湖の乙女[ブルーノ視点]
パシャリと小さな音に気付いて湖の方に視線をやると、そこに湖の妖精がいた。
空の青を映した湖面に浮かぶ青い花びらのような彼女。
金の髪は緩い風になびいて彼女のむき出しの腕に、細い首に、バラ色の頬に、金の光をまき散らしている。
鮮やかな青いドレスのスカート部分は大胆にまくり上げられて、細い腕が青い花束を抱えるようにしてスカートが水面に触れないようにしている。
そのせいで、水面と抱えたスカートの隙間から今まで日に当たったこともないだろう真っ白で細い腿がちらちらと覗いている。
「っ……!!」
澄みきって清浄な水面の上に、一面に広がる花畑から最も綺麗に咲き誇っている青い花を一輪摘み取って浮かべたようだ。
サンドラ当人はまるで子供のように無邪気な笑顔を浮かべながら、足で湖の水をかき回して時々蹴るように水を跳ねあげては楽しそうにその飛沫を無邪気に眺めている。
その様子はこれ以上無いくらい清純だ。
なのに、スカートの影になっている彼女の太腿に、伸ばした腕の内側に、白いうなじに、揺らめく水面に反射した日の光が優しく無遠慮に光の指先を這わせている。
無垢でいながら、それでいて余りに扇情的なその光景に息をするのを忘れそうになる。
こっそり見ているのは失礼かとも思ったが、視線を引き剥がせない。
はっと横を見ると、シリウスも魂を抜かれたようにその景色に呑まれていることに気が付いて、一気に不愉快な気分が込み上げてくる。
あんな姿を男の前で晒すなんて何を考えているんだ。
自分だけならいいのかという自問する声が頭の中に響いているが、それよりもサンドラを止めないと。
そう思って俺が歩き出そうとした時、サンドラが湖の深い方へもう一歩進もうとしているのが見えて、隣にいたシリウスが甘美な催眠術からやっと抜け出したようにはっとして、焦ったようにサンドラに向かって走り出した。
「サンドラ!?」
シリウスの叫び声に驚いたのかサンドラが慌てて振り返ろうとして、ぐらっと体勢を崩すのが見えた。
湖に倒れ込む! と思ったが、シリウスがぎりぎりで捕まえることができた。
ばしゃん!
……その代わり、シリウスが派手に水の中に倒れてしまった。
「おい! シリウス大丈夫か!?」
「……ああ、なんとか」
波打ち際からシリウスに声をかけると、少し呆然とした様子のシリウスが返事をしてくる。
頭からずぶぬれになったシリウスはサンドラの方を見上げて何か忠告しようとしたらしいが、楽しくて耐え切れないといった風のサンドラの笑い声に遮られてしまった。
「あははは! シリウスったら助けてくれたのはありがたいけれど、ずぶぬれよ!?」
「……おかげさまでね…」
憤慨したように言ってくるシリウスを見て、サンドラが「もういいや」と言うように、纏めて持っていたドレスのスカートを大きなリボンを結ぶようにして、腿の辺りからずり落ちないように止めている。
形のいい膝まで丸見えだ。
「……サ、サンドラ!?」
湖の中で両手を水底に着いたままだとちょうど目線の先にサンドラの剥き出しの脚があるようで、視線を逸らしながら慌てて立ち上がったシリウスだったが、それでも視界の隅にどうしても入ってくるようで、俺と同様目のやり場に困っているようだ。
なんでサンドラは恥ずかしいとか思わないんだ。
それとも平民は足を晒すことに抵抗は無いのか?
とにかくシリウスとサンドラを湖から引き上げようと、靴を脱ぎ捨ててばしゃばしゃと水の中に入っていく。
「これだけ濡れたらもう意味ないわよね」
それなのにサンドラはそう言って、おもむろに両手で湖の水を掬って俺とシリウスにばしゃっとかけてきた。
「おい!?」
焦る俺を見て、鈴を振るような楽しげな笑い声をあげて更に水をかけてくる。
「ちょっ! やめっ!!」
シリウスはもう全身ずぶぬれだからいいだろうけど、俺はまだ足しか濡れてない!
びっくりしたようにサンドラの様子を見ていたシリウスだったが、楽しそうな声を上げるサンドラの笑いの発作がうつったように、あろうことかシリウスまで俺に水をかけてくる。
おいーーっ!!
仮にも姫と王子が何やってんだ!
容赦なくかけられる水を腕でなんとかガードしながら、その交差した腕の隙間からシリウスとサンドラの様子をうかがうと、シリウスが今まで見たこともないような幸せそうな顔をしてサンドラの方を見ていた。
ああ、そうか。
唐突に判ってしまった。
シリウスは恋に落ちたんだ。
今までサンドラに好意は持っていたはずだが、湖に落ちると同時に恋にも落ちたらしい。
そんなことをぼんやり思っていたらガードが甘くなっていたようで、サンドラがすくった水が盛大に俺の頭にかかった。
冷たい水が、髪を濡らしてそのまま首筋を伝い服の中へ入ってくる。
ひっ! と声をあげそうになって思わず文句が口からついてでる。
「おいアレク! 何するんだよ!」
「ブルーノこそ! やり返せばいいのに」
そう言って声を上げながら笑う俺たちを見て、シリウスが固まったように
「……アレクって…?」
と聞いてくる。
「あ……」
はっとした。
「ごめん! サンドラ。なんだかアレクと一緒に遊んでいるような気になってた」
「……いいのよ。私もつい夢中になってしまったわ」
お互いの小さな失敗が気まずくて、困ったように俯く。
しかし、切り替えるようにサンドラが湖の方を見ながら言ってきた。
「ベリルも来ればよかったのに」
「そうだな。あいつもずぶ濡れにしてやりたかったよ」
ベリルにも一応声はかけたが、サンドラと一緒と聞いて「物好きだな」と眉をしかめられてしまったのだ。
ベリルがどうしてあんなにもサンドラを毛嫌いしているのか良く判らない。
「そうだ、今度はアレクも一緒に連れてこようぜ。アレクは子供の頃から色んなことを我慢してきたんだ。さっきみたいな水遊びを子供の頃にアレクやベリルとやったことがあるけれど、アレク当人は水を浴びたかったらしいのに我慢していたみたいなんだ。でもここなら人目を気にしなくていいだろう?」
我ながら良い思いつきだ。
得意そうに話す俺を、サンドラが信じられないものを見るようにぱちっと大きな瞳を見開いて俺を見る。
あれ……? サンドラの瞳が緋色じゃなくてアレクと同じ青緑色になっている。
そのことについて聞こうと口を開いたら、サンドラがすっと俯いて小さな声で独り言を呟いた。
「……気付いてたんだ……」
「え? 何が―――」
サンドラのセリフの真意を確かめようとしたら、俯いたままのサンドラの目元が少し潤んでいるような気がして口ごもる。
「アレクのことを、見ていてくれてありがとう」
そう言ってこちらを見上げてきたその顔は、申し訳なさそうな、嬉しそうな、不思議な表情だった。
「サンドラにお礼を言われる筋合いじゃないさ。だってアレクとは子供の頃からの友達だしな!」
「そう……そうよね」
サンドラの目元が光を弾くように潤んでいるように見える。
今の会話の中で泣くようなことはないはずだから、水でも跳ねたのかな。
確かめる為に、アレクと同様のサンドラの細い顎に無意識に指をかけようとした時、シリウスが少しうらやむように声をかけてきた。
「ブルーノやベリルはアレクと小さい頃からよく一緒に遊んでいたのか?」
「あ? ああ、そうだな特にベリルは国王陛下の妹君の息子だからな、アレクとは兄弟みたいによく一緒にいたぜ」
「……兄弟みたい、か」
自分のやろうとしたことにはっと気づいてその気まずさを振り切るように答えれば、シリウスが独り言のように小さく言う。
「本当の兄弟は、仲がいいとは限らないんだぜ」
まるで自嘲のような響きをもったそれに思わず聞き返そうとしたら、シリウスが遮るように俺たちに声をかけてきた。
「二人とも、そろそろ上がらないと風邪をひいてしまうぞ」
「そうだな、でもそれを言うならシリウスが一番風邪をひく可能性が高いんじゃないか?」
さっきのセリフはどういう意味なのだろうと思いながらも聞かれたくない様子のシリウスを見て、逆に少しふざけた感じで返しながら陸に上がろうとした時、後ろからサンドラの少し沈んだ声が聞こえた。
「―――ごめんなさい…」
肩越しに振り向くと、サンドラが纏めてあるドレスのスカート部分を両手でぎゅっと握りしめながら湖の中で立ち尽くしている。
「何が?」
「……色々あるけど、濡れちゃったわね」
「何を今更。こんなのすぐ乾くさ」
そう笑って答えれば、やっと顔を上げてこちらを見たサンドラの目元は、なぜか赤くなっているような気がした。
「ありがとう。アレクのこと兄弟みたいだったって言ってくれて」
「どういたしまして、それに兄弟っていうなら、サンドラこそアレクの兄妹だろう?」
サンドラの存在を知った当初はベリルと一緒になって本当かと疑ったものだが、これだけアレクに似ているのだ。
アレクの言うとおり、確実に王族の血を引いているのだろう。
「アレクのことを大事に思ってくれていたのに、私が取り上げちゃったみたいね……」
「そんなことないぞ? あいつにとって信頼できる者が周囲に多くいることは良いことだし、確かにサンドラが来てからアレクが人前に出ることは少なくなくなったけれど、それはサンドラには関係の無いことだろう? 気にするなよ」
「うん、そうね……」
サンドラが少し困ったような笑顔で頷く。
そんな表情は、本当にアレクとそっくりだ。