後編
竜王カズミは、お茶を啜って、ほっと一息つく。
けれども、彼の目は目の前にいる二竜ではなく、どこかはるか遠くを見つめていた。
「さっき君たちに考えてもらった問題はね、僕の『前世』で、実際に論争が巻き起こったいわくつきの論題だったんだ」
「竜王様の……『前世』…………」
前世という言葉を聞いて、サーヤとリノアンはお互いに顔を見合わせる。
「僕の説明で二人はすぐに納得してくれたけど、一番初めにこの問題を証明した人は、それはそれは凄まじい非難を浴びたんだよね。しかも、誰一人として数学的な証明を行わずに、頭ごなしに発見者を愚か者だと決めつけていたんだ」
「ひどいですわね……それは」
「理解に時間がかかった私が言うのもなんですが、少し考えれば理解できることだと思うのですが」
「まあそうだよね。今では……というか、すったもんだあった後は、すっかり常識としてある程度理解を得られてるけど、それでも納得できないっていう人は多かった」
ふとカズミが思い出したのは、『前世』でこの問題が世間を賑わせていて、それについての記事が載った科学雑誌を複数の友人たちと読んでいた時のことだった。その時カズミも、自分で計算してみて納得するまでは本当にこの説は正しいのか大いに疑問だったのだが、彼は比較的思考が柔らかかったせいか、この説が正しいことがすぐに理解できた。そして、他の友人たちも、早かれ遅かれ、記事の内容に理解を示したのだが…………一人だけ、頑なに記事の内容を認めない人がいた…………しかもその人は、頭が悪いということはなく、どちらかと言えば秀才の部類だった。
「もし二人が一番初めに証明した人の立場なら、どう思う?」
「わたくしでしたら、そんな分からず屋どもには私の意見が理解できるまで、正々堂々議論し続けますわ!」
「私でしたら……もしかしたら、自分が間違っているかもしれないと思い、撤回してしまうかもしれません……」
「そうだね、サーヤみたいに神経が図太い……いや、強い気持ちの持ち主なら、自説が正しいことを徹底的に証明しようとするだろうね。まあ、逆に間違えたときに引っ込みがつかなくなっちゃうけど。普通の人だったらリノアンみたいに、自分の意見を通そうとする勇気はなかなか持てないんじゃないだろうか」
「そうですわね。よく考えてみれば、反対した方たちも別に悪意を持って反対したわけではありませんものね」
「そう、今回の場合は最終的に計算が公表されて、正しいと証明されたわけだけど、間違っていたら評判は間違いなく地に落ちていた。きっとよっぽど自身があったか、怖いもの知らずなんだろうな」
「その人の知識と勇気のおかげで、こうして新しい常識が生み出されたわけですね」
二人は、改めて新しい何かを生み出すことのむずかしさを知った。
特に、考え方のような一見目に見えないものは、理解されるかどうかが受け取るほう次第で早かったり遅かったりする。画期的な意見が受け入れられなかったり、逆にとんでもな学説があっさり受け入れられることもある。世の中ままならないモノである。
カズミとしても、先ほどの『前世』でただ一人、新たな学説を認めなかった人物にどんなに計算や例えを用いても、受け入れられなかったことがいまだに頭の片隅に残っている。
「さっき、この問題について「それでも納得できないっていう人は多かった」って言ったよね。これはなぜかっていうと、「直感的な答え」と、「きちんと確率論に則って導き出された答え」が食い違っているからなんだ」
ここでカズミは、さっきの三つの箱をまた机の上に並べる。
「一番最初、サーヤには、この三つの中に正解が一つとハズレが二つ入ってるって説明して、次にそのうちの一つを選んでって言ったよね」
「ええ、竜王様はそうおっしゃいましたわ」
「で、サーヤは「せっかくだから」と赤いリボンのついた箱を選んだ。その後僕は、緑のリボン箱を開けて中にハズレがあるのを見せた。そして、最後に僕はサーヤに「いまなら箱を変えることができるけど、どうする?」と尋ねたんだけど、サーヤは結局自分の選択を変えないと決めた。…………その結果、ハズレを引いてしまった」
「もし……わたくしが、あらかじめこの理論を知っていれば、このようなことにはなりませんでしたのに」
一番初めの出来事を思い出して、サーヤは自分の無知を悔しく思った。
ところが、リノアンは……
「それはどうでしょうか? 確かに変えた方がアタリの可能性は高かったと思われますが、サーヤ様の選んだ方は必ずしもハズレというわけではなかったのですから、知ってても知っていなくても運次第であることに変わりはないと思われますが」
「なんですって!? それじゃあただ単にわたくしが運が悪いだけだと……!」
「いえ、そのようなことは……ですが「このようにならなかった」というのも若干語弊があるかと」
「まあまあ、あんまり揚げ足取らないで上げてよ。結局サーヤはこのあともう一回同じことをやって、今度は正解した。まあこれも、運が悪ければまたハズレを引いた可能性もあったけど、いずれにしても最終的には当たるまで何度もチャレンジさせてたから、いくら運が悪くてもそのうち金貨を上げることはできたんだけどね」
カズミにとって、先ほどの金貨あてゲームは、現在の会話の導入をするためのものでしかなかったというわけだ。
「でもね、僕は別のことを予想してたんだ。サーヤははたして「選択を変えるのかどうか」……どの色の箱を選ぶかじゃなくてね。そしてサーヤは予想通り、変えないを選んだ」
「そうなんですの? ですが、この問題を知らい場合でも、結局は変えるか変えないかは1/2になりますから、予想が当たるかどうかも1/2にとどまるのでは?」
「私は……むしろ知ってる人も中に入るはずですから、相対的に「変える」を選ぶ人の方が多いように思えますが」
「まあそうだよね。でもこれはちゃんとした根拠がある…………数学的な証明じゃなくて、ここからは心理学的な話になるんだけど、人って自分ができる範囲の計算では答えが出せなくなると、無意識に心の安定を計算のうちに入れてくるんだ」
「心の安定……ですか?」
「サーヤは一番初めにこのゲームをやったとき、なんで「変えない」って決めたか当てて見せようか?」
「わ、わかるんですの!?」
「ずばり…………「自分が初めに選んだのを信じる」……でしょ!」
「その通りですわ! さすが竜王様ですわ!」
自分の考えが見透かされたことに驚くサーヤ。
「一応言っておくけど、今の僕には心を読む力はないからね。実はこれにも根拠があって、とある統計ではこの質問に「変えない」って答える人はなんと90%近くにも上るんだって」
「そ、それほどまでに……」
「けれどもその前に、さっきサーヤに僕はさらっと「予想してたことが当たった」って言って、サーヤはごく自然に受け入れてくれてたよね」
「ええっと、それが何か……?」
「もしさっきの言葉が僕じゃなくて、リノアンが言った言葉だったら、サーヤは絶対「そんなの後からだったらなんとでも言えますわ」って言ってただろうね」
「うぐっ! そ、それは……そうかもしれませんわ」
「サーヤ様……大丈夫ですよ。竜王様と私では、信用度が違いますし」
「二人とも素直だね…………今みたいに、結局合理的に考えるって結構難しいんだよね。それと同じように、なぜ多くの考えだと「変えない」と選んでしまうかというと、変えてハズレを引くより、変えないでハズレを引いたほうが心のダメージが少ないからなんだろうね。そうでしょ? それをサーヤみたいに「自分の勘を信じる」っていうポジティブな考えにするか、「恥をかかなくて済むから」って考えるかの違いはあれど、どのみち考えることは同じってくとだね」
『………………』
サーヤもリノアンも、日ごろの生活でいろいろと心当たりがあるようだった。特に竜は寿命が長いせいで保守的な考えに陥りがちになる。だから、日ごろから「いままでどおり」を何となく心がけてしまうのだろう。
「いままでの話をまとめると、この問題では大多数の考えでは最後の選択肢で「どちらを選んでも同じ」と考えるし、しかもほとんどの人が「選択を変えない」と答えてる。けれども、実際には………」
「変えたほうが2倍当たりやすいのですわね。ああ、なんということですの。それでは誰もが、なかなか心で納得することができないわけですわ」
「不思議なものですね。自分たちが最善と考えていたことは、結局真実をゆがめているなんて」
「まあ、それがこの問題の面白いところでもあり、難しいところでもあるんだ。でもね、君たちに本当に学んでほしいことは…………もっと先にある」
今まで、優しい笑顔で二人にわかりやすく語ってくれた竜王カズミだったが、突然顔から笑顔が消えて厳しい表情になる。すると、二人も思わず姿勢を正し始めた。
「サーヤは一番初めのゲームでハズレを引いてしまったね」
「は、はい……」
「あの時の僕はサーヤに金貨を必ずあげようと考えてたから、何度もチャレンジしなおす権利を与えたし、二回目からはルールについてもっと丁寧に説明をしてあげた。けれども、もしこれが一回きりのチャンスだったら?」
「一回きりのチャンスだったら……………わ、わたくしは……」
もしサーヤに一回しかチャンスが与えられなかったら、彼女はむざむざ1/3の確率を選択し、ハズレを引いて……金貨はもらえずじまい。手元に残っているのは、雷竜族長の野獣の眼光だけだ。
「しかも一回目は、サーヤにルールを完全には説明してなかったよね。だからノーカンと言えるか? もちろん駄目さ。仮にサーヤが今の理論を知っていて、僕が完全な説明をせずにさっきの問題を出した時、サーヤは『理論の全部の条件を満たしてないから、この選択肢は1/2だ』って思うのは正しいかい?」
「それは……結局正解を当てなければ意味がありませんわ」
「その通り。理論はね、知ってるだけじゃダメ。いかに応用できるかが肝心なんだ。白馬は馬じゃないって理論で説明しても、実際に税関で白馬は馬じゃないからお金払わないってことができるかどうか」
戦闘をこなすことが多い火竜を束ねるサーヤ、竜王の秘書としてカズミを表に陰に支えなくてはならないリノアン。重い責任を一身に背負う彼女たちだからこそ、より広い視野に立って物事を考えなければならない。
「さっきの話にも出てきた、前世で何度説明しても結局1/2で変わらないと言っていた人物。いろいろ難しい話を交わしたけど、結局のところ「最後に二つのうちから一つ選ぶ限り、どうやっても確率は1/2になる」っていう考えを変えなかった。統計の例を出しても、計算式も、彼の考えを動かせなかった。じゃあ、彼がその考えを持ち続ける限り、実際に彼がこの問題にあたったときに、正解を選ぶ確率は1/2になるのかな?」
「なりませんね…………」
「なるわけがありませんわ」
「そう、仕方がないから最終的には実際に問題と同様のことを20回近くしてもらったんだけど、当然結果は統計の通りとなった。でも彼は認めなかった」
『えっ…………』
二人は信じられないとショックを受けた。
いったい何が彼をそこまで駆り立てるのか……むしろ、そのほうが気になってくる。
「僕は…………むしろ恐ろしくなった。彼は、将来兵士を率いて戦う立場になるために学んでいたけれど、実際その立場に立って、戦場で決断を迫られた際に、理論的な考えよりも自分の直感を優先するのかと……。それは必ずしも間違いとは言えないけれども、間違えである可能性が高い方より、正しい可能性が高いほうを選ぶことができるなら、そのチャンスは必ずものにしなければならないと思うんだ」
「竜王様…………」
サーヤは、何か思うことがあったのか、机に身を乗り出した。
「わたくしは……強さだけで火竜族長として火竜たちを束ねていますわ。ですがわたくしはまだ若輩……地竜のような思慮深さも、風竜のような柔軟な思考も持ち合わせておりません。そんなわたくしが……この先も族長として、やっていけるのか……時々不安になりますの。竜王様……わたくしは、どうすればよろしいのですの?」
「ははは、君らしくもない。今の話で自信なくしちゃった?」
カズミは再び笑顔になると、サーヤの頭をゆっくりと撫でた。
「君は……そのままで十分だよ。火竜族長を任せられるのは、君をおいてほかはない。今日の話は、心のどこか片隅に置いておいてくれればいい。それが役に立つ日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。知らなかったからって、君が死ぬことも、僕が死ぬこともない。だからね、これからも期待してるよ」
「竜王様…………本当に、本当にありがとうございますわ! 竜王様にもらったこの金貨も、家宝に致しますわ! そして、子孫に伝える際には…………」
若き火竜族長サーヤ。
豪胆で、勇敢で、単純で、素直な竜族のエース……そんな彼女も、族長という重圧からは逃れられない。
だからカズミは時折、彼女の荷物を軽くしてあげる。それが…………竜族を束ねる、竜王の役目。
「さ、もうこんな時間だ。仕事に戻ろうか」
「長々と失礼いたしましたわ、竜王様」
「私も、こんなに休憩してしまって申し訳ありません」
この日のお茶会はこれにて終わり。
サーヤはカズミに何度も頭を下げながら、自分の仕事に戻っていき、リノアンもお茶に使った食器をかたずけるために部屋を後にした。
カズミもまた、ソファーから立ち上がって一瞬背伸びをすると、バルコニーにでて何となく外の景色を眺めだした。眼下に広がるのは、以前にもまして立派になった城下町……見上げれば連なる山々と雲一つない青空。呆れるほど平和な風景…………それは、思っている以上に危うい存在であることをカズミは理解していた。
「そういえば話してなかったな。頑固な彼が、結局最後は自分の意見を翻したってことを」
何を言っても聞く耳を貸さず、頑なに持論を曲げなかった例の彼。
カズミとその友人たちは、バカバカしくなって彼の説得をやめてしまったのだが、その直後にもう一人の人物が話の輪に加わってきた。
その人物はカズミの唯一親友にして、士官学校開校以来の天才と言われたほどの人だった。
親友はカズミ達の話を聞いて、あっさりと雑誌の説を肯定した。するとどうだろう、今まで頑なに持論を曲げなかった例の彼は、あっさりと意見を翻して、雑誌の学説支持に回ったのだ。
曰く「君たちの説明は不十分だったけど、彼の話を聞いたら理解できた」と…………
その時カズミが受けたショックは、今でも鮮明にこの『魂』に刻まれている。
「ごめんねサーヤ、リノアン。君たちに対して、ほとんど役に立たない理論を大仰に説明して見せたのは、時々君たちに知的な優位を見せておくことで、竜王としての威厳を高めてるに過ぎない。ふふっ、こうでもしないと…………僕は「一澄」とちがってカリスマも実力もそれほど持ってない。だから、彼らに言うことを聞かせるためにも、舐められるわけにはいかないんだよね」
小さいな…………そう思いながら、人類の最大の敵……竜王は、ほんの少しの間哀愁に浸っていた。
皆様御機嫌よう。
こんなしょうもない自己満足の話でも、読んでくれる人がいれば非常にうれしいです!
このお話は、何度も出てきます「モンティ・ホール問題」について私なりの考えを別作品のキャラクターたちに喋らせているだけです。
モンティー・ホール問題の詳細は各自で調べていただくとして、私がこの問題で興味深いなと思ったのは、いまだに「納得できない」という意見の方が多いことです。まあ、納得できないからお前は間違っているとまでは言いませんが、実際の統計が出ているにもかかわらず納得できないというのは、ある意味凄いなと思ってしまいます。
で、この問題を扱うにあたって、モンティー・ホール問題が成り立つ「条件」というのがあるのですが、時折この「条件」の説明が不十分だったり、あえて抜かしている問題があります。そして厳密にいうと、本家本来の「モンティー・ホール問題」は厳密に言えば「条件」の説明が不十分だったりします。
よって「問題に設定されている条件が不十分だから、この問題はモンティー・ホール問題足りえない!」という意見が結構見受けられますが、ちょっと待った。たとえば以下のように
1、A・B・C三つの扉がある。アタリの扉はひとつで、ハズレの扉は二つある
2、貴方はそのうちの一つCを選んだ
3、すると、Aの扉が開いて、中はハズレだった
4、司会者から、扉を変更する権利が与えられた。貴方はあたりを引くために扉を変えるか変えないか?
一見すると、この問題はモンティ・ホール問題の理論が成り立つ「条件」がいくつか不足してますね。
じゃあ、やっぱり変えても変えなくても確率は変わらないのでしょうか。
…………変わらないって思う? じゃああなたはどっちの扉選ぶの?
悔いのない選択をしてくださいね♪