木の上の猫
一体、誰が誰を嵌めたのか。
ベリルの父親は、王太子の座をベリルに渡したくて、占い師の話を国中に広めた。
隣国の国王は、第一側妃を抱いていると勘違いさせた。
隣国の騎士団長は、寂しい第一側妃の体を奪い、第一王子を身籠らせた。
隣国の宰相は、正妃と先王を殺した。
第一側妃は、第二側妃を殺してまだ幼いシリウスに重症を負わせた。
シリウスは、自分を餌に第一王子と騎士団長を引きずり出した。
そして私は?
国民相手に情報操作を行い、断罪を免れようとしている。
第一王子の言い分も聞かず、その命を絶った。
自分の父から信頼を勝ち得て、投げやりになりかけていた隣国の国王へ、国家統合の話を持ちかけた。
ベリルやブルーノの気持ちを無視して、でも今までの関係は続けられるように、その身は手放さずに側に置こうとしている。
そして、シリウスと婚約を結ぼうとしている。
成り行きでこうなっているようだが、他にもいくらでも道を選ぶことはできた。
それでも、これが私の一番望んだ形のはずだ。
注意深く一つ一つ枝を辿るように上ってきたのに、気が付いた時にはその高さに思わず足がすくむ。
でももう足を止めることは出来なくて、更に上へと登るしかない。
本当にこれでよかったのか。
今なら第一側妃の気持ちが判る。
権力や能力全てを使って手に入れた場所なのに、拒絶されるかもしれないという恐怖。
『私』の中で、建前の私が喚いている。
「違う。違う、愛してなんかいない。必要だから。それが国にとって最善だから」
愛してないから、たとえ愛されなくても寂しくないし、軽蔑されても嫌悪されても怖くない。
シリウスが私に触れる必要があるとしても、嬉しいなんて思わない。
だって、一度嬉しいと思ってしまったら、シリウスが離れていったら寂しくなるから。
愛してもいないし、嬉しくもない。
それならば、
寂しくもないし、怖くもない。
剥き出しの感情を向けられるのは苦手。
それに応えられるだけのものを持っていないから。
この容姿や知識や権力に縋って来る人間相手ならいくらでも対応することができる。
どう返せばいいのか判るから。
でも。
『私』本人を見られるのは怖い。
ベリルやブルーノは子供の頃から一緒だったから、私の汚いところも受け入れてくれるのは判るけれど、シリウスが私を好きになる要素が思いつかない。
逆にシリウスが真実を知ったら、嫌われることしか想像できない。
人が止めるのも聞かずに木の上まで登ってきて、今更泣いて助けを求めるなんてできない。
もし助けを求めても、私の望んだ人からの助けが来なかったらどうするの。
他の人の手は全て断って来たのに。
このまま木の上で一人、誰の声も聞かないようにたった一人。
最初から助けを求めなければ、絶望することもない。
私は望んで一人でいるのだから。
そう、自分に言い聞かせる。
薄情で、人から逃げてばかりの、臆病者の私。
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落ち着いて話せる所へ、ということで人気の無くなった夜会の会場から、国王の執務室側の小部屋へ案内される。
シリウスとしては離宮がいいのだろうが、王宮からは少し距離もありもう夜中の為移動も面倒だ。
今日は夜会が開催されている関係で執務に来ている者もおらず、大掛かりな人払いをしなくても比較的人の通りの少ないエリアになっている。
静かな通路をシリウスに手を引かれ静かな足音を響かせながら歩いていく。
この国も我が国も、女性は夜会の時に手袋は付けない者の方が多い。
流行の問題もあるのだろうが、綺麗に手入れされた手や爪を異性に見せることが、自分がどれだけ大切にされているのかを相手に示すバロメータになっている。
それに相手に直に触れることができると、それだけ相手から得られる情報量が多くなるのだ。
体温・汗の有無・手の震え、それに気配まで感じ取ることができる。
たとえ顔は皆同じように笑っていても、直に触れればそれぞれ違う感情が自分へ向けられているものが判るのだ。
シリウスの手から伝わってくるのは、純粋な好意しか伝わってこない。
それと、彼も私の反応を伺っているような気配がする。
まるで触れ合った手が鏡のように探り合いをしているようで、自分の心まで見透かされそうで思わず振り払ってしまいそうになるが、それこそこちらの心を読まれてしまうことになる。
「サンドラ、どうかしたのか?」
自分の感情を殺して、何も読み取らせないようにしたのに気付いたように、その壁を壊すようにシリウスがこちらを覗き込んでくる。
「……なんでもないわ」
そう言って、案内された部屋を見回すと、先に連絡しておいたのかこの王宮付の侍女たちが簡単な夜食と飲み物を準備していた。
さっきの夜会ではお互い飲み物に少し口をつけるだけで、それ以外は殆ど何も口にしていない。
侍女は準備を済ませると、部屋の隅に立ちシリウスの指示を待つようだ。
何か用事がある際はすぐに対応できるように、という配慮もあるだろうが、婚約したとはいえこんな夜半に男女が一つの部屋の中に閉じこもるのは、周囲に肉体関係があるということを喧伝するようなものだ。
それなのにシリウスは護衛の者も侍女も、全て部屋から出してしまった。
ドアのすぐ向こうにはいるのだろうし、窓の外にも配備されているだろうからこちらが大きな声やベルを鳴らせば来るのだろうが、普通に話す分には聞き取れないだろう。
「この方が気楽に話せるだろう?」
確かに、よく知らないこの国の侍女相手だと気を張り続けなければならないし、今からシリウスに聞こうとしていることも婉曲にしか聞けない。
でも、隔絶された空間の中でシリウスと二人きりという状況に、気を緩めるどころか緊張が高まってくる。
もうここまでお膳立てされて、誤魔化すなんて無理だ。
シリウスは小部屋の中央に置かれた豪奢なソファーにばさりと座り、今まできっちりと止めていた襟に、存外にしっかりした男の指を指し込んで軽く頭を振りながら緩めている。
その様は、まるで学園にいた時のシリウスそのままでなんだか嬉しくなる。
そしてそんな些細な仕草にまで、気がついたら視線が奪われている自分に愕然とする。
立ち尽くす私に気付いて、向かいのソファを勧めてくれる。
「……失礼いたします」
おずおずとソファーに座る私を見て、シリウスが目を見開いて驚いたように言う。
「どうしたんだサンドラ、いくら慣れない場所とはいえ、借りて来た猫みたいだぞ」
「……猫なんかじゃないわ」
居心地が悪くなってそう突っ返すように言ってみれば、シリウスが素直に謝って温かな飲み物をカップへ注いでくれる。
でも。
「これ、何かしら」
「見ての通りホットミルクだが」
「だから猫じゃ―――」
「今日はほとんど何も食べていないんだろう? まずは胃に優しそうなものを入れておいた方がいいだろう。寝る前だしお茶は避けた方がいいしな」
確かに、寝る前にカフェインを取りたくない。
「……」
沈黙で返しながら、温かなカップを手で包むようにしながら口をつける。
最初からそのつもりだったのか、入れてあるカップもティーカップではなく、保温性の高いマグカップのような物だった。
私の国では余り馴染の無いカップだ。
シンプルな地厚の入れ物で、素朴な味を出している。
一口ホットミルクを飲みながら、珍しそうにカップを眺める私を見てシリウスが軽く笑いながら言う。
「こちらの国の方が冬が長いからな、もっと寒い時期ならホットワインにジンジャーやシナモンを入れた飲み物もあるぞ」
「それもおいしそうだけど、今はそこまで寒いわけではないわね」
「そうだな、今度の冬にはそちらを一緒に飲もう」
一緒に。
ぴくりと肩を揺らした私に、言葉を続ける。
「長い付き合いになりそうだからな。ところで話って何? サンドラも今日は疲れただろうし、俺は別に明日でも構わないけれど」
「……いいえ。今日話しておきたいの」
このままだと生殺しだ。
とても安眠なんてできない。
息を一つ吸ってシリウスに聞いてみる。
「シリウス、貴方はどこまで知っているの?」
「どこまでって……。何のことかな」
シリウスが私に表情を読ませないように、穏やかな笑顔を浮かべたままはぐらかそうとしているのが判った。
私から言わせたいのか。
それとも本当に判らないのか。
覚悟を決めて、喉を一度ごくりと鳴らして口を開く。
「だから、……私が―――」
「サンドラがアレクだって? 逆か、この場合はアレクがサンドラになったって言った方がいいのか」
私が最後まで言う前に、シリウスがさらりと口にする。
「……なっ!」
「あれ? 言いたいことってそれじゃなかったの」
逆に聞いてくるシリウスを見て、思わず絶句しそうになる。
「一体いつから……」
「大分前かな。最初に気付いたのは、学園でアレクを保健室に運んだ時だったけれど」
「え?」
何それ、知らない。
くすりと笑いながらシリウスが言う。
「あれ?ベリル言ってなかったんだ。君が裏庭で眠り込んでしまったのを、ベリルが保健室まで運んだ時だっあっただろう。あの時ベリルから俺に交代して運んだんだ」
聞いていない。
じゃあ、私はシリウスに抱かれて運ばれたことがあったということか。
その事実に、恥ずかしさが駆け上ってくるが、逆にそんな自分に戸惑う。
なんでこんなことで、私は今更恥ずかしがっているんだ。
ベリルやブルーノ相手なら全然大丈夫だし、そもそも裸だって見られても気にしないのに。
シリウスに気付かれないように焦る私の沈黙をどう捕えたのか、シリウスが当然のように言う。
「アレクを腕の中に抱いてみて、おかしいと思わない方が異常だよ。まあベリルは子供の頃から一緒だったからこそ『アレクが男』だというのは何を置いても大前提だったんだろうけれど。目を閉じた『アレク』の顔立ちも何もかも、湖で俺が見た『サンドラ』の寝顔と全く同じだったし」
まだ絶句している私を見て、シリウスが続ける。
「最初はアレクが女じゃないか、とだけ思っていたんだけど、アレクとサンドラが同一人物なことはベリルを見ていて気付いたんだ。決定的だったのはデビュタントの時かな」
「デビュタントの時って……」
ベリルと二人バルコニーに出て、それを追いかけてきたシリウス。
「そう、ベリルは頑張ってアレクの振りをしていたけれど、指のサイズまでは変えられなかったみたいだしね。それにアレクとサンドラを見る目が同じだし」
「……どう思った?」
声が震えないように気を付けながら聞く。
「ベリルはやり過ぎだって思ったよ」
そう冗談めかすように言ってくるが、私が聞きたかったのは、今までその事実を隠し続けていて皆を欺いていたことについてなのに。
それにベリルがあんなことをしたのには訳がある。
ベリルの気持ちを見ないようにし続けてきた私。
「あれは……私も悪かったのよ」
「そうだな、アレクが悪い」
「でももう和解したから」
ここに来る前の騒動を思い出して少し笑みが漏れるが、ベリルのことを思い出している私を見て、シリウスが何故かおもしろくなさそうな顔をしている。
「ふぅん? まあ最終的に君と婚約を結んだのは俺ということになるから別にいいが、……君が俺を選んだのはこの血の為にだけ?」
建前の私が肯定する。
「……『我が国として』一番大事なのはそれかしら。シリウスのことは嫌いじゃないし」
一つため息をつきながらシリウスが言う。
「じゃあ……誰か好きな人がいるのか?」
「い―――」
『いない』と言おうとして思わず口を閉じる。
油断していないシリウスにこれだけ注視されている状態で、なんと答えればいいのか。
『いない』と嘘をついても、きっとシリウスは誤魔化されずに、私に誰か好きな人がいることに気付くだろう。
嘘をつくときには、一部だけ本当のことを加える必要がある。
「いるわ」
「……誰か聞いてもいい?」
「いいえ、シリウスには教えられない」
シリウスが少し傷ついたような顔をする。
それはそうだろう、政略上とはいえ婚約者に既に好きな人間がいると聞いたのだから。
でもその残念そうな顔を見て、私は少し嬉しくなる。
政略上の婚約者でも、少しでも独占欲を持ってくれているのなら。
「―――君は、好きな人がいるのに俺と婚約していいのか……?」
「ええ、伝えるつもりもないしね」
そう、伝えるつもりは無い。
この想いには蓋をする。
もうこの話題を切り上げるつもりで、シリウスに逆に聞いてみる
「シリウスには好きな人はいないの?」
いないはずだ。
だって、今まで学園で接する機会のある女生徒はサンドラかジルしかいなかったはずだし、ジルのことを好きな様子は殆ど無かったのだから。
惰性で聞いてきている私の様子に気付いたのか、シリウスが一度口を開いて息を吸い込んで、何かを決意したように口にする。
「いる」
時が止まったような気がした。
長い一日のせいで、疲労が溜まった体に思考が停止しそうになる。
「……そう」
シリウスが痛いくらいにこちらを見ているのが判るが、私は今どんな表情をしているのだろう。
私を襲うのはとてつもない罪悪感。
自分の事しか考えておらず、シリウスの気持ちは考えたことがなかった。
否、考えるのが嫌だった。
なぜ今聞いてしまったのだろう。
せめてもっと前に聞いていたら、違う選択をすることもできたのに。
できた?
本当に?
「だ―――」
誰なの、と勝手に聞きそうになる口を、舌を噛むことで無理やり閉じる。
シリウスの顔を見ていられなくて、目の前のローテーブルに置かれたマグを見つめる。
それでも視界にシリウスが入り込んで、そのまま視線を自分の膝に落とす。
蒼天のドレスに銀の刺繍。
なんて滑稽なんだろう。
やっぱり、一番欲しい物は手に入らないんだ。
でも生きていられるだけでも良しとした方がいいか。
国家合併に伴って、王族の血の統合も行う必要がある。
男なら相手にそんなに興味を持っていなくとも性交渉をすることは可能らしいから、私を相手にすることも可能だろう。
視線を落としたまま機械的に建前の言葉を紡ぐ。
「そうなの、私が婚約者になってしまってごめんなさい。でも子供は産まなければならないし、シリウスには申し訳ないけれど付き合ってもらうことになるわ。……もし私相手じゃ無理なようなら、我が国の王族の血を引いている娘も相手にして貰っていいかしら。シリウスの好きな方を側妃に向かえる手伝いくらいならできるわ。側妃を複数持ってはいけないという法も無いし」
そんなことを俯いたまま滔々と言っていたら、私の横に誰かが座るのを感じた。
「側妃を何人も持ってどうする。俺が欲しいのは一人だけだ」
「側妃を一人でいいの?」
シリウスが不愉快そうに低く底冷えのするような声を出しながら、私の隣にいる。
「なんだよそれ。そもそもサンドラはそれでいいのか?」
「いいわ」
だって、私の計画にシリウスは付き合わされているだけだから。
シリウスがまだ下を向いたままの私の両肩に手をかけて、無理やり体ごとシリウスの方に向けられる。
「俺が好きなのはサンドラなんだけど」