予感
大会が終わってから、部活に行く理由が、曖昧になっていた。
それまでは、毎日がはっきりしていた。
練習があって、目標があって、本番があって。
疲れて帰ることすら、どこか納得できる時間だった。
でも、それがなくなった。
体育館で後輩たちが練習しているのを、離れた場所から眺める。
自分もついこの前まで、あの中にいたはずなのに、もう戻ることはない。
引退、という言葉は知っていた。
けれど、それがこんなふうに、静かに終わるものだとは思っていなかった。
音が、遠く感じた。
管楽器の音も、足音も、全部が現実からずれているような感覚。
自分だけが、そこから一歩外れてしまったみたいだった。
帰り道がいつもと同じはずの道なのに、どこか違って見えた。
やることが、なくなったからだと思う。
「お前、大学受験するの?」
隣を歩いていた友達が、何気なく聞いてきた。
「まだ考え中」
短く答える。
それ以上、話は続かなかった。
本当に、考え中だった。
進学するか、働くか。
どちらも現実的で、どちらも決めきれない。
家のことを考えれば、働くべきだと思っていた。
病気がちな父の代わりに、母がずっと働いている。
大変そうな姿を、何年も見てきた。
自分も、いずれそうなるべきだと、頭では分かっていた。
でも、どこかで決めきれなかった。
ただ、それでもまだ、このままでいたいと思っていた。
駅に着くと、ホームにはいつも通りの人の流れがあった。
誰もがそれぞれの目的地へ向かっている。
その中で、自分だけ立ち止まっているような気がした。
電車が来て、扉が開く。
流れに押されるように乗り込む。
何も考えないようにしても、頭のどこかで、同じことを繰り返していた。
――どうするんだろうな俺。
答えは出なかった。
ただ、その曖昧なままの状態が、少しだけ続いて欲しい気がした。
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遥も、同じように公立の高校に通っていた。
マーチング部で、楽器はコルネット。
トランペットに似た形で、柔らかい音がする楽器だ。
遥は一つ下の高校二年生だった。
父親は早くに亡くなっていて、母親が働いていると聞いた。
彼女自身もバイトをしているらしい。
詳しいことはまだ知らない。
でも、話しているときに、時々だけ見せる表情で、なんとなく分かった。
無理をしている、というほどではない。
でも、どこかで気を張っているような、そんな感じだった。
大会の日に撮った写真。
あのあと、遥は何度か見返しているらしい。
さつきから聞いたわけじゃない。
本人が、少し照れたように言っていた。
「なんか、何回も見ちゃうんだよね」
その言い方が、嬉しかった。
会えるのを、楽しみにしている。
たぶん、それはお互い同じだった。
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二人が会えるのは、土曜日だけだった。
遥の母親は、まだ異性と付き合うことをよく思っていない。
紹介することもできなかった。
だから、母親が仕事に出ている土曜日だけ会っていた。
最初に電話をかけたときのことを、駿はよく覚えていた。
コール音が数回鳴って、受話器が取られる。
「はい、進藤です」
遥じゃなかった。
一瞬、言葉が出てこなかった。
頭が真っ白になって、何を言えばいいのか分からなくなる。
「あの……」
それだけ言って、詰まる。
奥の方で、遥の声がした。
「お母さんちょっと待って!」
小さく慌てた声。
それだけで、状況が分かった。
代わるまでの数秒が、妙に長く感じた。
「もしもし」
息を切らした声。
「ごめん、今……」
「うん、大丈夫」
それだけで、十分だった。
それ以降は、時間を見て電話をかけるようになった。
いない時間を選んで、短く、でも確実に繋がるように。
そんなやり取りを繰り返しているうちに、距離は自然と縮まっていった。
最初から意識していた二人だった。
仲良くなるまでに、時間はかからなかった。
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駿の家は東京の郊外にあった。
遥の家は埼玉。
思っていたより、遠かった。
自宅から自転車で駅まで10分。
そこから電車に乗って、さらに20分。
乗り換えて、遥の最寄り駅まで一時間半。
合計で、二時間。
最初に行ったときは驚いた。
こんなに時間がかかるのか、と。
電車賃も往復で二千円近くかかる。
高校生にとっては、軽くはない額だった。
それでも、行くことをやめようとは思わなかった。
むしろ、その距離があることで、会える時間が特別に感じられた。
友達からの誘いを断ることも増えた。
放課後に寄り道することも減った。
昼ご飯を削って、その分を回すこともあった。
我慢しているという感覚は、あまりなかった。
遥の家庭のことを聞いていたから、できるだけ彼女の近くまで行きたかった。
それだけだった。
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何度か、デートを重ねた。
遊園地。
ショッピングモール。
お金があまりないから近所を散歩して、近くの駐車場で話したりもして。
特別なことをしたわけじゃない。
並んで歩いて、話しをして。
それだけの時間。
でも、その繰り返しの中で、確実に何かが変わっていった。
気づけば、お互いに分かっていた。
ああ、好きなんだな、と。
言葉にしなくても、伝わるような感覚だった。
恋愛経験がなかったわけじゃない。
でも、それまでのものとは明らかに違っていた。
初恋じゃないはずなのに、
初恋みたいだと思った。
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一ヶ月くらい経った頃。
その日も、いつもと同じように遥の家の近くまで送った。
日が傾いていて、空気がやわらかくなっていた。
自然と、手をつないでいた。
最初にどちらが握ったのかは、もう覚えていない。
ただ、その手の温度だけは、はっきりと残っている。
間があった。
何かを言うタイミングを探しているような、そんな沈黙。
「……あのさ」
先に口を開いたのは、駿だった。
遥が、ゆっくりと顔を上げる。
「俺たちちゃんと、付き合わない?」
言いながら、緊張しているのが分かった。
これまでと何が変わるのか、正直よく分からなかった。
でも、言葉にしないといけない気がした。
遥は、少しだけ目を伏せてから、
「うん」
と、短く答えた。
それだけだった。
でも、その一言で、何かがはっきりと形になった気がした。
プロポーズなんてしたことはない。
でも、たぶん、こういうことなんだと思った。
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帰る前、家の近くの道で立ち止まる。
周りには誰もいなかった。
静かな場所だった。
遥が顔を上げる。
その動きにつられるように、距離が近づく。
触れるか、触れないかのところで、一瞬だけ止まる。
それから、ほんの短く、唇が重なった。
軽いキスだった。
すぐに離れた。
でも、その短い時間だけで、十分だった。
何も言わなかった。
言葉にする必要がなかった。
ただ、そのまま並んで立っていた。
夕方の空気が、ゆっくりと流れていた。




