薄氷の上
ベリルの背に隠れて夜会の会場からの光は全くこちらに届かない。
先ほど言われた言葉が頭の中で反響する。
ベリルが私のことを好きだって?
理解できない。
理解、したくない。
ペリルが至近距離から私の一挙手一投足を見ているけれど、何も返すことができない。
襲撃者のように自分に敵意や殺意を持っている人間から感じるそれとは違う圧迫感。
いつもとは違って受け流すことのできない濃厚な『好意』が、凶器のように喉元につきつけられている。
空気が痛い、今すぐ逃げ出したい。
でも命の危険が無いのに逃げるなんて、王太子教育が染み付いたこの体が拒否している。
『逃げ』ることは最も恥ずべきものと叩き込まれているからだ。
顎にベリルの指が掛かって軽く上向かされる。
右手を反射的に握り込むが、中等部のシリウスの時のように躊躇なく拳を叩き込むことができない。
ベリルという大事な友人を失いたくないという打算と、むき出しの感情をぶつけられる恐怖と、そして罪悪感。
決断できないでいる内に距離を詰められ混乱の極みに達した時、今まで私を陰のように覆っていたベリルがばっと退いたと思ったら、眩しい銀の光が目に入った。
「アレク、かわいい妹姫をいじめるもんじゃないぞ」
シリウスが少し厳しい声でそう言うと、ベリルがどこかほっとしたような顔でシリウスからは瞳の色が見えないよう注意を払いながら返す。
「シリウスか……。別にいじめてなんかいないよ。男には注意するように言い聞かせていただけだよ」
「それならいいが、主役の二人がいないから皆探していたぞ」
「主役? 今日の主役はご令嬢達だろう」
「それでも、一番注目されるペアは『アレクとサンドラ』だろ?」
これ以上シリウスと話し続けるのは得策ではないと判断したのか、ベリルが私の方に手を差し伸べる。
「サンドラ、ホールへ戻ろう」
「ええ……」
ベリルの手を取らないと。
この場から離れる為に私も手を伸ばす。
それなのに、手が震えて差し出されたベリルの手に触れられない
「サンドラ?」
中途半端に伸ばされた私の手を掴もうとベリルが手を伸ばしてきたが、シリウスが横から腕を伸ばしてきてベリルの腕を掴んだ。
「アレク、サンドラはまだ少し調子が悪いようだ。もしかしたら慣れない夜会で人酔いしたのかもしれないな。私が見ているからアレクだけでもホールに戻った方がいい。国王陛下もいたからそちらに付いていてれば平気だろう?」
「いいや、こんな所に大事な妹を置いていけないよ。どこに獣が潜んでいるか分からないからね」
ベリルはシリウスにすげなく言って、掴まれた腕を振り払う。
そして宙に浮いたままだった私の手を取りホールへ戻ろうとする。
行かないと。
行かないといけないのに、足が動かない。
腕を引いているのに、足に根が生えたように動かない私を見てベリルが訝しげにこちらを振り返る。
自分の体に言い聞かせるように口にする。
「行くわ、私もホールに戻らないと」
そう、今日はデビュタントで主役は令嬢達皆といっても、その中でサンドラが一番位が高い。
もちろん人の目も集中する。
そんな中で長く中座することは許されない。
何かトラブルでも発生したのかと邪推されてしまう。
そう自分に言い聞かせて、ベリルに手を掴まれて強張る体を無理やり動かそうとする。
「アレクよせ、この状態のサンドラを連れて行くのか?」
シリウスがベリルの腕を強く掴んで言うと、ベリルがはっとしたようにシリウスの手を振り払うようにして掴まれた腕を離させる。
「……触るな」
「へぇ、元気になったようでよかったな。体つきも前と比べてしっかりしているみたいだし。そういえば俺が贈った指輪はどうした? いつも付けてくれていると思ったんだが」
「いつもって訳じゃないさ。たまたまだよ」
「そうか、てっきりサイズが合わなくなったのかと思ったよ。いつでも調整するので言ってくれ」
「お気遣いいただきありがとう」
二人とも笑顔で会話しているだけなのに、空気がどんどん剣呑になっていく。
何か言って止めないといけないのに、喉が干上がったようにからからになって声が出ない。
こんな二人、知らない。
「そういえば今日はベリルが来ていないようだけれど、何か知らないか?」
「……ベリルだけじゃなくてブルーノも来ていないだろ。デビュタントのパートナーでもないのに、わざわざ来ないさ」
そう言ってベリルが半ばバカにするように笑えば、シリウスが挑発するように返す。
「そう睨むなよ、アレクらしくないぞ?」
これ以上は駄目だ。
二人とも熱くなりかけているのが傍目で判る。
このままだと何か取り返しのつかないことになる。
「アレクお兄様! 私も休んですぐ行きますので、お父様に所へ先に行っていてください。シリウス、しばらく一緒に居て頂けるかしら?」
二人の間に割り込むようにして言うと、ベリルが責めるように私の名前を口にする。
「サンドラ!」
「アレクお兄様、貴方はこの国の王太子なんだから皆が待っているわ。お父様の所へ行ったらご令嬢達とダンスを踊って上げてちょうだい」
「しかしサンドラをこんなところでシリウスと二人きりにするなんて―――」
心配そうに言い募るベリルに、心配無いというように小さく頷き、シリウスへ作った笑顔で言う。
「大丈夫よ。ねぇシリウス、来賓として呼ばれた夜会で、その国の王女に手を出すなんて真似はなさらないでしょう?」
「もちろん。開戦の口実を私が作るわけには行きませんからね」
わざとらしく言う私に合わせて、シリウスが芝居がかったように返す。
「ね、安心なさって、私も少し休んだらすぐに行くわ。アレクお兄様はこのままここにいてはいけないわ」
行け。
足はまだ震えたままだが、目に力を込めながらベリルに言う。
「……わかった」
まだ心残りそうにしながらもホールに戻っていくベリルの背中を見送って、一つ息をつく。
緊張感が切れかけたせいか力が抜けてしまい、日中外の景色を眺める為に点在しているベンチに座り込む。
もう帰りたい。
それこそもう部屋に戻ってベッドの中で何も考えずに丸くなって眠ってしまいたい。
それで目が覚めたらもう一度今日の朝に戻って、均衡が崩れないように今度は注意深く運ぶことができたらいいのに。
そうしたら全て無かったことにできるのに。
「……休めたか?」
「ええ……」
「じゃあホールに戻るぞ。これくらいで立てなくなる、なんてことはないよな?」
シリウスがこちらを気遣いながらも、どこか試すように聞いてくる。
そうだ、ベリルについて考えるのは後。
今はこの夜会を乗り切らないと。
「ほら、掴めるか?」
こちらに差し出されるシリウスの、男の手。
手を取って、私もホールに戻らないと。
やはり触れるのを一瞬ためらってしまう。
男が怖いなんて。
自分だって同じ男として育てられたのに。
シリウスが小さく「……あいつ、やり過ぎだろう」と悪態をつきながら、はっと何かに気付いたようにバルコニーの外側に意識を向けるのが判った。
庭のあちこちに付けられた松明の灯りの合間、闇に沈んでいる辺りに視線をやって忌々しげに小さく舌打ちすると、今度は私を挑発するように言ってきた。
「サンドラも曲がりなりにも『王族』だろう。感情を切り変えることもできないのか?」
何を言うか。
それこそ小さい時から反復して行ってきたことだ。
前世の記憶も追加されて、感情の切り替えなんて慣れたもののはずだ。
目を瞑って一度大きく深呼吸して肩の力を抜く。
そして自分の頭の後ろの方から全体を俯瞰するようなイメージで、自分の置かれている状況を客観的に把握する。
プレイヤーになったつもりで、今は『人生』という名前のゲーム画面を覗き込んでいるだけだと思い込みながら当事者意識を外して罪悪感を横に置く。
あとは言葉。
口にして、その自分の声を耳からも聞いて、自分自身に暗示をかける感じで。
それと同時に手や足先だけでもいいからとにかく動かす。
ゲームってジルがよく口にするけれど自分も同じようなものだな、と自嘲しながら少し笑みが零れる。
無理にでも笑いを形作ったところで、そのまま脳を騙す。
笑顔を作れば、脳は『楽しい』と勝手に勘違いしてドーパミンが出てくる。
「さあ、もう大丈夫ですわ。シリウス待って下さってありがとう。お礼に一曲いかが?」
そう言いながら、こちらから手を差し出してシリウスの手を取る。
大丈夫、もう震えていない。
さりげなく頬にもう片方の手を添えて自分の顔を確認する。
頬も口角も上がっているので、ちゃんと笑えている。
灯りの溢れるホールにシリウスにエスコートされて登場した私に人の目が集中する。
戦場で崩れるわけにいかない。
これがサンドラのデビュー戦なのだから。
ベリルは父上の側に王太子として付き従っている。
父も承知のことだから対応に問題はないだろう。
来賓も父を無視してベリルにいきなり難しい話題をふることもないだろうし。
私を気遣うようにゆったりとしたテンポで踊るシリウスと一曲踊った後は、今までベリルに阻まれて私に近寄れないでいた男たちが次々とダンスの申し込みをしに近寄ってくる。
その中には学園でアレクのクラスメイトとしてバカな話をし合っている者達も沢山いる。
サンドラの時にはなぜか余り話す機会が無かったのだが、ここぞとばかりに色めいた話を振ってくる。
その視線が、女とバレてしまうのを防ぐために今まで全く晒さなかった剥き出しの胸元の、腕の、背中の肌を舐めるように向けられているのが。
ダンスをする為に握られている、女よりも少し体温の高い、熱の通しやすいごつごつとした手が。
こちらを取り込もうとするその熱量を伴う圧迫感が。
怖い。
今までうっすらと雪の積もった綺麗な雪原を笑いながら走っていたつもりだったのに、そこは深い湖の上に張った薄氷の上だったと気が付いたような気分だ。
足が止まりそうになる自分に気付いて切り変える。
笑え。
笑って自分自身を騙せ。
「今までこうしてお話する機会も余りありませんでしたが、ダンスがお上手ですのね」
「恐縮です。サンドラ様こそ私のような者を覚えていただけているようでびっくりしました」
「もちろんですわ。アレクお兄様からお話は伺っておりますもの」
男友達の中でもお調子者の彼だが、今は全くイメージが違う。
「それは光栄です。サンドラ様の恋人の地位を射とめようと皆躍起になっているというのに、私は一歩リードしていると自惚れてもよろしいのでしょうか?」
「さあ……それはどうでしょう。私まだ余りそういったことは詳しくなくて」
「私で良ければお教えいたしますが?」
そう言ってダンスの終わりに手を取られて、手の甲に軽くキスをされる。
こいつは一体誰だ。
知っているはずなのに、全く知らない誰かのような。
怖い。
「ご冗談を。アレクお兄様からお伺いしておりますよ? 貴方に恋い焦がれている女性が既に何人もいらっしゃるそうではないですか」
「サンドラ様に選んでいただけるのでしたら、いつでも清算いたしますが?」
そう言い募ってくる彼を押し退けるようにして別の男が私にダンスの申し込みをしてくる。
会話する内容は大抵愛を囁くようなものばかり。
ここにいる男共が全員、知らない人間になったような気がする
平民上がりの初心な小娘を誑し込めれば王族との繋がりができるとあって、皆積極的だ。
学園で私の周りにはいつもシリウスやブルーノがいたけれど、今のシリウスは私を心配そうに遠目で見守るだけで、ベリルも父上に止められているのかこちらに来る様子はない。
王女としてどう立ち回るのが正解か、計られているのだ。
苛立たしさと恐怖を奥歯で噛み潰すようにして微笑み続けている内に、夜会はなんとか終了した。
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夜会が終わった後、ひっそり隠れるようにして帰るベリルを見送りに行くことはできなかった。
化粧を落としてぐったり疲れた体と心をベッドに投げ出す。
抑え込んでいた感情が溢れて叫びだしそうになる。
ぶり返してくる混乱と恐怖と、それに自己嫌悪。
なのに冷静に今後のことを考えようとする自分もいる。
まるで一つの体の中に2つの心が入っているようだ。
王太子としての清廉潔白でいたいという感情の部分と、最も効率的に利を取ろうとする冷めた理性の部分。
自分の中の16年間男として育てられた清新な部分が否定する。
きっと冗談だったんだ。
明日聞いたら「なんだアレク、本気にしたのかよ」って笑い話にしてくれるはずなんだ。
きっとそうだ。
だってベリルは昔からずっと、文句を言いつつも私の望むようにしてくれたんだから。
それで?
ベリルがたとえ本気でも「嘘だよ」って言わせるの?
そうすれば自分は安心できるから。
ひどいのね。
前世の記憶を持つ大人の女の部分が冷めたように言う。
好意は好意として受け取ればいいじゃない。
ベリルみたいに裏事情を知った上で協力してくれる人間は貴重よ。
逆に離反されたらこちらに不利にしかならない。それこそ命取りになるわ。
ベリルが私を好きだと言ってくれるなら好都合。
それこそサンドラとアレクの盾にだってなってくれるかも。
ひどいのはどっちだ!
ひどいのはあなたでしょう?
ひどいのは『私』
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明日学園でベリルとどんな顔をして会えばいいんだ。
それにサンドラの姿で行って、アレクの男友達に女として囲まれるのも怖い。
今日の夜会で一度話してダンスまで踊ったのだから、きっとこれからは気軽に声をかけられるだろう。
アレクへ話しかけるのとは別の意味合いを持って。
どうすればいいんだ。
……キャラが勝手に話し出すようになりました。が、恋愛モードだとシリアスになる癖が出ているようです。
次(こそ)は偽ガールズラブの予定です。