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3 彼の正体

 

3 彼の正体


「無理ですよう……」

「無理じゃないですよ」

「男だろ、押して押して当たって砕けてこいよ」

 植え込みの影でこそこそと話す、視線の先には眼鏡をかけた、可愛いよりも綺麗な女子生徒が本を読んでいる。

 忍の困っている声で察知されたのは、気弱な高校一年の男子生徒、奥田優一おくだ ゆういちだった。

「昔から、どうしても人に声をかけるのが苦手でして……」

「だーからそこにいるんなら、」

「練習しましょう!」

 は? と二人があんずを見る。あんずは小さな声で「キヤサ・サノ・マクア」と唱えると、優一の片思いしている女子生徒に姿を変えた。

梶原かじわらさん?!」

 慌てる優一に、さあ告白の練習をとあんずは言う。しかし中身があんずと分かっていても言えない優一に、忍が焦れた。

「あんたさあ、どこを好きになったの? 顔?」

「ちが! ……その、いつも真面目に委員の仕事とかしてたり、僕の落としたもの拾ってくれたりとか、……そういう、優しいところとか、あと」

「あと?」

「……あああ言えません!!」

「ったく、好きなら好きって言えばいいだろ」

 それは、それは難しいよ。あんずは思わず口に出していた。

「好きだから、好きって伝えるのが難しいんだよ」

 ふうん、と忍はあんずをまじまじと見て、優一に向き直った。

「らしいけど、あんたは見てるだけでいいの?」

「……僕なんかじゃ、釣り合わないんですよ」

「そりゃ、あんたが勝手に決めたことだろ。逃げてんな」

 あんずがこそっと耳打ちする。もうそのほうが早いな、と忍が頷いて、ヒーローアンジュの姿に戻ったあんずが駆けていく。

「……いまからあんたの好きな人を不運が襲いまーす。なので颯爽と助けに行ってきてクダサイ。で、」

 忍が棒読みで作戦を伝えていると、優一が真っ青になって植え込みから飛び出した。

「僕の不甲斐なさで、不運に襲われるなんて嫌だ!!」

 バズーカ砲を構えて、一番軽いのを撃とうとしていたあんずの心に、その言葉はぐさりと刺さった。

「梶原さん!!」

「……奥田くん?」

 そのあとどうなったかは、並んで話をする二人に気づかれないように、こっそりその場を離れたあんずと忍は知らない。

 とても楽しそうに、ぎこちないけれど話をするふたりは、とても絵になっていた。


 ☆


「井居くん、この問題前に出て解いてくれる?」

 学校来ればいいのに、とあんずが説得したかいあってか、忍は週に四、五回はサボっていた学校を、月に三回サボるかどうかになっていた。

 学校に現れるようになって、授業で当てられた忍は、どんな問題だろうとあっさり解いてみせた。

 国語の漢字テストは百点、数学の応用問題はすらすら解いて、理科の実験では失敗なし、社会の歴史では教師も舌を巻く知識で満点回答をし、英語では筆記も受け答えも滑らかな発音で答えてみせた。

 クラスメイトどころか、教師も一同唖然。

 体育もやれば陸上競技も球技もそつなくこなし、淡々としていてつまらなさそうである以外に非の打ち所のない優秀さは、あっという間に知れ渡った。

「……すごいなあ」

 女子がバレーボールをしている反対側で、バスケットボールをしている男子を見ながら、ディフェンスを抜き去ってシュートを決める忍を見て、クラスメイトに肩を叩かれている忍を見て、あんずは呟いた。

 相変わらずあんずは学校ではひとりきり。

 今日の体育ではあんずも、誰も怪我をしなかったけれどと思って、はたと思う。

 ――そういえば、最近は私も、周りも、何も起きていないような。

 絆創膏も減っている。どうしてだろう、あんずはついていないのが普通なのに。

 いいことがないのが普通なのに。

 そんなことを考えていると、忍と目が合って、逸らした。

 見られたくなかったなあ、と今更ながらに思った。


「ねえ、ここ分かる?」

「え?」

 数学の授業が終わって教科書をしまっていると、正面に忍が立っている。

「わ、かるけど……」

「じゃー教えて」

 言われるがままに教えていくあんずだが、状況が飲み込めない。

「――で、こうなるから、答えが出るの」

「なるほどねー、ありがと」

 そのまま自分の机に戻っていく。

 ――見た? 疫病神に話しかけてる!

 ――井居って安久沢と仲良かったっけ?

 ひそひそ話す声が聞こえているだろうに、忍はまったく気にした様子もなく席に突っ伏して寝ている。

 忍は一日に一回は必ずあんずのところへ何かしらの教科書を持って「ここ分かる?」と聞きに来た。

「しの――井居くんなら分かるでしょう?」

「忍でいいって。分かるなら聞きにこないっての」

 英文の和訳を聞きに来た忍はそう言って、次の休み時間には当てられるからと国語の教科書を持ってきた。

 ――えー、あの二人付き合ってるの?

 ――疫病神なのに井居くんと? ないわー。

 なあ、井居って安久沢と付き合ってんの? 

 ひそひそ、くすくす笑う声を代表してか、男子が聞いた。クラス中が聞き耳を立てているのが分かる。黙りこくるあんずに、忍はクラスを見回して、ふーん、と小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。にいっとわらったのが、あんずには分かった。

「くっだらねーの、お前ら」

 はあ?! と憤る声も何のそので、忍は言う。

「疫病神って、何の証拠があって言ってんの? くだらねー。だいたいこのクラスに俺の分かんない問題わかる奴、他にいる? 俺は教わるならちゃんと教えてくれるやつがいいから聞いてるだけなんだけど。お前らんなこと言ってるから馬鹿なんだよ。こいつの教え方、下手な教師よりわかりやすいのにさあ。もったいねーの」

 静まり返った教室で、忍はあんずの机に頬杖をついて「じゃー続きよろしく」と言う。

 ぽかんとしたものの、自分はどのみち一人だからいいか、とあんずも教えるのを再開した。


「あの……数学、得意?」

 だからとても驚いたのだ。

 後ろの席の、いつも編込みをしているクラスメイトの倉橋くらはしさんに肩を叩かれたときには。

「得意、というか苦手ではない、よ?」

「ここ、分かったりする?」

 うん、わかるよ、とあんずが応用問題を教えていると、忍も混ざってきた。

「あのー、おれも混ざっていい?」

「お前都合いいのなー」

 バカ言うなって、次当たるんだよ! とさらさらの髪に眼鏡の吉井よしいくんと忍がじゃれるように騒ぐ。くすっとわらって、同じようにわらっていた倉橋さんと顔を見合わせて、二人でわらってしまった。

 倉橋さんは、クラスでも大人しい女の子で、あんずを表立って何か言ったりしたことのない子だった。

 一人でいたり、仲のいい二、三人で、いつも可愛い小物を見せ合っているのを知っていた。

 はじめは遠巻きにやりとりを見ていた、倉橋さんと仲のいい女子や、吉井くんとよく一緒にいる男子も時々混ざるようになって、ちょっとした勉強会みたいになることもあった。

「わー、安久沢さんの教え方、すっごくわかりやすい!」

「応用問題初めて解けたわー」

 ありがとう、と言われて、どういたしましてと答える。

 忍がお菓子を頬張りながらだったり、相変わらず休み時間に教科書を持って机の真ん前に陣取ったりしながら、いつもあんずを見ていた。

「便利屋になんないよーにね」

 友達と便利屋は違うんだからさ、と忍が言った。

 分かってない馬鹿が多いんだよ、と皮肉たっぷりの言葉に悪意のないことは、あんずにはもう分かっていた。

「あんずちゃん、髪やってもいい?」

「いいの? 佳奈かなちゃんの編み込み教えてほしかったの!」

「いいよー、任せて!」

 いつの間にか倉橋さんとあんずはお互いを名前で呼ぶようになっていた。佳奈が結った編み込みに、淡いピンクの花飾りのピンを刺す。

「でーきた! やっぱりあんずちゃんはピンクが似合うよ」

「わあー……可愛いピン。え、似合う?!」

「似合うよ、淡い色とか可愛いのが似合うって、ずっと思ってたんだよね」

 あんまり使わないからあげるよ、と言われてあんずは目を丸くした。

 佳奈と一緒に小物屋さんに行く約束もして、嬉しくなってしまった。

 そんなふうに、あんずは学校で一人ではなくなっていった。

 もちろん、誰からも好かれようなんて、好かれるなんて思ってはいなかったけれど。 

 いつだって、一瞬の隙を突いて、嬉しい心を悪意が潰しにくることくらい、分かっていたはずなのに。


 あ、と思ったときには鍵が掛かっていた。

 あんずの中学校の渡り廊下の両端には扉があり、校舎の中から鍵が掛けられるようになっている。掃除していたあんずが戻ろうとすると、誰もいなくなっていて、扉には鍵が掛かっていた。

 外は雨。風が吹いてきたので屋根と手すりしかない渡り廊下がびしょ濡れになるのも時間の問題だろう。

 ――久しぶりだけど、これくらいは慣れてる。

 あんずは扉にもたれるようにして、通りすがりの誰かが見つけてくれるのを待つことにした。

 雷が鳴ってきて、これは早く見つけてほしいなあと思ったとき、ガチャリと音がした。

「何してんの?」

「……忍くん」

 振り向けば、呆れたように眉を寄せる忍が立っていた。

 気づかなくて鍵を閉められてしまったと言えば、昼に戸締りなんてしないだろと言われて、大きなため息をつかれる。

「まー仮に締め出されたとして、さ。よくあるの?」

「……うん。でも、こんなのは慣れてるからいいの。今回のはわざとじゃないかもしれないし、運が悪かっただけだよ。……その、私いじめられっ子だったから、こういうの慣れてるもの」

 格好悪いとこ見られちゃったね、とわらってみせる。雨のせいだろうか、するりと言葉が口からこぼれた。

 忍は否定も肯定もしないで、いつ? と聞いた。 

「小学校と、幼稚園もかなあ。……家族にも、どんくさいっていつも言われてて、うまく良い子に出来なくて。一人の方がいいやって、こんなんなの。怖くて。だめなのに、怖いんだ」

 変だよね、ごめんねとわらうあんずに、忍はため息混じりに言い切った。

「ソレ、悪魔でもなくて人でなしってんだよ」

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、慌てて立ち上がろうとしたあんずを引き止めて、忍がにっとわらう。

「サボっちゃおーぜ、優等生さん」

 どのみちその格好じゃ風邪引くって、と保健室へと歩いていく。

 あげる、とポケットからミルク飴が三つ、あんずの手の中に渡される。

「ありがと……これ、好きなの?」

「んー? これだけは好きなんだよ」

 誰もいない階段や廊下を、忍の少し後ろを付いて行くのは少し不思議な気がした。

 保健室に着くと、目を丸くした先生は、あらあらとタオルを渡して着替えを探しに行ってくれた。

 思ったよりも濡れていた髪を拭きながら、ねえ、とあんずは忍に問うた。

「守ろうとして不幸ボムを投げること、正しいのかな?」

「ん?」

「不運になるのを分かってて投げるなら、私も犯人と変わらないんじゃないかって思うの。捕まえるためだとしても、不運を見舞うのは、許されることなのかな」

 帰りたくない迷子の美晴。

 気弱な片思いの優一。

 彼らは確かに困っていたり、悲しんでいたけれど、だからといって犯人はいない。原因が誰かだとしても、気づいてもいない。優一のように勝手に悩んでいることだってある。

「それは答えの出ない問題だよ。守ろうって思っても、力がなきゃ何もできない。思ってるだけじゃなんにもならない時ってあるだろ?」

 忍は保健室の椅子に腰掛けてくるりと回りながら、あんずに言う。

「悩んでて、迷ってて。それでいいんじゃない?」

 あんたはそれでいいよ、と答えた。

「きっと正解なんかないよ。守ろうとか、助けようとか、その根っこがぶれなければ、あんたのは暴力とは違うって俺は思うよ」

 あんずはずっと心にくすぶっていた気持ちを口にした。

「不幸になってもいい人間なんていないって思うの。――でも、不幸とか不運って、勝手にやってくるでしょう? でも、他人を不幸にするって、傷つけるとか、困らせるとか、分かっていて、騙したり奪ったり、いじめたりした人間を、私は守ろうとは思えない」

 自分はヒーローと呼ばれているけれど、誰のためのヒーローなのか。

 正義のヒーローなら、悪を殺してもいいのか。――不幸にしてもいいのか。

「……でも、きっと犯人だったひとが被害者になったら。私は助けるんだと思うの。全員なんておぼえていないもの。いままで助けた人も、不幸ボムを投げた相手も。それってとてもひどいことじゃないかって。私のしていることが、人を自分勝手に区別して、被害者とか加害者とか、名前をつけて、理由をつけて、不運を投げつけるのなら、それは暴力と同じじゃないかって、思うのよ。加害者は、私じゃないかって、思うの」

 タオルを持つ手が震えていたことに気づく。

 自分の思っていることを口にする。それだけのことがあんずにはとても勇気のいることだったから。

 珍しく言葉を選ぶように、思い出すようにしながら、忍があんずと目を合わせた。

 忍は誰かと話すとき、真っ直ぐに目を見て話すことを、あんずはもう知っている。

「ちゃんと標的に当てるために練習とか、研究したのは、あんただろ? 守ろうとして、でも男とか大人を何人も相手に、女の子一人じゃ太刀打ちできないから、道具を使った。足りない力を補うために。なんにもおかしなことじゃないよ」

「相手が俺にしてみりゃ馬鹿でどうしようもなくても、あんたは怪我しないようにって狙う精度を上げるために練習して、ボムの中身もいじってるんだから、さ。」

 お人好しで、世話焼きで、損ばっかしてる。俺には真似できないね、と忍はまたため息をついたけれど、仕方ないなあというような、それはとても柔らかいものだった。

「……あんたは優しいって、俺は思うよ」

 こんなに優しい目をするんだ、と髪と同じで赤みの強い黒い目からぱっと目を逸らした。

「お待たせー、ごめんねえ」

 保健室の先生が、青に赤いラインの入ったジャージを手に戻ってきた。

「三年生のジャージだけど、それくらいならすぐに乾くからこれ着てらっしゃい……って、あなたまだいたの? 授業に戻りなさい?」

「へーい」

 じゃあね、と手を振って戻っていく忍にあんずは「ありがとう」とかすれた声で言うのが精一杯だった。

 どーいたしまして、と保健室の扉が閉まる。

「髪は乾いた? いま温かいもの用意するから飲んで行きなさい」

 雨が窓ガラスを叩く午後、保健室で飲んだレモンティーと、忍の言葉が、あんずの心に染み渡るようだった。

 ポケットのなかのミルク飴が、お守りのように思えた。


 ★


「好きです!」

 緊張した少女の声が夕暮れの教室に響く。

 夕陽のせい、だけではないだろう、赤く染まった頬の少年は驚いたような顔をして、ゆっくりと苦笑いした。

「俺も、ずっと好きだった」

 少女が弾かれたように顔を上げて、みるみるうちに泣き出した。

 今度こそぎょっとした少年が駆け寄って、嬉し泣きだと目をこする少女の頭を撫でる。

 教室の外で人払いをして、事の成り行きを見守っていたヒーロー姿のあんずと忍は、そうっとその場を後にした。

 告白しようとするとどうしても邪魔が入るのだと、十二回告白し損ねた少女のために、あんずと忍は人払いと場所の確保にあちこち細工をした。

 万引きグループを捕まえたのもつい最近のこと。

 あんずのバズーカ砲で転んだ少年たちを忍が成敗し、ひとまとめにして店に引き渡したのだ。

 あんずだけだと悪意のある事件しか察知できないけれど、忍とならだた困っている人を見つけることができる。困っている人を助けるのにバズーカ砲はいらないので、あんずの悪魔としての成績は落ちてきていたけれど、それでも嬉しかった。

 困っている人、悲しんでいる人をあんずは助けたかったから。

「よかったね、あの子」

「あー、まあ腹くくった女より怖いもんはないからね」

 そうなの? と変化を解いた二人は帰り道を歩いていた。

 言わなきゃ。

 あんずの正体を黙っているという条件で始めた二人組のヒーローコンビを、あんずはちゃんとしたコンビとして組みたいと思っていた。期間限定でもなく、ちゃんと、相棒として。

「どしたの?」

 黙り込んだあんずを忍が見る。

 あんずは顔を上げて、どくどくとうるさい心臓に負けないように息を吸い込んだ。

「あの、私と、ちゃんとコンビを組んでくれませんか」

 忍はきょとんとした顔をして、――困ったように頬をかいた。

 言えた! と思ったあんずは血の気が引いて、しまったという気持ちでいっぱいになる。

「待って待って待って、待った。困るとかじゃなくて。俺、あんたに言ってないことが、」

「忍ぼっちゃま!!」

 忍にしては珍しい真剣な声を遮って、誰かが叫ぶように彼を呼んだ。

 白づくめの男女が数名、あんずと忍に向かって早足で歩いてくる。

「ちょっと、逃げるよ」

「え?」

 あんずの手を引いて忍が駆け出した。

 裏道を通り、回り道をわざと通って、細い道に入って、物影でやり過ごす。

 そうして逃げて、けれど捕まった。

 車も通らないような道の、死角になる自動販売機の影に隠れていた忍は引きずり出される直前に、あんずを壁と自動販売機の後ろに押し込んだ。白いシャツがはち切れそうな男に引っぱたかれて吹っ飛ばされる。蹴りで応戦するが、羽交い締めにされて抵抗してもびくともしない。「離せよ!!」と声を荒げる忍に、小柄な男が悲鳴のような声で叫ぶ。

「お前は天ケ市家の跡取りだということが分かっていないのか!!」

 ――天ケ市家?

 あんずは耳を疑った。

 悪魔の安久沢家。

 天使の天ケ市家。

 忍は、天使の跡取り息子だったの?

 呆然としているあんずの首根っこが掴まれる。

 首が締まって呻いたあんずを見下ろしていたのは、これ以上ないくらいに恐ろしい顔をした両親と、安久沢家の本家の人間だった。


「天ケ市の跡取り息子とつるんで正義のヒーローごっこねえ。引っ掛けて来いとは言ったけど相手くらい選べよ」

 パパとママにどんだけ迷惑かけたいの?

 母親の声は冷たく、硬い。

「っ……でも、助けたいって思ったから、」

 口を開きかけたあんずを睨みつけて、嫌悪しかない声が響く。

「お前さあ、助けたいとか言うけど、ヒーローなら、なんで全部助けてやらねーの? 昨日だけで何人が交通事故で死んだ? いじめにあってんのはこの辺の学校だけで何人? お前が助ける人間と助けない人間の違いは何? 全部助けもできねーくせに、見つけたからって助けたり懲らしめたりって、――マジ、何様のつもり? お前のやってることは、ただのガキのわがまま」

 少し頭冷やせ。マジ勘弁。

 冷ややかに言い捨てた母親が出て行くと、閉じた扉に鍵のかかる音がした。

「待って、開けて! ねえ!」

 どれだけ扉を叩いても返事はない。 

 部屋に閉じ込められてしまったあんずの声は、誰にも届くことはなかった。


 ★


「天ケ市家の?」

「うん……私、騙されてたのかな」

 城咲によって、ほとんど無理矢理布団に寝かされたあんずは呟いた。

 一瞬城咲の背後に鬼が見えたような気がしたが、大きく深呼吸した城咲は、声を荒げることなく「そうですねえ」と考えるような素振りを見せた。

「お嬢さまは、どう思われますか?」

「私……?」

「お嬢さまが見ていた忍という少年は、意味もなく誰かを騙すように見えるかということです」

 あんずが思い出したのは、自動販売機の隙間に自分を押し込んだときの、何か言いたげな忍の顔だった。

 コンビを組んでくれといった時に、何か言いかけた忍。

 ポケットにいつもミルク飴を持っている忍。

 からかわれても、自分のしたいように振舞う忍。

 世界を小馬鹿にしたような皮肉屋で、斜に構えていて、だいぶよくなったけれどサボり魔で、意外に甘党で、――それから、それから?

「騙して、喜ぶって感じでは、ないかな……」

 意味もなく騙したりは、きっと忍はしない。

 ぽろ、と涙がこぼれた。

「あれ?」

「お嬢さま、いまはおやすみなさいませ」

 いま聞くべきことではありませんでしたね、と謝る城咲に、あんずは尋ねた。

「城咲は、誰かを信じるときって、どう選ぶの?」

 少しだけ時間を置いて、柔らかな声が答える。

「疑いたくないときですね。裏切られても、信じていたい相手なら、ボクは信じますよ」

 お嬢さまを、ボクは心から信じております。

「ボクはお嬢さまを疑ったら、お嬢さまが許してくださってどんなに優しい言葉をかけてくださったとしても、ボクが自分を許せません」

「裏切られても、信じたい、疑いたくない相手……」

「さあ、いまはおやすみください」

 城咲がそっと髪をつつく。あやすような、その優しい仕草に、あんずは気づけば意識を手放していた。

 それから三日経っても、あんずの部屋の扉は鍵が掛かったままだった。


 ☆


「……」

 城咲は、何も言わないあんずに何も聞かず、何も言わずにただそばにいた。

 黒いパーカーのフードをすっぽりかぶって膝を抱えて、腕に顔をうずめたあんずの肩にちょこんと乗っている。

「……なにも、いえなか、った」

 あの夜以来、ずっと閉ざしていた言葉が、自然にこぼれた。

 城咲は、はい、と応えた。

「ずっと、思ってた。全部助けられないのに、助けても、いいのかって。不幸ボムを投げる理由になるのかって、……暴力なんじゃないのかって。でも、でもね」

 はい、と城咲が頷く。

 あんずの言葉に耳を傾けてくれる誰かなんて、城咲しかいないと思ってた。――でも。

『悩んでて、迷ってて。それでいいんじゃないかな』

 弱気な言葉を、最後まで聞いてくれた。

『……あんたは優しいって、俺は思うよ』

 迷ったままの心を、本当はとても臆病なあんずを、否定しないでくれた。

 忍のくれた言葉が蘇る。

 あけすけな物言いだけれど、忍は自分のルールで生きている。

 あんずのように顔色を伺って、口をつぐんだりしない。

 そんな忍に、いいよと言ってもらえた。

「嬉しかった。……うれしかった、の」

「はい」

「いいよって、どんくさいし、つまんなくてもいいって……だから、私は」

 その瞬間、爆発音が響き、家が揺れた。窓ガラスがガタガタと震えて、突風で割れる。

「お嬢さま! 大丈夫ですか?!」

「った、大丈夫。城咲は?」

 幸い窓から離れていたこともあって、破片が足をかすめただけだ。城咲が無事であることにほっとするが、当の城咲はあんずの足の傷に白い顔を真っ青にしている。そんなに大した傷じゃないのにと思うと、なんだか、少しだけわらえてしまった。

「お嬢さま……?」

「ただの、かすり傷よ?」

「わらいごとではありません! いま消毒をしますから」

 ほっとしたように表情を明るくした城咲が、あんずの左足のふくらはぎの血を拭い、消毒して絆創膏を貼る。

 割れた窓の外から、物の崩れる音、壊れる音が響く。

「城咲!」

「分かっております。じきに終わります」

「でも!」

「できましたよ」

 行ってらっしゃいませ、と手のかかる妹にするようにため息を一つ。

 城咲はあんずを止めない。

 見上げる瞳は、やっぱり優しい。

 そして、帰ってくれば「おかえりなさい」と、また出迎えてくれるのだろう。――ずっと変わらない、その優しい目で。優しい言葉で。優しい心で。

 言葉では、とても足りなかった。

 とても大切で、かけがえのない城咲に、いまあんずができることは笑顔を見せることだった。

「……ありがとう、行ってきます!」

 そして、笑顔でただいまをいうことだ。

 優しい目を真っ直ぐに見ることができるあんずで、帰ってくること。

「キヤサ・サノ・マクア!」

 あんずはヒーローアンジュの姿になって窓から飛び出した。

 真っ白い少女の背中には、真っ黒いトゲのある翼が広がる。悪魔の証である翼は、変化の力でも変えることはできないのだ。あんずは今まで絶対に出そうとしなかった悪魔の翼を羽ばたかせて、街へと一直線に飛んでいく。

 両親が怖いといったあんずに、忍は言った。

 それはもう、あっさりと。

『ソレ、悪魔でもなくて人でなしってんだよ』

 あんずは誰にともなく呟いて、少しわらってやった。

「……私も、そう思う」


 ヒーローって、何のため?

 その答えを、あんずはもう知っている。



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