2015年6月13日 ② 疑惑
瑞生の思考はガタンゴトンという引っ越しみたいな音に中断された。「何?」人の声もするので、隣のグランドピアノのある部屋に向かった。一応ドアをノックして開けてみると、門根とマッスルな男たちがピアノを動かしていた。いつもほとんど生きた物がいないような家で、Tシャツに汗を滲ませ数人が肉体労働していると部屋に汗の臭いが籠っていた。
「お、いい所に少年2人が来た。ここにスタジオを作るんだ。手伝ってくれ」壁にするボードのような物を顎で指して門根が言った。
「スタジオはもうあるでしょ? 夜叉たちが使ってるのが」
「あれはレコーディング用。これは動画撮影用。ラジオにしろと言ったんだけどな、奴らは画像を発信したいんだと。言葉がカットされる心配がないようにしたいらしい」門根はなんだかんだ言っても夜叉の理解者だ。
「ここの自治会煩いんだろ? 改築には許可がいるとかさ。だからこっそり自力でやってるんだ。おい、金髪兄ちゃんも中に入れよ」
ここで初めて瑞生は振り向き、本永が入り口付近に止まっていることを知った。
「どうし…」言いかけて本永の顔面が蒼白になっていることに気づいた。「ごめんなさい。僕は火傷が引き攣るので重い物が持てないんです。彼も具合悪くて休んでたから…」
門根は反射的に口を開きかけたが、曖昧に閉じて、「あ?そうだったな。大事な預かり物だ。具合が悪くなったら車椅子の資産家に怒鳴られちまう。んじゃ、いいからあっちの部屋で待ってろ」首に回したタオルで汗を拭きながら「その代り、サニと藁科が喧嘩しないように見てろよ」と戻りやすくしてくれた。
そう言われても、本永の状態をどうしたらいいのか、わからなかった。小刻みに震えて顔を苦しそうに歪めている。喉を押さえて部屋の中央でついにうずくまった。「…息…」「本永?苦しいの?」
瑞生の大声にサニも藁科も飛んできた。サニは体脂肪ゼロみたいな体なのに、本永を抱きあげてソファに連れて行き、藁科はどこからか茶色の物を持ってきた。見ると茶封筒で、藁科は封筒を膨らませると本永の口に当てて、「過呼吸。やったことある? 初めて? 苦しいだろうけど、過呼吸で死ぬ人はいないから。信じて封筒の中の空気を吸っていれば落ち着いてくる」本永の脈を取りながら言った。そして、クマちゃんの腕とは対照的な棒切れのような細い腕に着けている腕時計を見ると、「東村山から呼び出しを喰った。夜叉近辺のスキャンダラスな報道は真実か報告せよってね。ヤンキーの友達の体は大丈夫。サニがいるし。問題があるのはここ」と胸を指さして出かけて行った。
瑞生はというと、鈍色になった本永の顔色に、ただ茫然と、泣きそうになっているだけだった。
10分ほど経つと、本永の呼吸は穏やかになり、顔に血の気も戻ってきた。茶封筒を膨らませたり凹ませたりする耳障りな音が止み、本永の手が封筒を持ったままだらんと下に落ちた。ソファの横に犬のように座り込んでいた瑞生は、本永がまどろんでいるのかと思い、床に落ちた封筒を拾おうと手を伸ばした。目の端に捉えた本永は上を真直ぐに見ていた。やや吊り上った切れ長の目を見開いて、頬に涙の筋がついている。「本永?」
身じろいだので、瑞生が傍にいるとは知らなかったのだろう。そのまま視線を動かすことなく天井を見ている。
「俺、どうなるんだろう…。こんなんで大人になって、生きていけるのかな。普通に…幸せを夢見ることなんかできるのかな」
瑞生は途方に暮れた。性的暴行の被害者がどれだけ辛い思いを抱えているか、想像しかできないが、安易に言葉をかけるのはむしろ失礼に思えた。受けた傷が心の奥で闇となって、やがて他者を傷つけるようになりはしないか、という恐怖を抱えている点では同じなのだが、『僕も一緒だ』なんて何の意味もない。
「前に言ったよね。外様も一緒にいた時。ある時点を境に何もかも変わってしまうって。その時点でもう“普通”じゃない。だから“普通に”生きられないって悩む必要はないんじゃないかな」
本永は動かなかったが瑞生は続けた。「“普通”=幸せというわけでもないよ。本当は1人1人標準が違うんだし。だから自分の感じる幸せを追及していいんじゃない? ただ、周囲や特定の相手がそれを良しとしてくれるかは、別問題だけど」
「それって、例えば…俺が土を食べるのが何より幸福だと思ったら、普通じゃないことに悩むより、美味しい土を求めていいってことだよな?」
「なんて例を挙げるんだよ。そう、『どうして土なんかが美味しいんだ?』とか『俺は異常だ。気が狂いそうだ!』とか悩むより、無農薬の土を確保する方法を探す方がよっぽどいい、ってことだよ。レストランで土を注文するほどイッちゃってないだろ? パートナーの理解を得られない時は、土食と愛と選択を迫られるかもしれないけど、その時はその時だ。まさか、本当に土、食べたいわけじゃないよね?」
「馬鹿、例えばだよ。人肉食を例にしたら怖すぎるだろ」
「また。泣いてたくせに『馬鹿』呼ばわりとは、失礼だな」
沈黙。本永の横たわるソファを背に、瑞生もぼうっとしていた。
2人ともわかってる。多分問題は、土食とかにではなく、異性との関係に現れるのだ。“普通に”女子と恋愛できないとか、セックスに問題ありとか、ストーカーになりそうとか。楽しい恋愛ができる予感などこれっぽっちも湧かないのだ。
「今、ちょっと気になる子がいる。…多分僕の中の『ごく普通の恋愛がしてみたい』欲が刺激されたんだ。普通のふりくらい、わけないだろ? でもそこまでだ。相手が僕の本質を見抜くほど近づいてはいけない。僕が“恋愛当事者”を演じてるだけだとね」
「八重樫?」
「僕の女性観って、絶望的なくらい歪んでるんだ。母親を皮切りに、女の子、女は、僕の人生で祟り続けてる。円満な関係が築けるわけないよ。…でも人類の半分は女だから、生きてる間は、なんとか表面を取り繕っていかなきゃならない。そうわかってるのに、なんで心が動くのかな」
本永は頭を起こして瑞生の顔を見た。「お前って、擦れてるんだか、素朴なんだか、怖いんだか、可愛いんだか、わからんな」
「このままずっと何事も起きずに何年も経ってさ。35歳くらいで、2人で会ってね。お互いの変態な所を告白し合ったら、面白いね。『やっぱり普通に生きられなかったな~』なんてね」瑞生はかなり本気で言ったのだが、本永は「冗談にしてはリアル過ぎる」と取り合ってくれなかった。
バリバリバリッ。建築現場みたいな音が響いた。パネルを固定しているのだろう。門根の言うように、この村は改築を簡単には認めない。しかし夜叉のご機嫌取りを村を挙げてすると言ったのなら、田沼は手を擦り合わせて許可するだろう。それを門根に伝えるとわかりやすく態度に出すだろうから、教えないことにした。
スタジオからムスッとして夜叉とキリノが出てきた。自分たちが動画配信用のスタジオを望んだのだから、音がするくらい我慢して当然のはずだ。が、それが通じないのが夜叉らしい。キリノは「こいつ、すぐ集中切れるんだ。やってられん」と夜叉に対して静かにキレている。
クマちゃんが宗太郎の病院から戻った。「『自分も棺桶に片足突っ込んでるくせして、ゾンビの顔色を窺うと得意げに言ってるのか、お笑いだな』ですって」
クマちゃんは鞄から分厚いファイルを取り出した。「青山陽斗のこと、関原喜一のこと。現段階で集められた資料を持ってきたわ。やはり裏社会の人間ね」机の上のファイルを本永と瑞生は手を出さずに眺めた。
「それと…航空機事故で亡くなったもう1人の日本人、頭部だけ発見された小中高大さん。この人も調べてきたわ。どうせ、要るのでしょう?」
クマちゃんのちょっと強い口調に周囲は動きを止め、夜叉を見た。
夜叉はいつもの椅子にふわりと収まり、少し微笑んでクマちゃんを見つめ返している。
「ご明察」
夜叉の小さい声が皆に聞こえるほど静かだった。「お前、キューバでも何かやったのか?」とキリノ。
「で、どうだった? 見たんだろ?」キリノには答えずに夜叉はクマちゃんに訊いた。クマちゃんは黙って夜叉を斜めに見上げた。
「わかった。悪かった」
驚いたことに夜叉はあっさり謝った。瑞生には一体何に対して謝ったのか見当がつかなかった。
夜叉は机の上に置かれたファイルに手を伸ばした。昨日見た青山陽斗の蒼い指先とはやはり違う。その手をクマちゃんが止めた。
「いい。私の方こそごめんなさい。その手で書類を捲るのは無理よ。普通の人でも紙で切ると血が止まりにくいのに」と言うと、椅子にどかっと座って、書類を分け始めた。
「ごめんよ。クマちゃん、あれもこれも頼んで、何も手伝えなくて」さすがに夜叉も申し訳なさそうだ。クマちゃんは手を止めて聞いていた。
「あなたは昔っからそう。曲ができるともうそのことしか頭になくて、法廷をすっぽかされたこともあったわね。今回は、あなたが最期にしようとしてることを支えてこその私だと思ったから頑張ってきた。でも、さすがにこんな太い体でも一つでは無理」
「まず自称子供たちの親子鑑定。買収されない機関を探して依頼した。元夫人も三者三様気が抜けない。法律用語だけど、嫡出否認の訴えは今からでは出来ない。でも親子関係不存在確認訴訟までやりたいわけではないのでしょう? 遺産に関する取り決めのために親子ではない事を証明したいだけよね? 借金は債権回収業者相手だからすでに圧縮済み。世田谷のマンションや隠れ家数件の売却は不動産だからやりやすい。それと無駄な外車を売れば借金返済出来てしまうと思う。だって、あのフェラーリ、3億でしょ? いずれにしても元夫人連中は貰う気でいるだろうから、無事に親子鑑定が済むまでは水面下で準備したい。この上、よくわからない頭部や腕だけの人の身辺調査や捜査情報までなんて、とても手が回らない。夜叉、私が先に死にそうよ」
いつの間にか門根が戻っていて、「もっと俺も手伝うよ。Woods!から手伝いを呼ぶよ」と考え考え話す。
「手は欲しいだろうが、頭悪くちゃ使えないだろ」とキリノ。
「最後に参戦した割にキツイね」と夜叉。
「書類を見てどうすればいいの? 僕たちで手伝えることするよ?」瑞生が言うと、「何言ってるの。テストでしょう」とクマちゃん。「あなたたちは信用できる。でも15歳に判断を任せられないものもある。逆にこれから加わってもらう人にはスキルはあるだろうけど信頼できるかわからない」
「黒金さん、うちのスタッフの桃田と梨本、まだ若手だけど法学部出身なんだ。要領はいまいちかもしれないが、情報処理能力は高い。最終判断は黒金さんとして、そこまでは手伝わせられるでしょう」
門根とは思えない程、いい意見だった。クマちゃんは決断が速い。
「お願いするわ。桃と梨に元夫人側との連絡係を頼みます」
「あ!」座った途端に思いついたのだ。「今度はなんだ」と本永。「その頭と腕の人の調査書類を読んで、重要そうな箇所をピックアップすればいいのでしょう? 伯母さんに頼んだらどうかな? 口は絶対堅いよ」
「なるほど。常識もあり頭の回転も速い…。その案も採用。ただし伯父様がいいと言うかは問題ね」
「伯母さんから『手伝ってあげたいの』と言ってもらえばいいよ」
「凄いな、八重樫家総出演か」本永の指摘は微妙で、肝心の八重樫宗太郎は蚊帳の外だった。宗太郎が一番暇で頭脳明晰とわかっているのだが、無責任に口外する心配はないけれど、何時何のために今回得た情報を使うかはわからない。時限爆弾を自分たちで仕込むようなものだと思ったのだ。
「警察関連は、前島さんに打診してみようかしら…。ただどちらも捜査すらされていない事案だから、告発したいこちらの思惑通りにいかない…つまり取り上げてもらえない可能性もある」
「前島って警察庁の偉いさんだろ? キャリアって善意で動くもんじゃないだろ」と門根。
「瑞生はしょっ引かれたこと、あるよな?」と夜叉。この家を見上げていたら、前島に黒塗りの車に乗せられたのを、夜叉は窓から見ていたのか。
あの時の不快な記憶が蘇った。「僕はあの男は嫌いだ。威圧的で、人を見下して…」
本永が「警察の人間てみんなそうなんじゃないか? 夜叉も俺も結構上から目線だけどな?」と宥めようと冗談ぽくした。
しかし瑞生は込み上げる不快感を抑えられなかった。「あいつは僕を疑ってるってはっきり言ったんだ。僕が両親を殺すために放火したって!」
瑞生は怒りが爆発して荒い息遣いをしていたので、すぐには気づかなかったが、その場にいた者は凍りついたように固まっていた。
「そうではないからここにいるのでしょう?」とクマちゃんが声を出した瞬間、魔法が解けたように皆一斉に動き出した。本永は力が抜けたように椅子に座った。門根も大袈裟にブーツの足を組む。
「もちろんだよ。入院先に警察官が来て聴取をしたけど、僕はその時学校で先生や友達と卒業制作を作ってた。アリバイは立証されてるから形だけだって言われた」
「その時火傷をしたって言ってたよな…?」本永は元気のない声で確認してきた。
「そうだよ。家が火事だと知ってお父さんを助けようと野次馬を掻き分け進んでる時に爆風で飛ばされた。僕は病院のベッドの上で、両親が死んだことも、出火元が母と愛人の家だったことも聞かされた。警察官に聴取で聴かれたのは、主に母と愛人の関係だった。お父さんと母はようやく離婚が成立したところだったんだ。僕は母が嫌いだったけど、これで母から解放されてお父さんと2人でやり直せるはずだった。今みたいな金持ち高校じゃなくて、定時制高校だけど、お父さんの苗字で行くのを僕は楽しみにしてた。やっと他人になれたのに、なんで殺す必要があるんだ。ましてお父さんを巻き込むなんて、絶対ありえない」
「愛人宅って、すぐ近くなのか?」とキリノ。
「うちの2軒先の裏」
「じゃ、ないな。延焼する可能性を考えると近所に自宅があれば、まず放火はしない」何故かほっとしたように門根が言う。
「じゃ何で前島はお前を疑うなんて言ったんだ? 言いがかりにも程があるだろ」と本永。
瑞生が俯くと自分の足先が見えた。4月に買ってもらったスニーカーが新品にしか見えないのは、歩行範囲の全ての道が綺麗な上に、水溜まりに浸けられたりゴミ箱に隠されたりしたことがないからだ。
つい自分の気持ちに負けて口走ってしまったのが悪いんだ。これから先、事実を小出しにして疑念を抱かれるより、はっきり曝け出してしまった方がまだマシだ。
「僕には母を殺したいと思う理由があった。…虐待された。何度も殺されかけた。でも、信じてくれるかな。母を殺したいと思ったことは今までで一度きり。母が痴話げんかの果てに失火して、お父さんが死んだと聞いた時だ。それ以前はぶん殴りたいとは思ってたけど、殺したいと思ったことはなかったんだ。…でも前島はもっと酷いことを言った。僕が貧乏生活から脱出して裕福な伯母の元に行くために、両親を殺したんじゃないかって…」
「いやらしい。勘ぐれば捻り出せない案ではないけど、物証でそう思われるわけじゃなかったんでしょ? 目撃証言とか時限発火装置があったとか」
「そんなのないよ。第一母が愛人と喧嘩して止めに入った近所の人と揉めて天ぷら鍋をひっくり返したのが火事の原因だよ。皆死んでしまったから最終的には誰がひっくり返したのか特定できなかった。それに僕は葬式の日に生まれて初めて“父の姉=伯母”という存在を知った。父方の親戚なんて1人も会ったことも話を聞いたことすらなかった。スマホもパソコンもない生活で調べようもなかったし。何にしたって金のために父を殺すなんて、父が何より大切なのに、ちぐはぐじゃないか。それなのに前島は、虐待されて育った子供が冷徹な計画殺人を企てても不思議じゃない、と言った…」さらに八重樫家にも的外れな無礼発言をしたんだ。あの男は。
「そりゃ、嫌な奴だな」と夜叉。「クマちゃんにロハス女の話を教えてくれたのは向こうから?」
クマちゃんは思案気に真っ赤な唇をへの字に曲げた。「ここに向かう途中“警察庁の前島”から電話が来て、ゲート入った所で待ってると言われたの。黒塗りの車の中で話をして資料をもらったわ」
「う~ん。親切と言うよりは、そっちに目が行くように仕向けてる感じだ」大人っぽく本永。「どんな資料をもらったの?」と瑞生。
何もかも速いクマちゃんの手の動きが妙にとろとろしていて不思議だった。ファイルを出しながら迷っているようでもある。受け取った本永が机の上に小分けに並べた。門根もキリノですら、見ようと近づいた。「これはロハス女の家だな?」「八重樫の写真だ…、撮影場所を特定してるってことだ」
「あ」皆の手が止まった。「八重樫瑞生(火浦瑞生)の調査報告」本永が声を出して読んだ。瑞生より先に腹を立て、憮然と「なんで、こんなのクマちゃんに渡すんだよ」
「俺たちの中にさざ波が立つように、仕込んでるな」キリノが呟いた。誰もファイルに手を伸ばさない。門根は「黒金さんが芸能事務所専属の弁護士だから、軽く見たのかもな。軽い奴なら瑞生のプロフィールを見て何か言ったり、下手すりゃ皆で回し読みだ。周囲に疑惑の目で見られて瑞生の居場所が無くなるようにする魂胆か? 黒金さんが賢明だから、読みが外れたな」と真面目に言う。
門根はチャラくない時はいい奴かもしれない。少なくともクマちゃんのこと尊敬してる点は評価できる。いつの間にか“瑞生”と呼び捨てしているけど。
「クマちゃんは瑞生のファイルを読んだの?」夜叉が訊くと、クマちゃんはきっぱりと頷いた。
「向こうが何を読ませようとしているのか知りたかったから。それに意図はともかく、保護者の名や出身地は正しいはずでしょう? 親子鑑定の根回しで元夫人たちの下種な弁護士とやりあってる最中に、『夜叉が愛人を連れ込んでる』って正直ショックだったのよ。夜叉が気に入った子がどんな海千山千な遺産狙いの性悪か調べる時間がなかったから、知りたかったし。瑞生君、見てみて。どこに前島さんの作為があるか、読み解いてみましょう」
瑞生は黙って受け取り、読んでいった。他の者はロハスの書類を見て待っていた。瑞生の人生はまだ15年だからそう時間のかかることはないはずなのだ。
「…」
瑞生の目は定時制高校の入学予定者名簿のコピーの上で止まっていた。次いで薫風学園の入学者名簿を見てみた。「特に…問題ない」
「何だよ」本永が突っ込む。「納得してない言い方してるぞ」
「僕は念を押したんだ、お父さんに。お母さんとは関係ない高校生活にしたいから、入学式では“笹宮”になってるよね?と。でも定時制の方も薫風学園も“火浦”のままだなぁと。知ってはいたけど腑に落ちないんだ…」
「八重樫で入学してるんじゃないのか?」
「ああ、八重樫は通称なんだ。学校側から提案があって。母の火事が“火浦”だと検索されるから、高校3年間は“八重樫”で通った方がいいのじゃないか、と」
「それ、そんなに深刻に悩むことなのか?」と門根が聞いた。「今は八重樫で通学してて、検索もされないからめでたしめでたしなんだろ?」
「…お父さんは僕の望みを適当にあしらったりしない。ダメならダメで必ず理由を説明してくれた。僕は本当に一刻も早く父の苗字になりたかったんだ。お父さんもそれはわかってたはずなのに。何故なのだろうなって改めて思う。…ともかく不審なことは何もない、正しい調査書だよ。僕の母のクレイジーな歴史と言うべきかもしれないけど」
「口では自虐的に言うしかないからいいけど。心の中まで自虐しないでいいんだよ」キリノがぽつんと言った。
まだ打ち解けて話したことのないキリノの言葉に、瑞生はぽかんと口を開けて見上げた。キリノは俯いて目を合わせてはくれなかったが、キリノを見つめる夜叉と目が合った。
「名前のことは聞いておいた方がいい。名前は大事。メッセージ」突然サニが話したので、皆驚いて壁際を見た。「ミズオ、お父さんが名前を変えなかったのには、きっと理由がある」
「そういえば、サニって…」本永が言いかけると、珍しく夜叉が割って入った。「サニと呼び始めたのはどうも俺らしいんだ。よく覚えてないんだけどな」それで名前の話は終わってしまった。




