ヒーロー[シリウス視点]
まだ母が生きていた頃は、兄と一緒に遊ぶこともあった。
もう大分昔のことでぼんやりとしか覚えていないが、その頃は確かに優しい良い兄だったのだ。
いつからだっただろう、今のような関係になってしまったのは。
俺が「小さな頃の国王陛下に瓜二つですね」
とよく言われるようになってからか。
その度に、兄が暗い表情になっていったのを覚えている。
母が亡くなり俺の傷が癒えた頃には、兄が離宮を訪れることも、俺が本宮へ一人で行くことも無くなった。
父の足も遠のいた。
俺につけられた周囲の者達は、全て俺のことを思っての事だと言うし、父から大事にされている実感はあったけれど、寂しかった。
兄と私は血がつながっていないのではないか、と言う者もいるが、側妃が国王以外の子供を産むことなど考えられない。
―――それならば、兄はなぜあそこまで私を嫌うのだろう。
今まで間接的に狙われることはあっても、これ程危機的な状況は母が亡くなった時以来かもしれない。
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昔のことを考えながら船着き場へ着くと、準備してくれていた船が横付けされる。
この国から隣国へと流れる大きな川は基本的には穏やかな流れの為、平たい台船のような形の船が主流だ。
馬もおとなしくしているなら乗せることができるが、今回何が起きるか分からないので、途中の船着き場で周囲の様子を見ながら進むことにする。
その為、馬は川と並行して延びる道を進んでもらう。
護衛騎士5名は全員船に乗り、馬を運ぶのは城から連れてきた従卒に任せる。
もっと人手が欲しいところだが、騎士の内誰が信頼できるのかまだ見極めがつかないという問題がある。
信頼のおける近衛の者は父上付きで、今回全員サンドラの方に回してもらった。
彼女が失われることがあってはならない。
いや、『彼』か。
この国で命を落とすようなことがあれば、きっとベリルも隣国の国民全員も、この国を許しはしないだろう。
こちらの開戦派が狼煙を上げる前に、きっと隣国の兵が雪崩をうって攻め込んでくる。
父上からこの国から逃げるよう言われ、留学した先で出会った隣国の王太子。
『完璧』という言葉のとおり、文武に優れ、誰にでも優しく、そして誰からも愛されている。
最初は嫌いだった。
まるで世界中から祝福されているような彼が羨ましくて。
でも彼の側にいるのが、一番安全なことは確かだった。
俺を狙った刺客も、何度アレクの護衛が撃退してくれたか分からない。
開戦派はアレクのことを邪魔に感じており、俺に刺客を差し向けると同時に、アレクのことも狙っていた。
アレクが学園の大階段から落ちた時。
狙われていたのは俺だったのか、それともアレクだったのか。
しかし、階段から落ちた後からアレクは少し変わった。
サンドラとまるで交代するように学園には毎日来なくなったし、人の機微には疎いままだが、周囲の事をよく観察するようになった。
それと、ふとした瞬間に見せる仕草に妙に目を引かれるようになった。
『もしかして』
と思うことも多かったが、まさか一国の王太子が女であるはずがない。
しかもあの『完璧な王太子』であるアレクが。
サンドラに指輪をプレゼントしようと思った時、アレクにも揃いで作ろうと、さりげなく指輪のサイズを確認した。
その時はアレクの指の細さにびっくりしたが、そんなものかとその時はあまり気にしなかった。
でも改めて自分の指や周囲の男子生徒の指と比べると、その細さが男にしては異常であることが判った。
決定的だったのは、学園内で眠ってしまったアレクをベリルが抱きかかえて運ぶのを手伝った時だ。
あの軽さ、あの細さは男であるはずがない。
そしてあの腕。
感触も細さも全て、サンドラと同じだ。
サンドラが学園に来る時に、アレクはいない。
逆に、アレクが学園に来る時には、サンドラはいない。
そもそもあれ程仲が良い兄妹なのに、一緒にいるところを見たことがない。
ベリルはアレクと子供の頃から一緒のせいか、アレクが女であることは全く思いつきもしないようだ。
保健室でベリルがアレクの着ているシャツを脱がそうとした時、少しはらはらしたが、これで明確になると思っていたのに、何か察したのかベリルから追い出されてしまった。
その後ベリルがアレクを心配している様子はあっても、女だとは思っていないようなので、アレクが裸にされたわけではないと思いほっとした。
デビュタントの時、アレクとサンドラが連れ立って入場してきたのを見てびっくりしたが、ベリルが身代わりになっているのにすぐ気付いた。
サンドラを見る瞳が、ベリルがアレクを見つめる視線そのままだったから。
それならば、アレクは自分の事情をベリルに打ち明けたのか。
俺は余所者だから仕方のないこととはいえ、それが少し悔しかった。
何度その口から真実を話させてやろうと思ったか判らないが、じっと待つことにした。
無理に追い立てれば、きっと人馴れしない猫のようにするりと逃げられてしまうだろう。
人から向けられる感情にとことん無頓着だったアレク。
良くも悪くも人を惹きつけるその存在。
今まで無事でいられたのは『王太子』という身分故だろう。
積極的に行動に移したのはベリルだけだったけれど、他にもそういった目でアレクを見る者はきっと多かった。
以前のアレクはガードが緩かったし、そこにつけ込めばいくらでも擦り寄ることが可能だった。
アレクに対してよからぬことを考えていた輩から見ると、ベリルの態度はあからさまだった。
でもだからこそ、アレクは他の者の被害に合わなかったのかもしれない。
公爵子息を敵に回そうという者はいないだろう
今はベリルも離れているが、それをきっかけにしてアレクのガードが固くなったのは予想外だった。
あれを陥落するのは大変そうだ。
迂闊に動いたベリルに、恨みごとの一つでも言いたい気分だ。
難攻不落がさらに難関になってしまった。
第一王子から差し向けられた間者は、全てこちらで排除しておいた。
アレクの事情が間違ってもこちらの国に漏れてはいけないから。
それなのに。
今あの川岸をこちらへ駆けてくるのは一体誰だ。
顔はかろうじて隠しているが、明るい金髪に緋色の瞳、それにアレクの愛馬に跨がって。
一体何のためにルートを別にしたと思っているんだ。
「シリウス!」
視線を戻すと、目の前で私の名を憎々し気に叫び剣を振り上げる兄。
その剣を受け止めながら、まだ対岸に残っている騎士達がざわついているのが判る。
「どういうことだ!? 『賊』って一体……」
「騙されるな! あれは第二王子を騙った賊だ! ご丁寧に護衛騎士の制服まで揃えている。こんな者を国境より出してはならない!」
戸惑いを見せる若い騎士達を鼓舞するように叫び、俺の護衛騎士達と剣を切り結ぶ、我が国の騎士。
賊を雇う暇も無かったのか。
そんなに俺を排除したいのか。
こんな、同士討ちのような真似を騎士にさせて。
怒りが湧いてくるが、兄をこの手で殺すことに躊躇する。
継承権を持つ者同士での殺し合いは、そのまま内戦に繋がる。
なんとか捕縛することはできないかと思いながら剣を受け流すが、やはり兄の太刀筋は重く鋭くて自分が切られないようにするだけで精一杯だ。
「兄上! こんなことはもうやめてくだ―――」
そう叫びかけた時、風を切るような音がして、目の前の兄の首に矢が突き刺さった。
「!」
ぶつりと肉を穿つ音がして、矢の勢いで横なぎに倒れる兄。
目を見開いたまま空を見上げ、一体何が起きたのか判らないように四肢を痙攣させている。
「王子!!」
第一王子が連れてきていた騎士たちが、悲鳴のような声を上げて動きを止める。
突然のことに護衛騎士達もぽかんと見守る中、首を貫通した矢と溢れ出た血に気道を塞がれた兄の喉から、ごぶりと、空気が抜ける音がした。
兄の命が消えていくのが判る。
そしてもう助からないことも。
「よくも王子を!! この逆賊めが、成敗してくれる!」
まだ動けない俺たちに、錯乱したらしい騎士たちが襲い掛かってくる。
かろうじて剣で受け止めたが、まだ護衛騎士達も衝撃の為か体勢を立て直すことができていない。
その時、目の前で剣を再度振り上げた者の肩に矢が刺さった。
「ぎゃあああ!!」
痛みで転がる騎士を横目に、誰が矢を射たのか川岸を見ると、この船と並走するように馬を疾走させながら手綱から両手を離した状態で弓を射る彼……いや、彼女がいた。
なんだあれは、あんなことをできる人間がいるのか。
しかもきっちり狙っているらしい。
一体どれだけ鍛錬を繰り返せばあんなことができるんだ。
「賊を討て!」
そういって兄が連れてきた騎士たちが逆の川岸から矢を射かけようとするが、矢を弓につがえようとする手が止まっている。
「お…おい、あの旗って……」
「どういうことだ!?」
ざわざわと戸惑ったような若い騎士たちの視線の先には、栗毛色の馬に乗る人に追いすがるように馬を走らせながら大きな旗をたなびかせる近衛騎士。
その旗は濃紺に銀の縫い取りで大きくこの国の紋章と国王の証が刺繍されている。
「あれは……国王旗…?」
俺も何かの祭典の時にしか見たことが無い。
元々は戦があった時に国王のいる本陣に掲げるために作られた物で、あれを持つということは、国王の命を委任されているということになる。
馬を走らせながら片手に旗を掲げる近衛騎士がよく通る声で叫ぶ。
「正義は我らにあり! 逆賊になりたくない者はただちに武器を捨てよ!」
矢を射るのを止めた川岸の若い騎士達の様子に舌打ちした騎士が、自分達だけで何とかしようとこちらに向かってくる。
相手はまだ13名程おり護衛騎士と戦っている者もいるが、残った者は俺をぐるりと囲むようにして距離を縮めてくる。
覚悟を決めてそれに対峙しようと剣を構えた時、空から声が響いた。
「シリウス、どけっ!」
とっさに下がり背中にぶつかった船のヘリに捕まると、空から立派な栗毛色の馬が船の上に降ってきた。
船がその衝撃でひっくり返るのではないかと思うくらい大きく揺れて、数人が船の外に振り落とされていた。
川岸の大きな岩から馬ごとジャンプして飛び移って来たのか。
無茶にも程がある。
栗毛の馬を操り、剣を構えた二・三人を更に船から蹴り落とした後は、素早く馬から降りて金の蔦のような柄が美しいレイピアを抜く。
川岸にいた近衛騎士達は先の方にある橋から対岸へ渡ったようで、兄が用意した騎士たちの所へ駆けつけている。
それを見た『彼女』がよく通る声で告げる。
「全員抜刀! 相手を制圧せよ。ただし無抵抗の者は殺すな!」
それを聞いた船の上に乗り込んできた騎士たちが見苦しく叫ぶ。
「騙されるな! 第一王子を殺した者達だぞ! あの旗も偽物に決まって―――」
「正当な世継ぎである第二王子に剣を向ける者はこれより切り伏せる! 殺される覚悟のある者だけかかってこい!」
俺の前に立って、そう言い放つ背を見る。
父上の瞳の色と同じ濃紺のマントをなびかせて、その背にはこの国の紋章が大きく金で縫い取られている。
これは『将』のマントだ。
国王の代理としてその剣を振るうことを許された者に与えられるマント。
それ自体が一つの権限を持つ。
何をしても国王の命の元、とがめられることは無く、その場の全権を任された者。
緋色の瞳がちらりとこちらを見て言う。
「遅くなってすまない。もう大丈夫だからな」
そのセリフに、こんな場合じゃないのに苦笑が漏れそうになる。
兄の死体が横に転がり、甲板の上ではまだ栗毛色の馬が暴れまわり騎士達を蹴り落として、その度に甲板も大きくぐらつく。
近衛騎士が対岸に向かったといっても、まだ数では負けている。
そして、俺よりも死んではならない、死んでほしくない人間が、剣を持って俺を庇うように立っている。
「何が大丈夫だ。何もかも大丈夫じゃないぞ」