[掌編] はる、うらら
私は捨て子だった。
親の名はもとより、顔さえ知らない。
……といっても、私はそのことを不幸だとは寸毫も思ってはいない。むしろ、私を産んでくれた親に感謝してさえいる。ありがとう。そう言っても良い。何しろ今の私は幸せなのだ。だから、生まれなんて気にしてはいない。
『はる、うらら』
ぽかぽかとした正に小春日和といった陽気。
私は縁側に寝転びうとうととまどろんでいた。
さわやかな風。温かな陽光。何時までも軒下に吊られたままでいる季節はずれの風鈴が風に煽られチリンと音をたてる。
贅沢の極みだわと、欠伸を一つかく。
目蓋は次第に重くなり、耐えられなくなってくる。
そんな時、ただいまと間の抜けた声。
声の主である、この家の主人が帰ってきたのだ。
私は耐え難い睡魔とのそれはもう言語を絶する闘いに辛くも勝利を得、主人を迎えるために立ち上がると玄関に向かった。
木枠にはめられた曇り硝子に、影が映っている。
私の足は自然と早くなり、何時の間にか小走りになっていた。
引き戸が音を立てながら開き、主人が姿を現す。
いつもの書生然という服装の主人。そろそろ三十路近くなのだから、もっと服装に気をつけたほうがいいと思うのだが、服装に頓着しない主人は何時までも同じような格好だ。でも、その服装が一番似合っているとも、私は思うのだけれど、偶には違う服装も見てみたいとも思う。
私がそんなことを考えているとはつゆほども気づかない主人は、私の姿を直ぐに見止めると、嬉しそうに顔をほころばせてただいまと言った。私もそれに応える。
良い子にしてたかいという主人に、勿論と首を縦に振り、肯く。
そうかと言うと、良い子良い子と頭をなでてくる。
筆だこのある大きな手。優しい手。
私は主人のこの手が大好きで、その手で撫でられるのはもっと好きで、口下手な私だから、言葉では伝えられないことをジェスチャーでする。もっとしてとねだる。主人は私の思いが分かったのか、何時までたっても甘えん坊だねと微笑を浮かべ、優しく撫でてくれた。
主人の言葉に素直に首肯する。
私は甘えん坊だ。だけれど、それは主人に対してだけ。そしてそれは私だけの秘密。
主人の部屋。
大きな本棚に納められている沢山の本、開け放たれた縁側、陽射しが差し込む暖かな部屋。
先ほど寝転んでいた縁側に敷かれた座布団の上に再び寝転んで、文机に向かう主人の背中を眺める。
大きな背中。広い背中。
主人は物書きを生業としているらしい。最も、さして売れていないようでちょくちょくとあまり品の良くない雑誌に筆名を変えて読み物を書いているらしい。
生憎と、私は主人の書いた物を読んだことはないので、その良し悪しは分からないのだけれど、それを書いているときの主人は近寄りがたくはあるのだけれど、その顔は真剣で、普段ののほほんとした呑気な顔ではなくて、少しだけだけれど凛々しく見えて、かっこよく思えて、……うん、私が大好きな顔。
だから、私はこうやってのんびりと仕事姿を眺めているのが好きだ。時たま振り向き、仕事姿を見られるのが恥ずかしいのか、ふとした瞬間に浮かべる、照れたような、困ったような、そんな表情も好きだ。
だから、此処が私の特等席で、定位置。
私は主人の姿を呆と眺めていると、何時の間にかまたうとうとと舟をこぎ始めていた。
如何なぁとは思うものの、直ぐに睡魔が先ほどの復仇を誓い一個軍団ほどの大軍で押し寄せてくるような、──そんな錯覚。それはとても抗い難いもので、到底敵わないもので、私は直ぐに白旗を降って、意識を手放した。
夢。
夢を視ることがごく偶にある。
と、いってもそれは覚えているという意味で、もしかしたら寝るたびに夢自体は視ているのかもしれない。ただ覚えていないだけという話で。
そして視る夢の内容というものは大抵、空想的な物事ばかり。空を飛んだり、巨大化したり、……そんな類の絵空事。偶に好物をお腹一杯食べるという欲望丸出しな、あまりにも俗っぽい感じの夢を視ることもある。そんな時は、起きた後に意地汚いなぁと嘆息する。そんな自分が少し嫌いだ。
でも今度の夢はどうやらそんな類のものじゃなさそうだ。
私にとっての大昔。……といってもいまだ指の数で納まるぐらいの前のこと。
当時の私は子供で、どうしようもないほど子供で、なにも知らず世界というものに放り出され、生きていくことだけで精一杯だった頃の時代。周りの全てが全部敵。そう信じていた頃の生きるということが戦いだった頃の記憶、そして夢。
夏だった。
幾ら夏の太陽が早足だといっても、まだ日の出前の深夜。
私は目的地まで物陰に隠れながら歩いていた。
何せ、周囲にあるのは全部瓦礫の山だ。物陰を作るものに不足なんてものはない。
私は今日も今日とて人でごった返す闇市へとやってきた。
こんな時刻だというのに人々の喧騒が渦巻き、熱気が気温を上昇させている。
こんな夜にご苦労様ねと心の中で呟きながら、なにか美味しいものでもないかしらと鼻を利かせ雑踏の間を縫うように歩いた。
暫く歩くと、ある屋台が目に止まった。
うどんの屋台だ。
珍しいわねと思いながら近寄ってみる。
小麦粉を薄く延ばしたすいとんの屋台なら見かけるが、うどんの屋台はとんと見掛けやしない。なので確かに珍しい。
屋台は繁盛していて、少し離れた位置に廃材で作られた粗末なテーブルまで置いてある。
そのテーブルからもあぶれたのか、提灯の光に点されながら片隅で一人の男が丼を抱えうどんを啜っていた。
眼鏡をかけた痩身の男だ。
男は私を見止めると、にっこりと微笑む。
やあ、君も腹を空かせたのかい?
そう言って微笑を浮かべながら、私にうどんを少ないながらも分けてくれた。
生きるだけで大変だという、こんなご時勢にご飯を恵んでくれる人なんて滅多にいやしないのに見た目どおり、人がいいわねと呆れに似た思いを抱きながらもあり難く貰うことにした。それだけ、差し出されたうどんは私の瞳には魅力的に映った。
私と同じ感想を抱いたのか、にいちゃん、アンタ優しいねぇと傍で、同じようにうどんを啜っていた中年の男が欠けた歯を覗かせながら笑った。
私はそんな笑い声を聞きながら、うどんを頬張る。
うどんというものを食べたのはこのときが初めてかもしれなかった。だからかもしれないけれども、今にして思えば、出汁もない醤油だけの粗末なうどんではあったけれども、そのうどんがとても美味しかった。
私は口の中のうどんを何度も咀嚼し、未練がましく嚥下すると、男を見上げた。
男は何を勘違いしたのか、もうないんだよと言って丼の中を私に見せる。
私は別にお代わりを要求したわけではないけれど、それでも少しばかりがっかりとした気分になったことは確かだった。そして感謝の気持ちを込め、男に一礼する。
ありがとう。
そんな気持ちが分かったのか。男は顔を綻ばした。
それが、今の主人との初めての出会いだった。
昼寝から目を覚ます、と一度大きな欠伸をした。
室内を見回すと橙色に染まっている。
夕方。
夕闇が早足で夜空を歩く時間になっていた。どうやら寝すぎたらしい。
何時の間にか気の早い一番星が宵闇の空に輝いている。
宵闇の空から視線を主人の背中に戻すと、丁度主人は伸びをして、首を二三度左右に降り、今日はこの辺で終わりにするかなぁと呟いた。
私はそれを聞くと立ち上がり、主人の元に近づいた。
主人は私が傍に着たことに気づくと顔を向け、今日はお前の好物だよといって笑い、私の喉元を軽くかいてくれた、むず痒いようで気持ちいい指の動き。そして、立ち上がると台所に向かった。
何だろうな?
夕食を楽しみに思いながら私はくれ縁に立ち夕陽を眺めながら──、にゃあと一声鳴いた。
そうして春の一日は暮れてゆく。
今日もいつもと変わらない春うららな一日だった。
拙作をお読み頂いてありがとうございます。
久しぶり(というのもおこがましいほど久しぶり)に書いた習作です。やっぱりコンスタントに書かなきゃいけませんね。文を書くってこんなに 難しかったっけ? と驚かされました。
やまなしたになしおちなしなお話ですが感想やらなにやらがありましたら大歓迎ですので遠慮なくどうぞ。それが肥やしになります……うん、多分絶対。