風
あたしの全身が、震えているのがわかった。
止まない風があたしを通り抜けて行く。空を見上げれば、暖かな光があたしを照らしていた。
行き交う人々は、その場に佇むあたしなど見向きもせずに通り過ぎ、あたしの周りには自然とぽっかりと空間ができていた。
そっと、目を閉じた。分かっている。待っていても、彼が来ないことは。
(でも、だけど、)
あたしは馬鹿みたく待つことしかできない。この胸の痛みを抱えながら、早くこの苦しみが終わることを願って。
目を開けると、相変わらず人の渦があたしを取り囲んでいた。
風が色とりどりの花を揺らしている。それを見てふっと自嘲気味に笑う。
(こんなことしたって彼を取り戻せるわけ、ない)
わかってる。もはや、あたしに価値はない。ただの、お荷物。
振り返れば、人々が忙しなく横断歩道を渡っている。
車も人も、自分のことしか考えていない様に見えて、自然と笑みも消える。
「馬鹿……みたい」
そう、呟いてみた。
自然な動作で足を踏み出す。車が猛スピードであたしの目の前を通り過ぎて行く。
ーー全身が、震えていた。
それでも足は止まらない。もう、自分の意思で動かしてはいないように思えた。
あと3歩ーー。
頬を冷たい涙が伝った。
あと2歩ーー。
彼の姿を、声を思い出して心が痛んだ。
あと1歩ーー。
聴こえた、気がした。
止まらなかった足が、ぴったり止まった。
信じられない思いでゆっくりと振り返る。そして目を大きく見開いた。
『ユズ……っ』
乱れた息の中、必死にあたしの名前を叫ぶ彼を見た瞬間、止まらなかった全身の震えも止まった。
『ユズ!ごめん、ごめんな。オレを許してくれなんて言わない。言えないけど、』
苦しげな顔で言葉を紡いで、崩れ落ちるように膝をついてうなだれてしまった。
呆然とその様子を見詰めるあたしは、まだ現実を受け止めきれずにいた。
『全部、オレの所為だ……』
違う。そんなわけない。これはあたしが引き起こしたことなのに。
首を左右に振るけど、彼はあたしをみていない。
『オレを恨んでいるだろ?』
そんなことない。だって、ずっとあなたが来てくれるのを待っていたんだから。
『オレにはもう、ユズに会う資格なんてない』
そんなこと言わないで。あたしは会いたくてしょうがなかったのに……。
彼がゆらりと顔を上げた。その顔にははっきりと疲労の色が見えた。周りの迷惑そうな視線など気づかない様に、ただ一点だけを見詰めている。
『ユズ……、苦しかったよな』
……。
『まだ、苦しんでいるのか?』
……。
『こんなこと、オレが言う権利ないけど……もう、苦しまないでくれ』
あたしよりも苦しそうなあなた。だけど、そんなあなたを前にあたしはただ立ち竦むしかなかった。
『ユズの苦しみを消すためなら、オレはなんだってする。命だって捨てる』
その瞳は何かを決意したかのように光っていた。
そんなこと、して欲しくないの。ただ、会いに来てくれただけで充分だから……。
そう、伝えようとして、ふらりと彼に歩み寄ろうとした。
ーーだが、直前で思い出してしまった。
(あなたには、彼女がいるでしょう……)
また、全身が震えはじめた。そうだ、あたしは彼に捨てられたんだ。
あの時の衝撃は今でも忘れられない。
あたしはあんなにも大好きだったのに、あなたはそうじゃなかったんだと、見せつけられたようだった。
あんなに嬉しそうに他の女の子と喋って、『好きだよ』って囁いてーー。
そっと、全てを拒絶するように目を閉じた。
何も聴きたくなかった。それなのに、彼は言葉を繋ぐ。
『オレは、愛していたんだーー』
やめて。あたし以外の女に囁く愛の言葉なんて、聴きたくない。
『今更なのはわかってる。本当に……ごめん』
お願い、謝らないで。惨めになるの。
『オレはーーユズを、愛してる』
なに、それ……?
「あとから聞いたんだ。ユズがあそこにいたって。……あれは、ユズへの言葉だったんだ」
どうゆう、こと?
「俺、あの子に告白されて、断ったんだ。ユズと付き合ってるからって。そしたら、そんなに好きなのかって聞くから」
『好きだよ』
あれは、あんなに嬉しそうに話してたのは、あたしへの言葉だったから……?
彼からの言葉が、あたしの震えを止めた。
目から一粒の涙が零れた。
「ごめん。俺が、しっかりしてないばっかりにユズを……っ」
彼も静かに涙を流していた。
その涙があまりにも綺麗で、あたしのために泣いてくれるあなたが愛おしくて、動かなかった足を再び動かす。
「ありがとう」
心からの笑顔で、そう囁くことができた。
ふんわりと、包み込む様にあなたを抱きしめる。
「ごめんね」
ーー触れることはできないけど。
また風が吹いて、道の角に置かれている、あたしを弔うための花が揺れる。
あなたと視線が絡むことは、もう、ない。
(だけど……)
驚いたように顔を上げたあなたが、あたしの向こう側を見る。そして、
『ユズ……?』
そう呟くから、あたしはとても満足した気持ちで彼から離れる。
次第に薄れていくあたしのカラダーー魂。
「あたしはもう大丈夫だから」
声は届かない。
「あなたは、あなたの人生を生きて。ーーあたしの分も」
姿が彼に見えることはない。でも、
「あたしも、愛してる」
満面の笑みを浮かべる。
『……っ。ユズっ!』
あなたが、あたしの名前を呼んでくれるから。
あなたの腕に、真っ白な柚子の花が抱えられているから。
「あたしは、すっごく幸せだったよ」
だから、
ーーあなたも、幸せに生きて。
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