猫パンチ
こんな夜半の誰もいない部屋の中、一つのソファーに並んで座り、両肩を掴まれて私に正面から信じられないことを言っているシリウス。
「……は?」
たっぷり10秒間は沈黙した後、私が発した気の抜けた声にシリウスは逆におかしさが込み上げてきたのか、ついさっきまで真剣な顔をしていたのに、今は耐え切れないように吹き出して、私の肩に手を置いたまま俯いてクスクスと笑っている。
「……っ、ごめん。アレクでもサンドラでもそんな顔初めて見たから」
至近距離からの珍しいシリウスの屈託のない笑顔と、さっきのセリフに心臓が跳ねる。
待て。
まてまてまて!
思考回路に負荷がかかりすぎて眩暈がしてくる。
体力的にも精神的にも限界だ。
シリウスはそんな私を見て軽く笑い
「今日はこれくらいにしておこうか。とりあえず俺の事は伝えたから。もう部屋へ帰った方がいい時間だしな」
シリウスはそう言って、ドアの外側に追いやっていた私付きの侍女を呼ぶ為に席を離れた。
その背中を見送りながら、ソファーに置いてある心地いいクッションに思わずばすんと背を持たせかけるように沈みこむ。
疲れた……。
一体どういうことになるのだろう。
シリウスが?
私を好き?
信じられないというのが正直な感想だ。
でも自分に都合の良い言葉を拾った私の中に、どうしようもない幸福感が沸いてきて思わず目を閉じる。
すると、先ほどのシリウスの顔と声が瞼の裏によみがえる。
私を呼ぶ、心地いい響き。
ホットミルクを飲んだせいか、体の中からぽかぽかと温まっていく感じがする。
そして、心まで。
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とても幸せな夢を見ていた気がする。
誰かに名前を呼ばれたけれど、この心地よさから離れがたくて目を開けるのが嫌だった。
その内ふわふわと空を歩くような感覚がして、空を飛んでいる夢を見ていたら、真っ白の雲の上にふわりと降ろされた。
傍らの暖かさが離れていく感じがして、思わず手を伸ばしたことは覚えている。
それから覚えているのは、私の髪を撫でる優しい手のひらの感覚。
はっと目が覚めると、久しぶりの心地よい寝起きに目をバチバチとさせる。
視界の先には見慣れない天蓋。
そうか、今私は隣国の王宮にいるんだ。
昨夜の夜会ではずっと立ったまま挨拶とダンスを繰り返していたせいか、体はまだ少しだるい。
ずっと気を張り詰めていたので、それが少し緩んだ途端に疲れがどっと出たらしい。
馴染のある部屋でもないのに、ぐっすりと眠れたことを不思議に思いながら目を擦ろうとすると、右手が何かを握っているのに気付く。
自分の手を見ると、何かを握りしめている。
その肌色の先には白いシャツに包まれた腕があり、更にその先には鍛えているフォルムを浮かび上がらせている肩と胸板が。
そして銀の髪が掛かる明るい青い瞳が私を見て言う。
「おはよう」
「―――っっ!?」
自分では止める間も無かった。
頭でシリウスだと認識する前に、子供の頃から身につけた条件反射で手が出る。
「―――っ、うぐっ!!」
勢いのついた拳は自分では止められず、スローモーションのように自分の拳がシリウスの端正な顔にヒットするのを間近で見て、慌てて謝る。
「ごめん! シリウス!!」
さすがのシリウスも、おはようの挨拶をした瞬間にパンチが飛んでくることは想定外だったようで、私の拳を避け切れずに結構派手な音を立ててベッド脇に倒れこむことになった。
自分の服装を見てみると、きちんと夜着を着ているし『そういうこと』があった感じはしない。
逆にシリウスは上着を脱いだだけで昨夜の夜会の時のままのようだ。
シリウスが倒れた音を聞きつけたのか、部屋の傍で控えていたらしい王宮付きの侍女が慌てたようにノックしてきた。
さすがに飛び込んでくることはしないのか、と感心したが、どうやら部屋の中の私達を慮ってのことらしい。
何もしてないよ!
してない、はず。
全く記憶無いし、体に違和感も無いし!
侍女が床に倒れ伏すシリウスを見て、慌てて他の者を呼びに走って行こうとする。
「誰か! 王太子殿下が賊に!」
あ、これをやったのは私です……。
賊ではありません!
侍女が廊下に飛び出て他大勢を連れて来たら、私がシリウスをのしたのが王宮中にばれてしまう!
さすがにこれから末永くうまくやっていこうという国相手にそれはまずい。
とうっ! とベッドから飛び降りて、侍女に後ろからタックルをかけてふかふか絨毯の上に引きずり倒す。
「ひぃ!?」
背後が見えていなかった侍女は、賊が部屋のどこかにまだ隠れており、次は自分が襲われたのだと思ったようで、せめて悲鳴を上げようと口を開けた。
思わず背後からその口を塞ぐ。
「もがもがっ!?」
「誤解、誤解だから落ち着いて!」
どうしようかと思っていたら、侍女の最初の叫び声を聞きつけた私付きの近衛の者が
「どうなさいましたか!?」
と慌てて走りこんで来たが、部屋の様子を見てドアの前で硬直していた。
ベッド傍では私のバンチが顎に当たったせいで軽く脳を揺さぶられたシリウスが、ベッドを支えにしてよろよろと起き上がろうとしており、床には必死の眼で助けを求める侍女と、それを背後から馬乗りになって口を塞いでいる私。
「……」
あれ、この場合私が賊っぽい?
その後で、近衛騎士達にこっぴどくお説教を受けました。
でも私の初期消化のおかげで私の失態が王宮中に広まることはなかったで、そのことについては褒めてほしい、と言ったら
「そもそも婚約者に朝の挨拶をされて、その相手を殴り飛ばす人間がどこにいるんですか! 昨夜他の者から話を聞いた時には、絶対ロマンチックな展開になっていると信じていたのに……」
と叱られながらも、残念な子を見るような目で見られてしまった。
しょうがないじゃないか、驚いたんだから。
それにしても皆、婚前交渉推奨派なのか。
逆にびっくりだよ。
そもそもなんでそんなことになったのか確認してみたところ、昨日シリウスと会話をした後、侍女が部屋へ呼ばれるほんの数分の間で私が眠ってしまったのが原因らしい。
起こそうとした侍女を制してシリウスが部屋まで運んでくれて、侍女が寝ている私の着替えをしてくれたのだが、寝ぼけた私がシリウスを呼んだらしく気を利かせた侍女がシリウスを呼んできてくれたらしい。
周囲はきっと色めいたことになっていると想像していたらしいが、呼んだ私はすっかり寝こけていたらしく、シリウスは寝ている私を起こすこともなく側についていてくれたらしい。
そして目覚めた私にパンチされたと……。
「ごめんなさい……」
色々ひどいことをしてきている私だが、今回ばかりは圧倒的に私に非がある。
すぐに意識を取り戻したシリウスだったが、念の為王宮医師に診てもらい異常が無いことを確認してもらった。
ただ軽い脳震盪だったとのことなので、念の為今日一日は激しい運動はしないよう言われたらしい。
今日はこの国内を馬で案内してもらえる予定だったが、王宮で静かに過ごすことになった。
午後になり、シリウスの様子を確認するのと、謝罪の為に二人きりのお茶会を侍女と近衛の者がセッティングしてくれた。
話す内容が内容なので、前回の時のようなオープンエリアではなく、奥まった部屋のバルコニーにテーブルと椅子を持ち込んでいる。
バルコニーの前にはこじんまりとした、手入れの行き届いた庭園が広がっている。
「いや、俺も油断しすぎた。慣れない場所で目覚めた瞬間に予想外のことが起きたら、手が出るのは俺も理解できるから」
私の拳はほぼ無意識だったも関わらず、確実にシリウスの顎を狙ったらしく、シリウスの顔を正面から見ると全くなんともないように見えるが、指輪を嵌めたままパンチをしたせいで、顎下に赤く擦傷が付いてしまっている。
先手必勝が護身術の基本だからな。
しかも本当に賊相手なら、状況確認の前にとにかく相手を戦闘不能にすることが大事だから、そのあたりは私よりも襲撃慣れしているシリウスの方がよくわかっているのだろう。
襲撃慣れって……嫌な響きだなぁ、と思いながらどうすればシリウスに詫びを入れられるだろうと考える。
私の気詰まりに気づいたらしいシリウスが、私の緊張を解きほぐすように、開いたバルコニーから数段階段を下りて綺麗に手入れされた中庭へ連れ出される。
早咲きの真っ白なバラが綺麗に咲いている。
この寒い気候の中でこれだけきれいに咲かせるとは。
もしかしたら品種改良とかをしているのかもしれない。
雪はもう無いのに、この中庭だけ雪が積もったように白い花が咲き乱れている。
「綺麗な庭ね」
「ここは俺がいた離宮を見てくれていた庭師が整備してくれているから、何を話しても大丈夫たよ」
賊(?)騒ぎがあったせいで、部屋の方には何人か使用人に紛れて近衛騎士も控えていたが、この場合は誰から誰を守ることになるのだろう。
……私からシリウスを守るのか?
前科持ちはつらい。
庭園のあちこちに植えられた木々の影に隠れてしまえば、バルコニー傍で待つ者達から私たちの姿は見えなくなる。
綺麗に咲き誇っている白いバラの花びらではなく、鋭い棘の方に触れながら、どうお詫びをしようか考える。
するとシリウスが困ったように言ってきた。
「何、まだ気にしているのか? 本当に気にしなくていいのに」
「でも私の気が済まないわ。何かして欲しいことはない?」
今なら気に入ってる人間の役職付けでも、新しい城でも思いのままだ。
お金なら我が国の方で潤沢な資金が用意できるし、資材ならこの国の物が使い放題だ。
人手だって、二つの国を合わせればいくらでも集まるだろう。
役職だって、今度国家合併プロジェクトを立ち上げるからそのメンバーに選出してもいいし、選出されて開いた穴を埋める為として希望の役職に据えることもできる。
基本的にシリウスの希望は聞くつもりだけど、どんな願いがくるのか身構えていたら、シリウスは少し考えていたずらを思いついたように軽く笑いながら言う。
「じゃあキスがいいな」
「キ、キス!?」
「そう。婚約者同士なら別にいいだろ? もっとも今朝の騒動を知らない人間は、もっと先まで進んでいると勘違いしているらしいけど、さすがにそこまではね。同意が無い限り手は出さないよ」
と、さらっとした顔で言う。
どうしよう。
まだ好きかどうか返事はしていないけれど、婚約者なんだし確かにキスくらいしても別に構わない。
どきどきなんてしてないんだからな!
ジルとした時だってどきどきしなかったし。
ただ単に唇と唇をくっつけるだけじゃないか。
「いいわよ」
私の返事が逆に意外だったのか、一瞬目を見開いて硬直するシリウス。
私の気が変わる前に、と思ったのか軽く手を差し出されたので誘われるまま手を乗せてみる。
周囲に人影は無い。
さっき口に出してしまった承諾だが、今になってむず痒いような気恥ずかしさが沸き上がってくる。
シリウスが私に向き合う。
そうすると、明るい青い瞳が私だけを映しているのが判る。
瞳の中の自分を見つめていると、シリウスの銀糸の髪が風に揺れて私の鼻先に触れそうなほど近いのに気づく。
顎に長い指が添えられて軽く上を向くようにされる。
近い。
ちかいちかいーーーっっ!!
もしかしたら震えていたのかもしれない。
思わず閉じた瞼の向こう側で、シリウスが少し笑う気配がしたかと思ったら、唇ではなく額に軽く音をたててキスされた。
「とりあえず今日はこっち」
額に手を当ててから、そのまま熱くなった顔を押さえるようにすると、シリウスが微笑みながら私の手を左手で取り下へ降ろさせながら言う。
「こっちはまた今度」
シリウスはそう言うと、空いた右手で私の顎に指を添えて支えるようにして、親指の腹で私の唇を軽くなぞり口紅を指に移して見せる。
この世界の化粧品は全て自然素材を使っているし落ちやすいのだ。
親指の先に付いた紅を、私に見せつけるように自分自身の唇にその親指をぐいっとこすりつけるようして紅を移す。
少し乱暴なしぐさで移ったその紅が、酷薄そうに見えるシリウスの顔に赤いバラの花びらが舞うように見えて、一気に体温が上がる。
「少しずつ慣らさないと逃げられそうだ。その様子だとキスしたことは無いんだろう?」
というシリウスの言葉にも、ぐるぐると回る思考にとらわれて意味がよく分からない。
ぼーっとしたまま、つい正直に答えてしまう。
「いいえ、キスならこの間したわ」
「……ふぅん、じゃあ遠慮は要らなかった?」
一気に剣呑な雰囲気をまとわせ始めたシリウスに、つい腰が引ける。
「いや、少しずつでいいから!」
それよりも誤解させてしまったかもしれない。
キスした相手はジルだし、あれをカウントしていいものか悩むところだ。
言うなら今しかない!
「私の好きな人は―――」
勢い込んで言おうとした私をシリウスが遮る
「いいよ。今は聞きたくないし、それに君が誰が好きでも俺に振り向かせればいいわけだし」
そう言って、今まで見たことがないような不敵な顔で微笑みかけてくる。
あれ、これ先に言っておいた方がよかった?
これからまたこんな恥ずかしい目に合わされるってこと?