2015年6月12日 ② クマちゃん
チャイムと門根のスマホが鳴った。「誰か来たね」サニが呟いた。やがて、除菌スプレーを煙幕のように身に纏わりつかせてドタドタと現われたのは、ドラム缶のような立派な体格のおばさんだった。
「あんたって、死ぬまで碌でもないことしかしないのね」汗を拭きながら真っ赤な唇を大きく開けて「ほんとに蒼くなって、夜叉ったら」と笑った。
「クマちゃん」小さな声で夜叉が笑った。
「早いな。黒金さん。その体重でそのフットワークの良さは驚異的ですね」言いながら門根が背筋を伸ばしているように見えた。
クマちゃん、と呼ばれたおばさんは門根を一瞥して、それから部屋の中にいる面々を順に品定めするかのように吟味していった。藁科のことをしばらく無言で眺め、瑞生には近づいてきてしげしげと見た。「ネットのガセはいくらでもあるけど…、夜叉の最期の愛人にふさわしい美少年だわ」それからサニに近づいて握手を求め、最後に夜叉の前に行った。
「本当に、ゾンビになっちゃったの? あんた蒼く光っててこの世のものじゃないみたいよ。元々この世のものとは思えない美貌だったけど」
夜叉は自分の100倍くらい質感のあるクマちゃんに驚くほど優しい笑顔を見せた。「会えて嬉しいよ。ゾンビでも一応生きてるうちにまた会えて。…ハグしたいけど、禁じられてるから勘弁ね」
クマちゃんがどんな顔をしたのか、大きな背中しか見えないからわからなかった。ちょっとの間、肩を震わせていたクマちゃんが、振り向いて、言った。
「会議を始めましょう」
クマちゃんは、全員を名指しで着席させ、その場を取り仕切った。
「黒金真樹子です。夜叉とは中学で同級生だったの。職業は弁護士。The Axeの法務は私が担当してるわ。ここに来る途中、警察庁警備局警備課の前島さんから、現在までの調査報告を受けたわ。あ、コーヒーもらえる? 私ミルクたっぷりね…」
これには血相変えて藁科が噛み付いた。「ちょっと、黒金さん。私が女だからお茶汲み当然って言ってるの? 同じ女の言う事とは思えない。冗談じゃない…」
「別にあなたに頼んでないわよ。でも噛み付いたという事は手が空いている自覚があるのね。じゃお願い」口紅と同じくらい真っ赤な眼鏡のフレームを指で下げて藁科の顔を裸眼で見た。
門根が吹き出すのと、藁科が怒り狂って部屋から出ていくのとほぼ同時だった。森山ですら、笑いを噛み殺している様子だ。
「さて、コーヒー来るまで待ちましょうか」
瑞生はこのおばさんが女性が女性を下に見るのとは違って、フェアなのだと思った。藁科を除け者にして本題に入ったりはしないのだから。
森山が「夜叉との関係を訊いてもいいですか?」と聞いた。
クマちゃんは笑顔で答えた。「小学校も一緒だったんだけど、クラスが違ってね。可愛い子がいるなぁ、くらいだった。でも中学で同級生になって、よくもまぁ神様はこんな綺麗な少年を作ったものだ、と思ったわ。そしてあっという間に夢中になった。中1の春よ。私は夜叉にプロポーズしたわ。『結婚して。一生幸せにするから』って。その頃この人は中3のお姉さんと付き合ってるような悪ガキだった。夜叉はこう言ったの。『悪いけど一生かかっても、クマちゃんのこと好きになるとは思えない。でも俺の役に立つ女になるなら一生友達でいてやるよ』って。私は考えたわ。その頃からこんな体型だったから、夜叉の愛を勝ち取るのは無理そうだな、やむを得まい、と。それなら夜叉の役に立つ女になって、一生傍をうろちょろすることを許してもらおう。友達でいようって。そこから猛勉強してストレートで弁護士になったわけ。案の定、この人ときたら弁護士が必要な事ばかりしでかして」
「あなたがついてたのに、借金とか、離婚とかしてばかりだったんですか?」思わず訊いてしまった。クマちゃんはキョトンとした後、爆笑した。「聞いてた通りね! さすが夜叉の眼鏡に適った子だわ。突っ込んでくるわね」夜叉を見ると、夜叉はくつろいだ笑顔を見せた。「だろ?」
「ふふん。バンドがだんだんメジャーになっていく頃は、起こす問題もかわいいもので、私の意見も聞いてくれた。押しも押されもせぬビッグバンドになると4人がバラバラになり、起こす問題も冗談抜きでキツイものになった。特に夜叉は、考えが浅はかで、尻が軽くて、経済観念がなさ過ぎた。ハニートラップに幾つ掛かったことやら。で、私もいい加減尻拭いに腹を立てて、あれこれ私生活に口を出した。いわゆる小言ババアね。夜叉は露骨に私を避けるようになって…その間に、口車に乗せられて保証人になるわ、詐欺に引っかかるわ。結婚して離婚して…そんなのばっかりよ。3人目の人と離婚した時、ついに泣きついて来て、『クマちゃんの言う通りにするから、助けて』って。それ以降また仕事をしてるわけ。背負った借金は、自分で返してもらうしかないけどね」
クマちゃんの凄い話に聞き入っていると、夜叉がこちらを見ていた。「お前が、『法律を使って生きたい』と言った時、クマちゃんを思い出してさ。お前の思いつきとクマちゃんの人生かけた覚悟とじゃ比べものにならないだろ?」
夜叉の話に素直に頷いていた。だってクマちゃんの夜叉への愛ときたら、凄すぎる。
「それで、いいんですか?」
「あはは、私がこの人を独り占めするのなんて無理。事実他の美人だって無理だったじゃない。この人の声、歌の凄さときたら、宇宙規模だもの。その歌の凄さが9割だから、後の1割が難ありのろくでなしでも仕方がないのよ。私はそっちのお守りをしてあげてるの。本人は1割の方が本体だと思ってるせいでやらかしてしまったようだけど」
突然門根が割り込んできた。「アーティストにはありがちなんだ。スポットライトを浴びてる自分が、他人の妄想で作り上げられた虚像に思えてしまう。本人は冴えないオフの自分が作詞作曲してるからクリエイターの本体だって。パフォーマーとしての自分を持て余しちゃうというか。大概はクリエイターとして統合していくんだ。それがThe Axeは圧倒的な存在感で、夜叉がまたロックスター以外の自分を強く求めるタイプで…まぁ、マネージメントとして失敗したということだな。違う道を模索したがった時にもっとサポートして、時間や場所や相手を確保してやればよかったんだ…」
気障でチャラくて感じの悪い門根の、キャラ外の悔悟の言葉に、当の夜叉は特に反応を示さなかった。
クマちゃんには見えているようだった。「あなたたちWoods!もマネージメント会社として、目的を見失った感じがする。もし反省してるなら、せめて夜叉を守ってあげてほしいわ、最期くらい」
バン、とドアが乱暴に開いて、怒りで顔を赤くした藁科が入ってきた。ワゴンにカップやポットを乗せている。
一口飲んでクマちゃんが声を上げた。「あら、美味しいじゃない。グッジョブ! さて、始めましょうか」クマちゃんの一言で、藁科は理解して、素直に着席した。
「前島さんからの報告ね。少年の写真をネタとして流したのは、この家の住人、自称ロハスマスターの女性」地図上の赤い印が付いた家は、見たことも前を通った記憶もない海に近い区画にあった。この前ブラインドを下ろした人のような反応の方がこの村の住人らしいだろうに。わざわざ家からはずっと上の区画に来て隠し撮りしていたわけか。
「警察は介入せず静観することにした。一方自治会もすぐに犯人を把握して…田沼って妖怪みたいなお爺ちゃんが、『この新参者の成金が村を貶めるとは何事だ~』って、怒鳴り込んだ。その音声をロハス女に投稿されて、『金持ち村自治会横暴』と炎上したの」
「実はロハス女は自分がお上品ではない言葉をがなっている部分を加工していた。対する自治会長田沼は無加工のを投稿した。これで、ネットではもう“売名ロハス”で大炎上中。田沼さんは“スーパーお爺ちゃん”として一躍ヒーローよ。夜叉のニュースが流れてこなくてメディアは焦れてたから、渡りに船って事ね。ネット民からは“スーパーお爺ちゃん”扱いだけど、メディアは違う。何せ田沼は村を作ったN不動産の元社長でしょ? 田沼の思惑を超えて、村誕生のいきさつのところから穿り返されてる。N不動産もやぶ蛇で大慌てよ。それで今度は田沼が逆ギレ。…ということで今ネット上では三つ巴の大騒ぎらしい。既に拡散したものはどうしようもないけど、朝のワイドショーも“売名行為で住人が出してきた未成年Xの写真”は使えないわ」
門根も森山も藁科も、何も言わなかった。瑞生は自分がどうなるのか、正直よくわからなかった。伯父や伯母に迷惑がかかるのは避けたかったのに、こんな騒ぎになってしまって。そういえば伯父は退院したのだろうか。伯母から連絡はないが。それに、前島がクマちゃんに報告とはどういうことだ。瑞生にはこれっぽっちも好意を抱いている様子はなかった。瑞生があの火事に関与している疑いを仄めかしたのだ、あの刑事は。
「警察もロハス女の動きに呼応して、村への侵入が企てられるのじゃないかとピリピリしてる。村の防御が崩れるのはマズイわけ。公安がマークしてる北の工作員がトッタン半島をうろついてるという情報も入ったらしいわ」
「それと、元夫人方はそれぞれ税理士や弁護士に入れ知恵されていて手強かった」クマちゃんはボリュームのある足を組み替えた。
「プラスの相続だけではなく夜叉の借金も相続する旨は想定済みで『全て売却すれば借金は無くなり十分プラスになると試算してある』とか言ってるの。全て相続する気でいるのよ!頭に来ちゃった。『これだけ世間が注目している中、夜叉最期の望みのDNA鑑定を拒否した挙句、夜叉の遺品から版権から全てを売り払って散逸させるつもりですか! 夜叉ほどのアーティストの相続人は、記念館を建て遺品をファンに公開する義務があるくらいに考えるべきです』『他の夫人とお子さんが鑑定を受けた場合お宅だけ拒否ってのは、晒し者になるでしょうねぇ』って」
「さすが、クマちゃん。攻め方がえげつないね」夜叉が楽しそうに囁いた。「で?」
「で、呑ませたわよ。当然でしょう。『子供が夜叉に会いたがってる』と言ってきたのは、無論子供の意思ではなく相続権主張のジャブね。3人の元夫人とそれぞれの子供と会ってきたけど、まるきり似てない。“才能も容姿も全く受け継いでいない、つまり父親不明の子”というレッテルを張られて生きる事が子供にどれだけ負担か、あの女ども全く分かっていない。はっきりさせることは子供たちにとって最善の選択だと思う。夜叉は優しいわ。予想外に」
「まさか、子供たちのためにはっきりさせとこうとしたのか? あんたが? そりゃ意外過ぎるぜ。やっぱり人間、死を前にして善人になるもんだな!」門根の軽口は、全員の顰蹙を買った。
瑞生はクマちゃんに、「ロハス女の発信が止んだら伯父さんの怒りは治まりますよね?」と希望を抱いて聞いてみた。クマちゃんがかなりデカい椅子に腰かけると、椅子は全く見えなくなった。
「どうかしら、ロハス女は止めるかしら。今ネット上でロハス女は実名や経歴を暴かれてる。彼女の狙いが村で優雅に暮らすことなら大人しくなるでしょう、様子を見る間は。でもこの村を見限り、派手に外でデビューするつもりなら、止めないわね。このネタで何度か取材を受ければ、有名人の仲間入りとでも踏んでるのかもしれない」
「伯父さんの怒りというのは、あなたの安全を保障したのに写真を流出させたセキュリティ管理の甘さに向いているのよね? それは大げさな感染防止策を示して夜叉の希望通りあなたをここに来させるよう手筈を整えた、政治家とその周辺の責任。…だけど、実際にはここを管理している門根、あんたとWoods!の雑さでしょ。そもそも感染は危険じゃないのに」
クマちゃんはこともなげに言った。森山と藁科が見つめ合った。サニはずっと気配を殺すように壁際に立っている。
「その、危険がないってわけではない…のじゃないかなぁ」場をとりなすように森山が言った。「なんといっても、夜叉は感染してるのだから」
「それはそうだけど。感染力が凄ければ今頃世界中がゾンビだらけになってるはずよね。死んだ時に発動する感染ってことは、感染した時点では何も起こらないってことじゃない」
「危険じゃないのに、何故大騒ぎしたの?」瑞生は思わず訊いた。
真っ先に反応したのは、森山だ。「大騒ぎしたのはマスコミだよ。感染について、エボラみたいな危機感はないよ。黒金さんの言うように、大量発生したことがないから。ただ、『危険な仕事だという認識を周囲に示せ』と上司に念を押された…」
「私は『どうせウィルスは採れないだろうけど、感染症研究所から誰も行かないのはマズイから行って来い』と。コメンテーター医者が庶民の喰いつきそうなゾンビネタで騒ぎ、メディアもそれに乗っかって大袈裟に危機感を煽っているのだと思っていた。…本当は裏があった?」藁科も門根を見た。
門根は分が悪そうにしていた。
「政治家の差し金だろう。連中俺ら芸能界の人間を端から見下してる。だから何の説明も依頼も受けてない。『できるだけ早く遠くに行かせろ。そのための金を惜しむな』『人目を引くように派手な移送手段を用いろ』って議員が秘書に言ってるのをうちの社長が聞いてた。メディアが大騒ぎしたのは政府の要望に沿ってのことだろうな」
瑞生は素直に聞いた。「政府はゾンビーウィルスで盛り上がるとどんな得をするの?」
「とっとと夜叉を隔離して遠ざけたかったんだろ? 都心にいつまでもいられると、ずっと夜叉騒ぎに係わらなきゃならない。凄いウィルスと思わせれば、メディアも夜叉にコンタクトできなくても引き下がるしな」門根は頭を掻いた。
「そうだとするとこちらとは関係ないか…。では、八重樫君の問題を解決する話に戻しましょ。あなたはどうすればいいと思うの? 私たちは伯父さんの人となりを知らないもの」
「伯父は…つまりは自分が舐められた気がして怒っているのだと思う。N不動産に根深い不信感があるから余計怒っている。クマキさん、夜叉側が対策を示せばいいと思うけど」
「クマキじゃない。クマちゃんかクロガネマキコさんか、どっちか正しく呼べ」夜叉がおかしそうに言った。
クマちゃんは手を振って「呼び方なんてどうでもいい。…『今度はちゃんと守ります』だけじゃ弱すぎるわ。きっと伯父さんも芸能界を胡散臭いと思ってるでしょう。新しい対策は門根が考えること。誠意を持ってね。あんたが人任せにしたせいなんだから」
「僕は…」
「それは私がやるわ。まず伯母さんに電話して?」
クマちゃんはやることなすこと素早くて、瑞生はついていくのがやっとだ。
「八重樫君の伯母様ですか? 私、夜叉の顧問弁護士の黒金と申します…」瑞生から紹介されるや否やクマちゃんは本題に入り、宗太郎の様子を聞き出していく。「凄いなぁ」思わず呟くと、夜叉が嬉しそうに「瑞生の件はクマちゃんに任せよう」と言った。
皆、少なくとも写真流出事件の瑞生サイドは助っ人が解決してくれそうなので、ほっとしていた。
この時点で、宗太郎が何を怒っているのか、完全に読み誤っているとは、誰も知らなかったのだ。
若干仲間入りした感のある藁科が、話し合っておきたいことがあると言い出した。
「私はゾンビーウィルスの正体に疑念を持っている。ジェイコブ兄弟以降の数例が本人や家族の記録ベースなのは怪しい。しかし夜叉が直接私たち医師を欺いているとは思えない。人体を蒼くする方法が判明すれば夜叉が“ニセゾンビ”に仕立て上げられたからくりが見えるはずだ。夜叉が補給してるフードを調べたけど、微生物も色素も混入されてはいなかった。キューバで遺伝子治療されたのでは? 本当に夜叉は死んだのか確認したい」藁科がサニに振った。
皆の目が部屋中を探して、部屋の隅のサニに集まった。
サニは腕組みを解き、つかつかと部屋を横断すると夜叉の隣の椅子に座った。
「ヤシャが海岸で見つかった時に救急隊員が確認して、死者として大学病院に運び込まれた。ヤシャと2人の日本人は同じ病院に運ばれた。そこに僕がいたんだ」
「そういう話初めてだね。サニは救急病棟担当なの?」
「うん。トウ…チャク?トウ…バン」
「当直だね?それで夜叉の死亡を確認したの?」と森山が訊くと藁科が「検死は?解剖は?」と畳み掛ける。
しかしサニは珍しく歯切れが悪い。「僕…タントウじゃなくて…」
「もしかして、解剖に立ち会っていない?」藁科が突っ込んだ。
聞けば、サニは解剖生理学の成績が悪かったので、当然教授の心象も悪く、海から引き揚げられた遺体の検死解剖で他の病院に多くの助手が駆り出されていてサニしか若手助手はいなかったにもかかわらず、夜叉の検死解剖に立ち会わせてもらえなかったらしい。
旅客機同士の空中衝突の原因はテロの可能性もあり、アメリカと国交回復決定直後で、キューバ政府としては慎重に証拠となる物を回収する必要があり、警察も軍も人員は海岸線か空港の現場検証に割かれていた。自爆テロの疑いのある遺体以外の遺体は、つまり夜叉のように五体が繋がって綺麗な物の死因などは重要視されていなかったのだ。『座席ごと砂に埋もれてたって? 大方窒息だ。自爆したテロリストであるわけがない。海岸中バラバラ遺体で溢れていると言うのに、完璧な遺体をバラバラにする意味など冒涜以外あるか。お前の手助けなどいらん。バラバラ遺体のパーツ探しを手伝ってこい』と海岸に行かされてしまったのだ。
戻ってきた時には、夜叉の遺体は冷凍保管室に回されていた。“夜叉”と呼ばれる日本人のロックスターであることが判明し、日本大使館に連絡したり別の次元で大騒ぎになっていた。
「それで?」門根がサニに成果を訊いた。
「僕は、手と頭を発見した」
「げっ、グロいな。海岸で、バラバラ遺体の頭を拾ってきたのか?日本人の?」
サニは答えなかった。
さすがに、皆黙ってしまった。
「サニが見つけてくれなかったら、他の日本人は体が無いままだったかもしれないの?」瑞生が言うと、サニは肩を竦めた。
「発見者のサニが夜叉の付き添いで来日した時に『日本人遺族、感謝で出迎える』なんて騒ぎそうなのに。俺らも今聞くまで知らなかったから、その話は未公表だったんだな? 社会主義国だからか? それとも2人の話は夜叉のニュースで飛ばされたのか?」
門根の問いに、森山も「そうだね。こういう悲劇の被害者って一般人なのに生い立ちや友人の語るエピソードとかをテレビでずっとやるものだから、見てる方はしまいに近所の人か幼馴染が死んだような気になってくるんだよね。この時はそういうの、なかったよなぁ」と言い出した。
藁科は「テレビを見る暇があるとは、さすが民間研究所」と嫌味を言うと向き直って「ではサニは夜叉の正式な死を確認していない。これでいい?」とサニに確認を迫り、「つまり、夜叉を解剖したがらない教授が、1人でいい加減な死亡報告書を書いた可能性を否定できないわけだ」と締めくくった。
「今までも思ってたが、お前めちゃくちゃ嫌な奴だな」門根が妙に感心した。クマちゃんは「それは、夜叉が蘇ったのではなく、昔のドラマみたいに『仮死状態になってた』とかいうこと? 蒼くなったのは、あなたの説だと『遺伝子をいじられたか、毒でも盛られた』と?」と冷静だ。
藁科は自信ありげに頷いた。「そう、ゾンビなどではなく、ね」
「そうかな? それは変だよ、藁科。夜叉の今の状態はどう考えても普通じゃない。基礎代謝も…」と言う森山を遮って藁科は「何が変? だって注射針を刺せないから血液検査すらしてないのに。レントゲンもMRIもダメ。新しい造影剤もスキャナーも試せない。だって唯一の生きたゾンビー症候群患者が死んでしまっては元も子もないから。これって夜叉たちに都合がよすぎない?」とまくし立てた。
「『たち』? 聞き捨てならないこと言ったな、お前。夜叉がゾンビのふりしてどんな得があるってんだ。まして、俺たち事務所が縁切った夜叉を再び抱えて、何が嬉しくて右往左往してるってんだ。言ってみろ、このバリカン女」門根の剣幕には凄味があった。ほとんど嫌いだと思っている瑞生ですら『門根も大変なんだな』と同情してしまうほどだった。夜叉の件に翻弄されているのに、藁科の言いがかりが腹に据えかねたのだろう。
「お前、医者だか研究者だか知らんが、『宇宙人なんていない』って言うのと同じつもりで言ってんじゃねえぞ。こいつは女たらしで、頭軽くて騙されやすいけど、世界が認める比類なき美声の持ち主なんだ。こいつの歌は恋する中学生からアゼルバイジャンの塹壕にいる兵士まで感動させることが出来るんだ。日本の誇りなんだ。借金あっても、関係ねえんだ。そんな音楽のためにいる人間が、どんな茶番で、ゾンビのふりなんかするって言うんだ。証拠突きつけて言うんならまだしも、検査が出来ないからって、ボケたこと言ってんじゃねえぞ」
パシャ パシャ
ここは拍手の入るタイミングだと思うのに、変な音だ。
見ると、夜叉が拍手をしている。変な音の源は、右手を覆う保護シートと左手を合わせている音だったのだ。
「あ、指!」瑞生の一声で、森山も「そうだ。通常指を切断すればかなりの出血は免れない。出血させないように切断するには、特殊なプレス機や液体窒素など、道具が要る。藁科説だと、サニ1人でやったことになるけど、それは無理だよ。僕たちすぐに駆け付けたし」嬉しそうに指摘した。
「俺が指を失うのに協力するわけないだろ」夜叉もボソッと言う。
「藁科さん、あなたの説は、様々な技術的説明と夜叉がゾンビを騙る動機の説明がつかないうちは、“いいがかり”の域を出ないわね」
藁科は頬もうなじも真っ赤になっていたが、反論はしなかったし、部屋を出て行ったりもしなかった。
クマちゃんが話を続けた。「少し話を戻しましょうか。サニは夜叉の検死に立ち会わず、夜叉の死亡が確かなものだったか、今一つはっきりしないわけね。で、夜叉はいつ蘇ったの?」
「ゾンビって蘇るきっかけが要るんだよ。新月になるとか。48時間経つとか。呪術師が粉をかけるとか」瑞生も仕入れたばかりのゾンビ映画の知識を披露した。
「お前、まさか冷凍庫から這い出て、遺体安置所を彷徨ってたんじゃないだろうな。気色悪い」門根は半ば本気でビビっている。「俺は貞子みたいなのが一番嫌いなんだ」
「今まで平気で夜叉と話してたじゃない」クマちゃんが呆れる。
「こいつは夜叉だろ? 例え腐っても夜叉だからさ。でも棺から這い出てきたらダメだ。本当に腐っててもダメだ。…そう言えば、お前は腐ってはこないのか? かろうじてだけど生きてるからか?」
門根の暴言を無視してクマちゃんはサニを見て、促した。サニは細い指で鼻の頭を掻いた。
「クマチャンの訊きたいこと、わかります。冷凍されたままなら蘇らない。日本に帰ってから蘇ったはず。何故キューバで蘇ったのか? それは…僕のせい。僕が冷凍保管庫から出したから」
「何ぃ?」「なんで?」皆口々に驚いた。
サニは、また鼻を掻いた。
「僕は、独学で日本語を勉強してた。友達は『日本なんて小国だし高齢化で破綻する国だ。医師の派遣も認めてないから、日本語を勉強するメリットがない。今やるなら中国語だよ』と笑ったけど。…検死報告書の上に教授の『驚くほど美しい遺体!』という走り書きがあった。僕は“The Axe”のファンだったから、本当にあのボーカリストなのか、見てみたかった。それで1人で保管庫に行き、遺体を出したんだ。そうしたら、ヤシャが…」
「蘇ったのか! じゃサニが若造らしい好奇心で解凍しなければ、こいつは凍った遺体のままだったのか?」と門根。
瑞生は開きかけた口を結んだ。この話は何か変だ。いや、変な所だらけだ。人目を忍んでロックスターの顔を見たかったのなら、保管庫から出して、見て、それで終わりのはずだ。カチコチの夜叉が解凍するまで待つ余裕があるなんて不自然だ。
もちろん瑞生は、以前サニと話した「夜叉と知り合いだった」件と結びつけていた。他方、この話の不自然さに他の者がどう反応するのか、気になった。門根以外の人間が、矛盾を見過ごすとは思えない。
「蒼かった? その時」と藁科。
「サニはその場で蘇生したの? 心臓マッサージしたら圧迫した部位のゾンビーウィルスが死んでしまったのじゃないの? すぐに脱水を回復するために点滴をしたでしょ? 低温障害を疑って脳のMRIを撮るよね?」と森山。
確かに。息を吹き返した夜叉を救おうと、サニが心臓マッサージをしたら、ウィルスが死んで夜叉はあっという間に黄泉の国に逆戻りだ。なのに何故無事だったんだ?
サニと夜叉は知り合いだった。
死んでから知り合ったのと、生きてるうちから知り合いだったのとでは、ものすごく違う。生きてるうちに知り合いだった場合、サニは夜叉がキューバでしていたことや、ゾンビーウィルスに感染した経緯も知っている可能性が高い。いや、関係しているのかもしれない。サニは知っていたんだ。夜叉が蘇ることを。もしかすると、夜叉を解凍してあげて、蘇るのを待っていたのかもしれない。
瑞生とクマちゃんの目が合った。クマちゃんはほとんど何も知らされていないのに、夜叉を救うことを求められている。夜叉を救うには情報が必要だろうに、敢えてクマちゃんは突っ込まないでいる。
でも、夜叉を救うって、どういうことを言うんだろう? 幽霊なら成仏させてあげるのが救いだろうけど。クマちゃんは弁護士だから…。そうか、夜叉が子供の親子鑑定に拘っているのに何か理由があるんだな。
瑞生の気持ちを感じ取ったわけではないだろうが、クマちゃんは話を逸らすかのように瑞生に「伯母様から連絡があったわ。今日のところは退院を回避できたそうよ」とスマホを振りながら伝えた。
思わず安堵の吐息を漏らしてしまった。伯父が急遽退院したら、在宅の人だけにこっそり抜け出すのも難しいだろう。伯父の激高に伯母が晒されるのも嫌だった。
「あなたは夜叉のところに来たいの?」クマちゃんの目は小さいけれど瑞生の逡巡を見逃さない、と言っているようだった。
「はい」瑞生は素直に頷いた。
「変わるもんだな。初めは『来たくなんかなかった』オーラ全開だったのに」と門根。「『なんで僕?』オーラも出てたな」とニヤニヤされると、むかついたけれど、瑞生は肩を竦めて大人対応をとった。門根が更にいじろうとした途端、夜叉が舌打ちをして無駄な揚げ足取りを打ち切った。
クマちゃんは満足げに微笑むと、「明日には門根がお見舞いに行って、謝罪と改善を約束する。私も同行する。土曜日だから、テスト前だけどあなたも行くといいかもしれない。伯母様と相談してね」と教えてくれた。
門根だけで行かせたら、伯父さんの怒りを買うだけだ。絶対同行してもらわなきゃ。
その門根はなにやらかかってきた電話相手に首を捻っている。「はぁ? 誰だって? 知らないよ、そんなの」
「そんないいわけ信じるか」
藁科の険のある声が響いた。
森山は体の向きを変えて、救いを求めるようにこちらを見た。でも誰に頼ればいいのかわからなくて目を泳がせている。擦れた瑞生は思わず笑ってしまった。ここを掌握しているのはクマちゃんだ。夜叉が言う事を聞く唯一の相手で、しかも頭がいいから頼る意味がある。
森山が口を開く前にキレた藁科がまくし立てた。「サニ、その人を馬鹿にした言い訳をもう一度みんなの前で言ってみたらいい!」
瑞生は夜叉を盗み見た。予想では秘密を共有するサニと夜叉の2人が視線を交わして話の行く末を案じているかと思ったのだ。だが、夜叉は天井より遙か彼方を見ていたかと思うと、奥のスタジオに視線を落とした。
自分がゾンビになった時の話なのに。サニと知り合いだった事が暴かれそうなのに、スタジオに籠りたいのか! 呆れるというより軽く衝撃を受けた。音楽を創る…創るって、そういうことなのか?
サニと森山の方に行こうと皆が動き出した時、瑞生のスマホがブルった。反射的に出ると、:おお、八重樫。ゲートで留められてるんだ。何とかしてくれ:と本永の声。
「瑞生。お友達と称する男がゲートで揉め事起こしてるらしいぞ」とスマホを持ったまま門根が怒鳴った。
「本永? まさか、来、来てるの?」
:おお:
それからは急遽、本永の入村許可証を中間手続き抜きで発行してもらうために、クマちゃんだけでなく門根や森山や藁科までが総動員で動く羽目になった。瑞生は本永の家に電話して、母親に何も知らないふりをして尋ねた。「本永君いますか?」
この前挨拶したことがあるので、本永母は特に神経質にならずに答えてくれた。:こんなこと初めてだけど、タクシーであなたの村に向かったわ。あなたが心配だからって。八重樫君、何かあったの?:
これで現れたのは本永本人だと確信が持てた。
ゲートには車で森山とクマちゃんが向かい、山の中腹にある詰所から警察官が併走した。今日の昼間ロハス女による情報流出があってから、ゲートの外にもパトカーが常駐して一般の車は近づけない状態になっていた。報道も遠くに行かされているが、減りつつあった人数が数倍に膨れ上がっていた。
警察官が学生証を見ながら電話で本永家族に確認を取り、ようやくゲートが開いた。中腹の詰所でタクシーは帰り、パーカーのフードを目深に被った人物が森山の隣に乗りこんだ。
「本永、来るのなら連絡くれればいいのに」
「おお、八重樫、久しぶりだな」
瑞生は2階の夜叉の部屋でじりじりしながら待っていたので、駆け寄りそうになってしまった。森山と藁科によりこてこてに除菌された本永が登場するまで、かなりの間があったのだ。
「イマドキ希少動物みたいな髪してやがる。正統派美少年の瑞生とは何とも不思議な組み合わせだな」門根が本永を面白そうに見た。クマちゃんは「フードを脱いだ時は騙されてテロリストを入れちゃったかと思ったわよ」と一息ついた。藁科は「ちゃんと先を読んで動け。巻添えを喰って業務外労働させられた」と文句を言った。森山ですら「八重樫君を心配して来たわりには、却ってリスクを高めてる感じだよね」と苦言を呈した。
瑞生は慌てて、「ご迷惑をお掛けしまして…」とお辞儀をした。横で本永が直立不動になり「あー、すみませんでした。『こりゃ八重樫やばいぞ』と思ったら、居ても立っても居られなくなって…。正直、八重樫にこんなにたくさんの味方がいるとは思ってなかったんです。慣れない村で、スクープされて、孤立して不安だろうと思ったから…」と言いながら、金髪頭を深々と下げた。
「思ったより礼儀正しいから勘弁してあげるわ。八重樫君にいい友達がいてほっとしたわ」とクマちゃん。
「誤解がある。私は夜叉付きの医師で、この子の味方じゃない」と藁科。「僕は八重樫君のこと、いい子だと思ってるけど、立場上は同じく夜叉付きの医師だ」と森山。「俺は夜叉のマネージャーだから、瑞生の味方というか保護義務があるな」と門根。
本永は順に頭を下げていたが、ふと目を上げて正面に夜叉の存在を確認すると、ゆっくりと歩み寄った。瑞生はぎょっとして止めようとしたが、門根はもっとわかりやすく本永の前に立ちはだかった。
「おい、友達面した刺客ってことはないだろうな」
本永は門根を無視してうわずった声で言った。
「ニューヨークから逃げ帰って自宅に引き籠っていた時、自殺しようと思った。俺ロック好きだから、死ぬ前に何の曲を聴こうか迷った。俺のだけでなく親のCDも片端から聴いた。The Axeの曲もあった。どんなに聴いても『ああこれで思い残すことなく死ねる』と思えなかった。何か足りなかった。なんだか自殺する弾みが得られなかった。そのうち高校が始まって、死ぬ時機を逸してしまった。先週頼りにしてた友達が死にそうになったと聞いて、俺は挫けて久しぶりに引き籠った。八重樫の村に夜叉がいると思い出してThe Axeを聴いてみた。そうしたら『何か足りない』感じは一緒なんだけど、違う意味に思えた。『本当にお前を満たす音楽はお前自身で仕上げるんだ』って言われている気がした。『部屋から出て、お前の音を探しに行けよ』って夜叉の声がした。そうしたら、ネットに八重樫としか思えない奴がスクープされた。見てるうちに爺さんだとかロハスだとか訳わからなくなってきて、“美少年特定サイト”とかが八重樫の身元情報を募りだして、もう俺は自分を止められなかった…」
パシャ パシャ
夜叉の拍手の音だ。保護シートのせいで変な音なのだが、本永は初めて振り向いて瑞生の表情を窺った。
「ありがとう」
夜叉の声が想定外に小さいので、本永は思わず身を乗り出して耳に手を当てた。「は、はい?」
「一つ、俺のこの世の最期の愛人を助けようと来てくれて、ありがとう。二つ、俺の音楽をそんな風に本気で聴いてくれて、ありがとうな」
本永の金髪が歓喜の思いと共に揺れている。「い、いや、俺はそんなお礼を言われるほどの…、あ、愛人?」と夜叉の発言内容でトーンが変わった。瑞生を見る目も。
「本永、夜叉にからかわれてるんだよ、本気にしないで」瑞生が冷静に言うと、皆がどっと笑った。
「外見と一致した変な奴でよかったよ」と門根が緊張を解いた。
「で、お前、瑞生をどう助けようと思ったんだ?」夜叉が小さく聞く。
「え? え~」本永は言葉に詰まったが、顔を上げ確信に満ちた表情で答えた。「英語を教える」
「は?」
門根も藁科も森山もクマちゃんですら、口を開けたまま本永を見た。夜叉だけが体を震わせて笑っていた。瑞生は素直に嬉しくて笑みがこぼれた。「頼むよ、ニューヨーカー」
「これが、美少年特定サイト? アクセス不能だね」森山がタブレットを見せた。覗き込んだ本永は「そんな! 家を出る時はどんどん書き込みされてたんだ」と呆然とした。「管理人が閉鎖したのでは?」藁科が言いかけて「うーん、それはないか。削除命令にだってすぐには動かない。それが閉鎖?早過ぎる」と言い直した。
本永は本当にリュックから英語のテキストを取り出していた。手元にタオルやパンツが見えたので、「本永、泊まるつもりで来たの?」と聞いた。「当たり前だろ。『英語力は一日にして成らず』。お前、あの学校のレベルに達して満足なのか? 英語は世界に出ていくのに必要不可欠なツールだ。話せるようになるために勉強するんだ。本気でやらないでものになる語学なんてあるか」
パシャ パシャ
もちろん夜叉だ。本永は耳まで真っ赤になって照れた。
「驚いた。本永君て驚くほど正論を言うのね。本当に八重樫君を守りに来たヒーローだわ」クマちゃんもべた褒めだ。それなのに瑞生の頭は降って湧いた問題の解決策でいっぱいになってしまっていた。
「もしもし? 伯母さん? 今話せますか? 実は友達が僕を心配して村に来てくれたんです。僕のテスト勉強をみてくれるんですけど、今日彼に泊まってもらってもいいですか?」伯母が電話に出たチャンスを逃すまいと一気に話した。
聞いていた本永も「ああ、すまん。伯母さんの家だと気兼ねがあるのを忘れてた」と頭を掻いた。
家は常にきれいなので誰が突然泊まっても、さして問題にはならないと思うのだが、気がかりは宗太郎にどう許可を取るかということだ。
ところが伯母は:退院を諦めたと言うよりパソコン作業にのめり込んでいて…。『僕はしたいことがある。邪魔になるからもう帰っていいよ』と言われて、今家に帰ってきたところなの。お友達に泊まってもらう準備はこれからするから大丈夫よ:と言う。
伯父がパソコンに没入? 常日頃からIT機器で食べている人だけど…。でも伯母を追い払うようなこと、今までもあったのだろうか?
傍らで、本永が家族に連絡している。「おお、大丈夫。八重樫の家に泊めてもらうから。そんな、泣くなよ。大袈裟だな…」心配して覗き込んだ瑞生に説明した。「俺が外出するってだけで、泣きそうだったんだ。『友達の家に泊まるなんて…』って泣き出した」
「寂しくて?」
「いや、嬉しくて。俺、基本外出皆無だし。帰国後半年は引き籠って荒れてたし。俺のための予定外の帰国で、父親はニューヨークに残ってる。母親にしてみたら…地獄だったと思うよ。だから泣けちゃうんだろうな…」手の中のスマホを複雑な心情を過らせて眺めている。
「ん? 『ゲスチャンネル…少年狩りする者この指とまれ』…悪趣味なサイト名だな。ここも繋がらない。サーバーがダウン?」森山の独り言に、「次々? おかしいだろう」と藁科が突っ込む。
「あ」
森山と藁科が同時に言った。「もしかしてDos攻撃?」「ウィルス感染させた?」
「有害なサイトに片端から攻撃しているのか?」「片端から、じゃない。“夜叉の愛人”探しをするサイトを狙ってる」
「外様が、ってことはないよな?」小声で本永が聞いてきた。「目の具合が悪いらしいからね、それはないと思う」「うちの高校で誰かハッカーがいるってこと、ないか? お前の隠れファンとか」「そんなのわからないよ。鏑木ってことは100%ないね。体当たり喰らったんだ、この前」
“鏑木”と聞いて本永の体に電流が走ったような反射反応が起きたが、「体当たり?」と持ち直した。「うん、後でね」言いながら瑞生は本永のタブレットを見ていた。
「『わたし、その美少年知ってるよ』なんだ、これは」思わずむかついた。「『わたし、ヤシャとか知らないけど、美少年は知ってる。だってこの村に美少年は1人しかいないもの。きのうバス停で会ったの。すっごいきれいな顔してた。でもすこしバカっぽかった。しばらくバス通学だとか言ってたよ』…あのガキ、随分馬鹿にしてくれるじゃないか。何が『バス通学が自由』だ」瑞生はきっちきちの三つ編みで紺の堅苦しそうな制服に身を包んだ小学生を思い出した。「ガキは余計なことしないでさっさと寝ろよ」
しかし、瑞生たちの目の前で、あっという間に書き込みすべてが消えた。
「さてと、ようやくさっきの続きができる。サニ、夜叉を冷凍保管庫から出した後の話を皆にもして」突如藁科が話を戻した。この騒ぎの中、ひたすら気配を消して壁際に咲いている花だったサニは、ゆっくりと立ち上がって、中央テーブルの夜叉の近くに座った。
クマちゃんは藁科に、「それはそんなに重要なことなの?」と確かめる。リケジョの思考にはついていけない、というかのようなやや引いた物言いだ。
確かに、藁科のヘビのような執念深さで探究しなければ、感染症の最前線で新しい発見は望めないのかもしれない。藁科はいつも喧嘩腰で挑戦的だけど、習慣でそうなっちゃったのかもしれない。
やむなくサニが細い指を顎に当てたまま話し出した。
「The Axeの夜叉が“世にも美しい遺体”になっているのを一目見たくて、遺体の保管室に行き、夜叉を出した。もちろん触れてはいない。そこで…僕の恋人から電話がかかってきた。その…『あなたと別れたいから、すぐに帰ってきて荷物をまとめて出ていって欲しい』と。僕は『飛行機事故で病院は大変。今日は多分帰れない』と言ったのだけど、『公務員は定時に帰るものよ、嘘つき。いいわ、荷物は捨てるから』と言われた。本当に実行する人だから、慌てて帰った」
「帰った? まさか夜叉の遺体を保管庫から出してそのままほったらかして、家に帰ったってオチか?」門根が目を白黒させて問い質した。
「…イエス。彼女は怖いけど、彼女のママはもっと怖い。一緒に暮らす僕の稼ぎが良くないのは『医者なんかしてるからだ』といつも言ってた。僕の荷物を捨てるだけでなく、踏んだり撒いたりしかねない」
「彼女の家で同棲していたのはいいとして、彼女のお母さんとも一緒にってこと?」と森山。
「医者って金持ちなんじゃないの?」と瑞生。
サニは皆が引っ掛かるポイントがわからないという顔で、「僕の兄弟もいとこもそれぞれ恋人の家に住んでる。ママと別れたパパは3人目のパートナーの家にいる」と言った。
「キューバでは、それが普通なの?」とクマちゃん。サニは皆の様子に説明が必要と気づいたようで、「キューバは社会主義国で、経済封鎖をされているからとても貧しい。食料は基本配給だし教育費や医療費は無料だけど、男女問わず働くのが当たり前で、稼ぎを足して生活する。結婚しなくても好きになったら一緒に暮らすし、うまくいかなくなれば関係を解消する」と教えてくれた。
「男女平等が本物ならば、結婚が永久就職にはならないから、好きか嫌いかでパートナーを変えるということ…?」と藁科。
「国の財政が厳しいから公務員を削減するために、また国は自営業を認めるようになった。ライセンスを持たないもぐりの自営業なら誰でもやっている。売れる物は皆売るんだ。定時に帰るのが皆の常識だけど、医者は急患があれば帰りが遅くなるでしょ? 自営業をする時間がなくて稼ぎが良くないんだ。彼女とママの不満はそこにもあった。元々キューバ国外にいる親族から送金をしてもらえる者は裕福だけど、いよいよ社会主義国なのに貧富の差が出始めた。でも国が取締りを再開すると財産なんてあっという間に取り上げられてしまうんだ」とサニ。「2人で家を借りるより彼女がママたちといる家に住む方が早いし経済的でしょ。だって家は国が建てる物で、国は頼んでも建ててはくれないから。皆古い家を修理して住んでいるんだ。皆そうだよ?」
「ふ~ん」事情を聞いて、感心する者、驚く者。本永は、サニを紹介してもらっていないので、どんな関係者やらわからずに、口を開けて聞いている。
キューバみたいな社会だったら、お父さんは死なずにすんだのに。母は1人で子供を産んで働けばよかったんだ。結婚して誰かに養ってもらおうとせずに。好きでもないのに結婚するなんて馬鹿らしい。その上ヒステリーを起こすわ、暴力振るうわ、あんな母と何故結婚していたんだろう、お父さんは…。
ふいに涙が出そうになる。瑞生が慌てて指先で拭いて誤魔化した時、夜叉と目が合った。
「で、家に戻って彼女を説得したか荷物をまとめたかして戻ったら夜叉が解凍されて蘇ってた、というのか?」門根が呆れながら先を言う。サニは、きまり悪そうに頷いた。「そりゃ藁科がキレるのもわかる」
しかし藁科は「キューバの常識というのはう~ん…」と仏頂面だ。「サニの彼女のお蔭なのかなぁ。夜叉が蘇ったのは」と森山。
瑞生はサニの話の綻びが暴かれずに済んだので、ほっとしていた。本永に急いでサニを紹介して、ことの経緯を説明した。森山と藁科がいるので、夜叉の現状維持のために派遣された2人との微妙な立場の違いなどに言及することは控えた。
「ということで、夜叉が蘇った時の話は終わりにしていいのかしら?」クマちゃんが一区切りつけたのは、このきわどい話のボロが出ないようにするためなのか、曲作りをしたがっている夜叉の気持ちを汲んでのことなのか、瑞生にはわからなかった。
スタジオに向かって歩き始めた夜叉が立ち止まり、クマちゃんに何か囁いた。もっと小さい声になったので、クマちゃんはドラム缶ボディを傾げた。途中からサニを呼んで、3人で何やら話している。
瑞生と本永は手持ち無沙汰になったので英語の復習をしていると、門根の「夜叉は?」と言う声が聞こえた。「スタジオに籠ってる」とサニ。瑞生が顔を上げると、門根が「これからキリノを迎えに行かなきゃならん。登録済みの俺の車が出入りする方が手続きが簡単だからな。まったく次々と人が来る。黒金さん、キリノの許可証申請を代わりにやってくれませんか?」とクマちゃんに頼んでいた。
門根は口が悪いのに、クマちゃんを“黒金さん”と呼ぶし敬語を使うんだ。面白いな。
気づくと、珍しくサニが瑞生の方にやって来た。
「ミズオ。ヤシャは音楽で忙しい。君の家に友達が行くのでしょう? 僕も行っていい? 日本のご飯を食べてみたいのだけど」
「え?」
一瞬、言葉を失ったけれど、それは今日自分が思ったことだった。サニに美味しい伯母のご飯を食べさせてあげたいと。
「いいけど。…いいのかな? サニがここから出たりして」言いながらクマちゃんを見た。出歩くといっても村の中だし、夜叉の関係者(愛人呼ばわりされてるが)の瑞生の家ならば問題はないと思うのだが、ロハス事件が未解決なこともあり自重するべきと言われるかもしれない。
クマちゃんが瑞生の視線に気づいて、スマホで話しながら来てくれた。瑞生の手振りで用件を把握したようで、「それはいいけど、問題が起きた時に法的手段が取れるように私も同行するから少し待って。手続きが済めばキリノが来るまで2~3時間空くから、その間に八重樫君の家でごちそうになって戻ってこられるでしょう」と言った。
サニが嬉しそうな顔をしたので瑞生も嬉しくなったが、何かが引っ掛かる。そうだ、クマちゃんもうちでご飯を食べるつもりになっていないか? 瑞生は慌てて伯母に電話した。




