2015年6月12日 ①
2015年6月12日
夜叉のことが気になって、飛ぶように帰宅した。瑞生の気迫が周囲に通じたか、今日はクラスメイトも話しかけてこなかったし、鏑木とも遭遇しなかった。残念なことに立和名とも。
約束の4時までせっせと勉強をしていて、ふと、何のために勉強しているのかと思った。
本永や外様といられるのが嬉しくて、必死にやっていたけど、2人とも一緒にいてくれないじゃないか。自分のためと言うものの今は虚しく思える。それより、死にかけている夜叉のために出来ることをした方がいいのじゃないか。もっと夜遅くまでいてあげたら、夜叉は喜ぶのじゃないか?
シャーペンを置いて、腰を浮かせかけた。ポーン。
あの“ド”の音が聞こえた。
慌てて部屋の中を見回すが、音を発する物など何もない。でも、頭の中で蘇ったにしては、本当に鮮明に、聞こえた。
「そうか、曲だ。夜叉は、曲を作りたいんだ」
机の前に座り直して、考えをまとめた。
夜叉はピアノを弾いて、指を負傷した。普通、利き手の親指が潰れたら大騒ぎするものなのに、夜叉は違うことで怒っていた。指は二の次だった。多分夜叉は1人で音と戯れたかったんだ。それなのに、指はなくなり、どんどん人が来ては騒ぐ…、邪魔されずに曲作りをしたくて怒ってたんだ。
それで、仲の悪い門根が戻ってきた話に合点がいく。夜叉のことを蔑んでいても、元マネージャーだ。夜叉の望みを見抜いて、指で入力しなくても曲作りができるソフトとかを起動させてあげたのに違いない。あの家にいるのはゾンビと医者と警察官だけで、急遽夜叉のためのプログラムを組めるのは門根しかいなかったのだ。
それで、あの“ド”なのか。
「じゃ、手伝えることなんて、ないな」
恥ずかしながら、レはドの隣だよな、と考えないとレには辿りつけないレベルの弾き手なのだ。夜叉は代わりに弾け、なんて言ったけど、無理なものは無理だ。
瑞生は再び問題集に手を伸ばした。
瑞生を迎え入れたのは、サニだった。いつも通りの身支度をする時に、藁科も森山も来ていると知って驚いた。しかも、雰囲気は相当悪い。「疑心暗鬼の館にようこそって感じだな」
「あれ?夜叉は?」
いつもの部屋に夜叉はいなかった。サニが「籠ってる」と言って、瑞生の見たことのない小部屋のスタジオを示した。
瑞生の思った通り、夜叉は曲作りに没頭しているらしい。推測が当たって嬉しいような、手の届かない音楽の世界に行かれてしまって寂しいような、妙な虚無感が胸に広がってきた。
「じゃ、呼ばなきゃいいのに」
自分の言い方が口惜しそうに聞こえた。仕方なしに、サニと向かい合っていつもの椅子に座った。サニの動きは常に静かだ。だからと言って、とろいのではなく、敏捷な動物的しなやかさを感じる。
珍しく、他人に対して興味が湧いてきた。「サ…」と言いかけて、サニの視線が奇妙な位置に向いていることに気づいた。確かめるためにそちらを向く口実を作った。「サニは、日本食食べれるの? キューバの食事とは全然違うんでしょ? ここ来てお茶出してもらったことないけど、夜叉を待つなら何か飲みたいな…」立ち上がって、室内を物色する。さりげなく見渡すと、なるほど部屋の隅にある飾り棚の上に、カラスみたいなカメラが置いてある。
前のはどこに置いてたのだろう? さりげないカメラで撮れていなかったから、開き直ってカラスみたいに馬鹿でかいのを設置したわけだ。これなら細工しようとする人物がばっちり写るし。
サニも立ち上がって、お茶の用意をしてくれている。「この家でしか食べたことないから、あれを日本食と言うのか、よくわからない。モリヤマくんとワラシナさんと箱に入った同じ物を食べてる」
「え? そうなの? きっとセキュリティの関係で、食中毒や家に黴菌を入れないような衛生的な弁当なんだろうね…」
なんだか、サニが気の毒になった。夜叉は食べないと決まっているのだから、お付きの医師陣の食事を豪華にしようとは誰も思わないだろう。ここに来て、食べ物のいい匂いが漂っていたためしがない。
ふと、瑞生の脳裏に伯母の手料理が浮かんだ。伯母の作る食事を食べるようになって、“美味しい”という言葉を体感した気がする。
思えば、ありとあらゆる食べるシーンで、お父さんが『違うんだよなぁ』という顔をしていた理由はこれだったのではないか。母奈津美の作る何でもケチャップご飯が瑞生は大嫌いだった。もちろん父も。だから可能な限りお父さんが作ってくれていた。幼稚園の弁当も。瑞生はそれで美味しいと思っていたのだが、お父さんは『違う』顔をしていたのだ。
サニに美味しい思いをさせてあげたいな。
家に誘う言葉が喉まで出かかったが、カメラの存在をアピールされたばかりなので、思いとどまった。
代わりに、こう頼んでみた。サニがポットのお湯で作ってくれたインスタントコーヒーのカップを置くのを待って、「サニ、僕にピアノを教えてくれない? 夜叉は僕に弾かせたがってたでしょう?」と。これなら、1階で聞いている藁科たちも変だとは思わないだろう。夜叉の我儘を叶えるためなのだから。
サニと2人で、隣のグランドピアノのある部屋に行った。瑞生の読みでは、ここは夜叉の音楽のための部屋で、(本人は隅に設けられたスタジオに籠っているが)夜叉の音楽活動は著作権が絡むので、勝手に録画・録音・盗聴することは禁じられているはずだ。『門根が勝手にDVD化して売るつもりだ』と森山が言ったのは、夜叉の最期のプライベートショットで、音楽ではない。
グランドピアノの前に座ったものの、弾きたい曲があるわけではない。「聴かせてもらう方がいいね、何か弾いてよ」
サニは軽く弾いた。瑞生には聴き覚えのない曲だった。
「知らない? 有名なサルサだよ。ああ、君には『星に願いを』とかがいいのかな…」
「願いなんてかけない」
サニが話しているうちにあまりにぴしゃっと否定したので、サニは思わず手を止めた。しかし、今度はゆっくりと『星に願いを』を弾き始めた。「どんな時でも人は願うことを止めないものだよ。どんなに苦しく悲惨な毎日でもね。“願う”ことは生きている証だ…」
「願っても、叶わないじゃない。それなら願わない方がマシだよ」
「ミズオ。時は戻せない。死んだ人は戻らない。君の願いは、間違っている」サニは鍵盤から手を放して、瑞生の顔の前に人差し指を突き出した。「例えば、トックガワ・イヤヤスに会いたいと願っても、叶わないでしょ? それは当たり前、願いが間違ってる」
「それ、徳川家康のこと? そりゃそうだよ。昔の人だもの」
「ノー、ミズオ、君もそう変わらない。江戸の人も君のお父さんも。死んでるのは一緒」
「そんな! それは…そう、かもしれないけど…」
「そう。ミズオ? 願いは自分で叶えるもの」
数日前に知り合ったキューバ人に、叶わないから願わない“願い”を見抜かれるなんて思ってもみなかった。
サニがどいた後にどかっと座り、ピアノに向かった。鍵盤を見ると、自分が昨日したかったことを思い出した。人差し指を立てて、おもむろに、ドに振り下ろした。ポーン 次いで隣のレと思しき白鍵に。音楽の授業を思い出してきた。ド・ミ・ソだな、基本は。3本の指に力を込めて、“和音”に挑戦した。力み過ぎて、叩き付けたようになってしまった。
「ノー、ミズオ。音は生き物。“奏でる”もの。“壊す”ではない」言いながら瑞生の右肩と手に触れ、「リラックス。最初みたいに、ポーンと響かせる感じだよ」自ら和音を奏でた。
柔らかい3音が部屋に広がった。あ、和音だ。
ピアノ椅子に座ったまま、瑞生は天井を仰ぎ見た。音が見えるわけではないのだが。そして、気づいた。後ろに立つサニに、「サニはここで夜叉とピアノを弾いたりしてたの?」と訊いた。
「いや、ここに来た当初、ヤシャはピアノに見向きもしなかったよ。一昨日、いきなりピアノを弾いて、1音目でああなったんだ。それまで何か音楽を聴いたことも、音楽の話をしたこともなかった。…まさに音楽の神が降りてきたんだね、きっと」サニは夜叉の籠る部屋を見た。
今の返答で、確信した。俯いて鍵盤を見ながら言った。
「サニは夜叉と知り合いだったんだね?」
瑞生はわざとサニの方をふり仰がなかった。サニは黙って自分用の椅子を持ってきて、横に座った。ピアノの個人教授の趣だ。
サニは『星に願いを』の冒頭を弾きだした。「気づいたの。さすがヤシャに選ばれた子。…それがいいことかどうかは別として…」
「それどういう意味?」思わず横をガン見してしまった。サニは眉間に皺を寄せて答えない。
ガチャ、突然スタジオのドアが開いて、夜叉が出てきた。秘密めいた話の最中だったから、それだけでびっくりだったのに、今目の前にあったサニの顔がもう夜叉のところにすっとんで行ってるのに、もっと驚いた。
「ヤシャ、根詰めてはダメ。体がもたない」
夜叉はと言うと、蒼さが薄れ、足取りもおぼつかない感じで、サニに誘導されるままに椅子に座った。妙な質感になっている。瑞生が真っ先に思ったのは、座った時の音や存在感の変化だった。歩く古い毛布みたいな感じだ…。
サニは医療用手袋を素早く身につけていて、気遣わしげに夜叉の首や目の状態を調べて、「ちょっと休もう。ここから出ると、モリヤマさんたちがほっておいてはくれないけど、仕方がないよ」と言った。
夜叉は何か小声で言ったけど、瑞生には聞き取れなかった。サニから報告を受けたらしく、瑞生をじっと見た。今までの、人生が終わった感満載の達観した目と同じ人間の目なのだが、今は情熱がほとばしる目力が放射されていて、瑞生は釘付けになってしまった。
「いいよ。あっちの部屋に行って、少し休む」
補助の手を断り、夜叉は自力でいつもの面会部屋へ行き、別室から駆け付けるであろう藁科や森山を待った。瑞生も定位置の椅子に移動した。
予想通り、森山たちが聴診器やらカメラやらを持ってやってきた。藁科は夜叉に近づこうとはしない。
サニと森山はタブレットを見ながら話し始めた。「生きたゾンビー病患者の記録はジェイコブ兄弟の看護ノートだけだから、それと比較するしかないんだ」耳がダンボになっているのに気付いたのだろう、森山は瑞生に説明してくれた。
「撮影して、前日までと3日前と皮膚の色を比較して、一平方センチメートル当たりのウィルスの分布数を推測する…」2人で夜叉を撮影している。
森山は多分、思っていた通りいい奴なのだ。瑞生はほっとした。こんなサラ髪のいい奴も、自分の責任や立場が絡むと豹変に近い変わりようだ。それは子供の家でうんざりするほど見てきた。理系の世界でも同じとは、小さな驚きと大きながっかりだった。
「森山」夜叉が蚊の鳴くような声で言った。「門根を呼んで」
森山は一瞬動きを止めた。けどすぐ「あーはい」と言いながら出て行った。
2時間後に門根が来た。東京から約90kmもの道中、おそらく地球温暖化に貢献する程の排気音と排気ガスを撒き散らしながら。
「なんだよ、もう曲ができたのか? たった1日でなんて、昔みたいだな、おい」
久しぶりに見る門根は、以前と違った。初めて会った時は、この上品な村に合わせようしている感丸出しの、まともそうな格好をしていた。それが、瑞生がこの家に出入りするようになってから、滅多に来なくなっていたらしい。こっちに夜叉のお守りを押しつけて、羽を伸ばしてたってことか?
門根は、紫色のパンツと白いシャツに鳥の羽の付いた変な帽子を被っていた。白いシャツにはキラキラのウロコが張り付いている。
「ジェームズ・ブラウンのステージ衣装みたいだなぁ」森山が呟いたのだが、他の誰にも通じなかった。
夜叉は門根の外見には興味もない様子で傍にきた門根に、「キリノに連絡を取って」と言った。
門根はチャラっぽい動きを止めて、改めて夜叉を見た。「具合悪いのか」
ドサンと夜叉近くの革張りの椅子に腰を下ろし、しばらく思案していた門根は、おもむろに「キリノには連絡を取るよ。『夜叉が会いたがってる』でいいな? 俺の方には『お前に会いたい』って連絡が来てる…、元夫人連中から」言葉を切って夜叉の顔色を窺う。
「…と子供たちも」
夜叉に子供がいるとは、聞いたような聞かないような…。瑞生も思わず夜叉の表情を見ようと、首を伸ばした。
ところが夜叉は全く構わない様子だった。「自称、俺の子だろ。今まで会ったことないし、会いたいと言われたこともない。でも『元女房連中は似てないのがばれるから会わせられないんだ』って週刊誌の記事読んだぞ。どっちにしろ興味ないけどな。遺産分割の取り決めなら女どもで十分だろうが」
小声で言うには随分込み入った話だ。瑞生は夜叉がただのカリスマではなく、非常に問題の多いカリスマなのだと、思い出した。
夜叉は続けて、「俺は今独り者で、あの女どもとは正式に離婚して慰謝料も支払った。養育費もお前らスタッフがネコババしてなきゃ払い込まれてるはずだろ? この上俺の遺産の取り分を主張するってのはずうずうしいだろ。いいか、第一に『俺のこの家に入れる人間を決めるのは俺だ』、第二に『親子鑑定を請求する。DNA鑑定で俺の子だと証明してみせろ。証明できないなら支払った養育費の返還を求めるし、本当の父親に損害賠償を請求してやる』と連中に伝えろ。この件でクマちゃんも呼んで」と指示した。
門根は電話を掛けながら出て行った。
部屋に沈黙が戻った。異質な存在感の門根がいなくなると、一応平安がもたらされたのだが、門根ほどではないにしろ負のオーラを醸し出している藁科が部屋全体をガン見していて、皆口をきける雰囲気ではなかった。
瑞生のポケットのスマホが振動した。送り迎えの時しか伯母ともやり取りがないので、揺れるスマホが不思議な生き物のように見えた。もしかして、伯父の具合が急に…? 不穏な思いつきに慌てたので、表示された発信元の番号を見もせずに通話に出た。「もしもし?」
:おお、その声は八重樫か?:
全く、思いもよらない相手の声だったので、思わず椅子から立ち上がった。「も、も、本永?」
:おお。お前、大丈夫か?:
「大丈夫かって、学校来ないのは本永の方じゃないか。僕は…」
情けないことに、感極まってしまった。本永の声だ。聞きたかったよ、その声を。
:俺は元気だよ、大体のところは。それよりお前だよ。大丈夫なのか?:
「大丈夫だよ。学校行ってるからね、1人で。バスに乗って」
:…やっぱり知らないんだな。そこの金持ち村の誰かがネタを売ったらしいぞ。『夜叉邸に通う美少年、夜叉最期の愛人か?』って、スクープ誌が明日発売の中吊り広告に出したのがウエブに出てるから明日には朝のワイドショーでガンガンやられるぞ:
「え?ウェブ?スクープ?」
瑞生は固まってしまったが、森山や藁科の動きは早かった。手持ちのタブレットですぐに確認して、全く別の反応をした。
「酷いな、顔だけぼかしてあっても、わかる人にはわかるだろう?肖像権の侵害とかで訴えられないのかな?」
「彼のバックの庭木に見覚えは? 隠し撮りした人を特定できるのでは?」
森山から差し出されたタブレットには、デカい文字が躍っていた。
『コスモスミライ村に幽閉されても夜叉は夜叉?夜叉邸に通う美少年は夜叉最期の愛人か?』『富豪しか住めない街、コスモスミライ村の住人の中からご指名か?』
:おい、八重樫聞いてるか? 見たか?:本永の声に我に返った。
「うん。今見た…学校行けるかな…明日」
:学校の心配なんかしてどうなる。…というか、明日はテスト前の土曜日だから学校ないだろ:
意外なことに本永は、学校の予定をしっかり把握していた。瑞生の方がすっかり忘れていて、明日学校に行くところだった。
「よくわかってるじゃん。来ないくせに」子供みたいな拗ねた口調になった。
:おお、若干強気になってるじゃないか。俺はテストには行く。単位は落とさない:
「ふーん。…そう、じゃ月曜日に」
あまりにきっぱりした本永の言いように、必死に勉強したり夜叉に会いに来たり伯母の部屋を探ったり鏑木にどつかれたりしている自分が他者に翻弄されているだけのように思えた。
通話の切れた手の中のスマホを見ていると、皆の視線を感じた。瑞生は1人1人と目を合わせて行った。森山は同情しきりという顔。藁科は無表情。サニは距離を置いて見ている顔。夜叉は、森山のタブレットを片手に、画面と瑞生を見比べていた。
「お前が、俺の最期の愛人か」ふっと息を吐いた。瑞生には一瞬息が蒼く見えた。
ポーン
頭の中で、ドの音が聞こえた。夜叉は話し相手を求めた。それは伝えたいことがあるからだ。一体何をだろう。何故自分なのだろう。
門根が入ってきた。「やられたな。ま、セレブ村も一枚岩じゃないってことさ。百人いれば自分の得にしたいって奴もでる。瑞生、家の人は? うちの弁護士でいいか? いやお宅の実業家は子飼いの弁護士じゃないと了承しなそうだな。考えてみたらうちとは利益が相反することも考えうるから、別がいいな。家の人に連絡は?」
「弁護士ってなんで? さっきの肖像権?」
「いや、人権侵害かな? こういうトンチキを止めさせるのは訴えるのが一番いいんだ。抗議だけなんて屁でもない。…見ろよ、スクープが拡散してる。『夜叉の隠し子なんじゃないか?』だって。夜叉とぼかした瑞生を並べてるぞ。写真加工してやがるな」その場で誰かに電話し始めた。「ネットで未成年の写真が拡散してるの止められますか? 夜叉をこの村に押し込んだ連中に『感謝を示せ』ってかましてもいいそうです」
「門根、クマちゃんに今の隠し子話を利用して、元妻どもにDNA鑑定を承知させろ、と伝えて」
「呆れた。あんた、ゾンビでもやっぱり夜叉だな。どうした。本当の子供だけに相続させたいとか、出てきたのか、気持ちに」ちょっと不思議そうな口調で門根が聞いた。夜叉は返事をしない。
またポケットのスマホがブルった。ナーバスになった矢先だったので瑞生は飛び上がって驚いた。伯母からだった。
:瑞生、今や…例の家?そうた…伯父さんがね、退院するってきかないのよ。ウェブの記事を読んだものだから。先生方が説得してくださってるのだけど。もし退院したらその時あなたは家にいた方がいい。また連絡するわ。こちらは車ですぐ家に着いてしまうから、そうなったらあなたは走って帰るつもりでね:
誰に言うでもなく、「伯父さんが退院するって言ってるらしい。この記事を見たんだって。僕がここに来るの、内心賛成してなさそうだったから、きっと、もう来られなくなる…」と言うとがっくり椅子に腰を下ろした。
「これで問題がますます複雑になったね」森山が頭を振った。
先の尖がったブーツを大きく組んだ足で揺らしていた門根が「そうだ!」と膝を打った。「瑞生の伯母さん、そこらのモデルよりよっぽど美人だろ? 下手すると不倫だの隠し子だの、そのためにここに家を買っただの、書き立てられるぞ。あの気難しい伯父さん、激怒しそうだな、やばいぞ」
「この環境って、最悪。余生を送るのに複雑な人間関係なんて必要ない」藁科の怒りの声は無視された。
瑞生は足が震えるのをぎゅっと手で押さえながら呟いた。「伯父さんにあの家から追い出されたら、行くとこがない。だから、ここに来るのを禁じられたら従うしかない。あの人、伯母さんが浮気してたとか言われたら、どう反応するか想像もできない。怖いよ…」
瑞生の脳裏に、美しすぎる妻を見る宗太郎の姿が浮かんだ。
「俺の養子になるか」夜叉が言った。
声の小ささに反して、周囲の反応は大きかった。
「何言ってんだお前、車椅子の伯父さんに殺されるぞ」と門根。
「そんな不倫を認めるかのようなこと、冗談でも言わないで下さいよ」と森山。
「本当の子供の親子鑑定をする一方で他人を養子にする意味が分からない」と藁科。
「いいじゃないか。お前は血に囚われるのが苦痛なんだろ? 俺とお前には100パー血の繋がりがないんだから。安心して暮らせる」夜叉は周囲に非難されても意に介さない。
「今は、決められないよ…」やっとのことで反応してみせた。
「おい、お前、本気にすんなよ」門根がビビらせようと凄んだが、瑞生も、森山ですら動じなかった。