幕開けの一戦
今まさに、三人の狩人達は絶望と言う言葉の重みを、その身を以て初めて実感していた。
燦々と輝く日光の下、緩やかな平原を疾走する人影が三つ。更にその後ろを、今にも前方に追いつきそうな速度で疾駆する巨大な獣の影が一つ。
逃げる狩人を獣が追撃している風に映る その光景は事実 その通りであり。
獣を狩る側である狩人達はその立場を逆転され、狩られる側――捕食される存在となって、命懸けの逃走劇を繰り広げている最中だった。
狩人の内 二人は男。若い成年と、濃い髭を顎下まで伸ばした体格の良い壮年だった。
一人は女。長い髪を後ろで結んだ、幼さの赤い髪の女。
いずれも腰には短めの鉄剣が携えられ、背中には量産型の簡易な木弓と、矢筒が背負われている。
それに加えて、壮年の男だけは両手持ちの斧が弓の横に収められていた。
対して、その三人を追い回しいている獣は全長は3メートル近くあり、体長もニメートルと言う巨体を誇り。どうみても三人が持つ装備で太刀打ちできる相手ではなかった。
それもその筈、三人は確かに獣を狩る狩人ではあるが、それは狼や狐、鹿や猪といった動物を獣と指して狩り行うハンターなのだ。
だが、今真後ろに控えるモノは どう考えても彼等の手に負える獲物ではない。そもそも彼等から手を出すなど考えられない存在――獣など比べ物にならない危険な猛獣、魔物なのだから。
魔狼獣――その外見は、巨大化した狼に酷似している。
口の両端からはみ出した巨大な牙は、見た目通りの鋭利な切れ味を誇り。一度捕まれば、人間の体など紙切れ同然の様に引き裂かれるだろう。
そして、何よりも恐ろしいのは天性の知性。
通常 動物と人間の移動速度を考えてみても、人間が獣に勝ることはまず有り得ない。ましてやガルムは魔物の中でも特に俊敏なことで有名である。つまりガルムは先を行く三人に追いつこうと思えばすぐにでも追いつけるし。飛び掛れば一瞬でその背中を裂くことも可能だった。
しかし、ガルムは狡猾で、かつ残忍だ。
目の前を必死に逃げる獲物達。その全てを最も効率よく仕留める方法は あえて追いつかずに追尾を続けることだと本能で理解しているのだ。
そうするこにより極限まで標的の体力を奪い、憔悴したところを狙えば獲物の抵抗を受けることなく、なおかつ逃げられる可能性を零にし、最小限のリスクで飢えを満たすことができると見越していた。
まさにガルムの持つ野生の頭脳は狩人の計算高さそのものであった。
「はぁはぁはぁ、ちくしょうっっ! 最悪だっ!」
若い成年が堪らずに己の不運を喚き叫ぶ。
「ぬぅぅぅ、喋らんほうが良いぞっ体力を消耗するなっ」
「だまれクソったれ! どっっちくしょう! なんでこんなところに魔物が居るんだってんだっ!」
左隣で走る、壮年の男の忠告すらも罵倒で跳ね返す。
呼吸を激しく乱し、声を荒げる狩人の成年――リロイは、自分の運の無さを呪っていた。
本来 魔物とは、特定の地域内でしか生息していないものだ。
殆どの魔物は、とある鉱石から発せられる霧質の成分を好む習性があり、瘴気と名付けられたその成分こそが魔物を魔物たらしめる力の源であるとされていた。
鉱石の名称は魔を創る石と書き、魔創石と名付けられ。瘴気を活力源とする魔物は、従って魔創石が埋まる地域以外に活動範囲を拡大、または移行することは殆どないと調べがついていた。
魔物の領域と化した地を危険地域として指定し、その地を隔離する為の防壁を設けることにより諸国はある程度の安全性が保たれていた。
そう――”ある程度”の安全性は保たれていることは確かだった。
だが、何事にも例外と言うものは起こり。今だ この世界には予想もできない危険に満ち溢れているのも、残念ながら確かだった。
リロイ達が普段狩場にしているこの平原は瘴気も漂っていなければ、魔創石など欠片も見当たらない比較的安全な――少なくとも魔物による脅威はないとされる地域である。
彼等は三人でいつもどおり狩りに出かけ、適当な獲物を狩猟して村に持ち帰る日課とも呼べる一日を沿っていただけだ。
――くそがっ
リロイは心中で拳を打ち、自身の失態に悪態をつく。
この平原の王であるサーベルキャットがズタボロに引き裂かれているのを発見した時点で、狩りを中断していれば良かった。
平原でサーベルキャットを一方的に貪ることのできる野生動物など居る訳がない。
その異変の重大さにもっと早い段階で気づくべきだったんだ。
遠眼に一匹の獣の姿を確認した時には遅すぎた。
視力、嗅覚、聴覚、あらゆる感覚器官が通常の動物とは一線を画し、生物として異常な高さを誇る潜在能力。
その全てが規格外の怪物である魔物。
捕食者としての立ち位置は人類の遥か上位に君臨し、絶対的だ。
遠くでその姿を確認した数十秒後には、小さかった影像は巨大な猛獣の形を象っていた。
――まさか 石外種の魔物に遭遇しちまうなんて、……ツイてないってもんじゃねぇぞ。
魔物は魔創石からなる瘴気を活力源にしているは記したが、それは必ずしも必須の成分と言う訳ではなかった。
瘴気を体内に取り込み、ある種のエネルギーへと変質させて力の増幅を図ることは既に判然としている生態情報だが、しかし、それは人類で言うところの嗜好品に近い感覚であり、魔創石の無い土地でしか魔物は生きていけないと言うわけではなかった。
けれど、生活に不可欠ではないにせよ、魔物にとって瘴気が届かない範囲外で生活を送ると言う行為は奇行に等しく、その異端種を指して、人間は危険地域指定外に進出した特殊令を石外種と読んだ。
「げ、げ、限界ぃぃ。り、リロイの兄貴ぃ、う、ウチはもう無理ですわ。もう走れねぇっす」
可憐な見かけによらず案外凄い口調の女狩人。少女とも呼べる外見の彼女は、若い狩人にそう告げると、動かす足の速さを徐々に落としていった。
「こ、こらっっ! アーシャ諦めんなっどあほうがっ!」
隣で肩を並べていた少女の姿が後退していくのを横目に、青ざめた表情で怒声を飛ばすリロイ。
「ぬぅぅぅ、悪いなぁリロイ、俺ももう限界だっ、どうせコイツは撒けん、なら、せめて、足の動くうちに、こいつの頭をカチ割ってみたく、なってきた」
「ば、馬鹿を言うなやガンツ!! 勝てる相手と思ってるのかぁ!」
真ん中を走るリロイ。叫び声を今度は反対方向を走っていた大柄の男ガンツへと飛ばすが、既にガンツの姿は隣にはなかった。
くぁーーバカ野郎っっっ
友の蛮勇に、リロイは頭の中でまたもや叫ぶ。
言うが早いか、ガンツは足を緩める同時に、背中越しから突き刺ささる様に感じていた殺気を読むことに意識を集中させた。強烈な殺気。その悍ましさは実体を持つ圧力の様に鮮明に伝わってくる。
そして、ガルムの位置情報を漠然と捉え、自身の感覚に従いガルムの側面へと回り込む様に身体を捻り、反転を試みる。
獲物の予想外な動きにガルムの反応が僅かに遅れる。
思惑通りに側面へ逸れる事に成功したのを視認すると、ガンツは条件反射的に利き腕を背中へと這わせていた。
掴みごたえのあるずっしりとした太い持ち手。
三人が持つ得物の中では郡を抜いて高い攻撃力を誇る、黒鉄の両手斧だ。
この斧による一撃が当たれば魔物と言えど致命傷は避けられない。
柄を右手に握り締め、背中に収めた状態から真正面に振り抜く様にして腕に力を込め、鉄を唸らせる。
垂直に下ろされた斧の切っ先は、真っ直ぐにガルムの腹部を捉えていた。
間近へと迫り、魔狼の引き締まった横腹に刃の先端が影として映し出されたのを見て、ガルムの腸が飛び出すのも時間の問題かとガンツは確信を得たが――
「――ガルゥゥゥッッ!!!」
しかし、そう容易く人間如きの一撃をもらう上位捕食者ではなかった。
異常な反射神経と跳躍力を見せつけ、四脚に力をいれたガルムは瞬時に空へと舞い上がり、ガンツの決死の一撃を難なく躱してみせたのだ。
空ぶった斧は緑の大地に抉りこみ、確信的と思われた手応えを得られなかった事に、ガンツは苦々しい表情を見せた。
そのガンツの抵抗に、ガルムはあからさまな怒りを見せる。
、獰猛さが増し、もはや凶悪なまでに変化した狼の表情。
烈火の如き感情は全身の至るところから滲み出し。
眼光の刺々しさは更に尖れ、閉じていた口は開かれ、歯茎を剥き出しにして唸り声をあげていた。
「ぬぅぅぅよけられたかっ! 詰んだわ」
荒い呼吸を整えながら遺憾を期す。
「あああぁぁぁぁもうバカ野郎っっ! めっちゃ怒らせてんじゃねぇぇかっ! ちくしょう、もうこうなったらヤケだ、やけくそだっ! 地獄の底まで付き合ってやらぁぁ! この千手観音流剣の使い手として恐れるリロイ様の剣さばき、その身に味わってから俺を食え!!!」
「喰われること前提の意気込みっすか!?」
自らの足を止め、剣を抜き、滅茶苦茶に振り回しながらガルムを威嚇するリロイ。
その横で、死の淵に立たされていると言う状況にも竦むことなくツッコミを入れる少女アーシャ。彼女も、二人同様武器――弓――を構えて戦闘態勢を取る。
三体一。数的有利と言う言葉は この場合通用しない。
限りなく生存できる確率は低いことを重々に受け止めながら、死に花を咲かそうと決死の覚悟を刃に燈す狩人達。
ガルムの爪牙と狩人の刃が交差しようとした調度その時――
平原の静けさを突き破り、募りに募った両者の殺気さえも素の状態へとさせてしまう様な、耳を劈く爆音が突如として打ち鳴らされた。
◇
地平線の果てまで見渡す事が出来るとは、まさにこの平原を指す一番の表現だろう。
緑の絨毯を敷く大地の真上には、美しい海原を連想させる広大な蒼空がどこまでも続く。
この喩えから『海瓏平原』と名付けられた場所だ。
魔物の影響を受けることは殆どないとされる、第四位安全指定地域であり。
全 第五位からなる安全指定地域の中では下から二番目と決して高い訳ではないが、それは魔物以外の野生動物が多く生息している事が起因となっていた。
時刻は昼時。太陽の陽射しが肌当たりの良い暖かさを作り上げている。
その長閑な平原に一人の旅人の姿があった。
フード付きのマントを羽織り、中には艶のある革製防具を着込み、赤と黒を基調とした それら着類は、どれも年季が見受けられた。
腰には合計三つの小物入れとダガーを備え、背中には中程度の大きさの、獣の皮を用いられた背袋が背負われていた。
”服装に関しては”一目で旅人と判断できる装いなのは間違いないが、しかし、一つ、単なる旅人と決め付けるには大層な物があった。
それは、背中と背袋に挟まれる形で装備されてある巨大な剣の鞘、大剣と呼んで差し支えない特大両手剣が背負われていたからである。
しかし、ともなれば、その旅人を見る目は大きく変わることとなる。
途方もない重量を誇るツヴァイハンダーを扱える者など、世界広しと言えどそうそう存在はしない。
例え背中に背負うだけでも、一般的な成人男性の力で比して重心を剣の重みに持っていかれ、尻餅をついてしまう程だ。
戦士ギルドに所属する屈強な男達でさえ、その扱いにくさに持ち手を選ぶと言われ、不人気もとい使えない者の多い――使い熟すにはあまりにも難しい武器として知られていた。
それを装備していると言うだけでも特異なのだが、しかし、それすらも霞んしまう程の真実が旅人自身にあった。
旅人は、女性だった。
それもツヴァイハンダーをブンブン振り回せる様な筋骨隆々の男よりも男らしい女――と、言う訳ではなく、むしろ真逆の華麗な少女といった容姿をしている、美しい女性だった。
遠い地方にライトエルフと呼ばれる長寿の妖精族が存在する。
ライトエルフは一本一本が まるで宝石の様に美しい金糸の髪を持ち、穢れる事のない玉の肌と天使の様に美麗な相貌をしているとされていた。
彼女を見て彷彿させられる印象は まさしくそのライトエルフ達だろう。
彼女とエルフの違う点と言えば、エルフの特徴である尖った耳を持っていない事だ。逆に言えば それくらいしか違いはなかった。
優しい陽光を受けとめた金の髪が、黄金の輝きを放つ。
時折視界を遮る長い髪をうっとおしそうに掻きながら、彼女は足を動かしてづけていた。
額の汗が頬を伝い始めた時、その足はとまる。
――――まずい。
心の中で、なにやら不安げな一言を放ち、腰をかけるのに適した天然の腰掛けを見つけ、身を落ち着ける。
重い荷物を近くに下ろし、自分でも感動ものの本来の体重を取り戻した彼女は、水筒を唇に当てた後、「ふっー」と、「疲れました」と副音声の入った息を吐く。
彼女の名前はアリス・ヴァン。
齢十八歳の戦士ギルドに所属する、れっきとした剣士だった。