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4 モノクローム・ヒーロー

 

4 モノクローム・ヒーロー


 町はめちゃくちゃになっていた。

 不幸ボムの煙や欠片が散乱し、ピンク色のハートマークがいたるところにべたべたとスタンプのように押されている。

 悪魔代行として不幸ボムがあるように、天使代行には「ラッキーハンマー」というものがあると聞いたことがある。文字通り、ハンマーで叩いた相手に幸運を与えるのだとか。

 電信柱も車もトラックも、駅も学校もコンビニも、公園の木々でさえ、ピンク色のまだら模様や不幸ボムの黒い色でぐちゃぐちゃになっていた。爆発音も、何かの壊れる音も、未だに止む気配はない。

 ――殺してしまえ!

 ――これでひとたまりもないわ!

 あんずは察知した大量の悪意に満ちた声の位置をドクロちゃんで確認し、街の人を天使と悪魔の争いから遠くへと避難するする手助けをした。

 忍がいれば、と思う。

 困った人を察知できるのは天使だったからだろうけれど、こういうときには悪意を察知できたって何の意味もない。しらみつぶしに町を見て回り、怪我人を安全な場所に運び、怪我のないひとに安全な場所を伝え、道案内を頼み、応急処置の道具をいくつも渡した。

 動けなくなっている人はいないかを上空から探していたあんずの目に、落ちている不幸ボムのかけらに手を伸ばして触れようとしている赤ん坊が映る。

「触っちゃだめ!」

 叫びながら急降下するが間に合いそうにない。

「こら、だめだよー」

 すんでのところで、ひょいと赤ん坊を抱き上げたのは黒い髪に黒いジャージの男の子だ。

 触ったら不幸になるよーと、抱き上げられた赤ん坊の色素の薄い髪をなでる。

「ヒーローアンジュ、ここは任せていいんだぜ!」

 男の子がぐっと親指を立てるので、あんずは辺りを見回して気がついた。

 怪我のある人のもとへ救急箱を持って走っていくのは黒づくめの少女たち。自力で動ける人に手当ての手伝いを頼んでいるのは色素の薄い髪の少年と、その隣で絆創膏や消毒液を配っているのは黒い髪の少女だ。

 動けない人に手を貸しているのは、白いシャツの男の子と黒い髪の男の子。

 泣き叫ぶ子供を黒い少女がなだめて、白い少年がおばあさんの手を引いて、白と黒の少女たちが子供連れの親に飲み物を渡して、真っ黒い男の子が怪我をした少女をおぶって運んでいる。

 分家なのだろうけれど、白と黒が入り混じって協力していた。

「ありがとうです! 任せました!」

 ――こんな、簡単なことなのに。

 合点承知! とわらう男の子に、あんずもわらって手を振って羽ばたく。

 あんずがあと一人の見つからない子供を探していると、倒れたブロック塀に挟まっている男の子を見つけた。

「大丈夫ですか?!」

「ん……」

 幸い怪我はかすり傷程度で、意識もある。

 ミルクティー色の髪の男の子が、ぼんやりとした顔で手を伸ばす。

「アンジュの羽根は、黒いの?」

「……そうですよ」

「天使なのに、アクマみたい……」

 あんずは、ヒーローアンジュは微笑んでみせた。

「どっちだって変わらないのですよ。私はあなたを、何度だって助けるもの」

 少年はふわりとわらって、呟いた。格好いいね、と。

 真っ青になって探していた母親に少年を渡し、あんずは全員が避難したことを確認すると地面を蹴った。

 黒い翼が、風を切る。


 ――いまこの状況で、きっと自分より上手くやれるひとはいくらでもいる。

 黒い翼で滑るように飛んでいくあんずは分かっていた。

 誰かを不幸にすることは、それを喜ぶ誰かの幸せで、そんな人間のいることを悲しむ人間の不幸になり、そんなふうに心を痛める人間を愛しいと思うものもいること。

 みんなを幸せには出来ない。

 みんなの幸せが、同じではないから。

 みんなを不幸にもできないのも、同じではないから。

 何に喜び、何を悲しいと思うのか。

 それはひとそれぞれ違うものだから。

 あんずには、みんなを助けられないことも分かっていた。

 それでもヒーローになることをやめなかった。

 やめられなかった。

「たとえ私が世界で一番下手でも、やらない理由にはならない!」

 うまく出来なくても、的外れでも。

 やらないことを、あんずは選ばなかった。――選べなかった。

 見過ごすことも、無関心でいることも、嫌だった。

 例えそれで自分が辛くなろうとも、そのほうがいいと思ったのだ。

 自己満足でもいい。

 ひとりにはしたくないと、あんずは願った。

 ヒーローアンジュと呼ばれるようになって、そんなヒーローになりたいと思った。

 だから、あんずは「悪いこと」をしようと決めた。


「キヤサ・サノ・マクア!」

 安久沢家は不幸ボムを、天ケ市家はハンマーのようなものを手に、町中を幸運と不運でめちゃくちゃにしている。その最前線の真上で、あんずは叫んだ。

 突然遮られた陽の光に、空を見上げた両家の人間は口をぽかんと開けた。

ばく!!」

 悲鳴が聞こえる。

 やめてくれ、やめろと声がする。

 それでもあんずは止めなかった。

 あんずの背後に現れた、空を覆い隠すほどの不幸ボムが一斉に破裂する。

「……死にはしないのでしょう?」

 手に持っていた武器を捨てて、誰も彼も一緒くたに逃れようとした。

 そして、破裂したと思った不幸ボムがただのかけらであったことに気がつく。解体された後のような、ばらばらになった破片は、不幸ボムの本来の力の半分の半分も出せないだろう。せいぜいその場でつまづくくらいだ。

 けれど、不幸ボムやラッキーハンマー、その場の全ての武器が「偶然」壊れるには十分だった。

 どよめき、静まり返った彼らに、あんずは口を開いた。

「……っ」

 怖い。

 足が震える。

「……たし、は、」

 ろくなことにならないって分かってる。

 怒られるのも知ってる。

 引っぱたかれるかもしれない。

 ――でも、どうしてもやりたくないことがある。

 やりたいことがある。

「私、は」

 だから、歯向かう。

 反抗する。

 口答えをする。

 あんずは息を吸い込んで、叫んだ。


「私は! ひとを幸せにしたい。不幸になんかしたくない!!」


 震えてしまいそうになる声と身体を、ぐっと両手を握り締めて押し殺す。

「子供だって、わがままだって怒られて、わらわれてもいい。実際私は子供で、わがままで、何もできない、つまらない『あんず』でしかない。でも、私は誰も不幸にしたくない。誰かを幸せにする生き方をしたい」

 安久沢家も天ケ市家も眉を寄せ、片方は怒り狂い、片方は鼻でわらった。

「これ以上恥をかかせてどうしたいの?!」

「悪魔が一体何を言っているんだ?」

 誰かが言う。――あいつは安久沢家きってのスーパールーキーだろう?

「そうよ」

 あんずはわらってみせた。

「誰が他人に使ったって言ったのよ。私はヒーローよ。不幸ボムを解体して、効力を最小限にするために、煙をほんの少し使っていただけよ。使わなければいけない量が決まっているなら――自分に使えばいいだけのことでしょう?」

 あんずはいつも、バズーカ砲で不幸ボムを撃ち出すときには、自分の手で握り潰してからバズーカ砲に詰めていた。自分も不幸をかぶって、不運をかぶって、いくら犯人といえど、被害を最小限に抑えていた。

 疫病神。

 いつもろくなことがない。

 独りぼっち。

 息を呑む音が聞こえるようだった。

 死にはしない程度の不運だとしても、悪魔の代物だ。

 いくら悪魔の血を引いていたって、耐えられるものではないはずなのだ。

「私は不幸ボムなんて、使いたくない」

 真っ白い服に、真っ黒の翼を羽ばたかせて、噛んでいた唇を開く。

「……小さな頃、投げてご覧とボール遊びでもするみたいに渡された不幸ボムを、私は考えなしに放り投げた。それは、出かけようとしていたお兄さんに当たった」

 今でも忘れられない、あんずが背負う記憶。

「不幸ボムは死ぬことはない。確かにそのお兄さんは死ななかった。駅でトラブルが起きて電車が遅れて、目的地に着くのが遅れただけ――でも、」

 子供だったとしても、忘れられない。

「お兄さんが病院に着いた、十分前におばあさんが亡くなっていた。本当なら三十分前には病院に着けていたのに、最期に立ち会えなかった。泣いていたわ。どうしようもないけれど、泣いていた」

 わかってる、と呟いた。

「そう、それが死因でないことくらいわかるわ。おばあさんはもう死期が迫っていた。でも、私の投げた不幸ボムが、狂わせて、最後の時間を壊したことに変わりない」

 それでも、両親はあんずを褒めた。

 よくやったと、わらってくれた。

 それを恐ろしいと、幼いあんずは思ってしまった。

「私は人が不運に見舞われるとわかっていて、不幸ボムを投げつけてきた。でも、投げつけた手と同じ手を握って、ありがとうって言ってもらえた。私は人を区別して不運を見舞ったけれど、」

 ぐっと手を握る。

 格好いいよ、とさっき助けた少年が握ってくれた手を握り締める。

「不幸になっていい人間なんていない。酷いことをする人間は守ろうと思えないとか、私の言えることじゃない。それに、きっと目の前で悲しむ人がいたら、私はそれがどんな人であれ助ける。助けてみせる!」

 いつか忍に話したことを、弱音を、あんずはきっぱりと言い切った。

 大きく息を吸って、叫ぶ。

 宣戦布告だ。


「私は、ひとを幸せにしたいんだ!」


 天使も悪魔も変わらない。

 人間の方が、両方持ってる彼らの方が、よっぽど強い。

 怪我をしながら子供を心配した母親に、包帯を巻きながら迷子をあやしていたお兄さん。子供だっておじいさんやおばあさんの手を引いて安全な場所へ付き添い、誰も何も言わなくても、飲み物や食べ物を分け合っていた。

 大人が争う中、白と黒は協力して人を救っていた。

「何が天使よ。子供だけよ、走り回っていたのは。誰も町の人を助けなかったじゃない!」

 人間は、とても優しい。

 例え天使と悪魔であろうと、人間は――子供は、とても強い。

「人を不幸にしろなんて、私は自分の子供に教えたくない!!」

「あんず!!」

「てめえ!」

 叫んだ安久沢家の面々に、あんずの両親。

 悪魔のくせに何という口をきくのだと怒り狂う天ケ市家。

「……ほらね、」

 改めて出現した、尋常じゃない数の不幸ボムとラッキーハンマーを向けられたあんずは、ちいさくわらった。

 諦めたような、小馬鹿にするような、そんなわらい方。

「両方、一緒だもの。恨んで、憎んで、力でねじ伏せてさ」

 ――だいっきらい。

 空を砕き、大地を切り裂くような轟音が響き渡った。

 あんずの視界が真っ白に染まり、暗転する。


「だーから、あんたは危なっかしいって言ってんの」


 棒読みの、よく耳に馴染んだ声が聞こえた。

 いつまでたっても訪れない衝撃の代わりに、腕を引かれた気がして、あんずはぎゅっと閉じていた目を開く。

「……忍くん?」

「そ、忍くんデスヨ」

 呆れたような、不機嫌そうな顔をした忍の顔があんずのすぐ近くにあった。

 珍しく学ランを着ていない、シャツの背中から白い翼が広げられている。

 天使の証――ほんとうに、天使だったんだ。

 目を奪われて、はたと気がついた。

「え、ちょ、降ろして!」

「だめ。あんたすぐ無茶すんだもん」

「しないしない降ろして!」

「とりあえず落ち着きなって」

 お姫さま抱っこされて落ち着いてられるわけないでしょう! とじたばたしてみるも、忍はのらりくらりとかわしてあんずを抱えたまま離そうとしない。

 あんずはどうしていいのか分からず、降ろしてくれるように頼むしかできない。顔が近くて、洗濯のであろういい香りが分かってしまう距離。

 大人しくなったあんずに忍はにやりとわらった。

「やっと諦めてくれた? しばらくじっとしててね」

 でなけりゃ預かり物も出せやしない、と器用にポケットからくるりと巻かれた紙を取り出した。

「預かり物?」

 にいっとわらった忍は、首をかしげたあんずにいたずらっぽい視線だけを寄越した。丸めて留めてあった紐を器用に口で解いて、文書を広げる。

 途端に眩い輝きを放つ文書に、天使も悪魔も身動きが取れなくなり、手にした不幸ボムもラッキーハンマーもぼろぼろと崩れていく。どよめく声と、不幸と幸運でぐちゃぐちゃになった町を、光が清めるように一掃していく。

「あー、聞こえてますかね? コレ両家の現当主サマからの預かり物。誓約書だよ」

 忍はいつもの投げやりな口調で読み上げる。


「『本日を持って、天使を任されし天ケ市家、悪魔を任されし安久沢家、その役割のすべてを廃止する。』」


 うそだ、嘘に決まってる!

 静かになったのも一瞬のこと。口々に、どちらの家のものも戸惑いと怒りを、感情のままに全てを忍にぶつけた。

「だいたい出て行った女の子供が何故そんなものを持っている!」

「あー、偽物って言いたいわけだ? 残念、本物だよ」

「証拠がどこに――」

 往生際悪くしがみつこうとする御使家の面々を、忍は凍てつくような目で睨みつけた。

「見苦しーんだよジジイ。てめえらのおかげで母さんがどれだけ大変な思いして俺のこと育てたと思ってんだよ? 大層なお家にしがみつくのは勝手だけどなあ、子供の人生はあんたらの所有物じゃねーんだよ。俺らだって一個人だって、わかんねんだろーな、死ぬまで。だから俺は今後一切あんたらとは関わらない。――それでいいんだよな、ばあちゃん?」

 光に清められたアスファルトを、二人の老婦人が歩いてくる。

「ええ、シノの好きになさいな」

「本当に忍くんはシゲちゃんにそっくりねえ」

 仲睦まじく微笑みながらこちらにちらりと視線を送るのは、上品な淡いグレーのワンピースに身を包んだ天ケ市家の現当主にして神の名を継ぐ忍の祖母、しげると、灰色にすみれの描かれた着物を着た安久沢家の現当主にして魔王の名を継ぐあんずの祖母、ゆづだった。

「天使代行の当主は神の名を継ぎ、悪魔代行の当主は魔王の名を継ぐ。」

「その時点でおかしいと思わなかったのかい?」

 滋とゆづはやれやれとため息をつく。

「悪魔の囁き、天使の小言、――両方自分の心じゃないか」

 財布を届けるのも、盗んでしまうのも、自分次第。

 天使も悪魔も、どちらを選ぶのかを見守るだけ。

 幸せがなければ、不幸せもないように、悪のない世界に善はない。

 不幸を取り除けば、からっぽの世界が残るだけ。

 幸せには、なれない。

 安久沢家、天ケ市家の人間が呪文を唱えても、不幸ボムもラッキーハンマーも、もう何の力も持たない。


 ようやっと降ろしてもらえたあんずの頭を、ゆづがなでた。

「お、ばあちゃ……」

「ごめんね、あんず。ばあちゃん知ってたんだけど、守ってやれなくて。まさか自分に不幸ボムを使っているなんて、アンタの使い魔の文鳥が教えてくれなかったらどうなっていたことか」

「城咲が?」

「そうよ、どうしても違和感を拭えなくて、アンタが使ったっていう相手を辿って、調べていたの。そうしたら、不幸ボムは使われていなかった。それでも毎日減っているから、おかしいって、閉じ込められてから教えに来てくれたのよ」

 ――お嬢さま、ボクはお嬢さまの味方です。

 ――ボクはお嬢さまの幸せを、いつも、願っております。

 いつもそばにいてくれた城崎の声は、あんずの支えだった。

「城咲……」

「お嬢さま!」

 祖母の鞄から飛び出してきた城咲はあんずに飛びついた。

「お怪我は? どこか痛むところはありませんか?」

「ううん、大丈夫だよ」

「良かった……お嬢さまに何かあったらと気が気ではありませんでした」

「……ありがとう、城咲」

 城咲はあんずの後ろに立っていた忍に頭を下げた。

「ボクはあなたを誤解していたようです。お嬢さまを助けてくださってありがとうございます」

「や、俺そんな大層なことしてないから頭上げてよ」

「ボクでは!」

 珍しく大きな声を出した城咲が「すみません」と俯いた。

「ボクでは、守れないのです……だから、だからありがとうございました」

 ぽたりとあんずの服に雫が落ちる。

「そんなことない、城咲はいつも守ってくれるよ」

 あんずが首を振ると、忍も口を開いた。

「……あんたは、守れてるよ。ちゃちな人間より、よっぽど俺は好きだね」

 優しい眼差しで、そんなことを言った。


 ゆづの目がきっと鋭く光ると、安久沢家の人間がひっと一歩後ずさりした。

 つかつかとあんずの両親のもとへ真っ直ぐに向かうと「このたわけが!!」と一喝した。

「子供がいいことをして叱るなんてどういうつもりだい、この馬鹿者が。反抗しない子供なんて、言いなりにされているだけで、家族ではないわ。そんなこともわからないのに親になれるのだから、この世界はほとほと甘い。あんずの何が悪かったと言うんだい? 困っている人を助けて、他人の幸せを願って、手を差し伸べることができる。――こんな素敵な女性に育ったのは、あんたらの影響なんかじゃない。あんずのもともと持っていたものだ」

 空気が震えるような怒りに、誰も言い返すものはいない。

「屋根があってご飯をもらえて自分の部屋もある、あの子はアタシにそう言った。だから大丈夫だなんて、子供の言うことじゃない。当たり前だと思ってはいけない。だがね、ご飯をもらえてるから、屋根のある部屋で寝かせてもらえてるからなんて、家族に言うことじゃない。悪魔として正しい家なんて、たわけかあんたら!!」

 ふう、とひとつ息をついて、ゆづはあんずを振り返った。

「……あんず、嫌なら嫌って言っていい。空気なんて読まなくってもいい。逃げたきゃ逃げていいんだ。向き合わなきゃいけないことなら、逃げても向き合わなきゃいけない時が来る。ちゃんと向き合える時が来るんだ」

 そういうふうに出来てる。

 世界は、ちゃんと優しくて、意地悪に出来てる。

「天使だろうと悪魔だろうと、子供たちが手を取り合って協力していたようにね。まあ、大人ってのはでかくなった子供だからね。頭も心も硬くなってつまんなくなることが多いのさ。それでも、アタシとシゲちゃんみたいに何十年生きても、馬鹿らしいってわらいとばせる大人もいる。つまりは人それぞれってことなんだよ、あんず。アンタは、アンタのままで大人になる。――でも、まだアンタは子供だ。」

 ゆづはそう言って、あんずの手を取った。

「だから、あんずがよければアタシの家で暮らさないかい?」

 どう答えていいかわからないあんずが、城咲を見ると頷いた。

 両親は、――まだ、怖い。

 あんずは思う。まだ、自分が悪かったのだと自分を責める。

 けれど、愛情が首を絞めていることもあるのなら、それは違うよ、痛いよと言わなければいけなかった。

 痛いなら痛いと言わなければいけなかった。

 たとえ親でも、あんずの心も、人生も、価値観も、あんずのものだ。

 決め付けることは、できない。

 それをまだ、あんずは直接口には出来ない。

 あんずは、両親に頭を下げた。ごめんなさいと、ありがとうと、ごちゃまぜの気持ちで、頭を下げた。

「お願いします、おばあちゃん」

 顔を上げたあんずを、ゆづはわらって抱きしめた。少し涙が滲んでいた気がした。

 誰かに抱きしめられるのは、いつぶりだろう。

 あんずはゆづの腕の中で目を閉じた。


 ☆


「いいなあ、綺麗な白い翼」

「これ? あんたのだって色違いじゃん」

 そういう問題じゃないのにな、とあんずは苦笑いした。

 帰り道も、有無を言わせない忍によって抱きかかえられている。

「……重くない?」

「それいま聞く? 重かないよ」

 大丈夫だからと降ろしてもらおうとしても、無茶するからと頑として降ろしてくれない。

「ほんっと、猪突猛進。死にはしなくても、痛覚くらいあんたにもあるだろうにさ」

「……ほんとに、天使だったんだね」

「あー、まあね。井居は母親の旧姓。兄貴がさっさと結婚したから、あちらさんとしては俺が天ケ市家の跡取り息子だったけど――だからって、何か変わる?」

 学ランを脱いだシャツの背中で、白い羽根がふわりと揺れる。

 あんずは首を振った。そんなの、分かりきったことだろう。

「変わらないよ。忍くんは、忍くんでしかないもの」

「ご名答、さすがヒーローは違うね」

 不意に、忍がじっとあんずを見た。

「何?」

「黒髪のときも少し茶色がかってるけど、アンジュのときは少しオレンジ……ああ、杏色なのか、目も。十分、綺麗だと思うけど」

 唐突に言われて、あんずは固まってしまった。

 忍の赤みがかった目と、あんずの目が合う。

「軽いしさ、お前のほうがよっぽど天使みたいだ」

 間近で見た忍の笑顔は、心臓に悪かった。

 天使の微笑みより、悪魔の誘惑より、もっともっとタチが悪いとあんずは思った。


 ☆


「茶飲み友達?」

「そー、サボってぶらぶらしてたら声掛けられた」

 後日、祖母の家に住むことになったあんずは、忍とクレープを食べていた。

 城咲は留守番だ。

 陽のあたる窓際で日向ぼっこをしているだろう。

『アンタ、毎日ここらにいないかい? こんなとこでふらふらしてるくらいなら、ババの散歩に付き合ってくれないかい?』

 学校をサボタージュしていた忍に、あんずの祖母はそんなふうに声をかけたそうだ。連れて行かれた先は高級な洋菓子店だった。そこには忍の祖母がいて、二人が仲のいいことを知った。

『あらシノ、また自主休校?』

 滋もたしなめることなく、行かないなら美味しいものを食べなさいと、忍一人では手の届かないような有名な洋菓子店でケーキを食べさせてくれた。

「ケーキ、好きなの?」

「甘いの好きなんだよねー、でも男一人でイートインとか入りづらいじゃん。持って帰るのもいいけど、やっぱり食べていけるならそこで食べたいし」

 ここも教えてもらったんだよね、とティラミスのクレープを頬張る。

 あんずもいちごとカスタードのクレープをかじると、カスタードの美味しさと生地の何とも言えない食感に「おいしい」と思わず声がこぼれた。「だろ?」ともうひとつのカスタードとチョコレートのクレープにかじりついた忍がしみじみと頷いて、美味いと言った。

「カスタードがうまいんだよ、ここ」

「おばあちゃんとも来たの?」

「来たよ、ばあちゃん二人と俺とで」

 それからというもの、ふらふらしているよりよっぽど面白いし美味しいという理由で、ひと月に二、三回のお茶に忍はくっついていったのだという。

「学校、嫌いだったの?」

「あー、いま思えばあんたと一緒かもな。いいことしろって言われてるとさ、やってられっかばーかってうんざりしたんだよ。服は白しか着るなとか意味のわかんねーこと言うし」

 あんずは思わず吹き出してしまった。

 だから黒づくめの羽織と袴に黒髪だったのか、と。

「そんなとこもおんなじだったんだね」

「そんなもんだよ。くだらねーったらない」

 うま、とカスタードとチョコレートに舌鼓を打ちながら、忍は独り言のように言葉を続けた。

「……知ってたよ、あんたのばあさん」

「何を?」

「あんたが、ヒーローやってること」

 え、とあんずは忍を見上げた。

『あんた、あんずを知らないかい?』

『学校なんかろくに行ってないから、わかんねーけど』

『そうかい、ならこの娘を見つけたら、手伝ってやってくれないか?』

 そう言って、一枚は制服を着た写真と、雑誌とを並べたという。

 ヒーローアンジュが、孫娘? さすがに忍も驚いたらしいが、あんずの祖母はにやっとわらって言ったのだという。

 それはもう、誇らしげに自慢をしたのだと。

『アンタは、人の喜びも悲しみも、どうだっていいと言ったねえ。実際そうなんだろうよ、それに良し悪しはない。アンタが辛いならなにか考えなけりゃならないが、そうでもないのだろ? あんずはねえ、人の幸せを自分のことのように喜んで、人の不幸を一緒に悲しむことができる。そして、悲しむだけじゃなく、あの娘は悲しむ人の手を引いてやることもできるんだ。――だけど、優しすぎるからねえ。傷だらけなのさあ。あの娘は優しいから、自分を後回しにする。蔑ろにだってときにはするだろう。あの娘はたくさんの人を守るだろう。でも、あの娘を守るのは誰だ? ほんとなら自分を守るのは自分の役目なんだが、それはからきし、あんずは我慢ばかりだ。だから、見つけたら見ているだけでいい。頼めないかい?』

 ――よく遊んで、学ぶこと。アンタの仕事はそれだ。

 あんずが祖母と暮らし始めたとき、最初にそう言われた。花嫁修業として家事も教えるけれど、一番はきちんと楽しむことだと。ゆっくりとあんずを見ていて、待っていてくれるゆづが、自分の知らない時にもあんずを守ろうとしていてくれたことを知って、少し涙が滲んだ。

「俺は見守るつもりも、なかったんだよね」

 忍は、ノルマ達成になるからというだけの理由だったのだと言った。

 ヒーローとして活動するあんずと一緒にいれば、自分もいいことをしたとみなされてカウントされる。

「始めはね、それだけだったんだ」

 いまは? とあんずは聞きたかった。

 よし、とあんずは口を開く。

 言わなきゃ伝わらない。

 言わなくても伝わったって、――大切なことなら口にしなけりゃ意味がない。

 いまのあんずならそう思えるから、口を開いた。

「私と、……その、コンビに」

 なる話だけれど、と続くはずだった声は、アラーム音にかき消された。

 白いファーで可愛らしいもこもこの白い羊の形をした迷える子羊メェターをあんずが、黒いメタリックのドクロちゃんを忍が開いて、声と位置を確認する。悪行と善行を数えるカウンターは、お互いのものを取り替えて、困っている声や悪巧みを察知したらアラームが鳴るように改良したのだ。

「……ひったくりだって」

「……そーだねえ」

 泣きたいのを抑えて、あんずは一度だけ大きくため息をついた。

 向かい合ったままで、瞬く間にヒーローの姿に変化して、地面を蹴った。

 滑るように空を飛んでいく二人にかかれば、現場までたどり着くのに時間はかからない。

 体質である心の声の察知と変化の能力は残っているが、もう不幸ボムもラッキーハンマーも効力は失われている。

 もう握りつぶす必要のない弾を、白銀のバズーカ砲に込める。

「ひとのものを盗ってはだめ、なのですよ!」

 あんずの放ったバズーカ砲をくらった犯人はむせて「痛、痛い痛いなにこれ?!」と、派手に転ぶ。

「どうです、改良を加えたハバネロボムの威力は!」

「あれはきっついっての」

 ぴこっと忍があんずをピコピコハンマーでこづく。

 実はこれが忍のラッキーハンマーだったのだ。あんずをぴこっと叩くことで、不幸ボムをかぶっていたあんずの不運を相殺していたのだ。

 そんな忍は、防犯グッズを研究して改良している。ハバネロボムも、忍のアイデアだ。

 取り押さえた犯人を警察に引き渡して、鞄を持ち主に返す。

 お疲れさま、と拳を合わせてぐーたっち。

 どちらからともなく、わらってしまった。


 ☆


「あんたの好きな食べ物って何?」

 迷子にカツアゲ、修羅場とてんてこ舞いが落ち着いて一息つくと、忍が問うた。

 唐突に言われた言葉の意味が、あんずははじめ分からなかった。

「……ゆ」

「ゆ?」

「……ゆきみん大福」

 ぶはっと吹き出した忍は、あんたもいい根性してんなーとわらった。

「じゃー、コンビニでゆきみん大福買ってお祝いしよーぜ」

「お祝い?」

「コンビ結成の」

 え、とぽかんとするあんずに忍がまたわらう。

 ああだからタチが悪いんだってばとあんずは笑顔を見るたびに思う。

 いいの? と聞けば勿論と頷く。

「もともと俺が言い出したことだし、あんずといると飽きないしね」

「ありがと――え?」

 いま、名前を呼ばれた? あんずが聞き返そうか迷っていると、隣で忍が楽しそうにわらった。

 ほんとに飽きない、そう言って笑顔をまっすぐあんずに向けた。

「正式にコンビとしてよろしく、あんず」

 返事待たせてゴメンネ、と言われれば許すしかない。

 本当にタチが悪い、と赤い頬は夕焼けのせいにしてあんずは笑顔を返した。

「じゃあ、飲み物は忍くんの好きなココアだね」

「さっすが、よく知ってんね」

 改めてよろしく、とペットボトルをこつんと合わせて乾杯した。

「あ。十六になったら一緒に献血行かない?」

「ええー……何その変化球過ぎるデートのお誘い……」

「デートじゃないよ! ずーっと、夢だったんだ」

 仕方ないなあ、と忍がわらって出してきた交換条件は、次の週末のデートの約束だった。

 行き先は、あんずがずっと憧れていた遊園地。


 ☆


『巷で人気のヒーローコンビを知っているかい?』


『オレンジがかった金色のふわふわの髪に、白いレースのリボンを結わえて、白いワンピースを着た真っ白い少女と、真っ黒い髪をポニーテールにして黒の袴に木刀を持った真っ黒い少年のことさ。』

『真っ白い少女の背には、黒い翼。』

『真っ黒の少年の背には、白い翼。』

 城咲の見ている雑誌には、白銀のバズーカ砲を構えたヒーローアンジュと、木刀を構えたヒーローサムライが載っている。

 きっといまも、どこかで万引き犯を取り押さえ、迷子を見つけて送り届け、失恋した誰かの涙を拭っているのだろう。 

『彼らは正義のヒーローでも、裏切りのダークヒーローでも、悪の一味でもない』

『それなら、一体彼らは誰の味方なのだろうか?』

 城咲が目を細めて、雑誌の言葉をたどる。

 本当に騙していたらどうしてやろうかと思いましたがとひとりごちて、ふふふふふ、とわらう姿は真っ白いのに闇より黒い。誰かを守るためなら、あんずのためなら、城咲は天使にも悪魔にも、何にでもなってみせるのだ。

「お嬢さまは、誰かの味方などではありませんからね」 

 誇らしげに、呟いた。


 泣いている女の子の前に、真っ白い少女と真っ黒い少年が現れる。

 涙の止まらない女の子の肩を、真っ白い少女がさする。

「どーしたの、お嬢さん」

 真っ黒い少年はぶっきらぼうだけれど急かしたりしない。

「だって、悲しいのはあたしだけじゃない」

 自分も悪い、自分が悪いんだと言う少女に、真っ白い少女はわらってみせた。

「そんなことは関係ないのですよ」

「あたしが悪いのに……?」

 花のような微笑みと、口にするであろう言葉に、少年が柔らかく目を細める。


『真っ白と真っ黒の、二人組のヒーローズ!』

『今日も二人は 正義でも悪でもなく、悲しんでいるあなたのためにヒーローになる。』

『お互いに胸を張れる自分であるために、町を駆ける。』


 

「それでも! ヒーローアンジュは、あなたの味方なのですよ!」




fin.


 2015.01.27.

 2016.07.18.


 水瀬です。

 悪魔少女がこっそりヒーローとして活躍するお話でした。

 献血に行きたいのですが、水瀬は薬を処方されていて出来ません。そこから生まれた物語です。あんずが忍と一緒に献血カーを出待ちする日が来るのが楽しみです。なんだかんだ、忍はちゃんと付き合ってくれる子だと思います。文鳥は個人的好みです。桜文鳥も好きです。

 いいことも悪いことも、善も悪も、幸せも不幸も、きっと居場所や見方が違うだけで簡単にひっくり返ると思います。それならばどうやって選ぶのか、何を基準に決めればいいのか。そんなことを考えて紡いだ物語でもあります。

 読んで下さってありがとうございました。

 読んで下さった方に何か届けられたのなら、そんな幸いはありません。

 ありがとうございました!


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