2015年6月10日
2015年6月10日
こうして夜叉宅訪問は、瑞生にとって唯一の救いになった。
さすがに外様の容態はクラスメイトも気になるらしく、ホームルームで質問が出た。榊先生は「脳内で出血して…取り除く手術が難しい場所らしい。血の塊が神経を圧迫する影響がでているので登校は控えるそうだ。もうちょっと、かかるかな…」と説明した。家が近いために欠席プリントを届けているという女子が、「大名に会えたことないんだよ。なんか、もっと重そうな気がする」と休み時間に皆に報告していた。皆一様に、外様を案じて沈痛な面持ちだ。
外様が回復しない限り本永も登校できないとわかっていたので、ダブルで沈む気分だった。本永は多分挫けてしまったのだ。HIV感染の恐怖に蓋をしながら高校生活を送ることに。外様という頼もしい理解者が現われたと思ったら、直後に相手が学校に来られなくなった。道しるべを失った迷子のような寄る辺なさに再び突き落とされた心境なのだろう。外様のすくすくと育った健全さは、半分闇に落っこちてる本永や瑞生にとって、眩しく輝く光源なので、求めてしまうのは必定なのだ。
「八重樫、どこに仮入部するの? 決まってないなら、アイドル研究会に来てみない?」後ろの席の佐々木が声をかけてきた。
「アイドル何? 何を研究するの?」
「地下アイドルの押しメンを発掘して紹介したり、他校と情報交換したり…。実際は握手会の整理券ゲットの相互扶助が多いけど。皆が八重樫を誘えって…。体育実技さぼり、いやパスだから運動部は無いだろう、なら脈があるんじゃないかって言うんだ」佐々木は寝癖を撫でつけながら言った。瑞生はまじまじと佐々木を見た。栗色の癖毛が育ちのよさそうな柔和な顔を縁取っている。
「アイドルオタク同好会に行くくらいなら、アニソン研究部においでよ」
「八重樫君なら自分がアイドルになれるよ。そこは軽音でしょ」
いつの間にか周囲に来ていた女子が一斉に話し出し、佐々木は飛び上がって驚いた。
「佐々木、抜け駆けで八重樫君ゲットしようとしたでしょ。部の昇格がかかった同好会らしい姑息なやり方ね」以前油断のない目で瑞生のギャップを指摘した女子が、佐々木を非難した。「東、怖ぇ~」佐々木の声にさらに人が集まってきて、瑞生はギブアップした。
「部活は、まだ、ちょっと考え中…。か、帰るね…」鞄を抱えて一気に教室から走りだし、通用口を抜けてスクールバス乗り場に避難した。
テスト前で部活禁止だからバスは混んでいた。半袖の中に1人だけ長袖だと目立つのか、周囲に見られている気がした。自意識過剰を自分に戒める。
しかし、刺すような視線を感じて振り向いた先に、鏑木がいた。
昨日は冷たすぎたかな。でも鏑木の一方的な好意の押しつけを2度も食らい、本永が喜ぶどころか消耗したのは確かだ。そこに全く気付かずに存在をアピールしてくるなんて、ずうずうしいにも程がある。
瑞生は無視を決め込んだ。第一、取り次ぎさせられただけで、鏑木と話したくて話してたわけじゃないし。
「あの、これ…」
後方の鏑木に気を取られていたので、自分が何か落としたことに気づいていなかった。隣のつり革を握っている女子が渡したのは、薄いブルーの折り畳まれたメモのようだ。
ブルーのメモを使った記憶はなかったけど、受け取った二つ折りの紙を開くと、『テストが終わったら、お友達になってくれませんか。 一年A組 立和名 紗琉』とあり、スマホの番号が添えてあった。改めてメモを渡した女子を見ると、恥ずかしそうに俯いた。
ふん
とくるはずだった。ところが鼻息など出てこない。代わりに、「これ、なんて読むの?」という驚くべき言葉がすらすらと出てきた。
「タチワナ サリュウです」「ふーん。そう読むんだ、珍しい苗字?」
「そうですね、大概読めないって言われます。ヤエガシもゴージャスな苗字ですよね」
「そうかな? 画数は多いよね」
普通の高校生の初々しいカップルのように話していた。立和名は頬を薄っすらとピンクに染めて笑顔を見せた。
「おい、押すなって。混んでんだから移動すんなよ」
後方から苛立つ声が聞こえた。「イテッ足踏まれた」「ちょっと、鏑木、動くのやめてってば!」ざわつきがバス全体に伝染した。運転手がマイクで「どうしたの? 具合が悪い人がでたの? そうでなきゃ、駅まで我慢して大人しく乗っててね」とアナウンスすると、収まった。
漏れ聞こえた名前に不吉な予感を覚えたが、そちらに背中を向けて、隣に立つ立和名を見ていた。ちょっと見過ぎて、立和名が困惑気味なのがわかり、慌てて車窓に目を逸らす。
「テスト前に、ごめんなさい…。渡せたらいいな、と思って持ち歩いてたんです。そうしたら、バスで隣に立てたから。今勇気を出さなきゃと焦ってしまって。あの、本当に忘れてください。テストが終わったら思い出してください」
「忘れてだの思い出してだの、忙しいね」瑞生が笑うと、彼女も笑った。後方が再び騒然としていたので、周囲の耳を気にせずに話ができた。
しかし駅に着くと騒ぎが待っていた。バスの中で熟成された鬱憤が降車の際に噴出したのだ。あわやステップで将棋倒しかと思うほど、皆が急いで降りたがった。どっと吐き出された高校生が不機嫌に散っていく中で、小柄な女子が男子にどつかれた。数名で取り囲んでいる。
「お前、常識ってもんがないのかよ。全員駅まで行くんだから、焦って車内を移動しなくても、降りてから友達と合流すればいいんだ。お前に足踏まれたの、俺だけじゃないはずだ」
「そんな優しいもんじゃない。こいつはみんなの足の上を歩いて進もうとしたんだ」
「なんで顰蹙買ってるか、わからないの? あなた、1度も謝ってないのよ。超非常識、1年のくせして。ここは『ごめんなさい』でしょ」
誰が囲まれているか想像はついたけど、瑞生は立和名と軽く会釈して別れ、駅の改札とは逆方向の伯母の待つロータリーに向かった。途中、鏑木に自分に近づくことなどできないのだと、知らしめるために、ゆっくりと、揉めている集団を振り向いて見た。鏑木を非難する1年生も加わり、本当に集団になっていた。
鏑木がどう対応するのか、さして興味がないのでロータリー目指して歩き続けた。わっと声がしたと思ったら、瑞生は後方から何者かに体当たりを喰らった。
「な、なんだ?」幸いつんのめっただけで転びはしなかったが、体当たりをした方は瑞生のリュックに跳ね返されて芝生に尻餅をついた。「鏑木…?」
さっき鏑木を囲んでいた集団が駆けつけた。「お前気は確かか? 関係ない奴を襲うなんて」「八重樫、大丈夫か?」「あんた、ジャンキー本永にかこつけて、八重樫君に猛アタックしてるって、評判悪いわよ」それぞれが鏑木を非難する言葉を口にしながら。
鏑木は一気に立ち上がると、「それ! それが間違ってる! 本永君はジャンキーなんかじゃない! 本永君は八重樫のボディガードでもない! 本永君がいないからって、みんなが八重樫に群がるのが嫌なのよ!」と叫んだ。
「…え~と、何言ってるんだこいつは? 1年、説明してくれ」上級生が困った顔で1年生を見た。憮然とした男子が「俺らだってわかりません。本永が休んでるのは八重樫と関係ないのに、なにキレてんだよ」、女子も「強面のジャンキー本永がいない方が八重樫君に話しかけやすいのは、当たり前じゃない。そもそも八重樫君を呼び捨てして、本永より下に見る意味がわかんないし。あんた、勝手に絡んで、勝手に八重樫君と親しい気がしてるんでしょ」と呆れて言う。
「だって、本永君の具合を教えてくれないんだよ、こいつ」
鏑木の言いように、瑞生もむかついた。「知らないんだから、仕方がないだろう」
「あたしがあげたピアスだって、返してきたじゃない」
「本永に返してくれって頼まれたんだ。君こそ、一方的に渡してきて、本永が困ってることくらい、察しろよ」
「あ~聞いたことある。鏑木って好きな子にプレゼントしまくって、相手にされないと怒るって。あんたジャンキーにそれやって、スルーされてキレてんの? 八重樫君に当たるなんてお門違いもいいとこじゃない」
「要するに、色恋沙汰か。それならバスの中で相手に突進するな」「今聞いた感じじゃ、彼は好きな相手の友達なだけでしょ? 体当たりする意味が分からないわ。テスト前で気が立ってるのかしら」「学年主任の先生に報告するからな。バスの中で騒ぎを起こすなんて、一歩間違えば事故を誘発するんだぞ」
「私から校長先生にお電話しましょうか」
突然冷ややかな大人の声が入ってきて、その場にいた皆がはっとして声の方を見た。
「あ…」“伯母さん”という言葉を飲み込んだ。人前でなんと呼べばいいのだろう。打ち合わせをしておくべきだった。しかし、伯母は困惑を見越していたようだ。
「先ほどから聞いていたのだけど、うちの息子が原因ではないようね?」
伯母に見つめられ、上級生たちは頭をぶんぶんと縦に振って、「はい、はい」と同意を示した。1年生は皆口を開けている。伯母は神々しくその場を掌握し、こうのたまった。
「友人同士楽しく騒ぐのはいいと思うわ。でも、このような街中で衆目を集める騒ぎは慎んでほしいわね」
「はい、はい! 十分言い聞かせます。先生にも報告して、注意してもらいます」
「そう、よろしくね。じゃ、瑞生、行きましょう」
瑞生の中の擦れた部分が、どう振る舞うのが最適かはじき出した。
「心配してくださってありがとうございます。さようなら」と上級生にお辞儀をし、1年生に目で礼を言い、伯母には黙ってついていった。
「はぁ~」、残された集団から一斉に漏れる溜め息が聞こえた。
車の中で、伯母を見た。伯母は運転中一度も、さっきの事件に触れない。おそらく、ロータリーに来るはずの瑞生が一向に現れないので、様子を見にスクールバスの降車地点まで来てくれたのだ。そこで遭遇した瑞生の忌々しき事態に出動したということなのだろう。
助けがないとヤバいほどだったわけではないが、あの場を丸く収めてくれた手腕というより、圧倒的美貌に感謝すべきなのだろう。瑞生だって、外で見る伯母があんなにも美しく気品に満ちて、誰だって魅了される特別な存在だとは知らなかった。
部屋に戻って、急ぎテスト勉強をした。夜叉の家に行くまであと40分しかない。「なんか…慌ただしいな。まぁいいんだけど」両親のこと、外様と本永のことを考えないでいられるのは、ある意味有り難い。参考書を取ろうとして体を捻った拍子に、床にブルーのメモを見つけた。着替えた時にズボンのポケットから落ちたのだ。
『立和名 紗琉』
名前も可愛い。薄っすら微笑んでいる自分に気づいて、ばつの悪い気持ちになった。そこで、テスト後に成績優秀者と落伍者は名前を張り出されることを思い出した。優秀になれると思うほど夢想家じゃないけど、マジに落伍はまずい。やれる限りのことをやらないと。
ブルーのメモをコルクボードにピンで留めて、夜叉の家に電話をした。
知らされていた番号は、夜叉の家の固定電話の番号だ。数回のコールで出たのは森山だった。あの藁科じゃなくてよかった。胸をなでおろしながら、「すみません。テスト勉強があるので、今日からしばらく休みたいんですけど」と告げると、:ちょっと待って:と保留音になった。
:ふざけんな。一度やると決めたことをテストごときでさぼれると思うなよ。時間通りにちゃんと来い:
「え? 夜叉? あっ、あ、ちょっと…」
通話は切れていた。
むっつりとした瑞生の顔を見て、森山は何も言わずに既定の準備を施した。
「よく来たな。約束を守る男だと証明したわけだ」
部屋に入るなりこう言った夜叉の勝ち誇った蒼い顔を見て、むかっ腹を抑えられなかった。
「僕はゾンビとの約束を違うような生者代表じゃないからね」
バチバチッ、漫画ならこういう字が書き込まれるシーンだ。
夜叉は満足そうに「俺が見込んだのは、そういうブラックなお前だ。死ぬまで楽しませてくれそうで、安心したよ」と笑った。
ふいに窓際のソファから人物が立ち上がった。第三者がいたというだけでびっくりだったのに、それが黒い肌だったので、瑞生は驚いて起立したまま口がきけなかった。
「ヤシャ、口悪いの、良くない。彼、可哀想」
瑞生が生まれて初めて至近距離で遭遇した黒い肌の人物は流暢な日本語を操った。会いしなの不機嫌な顔つきもどこへやら、目を丸くしたままの瑞生を見て、愉快そうに夜叉が説明した。
「前に言っただろ。サニ。キューバで蘇った俺が発狂しなかったのは彼のお蔭だ。サニは医者だ。道中も付き添うために、キューバの面子維持の同行医師に立候補してくれたんだ」
「キューバのメンツ?」
「ゾンビーウィルスを世界で初めて入手するチャンスを、人道的見地から手放して、俺を日本に返してくれたんだ。せめて諸外国よりも詳しい最新の報告を得る権利はあるだろう? 特にアメリカよりも、ね」夜叉が片目をつぶってみせた。“ゾンビのウィンク”、映画なら、ゾンビの出てくるドタバタコメディになるのだろうけど、これは現実で、目の前の夜叉はカリスマのオーラを放ちながらも、蒼くてもの哀しかった。
サニはひょろっと痩せた巨人で、テーブルを挟んで座る瑞生と夜叉の中間に陣取った。黒い大きな瞳を瑞生に向けて、「ヤシャが、検査できるもの、何かわかる?」と聞いた。
「ええと、注射やレントゲンはダメだから…、身長体重、計測するもの、おしっこ。尿検査は大丈夫でしょう?」
「イエス。他には?」「う~ん」
「体温。ヤシャは体温が下がり始めている。ジェイコブのノートによると、体温が下がり始めるのは危険な兆候」と言いながら、タブレットのグラフを示した。瑞生の目を引いたのは、体温の描く線ではなく、サニの細くて長い指だった。繊細な美貌を誇る夜叉の、予想外のぽてっとした指とは対照的だ。
瑞生は空を切って雄弁に語る指先に目を奪われることが多かった。人は話に夢中になると、無意識に手や指を動かすものだ。意識して作られた表情よりも、その胸の内が生々しく感じられる。瑞生は他者を生々しく感じたいわけではないのに、宙を彷徨う指に惹かれてしまうのだった。
「危険?」
「そう、先がないってこと」すかさず夜叉が答えた。サニは優雅に頭を振って、「ノー。ヤシャ、彼がびっくりする…」と夜叉を窘めた。
「あ…」もしかすると、テストで一週間もここに来なければ、時間切れもあると考えたから、夜叉は休みを許さなかったのか。
それを説明するためにサニが話し始めたのだとすると、夜叉とサニは互いを気遣いあう間柄ということだ。
事務所からは絶縁され、マネージャーの門根にボロクソに言われ、担当医の森山にも“我儘”と評されているカリスマロックスターの夜叉が、蘇った時に助けてくれたとはいえ、短期間に他者と親密な関係を築いているとは、ちょっと意外だった。
そのことを突っ込もうとする前に、サニが「ミズオ、名前の由来は?」と先に聞いてきた。
「由来? 本当にサニは日本語が上手なんだね。由来?さぁ、聞いたことないなぁ」こう言うとサニは目を剥いて驚いた。「男の子の名前の由来を父親が語らないなんてある?」と瑞生と夜叉を交互に見た。
夜叉は「俺は“靖史朗”だけど、なんだったか、親父が“井上靖”って小説家が好きで、祖父ちゃんが『史朗だけは譲れん』って揉めて、両者を立ててくっつけたって聞いたな」と言った。
「やすしろう? 夜叉の本名が?」と瑞生。「言いにくい名前だね」
「だろ? バンドの連中はともかく、ファンが音を上げてさ。“やすしゃん”が“やしゃ”になった。デビューする時にかっこつけて漢字にしたんだ」
「ふ~ん。やっぱり由来があるんだ…。“瑞生”は…、母の訳ないしお祖父ちゃんでもないし、たぶんお父さんが付けたんだと思うけど」
「“ミズオ”の“ミズ”はwater?」とサニ。
「ううん。漢字が違う。…あ、でも、伯母の名前を知った時に思ったんだ。父が“雪生”で伯母は“霞”で、気象用語だなって…」
「で、お前が“ミズ”か」
「うん。父の元の苗字は“笹宮”だけど母方の養子になって“火浦”になったんだ。僕なんてそう思うと“火”と“水”だよ」
「う~ん、面白いな」
サニが真剣な顔で「僕、前に見た。“ウラ”は“逆”とか封じ込める意味があるって…」タブレットで探しているが見つからないようだった。
「そりゃ“裏”だろう。漢字が違う。サニにはわかりにくいだろうけど」と夜叉が指摘する。いつもの夜叉とは違って、訂正してあげてる感じだ。
「それのこと。“裏”の意味を“浦”にも持たせたとか…なんで読んだのかなぁ」
「ああ、サニの読み漁る日本語知識本みたいのなら、ついてけない。日本人より漢字オタクだからな。しかしサニの説でいくとお前の名前ってかなり意図的につけられてるな」
「う…ん。考えてみると不思議だ。伯母だって“霞”だよ。女の子には普通“香澄”とか、同じ読みでも可愛い漢字を充てるよね。…ということは、伯母は何か知ってるかもしれないってことだ。聞いてみようかな」瑞生は言っていることと相反する思いだった。伯母には名前の由来どころか父のことや実家のことすら聞ける気がしない。
「お前の弱点は、案外その辺のことを知らないことにあるんじゃないか? 決めた。本日の宿題は、『自分のルーツを探索せよ』だ。伯母さんに聞くも調べるもよし、手段は任せる」
サニが森山の待つA室まで送ってくれた。瑞生は宿題をどうしようか迷っていたし、テスト勉強もあるので、気が重くなっていた。夜叉の体温の話が脳裏に刻みこまれていたので、後回しにはできない。ヒントが欲しくて、サニに聞いてみた。
「サニの名前の由来は何? お父さんから聞いたんでしょう?」
するとサニは一瞬、黒い瞳を泳がせた後「サニは通称だよ。本名は普段は使わないんだ。僕の一族では大事なものだから」と体を折り曲げ、瑞生の目を覗き込んで答えた。
“一族”。
今まで自分に縁があると思ったことのない言葉だ。でも、夜叉の家で、初めて父と伯母の名前が明らかに意味を持ち、自分の名も、その一環で名づけられたのかもしれないと気づいてからは、“一族”という言葉は、特別な輝きを放ち始めていた。
家に戻ると、いつも通り夕食はラップをかけて冷蔵庫に入っていた。この家はいつもしんとしているのに、今日はなんだかざわついている気がする。3分で夕食を済ませ、2階に上がろうとした時、看護師に出くわした。村のアンチエイジング(AA)センターから週2回派遣される看護師が夜にいたことはない。入浴や着替えなどの日常の世話はヘルパーがしている。階段の上からヘルパーの曽我さんが降りてきた。
「伯父さんになにか?」と聞くと、タオルを抱えた曽我さんは「1階で大きなクシャミをした時にろっ骨を痛めたらしいの」と教えてくれた。「問題はその衝撃で落としたタブレットを拾おうとして、車椅子から旦那様自身がつんのめって落ちたことなの。手も痛めたし、肩か腰をやっちゃったかもしれなくて。もうすぐ何人か来るから、AAセンターに運ぶところ」
宗太郎の体のことは聞いてはいたが、現実に骨の脆さで緊急事態になろうとは思ってもみなかった。「お、伯母さんは…?」
「つきっきりよ。奥様は肝が据わっているから、こういう事態になっても冷静に対応してくださって助かるわ」
伯母が結婚してこの家に住むようになる前から伯父に仕えていた曽我さんは地味だけど気のいいしっかり者で、伯母を評価していた。
すぐにセンターから応援が駆け付け、伯父をそっと抱えて運び出していく。
伯父とは、夜叉宅訪問初日に気のない挨拶をして以来ほとんど向き合って話をした記憶がない。心配して血圧が上がったと聞いていた。「伯父さん…」思わず声をかけた。
伯父を捻れた格好のまま運んでいる一行が止まった。できるだけ振動を与えないようにしている看護師が首だけ瑞生の方を見て、「『大丈夫』だって」と伝えてくれた。「『君はテストと約束を頑張りなさい』って」
伯母が一階の奥から出てきた。「後でLINEするけど、スマホの電源を切るかもしれないから。これがセンターの電話番号。私は戻ったり出たりになると思う。明日の朝食は…」
「大丈夫、何か食べるし、学校にはバスで行けるし。あとで容態がわかったら教えてください」
思いもよらぬ事態に、勉強机に向かったものの呆然としてしまう。伯父に何かあったら、伯母には資産があるのだろうか…。少なくとも今夜、父のことや名前の由来を伯母に訊ねようとしていた計画は実行不能になってしまった。
ともかく気持ちを切り替えて目前のテストに備えなくては。やる気をだそうと、時間割の貼ってあるコルクボードに目をやる。
「あれ?」
立和名からもらったブルーのメモがさっきとは違う形になっていた。
瑞生は“立和名 紗琉”という均整のとれた文字が、一目で見えるようにピンで留めて行ったのだ。しかし今は、もらった時のように真ん中で折れていて、パッと見、名前は読めない。
これが何を意味するのか。
瞬間的にカッと頭に血が上りそうになったけれど、考えてみれば鍵をかけずに出かけたのは自分だ。車椅子でも出入り自由だし、伯母・伯父だけでなく曽我さんも看護師ですら、容疑者になりうる。それに秘密にしたいのなら、スマホに登録してさっさとメモなど破ってしまえばよかったのだ。
ちょっと考えて、瑞生は侵入犯を結論付けた。
仮に伯父の仕業だとしよう。留守中車椅子で部屋に入る事がないとは言えない。しかし夜叉の家からは何も持ち出せないので、部屋の中を見ても目ぼしい成果は期待できないはずだ。契約書を隅々まで読む宗太郎なら、そんな無駄な労力は使わないだろう。
曽我さんと看護師はもっと単純にありえない。瑞生に興味がないからだ。すると、消去法で伯母しかいないことになる。
伯母は瑞生が鏑木の騒ぎに巻き込まれたのを助けてくれている。学校生活は順調なのか、訝しんでちょっと様子を見にきて、コルクボードのメモを発見し思わず手に取ってみたのかもしれない。
卓上の薫風学園関係の書類入れを見た。瑞生は紙類を上下左右揃えておかないと気が済まない性質なので、本もファイル類も上部はびしっと水平になっている。ところが今日に限って何枚かが微妙にはみ出していた。その2枚をゆっくりと引き上げてみた。案の定、学年名簿の、瑞生のいるC組と立和名のいるA組のものだった。
そのまま机に向かい、黙々と勉強をした。1時間ほど経った頃、伯母からLINEがきた。『肋骨と左の鎖骨を骨折していました。これから手術をします。持ってきた物で今日のところは足りそうなので家には帰りません。セキュリティがオンになっているか確認してから寝て下さい。明日の朝食はキッチンにあるもので済ませて下さい。困った事が起きたらLINEしてね』
伯父の体において、骨折の手術がどのくらいの大事なのかわからなかったので、骨形成不全症について調べてみた。ネットには思いの外患者自身のブログがあったので、幾つか覗いてみた。そこには、友人や家族と語らい、ゲームをしたりなど違いはあれど、笑顔や希望のあるそれぞれの確かな生活があった。宗太郎の内から滲み出る怒りのようなものとは本質的に違っていた。
伯父への軽い落胆を抱いたままタブレットを閉じると、喉が渇いていることに気づいた。瑞生はキッチンに紅茶を淹れに降りた。
瑞生の部屋は2階の1番奥だ。横にバスとトイレがあるので人の出入りを感じることはある。伯父の体を考えて、伯父のためのバスルームや寝室は全て1階にある。家の真ん中にエレベーターがあるのは、当主の2階に行く権利を保証してのことだろう。2階は伯母のための階になっている。ランドリーや乾燥室、空き部屋(今では瑞生が住んでいる)、作業部屋兼ヘルパーの控室があり、伯母の部屋は階段に一番近い。従って階下に行くにはその前を通る。
何気なく通り過ぎてから、違和感を覚えた。降りかけた階段を上り伯母の部屋を見ると、ドアが開いていた。
開いたドアの隙間から調度品がちらりと見えた。その瞬間から、心臓がバクバクいうのを止められなくなった。
これは、『入ってもいい』という啓示だろうか? いつもドアがきっちり閉まっているから伯母の部屋の中を見たことはない。伯母が水色のメモを見た。瑞生は父や父の実家の話を知りたい。伯父の緊急事態で伯母も慌てたのだろう、ドアを開けたままで出かけてしまった。この事実の積み重ねは、自分を部屋へと誘っているみたいじゃないか?
腕時計を見て時間を確認する。9時過ぎ。深夜ではないから泥棒っぽくはないはずだ。いや時間は関係ないか。呼吸を整えて、伯母の部屋に入った。
そこは瑞生にとって異次元空間だった。大人の女性の部屋で、薄いグリーンの壁紙とモスグリーンのカーテン、ベッドカバーは紅の小花が散った柄でシルクの白が光沢を放ち、シンプルな木製家具が幾つかあるだけだった。無駄な物のない、塵一つない美しい部屋だ。
まず机の上を眺めたが、几帳面な伯母のこと、出しっぱなしの物はない。
そもそも自分は何を探しているんだ? 家系図? 日記? アルバム? 本が数冊(写真ぴらりがないかもちろん振ってみた)の小さな飾り棚に日記もアルバムも見当たらず、やはり収納場所を探すことになった。まず物入れを開ける。裁縫道具と作りかけのキルト、そんなに重要ではなさそうな物たち。クローゼットも割り切って開けた。高そうな服多数。さすがにいい趣味だ。母の奈津美とは育ちが違うのだ。その育ちを知る術を探している。
どこも難なく開く。部屋の鍵を必ずかけるなら、引き出しは無施錠でもいいわけだ。あるいは引き出しのように平凡な場所に重要な物を入れてはおかないか。
浅い引き出しに小さな名刺入れがあった。捲っていくと、瑞生にしつこく聴取をした刑事の名刺があり、薫風学園の校長先生のもある。これらは皆、今年の3月以降に入手したものだろう。
引き出しに最近の物があるのは普通だ。でもそれ以前の物は? 伯母にとってここは下宿先じゃなく居住地で、趣味の合わないインテリアや旅行の土産物など蓄積していくものではないのか。それに、写真が1枚もなかった。
考えられることは? 伯母が断捨離の達人で、使う物以外はすぐさま処分してしまう主義なのか、ネットオークションで売りさばくやり手なのか。
ウォークインクローゼットの奥に、コートに隠れるように棚があった。そうか、ジュエリー。金持ちなら指輪やネックレスを入れておく金庫があってもいいはずだ。棚の上の古めかしい宝石箱を指紋が付かないように慎重に開けてみた。
入っていたのは、サファイアやエメラルドのシンプルな指輪。石が大きくて価値は高そうだが今風のデザインではないようだ。八重樫家の奥さまが身に着けるカッコいいジュエリーは? そういうのは宗太郎からのプレゼントだろう。きっと現金とかと一緒に宗太郎の管理下の金庫に収まっているのだ。そうするとここにある宝石は、古さから言っても伯母が結婚前から持っていたものと考えられる。つまり父の実家と関係ある品と言う事だ。
瑞生はシンプルな貴石の指輪を眺めた。もちろん今までに宝石の指輪を見たことはない。真贋などわかるはずもない。しかし何故か、この輝きは皆本物であると確信した。サファイアと思しき指輪を手に取ってみた。台座の細工は繊細で、古いかもしれないけど上品だ。瑞生は宝石箱の指輪を好ましく思った。
母の奈津美は素材が何か気にもせず、キラキラしていてキティちゃんがついてる物をやたらと身に着けるのが好きだった。キティのトートバッグを野添に買ってもらったと、さんざん見せては奥の部屋に格納していた記憶がある。
母は野添の家でほとんどの時間を過ごしていたのに、キティのバッグはいつも火浦家に置いていた。父は母同様、母の持ち物にも興味を示さず、触れもしなかった。瑞生は父とは違う意味で、その部屋に近づかないようにしていた。
あの狭い家に、母の部屋だけは厳然と存在し、母が高校生活を送っていた時のままになっていた(キティのバッグは増えていたが)。祖父が死んでも、母が出て行っても、それぞれの部屋の持ち主はそのままで、父と瑞生が好きに使うスペースはなかった。
伯母が専業主婦であっても、元々宗太郎の家だ。伯母より古参の曽我さんのような人もいる。大事な思い出の品を仕舞う場所はこの家にはないのかもしれない。
「他に収納場所があるとすると…実家?」
瑞生の脳裏に伯母の言葉が蘇った。夜叉の家に瑞生が行くことになった前日に、『車を飛ばして実家から関連本をとってこようか』と伯母は言ったのだ。
実家があれば、父雪生と伯母霞関連の物はそこにあるだろう。この八重樫宗太郎の家を探しても無駄ということだ。
笹宮の実家がある…。そこには誰が住んでいるんだろう。お祖父さんやお祖母さんが今も生きているのかな? 父の葬儀に出たのは伯母だけだったが。どれに関しても全く聞いたことがないから、想像がつかない。
部屋を出ようとして、もう一度だけ、あのサファイア(多分)の指輪を見たくなった。鍵のかかっていない宝石箱に気安さもあった。
指に嵌めてみたいと思ったのではない。何故こんなに青い輝きを放つのか、ともかく見ていたかったのだ。10分ほど堪能した後、メッセージでもないかと調べてみると、宝石箱の底に、一冊の本が入っていた。ドキドキしながら引っ張り出してみる。
「くまのプーさん?」
それは幼児用の薄い絵本ではなく、書籍の厚みを持つ本だった。ペン画のクマを見ると伯母の乙女な面を感じる。宗太郎といる時は精神的に男に近いと感じるのに。
ぶ厚い表紙を開けると、中はくり抜かれて空洞になっていて、小さな箱と待望の写真が入っていた。
「こうこなくっちゃ、と言うべきなんだろうな」独り言を言ったのは興奮を誤魔化すためだ。白木の小箱は紙で封印してあったので、和紙の封印の切り口を誤魔化せるとは思えず開けるのは止めた。
写真は3枚あった。高校の制服を着た伯母と父の雪生が写っている。フォトスタジオに見本で飾れそうな出来だ。2枚目を見て、はっとした。こんなにも美しくこんなにも屈託なく笑っている父を見たことがない。溢れる幸せを隠すことなく、安心しきって撮影者に笑いかけているのだ。おそらく伯母に。
3枚目を見て、目を疑った。こちらを見ている父と、父の腕に抱かれている幼い子供…自分だ。写真を灯りに近づけて見る。記憶に全くない。でも、これは自分だ。父が母に内緒で作ってくれていた瑞生のアルバムに、これと同じ服で何枚か写っているのがあった。父が撮ったものだから、瑞生は1人で写っていた。そのアルバムは火災で燃えてしまって、もうない。
2枚目と違い、父は撮影者を見ているが、笑ってはいない。だが、目で何か語りかけている、抱いている瑞生にではなく、伯母に。写真を見て嫉妬を感じていた。そして、その写真を元通り戻すことに我慢ならなかった。自分には父しかいないのに、その父を火事に奪われたのに、写真すら残っていないのに。伯母の写真の中で、父は伯母に微笑んでいる。伯母だけに語りかけている。
小箱と2枚の写真を元通りプーさんの本に収め、宝石箱の底に戻した。逃げるように伯母の部屋を後にした。
持ってきてしまった写真をどうするか。コルクボードのメモから察するに、伯母はこの部屋に自由に出入りしているようだ。急に鍵を閉めるようになったら、隠し事をしていますと宣言したも同然だ。今まで通り、オープンな状態であるべきだ。結局生物の参考書に挟んだ。向こうがプーさんならこっちはリアルアニマルだ。本を開くとぴらりと落ちるマンガのような状況を自ら作り出していると気づいて、自分の滑稽さに苦笑した。




