木漏れ日の揺りかご[ベリル視点]
学園の裏庭に、気に入りの場所がある。
大きな木が周りに茂っていて、校舎の窓からは見えない位置にある。
移動教室等で皆が通るルートからは外れている為、ここを通る人間は殆どいないので一人になりたい時にはうってつけだ。
裏庭なのに日当たりは良く、木の傍に置かれたベンチには木漏れ日が落ちて、読書するにも昼寝するにもちょうどいい。
ぱらりと手持ちの本をめくりながらブルーノから聞いた話を思い出す。
先日ブルーノとシリウスが、サンドラと一緒に湖へピクニックへ行ったそうだ。
あれから二人の間には暗黙のルールのようなものが出来たらしく、お互い牽制し合っている。
全く、二人とも物好きだな。
サンドラもサンドラだ、あちこちの男を誑し込んでまるで手練れの娼婦だ。
もしかしたら国王がひた隠しにしているサンドラの出自もその辺りなのかもな。
つい嘲りの笑みが浮かぶが、同時に不安になる。
もしかしてアレクも既にサンドラの毒牙にかかっているのかもしれない。
高等部に上がってから、アレクが学園に来る確率ががくっと減った。
いくら王宮での国王補佐が忙しいと言っても、ここまで会う機会が少ないなんて。
時々一緒にお茶をしないかと声をかけても、体調がすぐれないと断られてしまうこともある。
もしかしてサンドラがアレクに、体を弱らせる毒でも盛っているのか……?
いや、さすがにそれは王宮内部でも警戒しているはずだ。
ではどうして―――…。
そこまで考えた段階で、手にしたまま読むのを忘れていた本に誰かの影が落ちる。
「ベリル?」
はっ、とその慣れ親しんだ声に弾かれるように顔を上げると、ちょうど今考えていた当人のアレクがいた。
少し伸びた髪を後ろで軽く結んでいるが、まだ長さが足りない髪はそのまま柔らかそうな頬にかかっている。
ベンチに座っている僕から見ると逆光になっており、まるで光の粉をまぶしたようで、その眩しさに思わず目を細める。
「ここ、いいか?」
「ああ……」
条件反射でそう答えると、アレクが僕の隣に軽く座り、僕が手に持ったままだった本を横から覗きこんできた。
「この本か、新作がもう出ていたんだな」
アレクはそう言って、僕の肩に軽く寄り添うようにしながら字を追いかけているようだ。
国王の肝いりで数年前から始まった製紙と印刷技術の向上により、高級品だった本が最近では市井にも出回るようになり、教科書や歴史書以外に、子供向きの絵本ではない架空の話を取り扱った物が多くなってきた。
それに比例するように小説家と名乗る者も増えてきて、書く端から人々がこぞって手に入れようとする今一番の流行になっている。
ただ、粗悪な物が増えないようにする為か、そういった架空の小説は全て王宮の検閲後に印刷に回されているようだ。
僕が今手に持っているのは、架空の王国の王子が実は王女でありそれを隠して生活している、という物らしい。
僕としては冒険譚の方が好みではあるが、今一番人気のある小説ということでジルに勧められて読み始めたのだ。
上流階級の描写等はさすがに王宮の検閲を通っただけあってリアルに感じる。
最近は識字率が上がったせいか、国の末端の村まで行商人が生活用品と一緒に本を届けているらしく、上流階級に憧れる村娘たちの中では、日々の天気を挨拶代わりにするのではなく、この本をもう読んだかどうか、というのが挨拶になっているらしい。
剣術の試合の挿話などもあり、男子が読んでもある程度楽しめる物になっているのがすごい。
「アレクはもう読んだのか?」
「ああ、一応印刷に出す前の物をざっと見させてもらっているけれど、本という形になるとまた違った発見があると思ってね」
興味深そうに文字を追い、次のページをめくるよう僕に催促してくる姿につい笑みが漏れる。
請われるままページをめくると、アレクがもう少しこちら側に身を乗り出して来て、薄いシャツ越しに腕が触れ合う。
同時に、不自然な体勢に少し苦しくなったのか、アレクが僕の肩に頬を乗せてきた。
アレクは王太子という身分の為、アレク相手に、他の者に対するように後ろから首に腕を回したり、腕を掴んだり、肩を叩いたり等をする者は、いくらクラスで仲が良い男友達だとしても存在しない。
でもアレク自身は結構人懐っこくて、人肌も好きらしい。
昔はよくこうやって引っ付かれることが多かったけれど、なんだか久しぶりのような気がする。
そう思ったところで、アレクの僕よりも少し色味の薄い金髪から良い香りがしてきて、頭の奥が痺れそうになる。
同時に心臓が痛いくらいに激しく鳴り始めるのに気付いて、はっとする。
久しぶりなのは、僕の方がアレクを避けていたからだった。
一度意識してしまうと、触れ合った腕の体温が、肩に乗せらせた頬の感触が。
少し伸びたけれども結びきれていないアレクの髪が風に乗って僕の首筋をくすぐる感覚に身を強張らせる。
緊張に耳鳴りまでしてきそうだ。
せめて、アレクに見られている本を持つ手は震え出さないように力を込める。
今すぐ離れないと、と思うのに、ずっとこのままでいたいと思う自分がいることに気付く。
それどころか、こんな無機質な本なんて今すぐ放り出してもっと他の物に触れたいと、力を込めた手が渇望し始めて、手のひらに勝手に汗が滲んでくるのが判る。
「ベリル?」
ページをめくるのを止めてしまった僕に気付いたように、アレクが僕の肩に頬を乗せながら不思議そうに聞いてくる。
アレクがくるりと顔を上にあげて、僕の顔を至近距離から覗き込もうとする。
視線を向けられるのに硬直しそうになる。
この近さでもし視線を合わせたら何か取り返しがつかなくなりそうで、視線をずらしたまま上ずった声で答える。
「……なに?」
「ベリルはこの話好きか?」
どこか必死そうなその声音に、思わずアレクの顔を見返してしまう。
明るい金髪と同様に、柔らかく光を弾く長い睫毛に囲まれた深い青緑色の瞳、健康的なピンク色の頬、こちらを見上げながら少し不安そうに寄せられる形の良い眉、問いかけの形で止まった少し開いた唇から洩れる吐息が僕の唇にかかる。
一度目が合ってしまえばそこから視線を剥がすことは不可能で、吸い込まれるように顔が近くなる。
まるで内緒話をしようとするように距離を詰める僕に、自分の覗む回答を聞けるのかとアレクが首をかしげる。
口が勝手に言葉を紡ぐ。
「す…き……だ」
それと同時に手が勝手にアレクの頬に触れそうになる。
「そうか、それならよかった」
そんな僕の様子には気が付かないように、息のかかりそうな距離でアレクが笑う。
その眩しいくらいの笑顔に呼吸が止まりそうになる。
好き。
頭の中に、さっき自分の口にした言葉が反響する。
一体自分はどうなってしまったんだと戸惑う僕を置いて、アレクが軽くあくびをして肩に乗せた頬の位置を調整して体重をかけてくる。
「ベリルごめん、少し寝るから肩貸してくれるか?」
口調は質問形なのに、僕が断るなんて全く考えていないアレクは、僕の返事を待たずにそのまま目を瞑ってしまった。
規則正しい穏やかな寝息が聞こえ始めるのはすぐで、僕は別の意味で身動きがとれなくなった。
王宮以外でアレクが一休みしようと思ったら、一人きりではなく必ず信頼できる誰かの側でないと休めないのだ。
この学園の中では今の所僕かブルーノだ。
ブルーノは休み時間にはあちこち動き回ることが多いので、こうして僕の側に来ることが多い。
頬にかかって少し邪魔な金の髪を指先で払うようにしながら耳にかけてやると、その拍子に耳に触れた僕の指がくすぐったかったのか、猫のように少し喉を鳴らして身じろぎする。
「……っ…ん」
鼻にかかったようなその声に、体温が上ってくるのが判る。
柔らかな頬に指を滑らせると撫でられるのが気持ちいいのか、眠ったまま少しほっとしたような表情になる。
もうすっかり僕に体重を預けきったその体を、ベンチの背もたれにそっと押し付けるようにする。
その無防備な顎を指で下から掬うようにして仰のかせると、いつも首元まできっちりとボタンを止めているせいで日に当たらない白い首筋が少しだけ覗く。
少し開いたサクランボのような鮮やかなピンクの唇から、気持ちよさそうな吐息が漏れる。
視線がそこから外せない。
どうしたっていうんだ僕は。
体がいう事を聞こうとしない。
混乱しながら、体が勝手にアレクに引き寄せられそうになるのを止められない。
頭の中で警報が鳴り響いたその時、裏庭に走り込んできた人影がいた。
「……っ、ベリルさまーーーーっっつ!!!」
走り込んできたその勢いのまま、ベンチの前でずざざっとスライディングして砂埃をまき上げながら止まったのは、真っ青な顔をしたジルだった。
「ど、どうしたんだ? ジル」
最近ブルーノとシリウスはサンドラといることが多く、ジルはその分僕の側にいることが多くなっていた。
ジルはかわいいし一緒にいると楽しいが、今はアレクが寝ているのだから少し静かにしてほしい。
そんな僕の気持ちも知らずに、僕とまだ寝ているアレクを交互にじっと見て、
「いや……まさか…そんな。このゲームにそんな要素はなかったはず……」
と言いながら真っ青な顔になっている。
訳が分からない。
とにかく余所へ行ってほしい。
それなのに、ジルは「とっ、とにかくイベントを進めないと!」とぶつぶつ言いながらベンチの上に置きっぱなしになっていた本を見つけて、嬉々として話しかけてきた。
「まあっ、この本読んで下さっているんですね」
ジルはそう言って、アレクがいる方とは逆の方に勝手に座り僕の肩に軽く寄り添うようにしながら本を開いて見せる。
ぴたりと寄せらせたその体が、今までなら心が浮き立つような感覚を与えてくれたのに、なぜか今は不愉快しか感じない。
ジルよりも、反対側で僕に体を預けてくれているアレクの方が気になってしょうがない。
こんなに気持ちよさそうに寝ているのに、起きたらどうするんだ。
「ベリル様はこのお話好きですか?」
そう、ジルが僕を覗き込むように聞いてくる。
余りの煩わしさに思わずため息が口から洩れる。
「うるさい」
「え?」
「だから、あっちへ行け。アレクが起きてしまうだろう」
それだけ言って、反対側でまだ眠っているアレクを窺うと、この騒動は気にならないようにまだ眠っている。
もう一度そっとその頬に手を伸ばしかけて、信じられないものを見るようにこちらを凝視しているジルに気が付いて、きっと睨みつける。
ジルはベンチからふらりと立ち上がり、一・二歩後ずさりながらぶるぶる震えて何かを口走っている。
「そ……そんな…! ブルーノのルートはサンドラのせいで失敗したし、とにかくベリルルートだけでもと思っていたのに、なんでこんなことに…!」
おい、何を言っているのか判らないが、男爵令嬢の分際でブルーノや僕を呼び捨てとはどういうことだ、そこまでお前と仲が良いつもりは無いぞ。
と思ったが、今はそんなことを指摘するのも面倒臭い。
手で払うようにしてやると、うわーーーっ!!と叫びながら走り去ってしまった。
去り際までうるさい令嬢だな。
今はそんなことよりも、アレクをちゃんと休める所に連れて行かないと。
すっかり熟睡してしまっているようで、ここにはブランケットも無いし、このままだと風邪をひいてしまうかもしれない。
それなりの鍛錬はしているつもりだが、いくら僕の方が最近身長が伸びてきたといっても、同じくらいの男子を抱きかかえられる程の自信は無い。
でもやってみるしかない。
アレクの背中と膝の裏に腕を差し入れて、アレクの耳元に囁く。
「アレク、アレク、僕の首に腕を回して、ほら」
「……うーん」
まだ目を覚まそうとはしないが、半覚醒状態でも言う事は聞いてくれそうだ。
首に手を回されると、ふわっと良い香りがしてまたぼうっとしそうになるが、頭を振り払い腕に力を入れる。
「えっ!?」
覚悟していた重さは無く、羽のようとまではいかないけれど、本当にこれがアレクの体なのかと思うくらい軽い。
歩きながら、アレクを支えた腕から伝わる感触に意識を集中すると、制服のズボンに包まれた足の細さが際立つ。
男の場合、体重が一番重くなる要素であるはずの筋肉がついていないのではないかと思うくらいだ。
それに首に回された腕も、その感覚から頼りないほど細いのが判る。
それなのに、胴体を支える手には筋肉の感触は伝わってこず、代わりに何か固い物で覆われている感じがする。
「……」
もしかしてアレクはひどい怪我か病気を患っていて人知れず治療しているのかもしれない、と悪い想像ばかりが浮かんでくる。
少し歩を速めたところで、校舎の角を曲がったところで誰かにぶつかりそうになる。
「おっと!」
「悪い!」
お互いぎりぎり避けることはできたが、アレクを抱いたままなのでついバランスを崩してしまう。
あっ、と思ったらぶつかりそうになった相手がアレクを一緒に支えてくれた。
「大丈夫か!?」
「ああ…すまな―――、シリウス?」
ぶつかりそうになった相手はシリウスだった。
……偽ボーイズラブ、楽しかった…。