唐船が淵
兵庫県から大阪府にかけて流れる猪名川は、丹波高地の大野山の源泉から流れ出て南流し、池田を通り、神崎川に合流する川で、昔は日本海からの物産を池田に運ぶ重要な役割を果していた。
そのため、五月山と呼ばれる山を背景に持つ池田は、商業が発展し、また、城が築かれるなど城下町としても発展した。
その池田の地を流れる猪名川の畔に、唐船ヶ淵と呼ばれる船着き場だった場所がある。西暦280年の頃、応神天皇の御代に、阿知使主 が、中国の呉の国から絹工女の呉織、漢織と呼ばれた工女を連れ帰えり上陸した場所で、池田ではこの二人の工女が、池田の地で絹織物と染色を伝えたと言われている。日本ではそれ以来、「呉服」と呼ぶようになったという伝承があり、姉の呉織 は五月山の中腹にある上之宮(伊居太神社)に葬られ、妹の漢織は上之宮から少し下った平地に下之宮(呉服神社)に別れて葬られた。
唐船が淵には河原に少し降りたところに、3メーター四方の船着き場がある。私は日曜日にはいつも、古くてギイギイ鳴る自転車に乗り、釣具を片手に持ってあまり人の通らない河原の道を走り、その唐船が淵で釣糸を垂らす。日がな一日、川面にウキを浮かべて私は時を過ごすのだ。
しかし、何故だか今日は、川の流れははゆっくりで、時の流れもそこだけは明らかに違う。いつも、釣りをする場所としてこに来ているのだが、今日は魚が一匹も釣れず、いつもと違う感覚を感じながら釣糸をたらしていた。
陽が暮れ始めたころ、うきが静かに制止し、川の流れもわからないほどになった。突然、川面に何かが写った。二人の少女だった。年は17、8才くらいであろうか。私の背に温もりが伝わるほど近くに立ち、ひとりが「しくしく」と泣き出した。私は、後ろを振り向き少女を見ようとしたが、体がいうことを利かず、川面に浮かぶうきに重なる二人の少女を見続けた。
うきがすうっと川の中に引き込まれた、今まで、なんの揺らぎもなかった川面が揺れ、そして再び静寂、声が聞こえてきた。
「お姉さま、私、呉の国に帰りたい。お母様、お父様に会いたいの。この倭の国に、私の作る絹織物をいつまで作ればいいのでしょうか」妹のアヤハは、涙を流して姉のクレハに訴える。藍色に美しく染められた、絹の着物の胸元を濡らした17才の少女には、遠く両親から離れて暮らす辛さはいくら涙をながしても癒されることはなかった。
「アヤハ、きっと、お母様やお父様に会えるから、阿知使主様は三年で、この池田に呉服の織り方をこの地の人々にお教えすれば呉の国に返していただけるとおっしゃってました。あと二年、二人でがんばりましょうね」今にも折れそうな妹。 アヤハを気遣う姉のクレハも、まだ18才を少し過ぎたまだ幼さの残る少女だが、妹を元気づけるのに涙はこらえているのだった。
「この地の人々にあたたかい、絹の織物を作ってあげましょう」姉のクレハは、自分を勇気づけるかのようにアヤハに言った。
「この、川を見ると呉の国を流れる故郷の長江を思い出し寂しくなってしまいます。筑紫で乞われて、一人でいる兄媛様の事をを思うとまた、涙が流れてしまうのです。さぞかし、長江に咲く白い梅の花を見たかっただろうと」アヤハはまた、「しくしく」と泣き出した。
「アヤハ、もう泣くのはお止めなさい、月が山影に隠れるわ。
もう帰りましょう。阿知使主様に叱られるわ」
二人が会えるのは、月が五月山の頂上に上がる薄暮の時、ほんの少しの間だけだった。
「また、会えるかしら」とアヤハは寂しそうに言った。
「必ず会えるは、あなと私は永久に一緒よ。だからさみしがらる事はないのよ」クレハは、アヤハの小さな体を抱きしめた。
二人の声が途切れると同時に、川面がゆらゆらと揺れたかと思うと、もうそこには、美しい少女二人は写ってはいなかった。
ようやく、振り向いた私の目には「唐船が淵」と刻まれた石碑が写っているだきけだった。ここであったことを石碑は伝えはしない、今を生きる人々がこの地を知らず、石碑に刻まれた意味を知らなくても。しかし、私は、彼女たちが確かにここに立ち、時を越えて、故郷を思いながら寂しさに耐え、この私の愛すべき池田のために一生を呉服作りに捧げたという、まごうことない事実を
知っている。
ふと、見上げた五月山にある伊居太神社から、あかい二つの魂が下にある呉服神社に「すっと」光の帯をなびかせた。
ふたりは、今は、もう泣くこともなく、なかよく一緒に暮らせているのだろうか。きれいな服を織り続けたけなげな少女に思いを馳せた。私はとっぷりと暮れた猪名川の河原を、自転車を押しながら娘の待つ家路に向かった。
終わり