにお互い興味もないし話す必要も感じてなかっただろ? それを、週番をきっかけに結び付けてくれた。お蔭で今じゃコンビ寸前だ。…だから特別な存在なんだと思う。あいつが入院したままになるかもしれないと聞いた時俺は心の平静を失った。まだ自分の存在が揺れてる時に学校に繋ぎ留めておいてくれるあいつがいなくなるなんて、考えることすら拒絶した。今思えば、まだ被害者意識に浸って、誰かが俺のケアをして当然だと思ってたんだ」
どんなことか想像もつかないけれど、サニの醸す空気から察して、一筋縄ではいかない事態に自分が嵌ることは間違いない。今だって青山や小中は十分犯罪の匂いがするし。本永が関わって将来に障るような目に遭ったら困る。どう言えば、ここから離脱してくれるだろう?
「そういうハートがキュンとくるような顔して見るなって。お前が買い被ってるほど、俺の人生は真っ直ぐでも光に満ち溢れたものでもないよ。もう一度コケてるし。今お前とこの状況から離れたら、もう一生面白いこととは出会わないかもしれない…は冗談だけど、多分一生後悔すると思う。安全な所に1人逃げたって事実が漬物石みたいに圧し掛かるんじゃないか。それに、おそらくは俺が必要だぞ、お前には」
瑞生は困って本永を見た。本永は苦笑交じりに続ける。「ほら、その顔。…外様のことはもちろん心配で考えるだけで心が折れそうになる。でも、お前のこと見てたら、仕方ねえなとか、馬鹿じゃねぇのと思うんだけど、俺はどんどん生き還ってきた。ゾンビネタに引っかけてるわけじゃなく、感覚として一番合ってる表現なんだ。俺の中から生きる力を湧き上がらせるのは、守ってもらうのじゃなくて、誰かを助けることなのかもしれない。だからお前といると、生きてることを実感するんだ。それでいいよ。俺、もう死んでるみたいに生きてるの、嫌だから」
「俺の将来が台無しになったら、お前が夜叉とのことを書いて出版してその印税で喰わせてくれればいいから。じゃ、そういうことで、いいな? 伯母さんをトレーを持ったままずっと立たせておくの、申し訳ないしな」
はっとする気配がした後、ドアが開いて、伯母が入ってきた。
「…ごめんなさい、冷めてるから淹れ直してくるわね」とトレーを持ったまま引き返そうとするのを、瑞生が止めた。「そのままで大丈夫。待たせてごめんなさい。『一緒に聞いて』って言えばよかった」
ばつが悪そうにティーポットを置いて、「明日筋肉痛になるかも…」と真顔で両腕を擦るのを見て、「おお、伯母さんも冗談言うんですね」と本永が驚く。
多分冗談ではなく本気で言ってるんだ。伯父と伯母が長年一緒に居られるのは、お互い冗談を言わないタイプだからかもしれない
それから、夜叉の家で立て続けに起きた、侵入未遂事件の話を伯母にしたのだった。
話の最後に瑞生は伯母に、不審者や危ない小包などあらゆる物に用心してほしいと力説した。AAセンターの駐車場でも気を抜くなと年寄りじみた注意を並べた。「あそこには伯父さんが人質になってるようなものだし、伯母さんが毎日見舞いに行くことは知られてるから」
本永は「お前が一番不注意そうなのに、なに説教モードになってるんだ。そりゃ綺麗だから心配なのはわかるけど」と呆れた。
その後テスト勉強をしていると、クマちゃんからメールがきた。『2人とも戻ったから心配しないでね。明日は日曜日なので、午前10時集合です』と添えられていた。




