余韻
この話に、正しい見え方はないです。
同じ場面でも、感じ方は人それぞれきっと違うから。
人生は選択の連続だとよく言いますが、
今でもあの頃の自分の選択は正しかったのかわかりません。
なのでこの物語は自分の思い出として作品にしました。
思い出しながら書いてるし、脚色もしてます。多分完成するまで沢山修正します。
ごめんなさい。
登場人物の息遣いとその場の温度を感じてもらえたなら、
それだけで十分です。
段ボールの底に、古い木の匂いが残っていた。
何年も開けていなかった引き出しを引き抜くと、細かな埃が舞い上がる。
窓は開けているのに、空気はどこか重たく、動きが鈍い。
午後の光が斜めに差し込んで、部屋の隅だけを妙に鮮明に照らしていた。
引っ越しなんて、こんなものだと思う。
必要なものより、いらないものの方が多いことに気づかされる。
衣類、本、使っていない充電ケーブル。
それらを無造作に箱へ放り込みながら、駿は手を止めた。
引き出しの奥に、紙の感触があった。
色あせた、一枚の写真。
指でつまんで引き出すと、その表面に薄く積もった埃が、さらりと落ちたそのときだった。
「これ、誰の写真なの?」
背後から声がした。
振り返らなくても分かる。
息子の声だった。
けれど、すぐには答えられなかった。
視線は写真に落ちたまま、動かない。
写っているのは、制服姿の二人。
夕方の光の中で照れくさそうに笑っている。
距離は、近いようで、ほんの少しだけ遠い。
たぶん、誰かに撮ってもらったものだ。
構図が自然すぎて、逆に意識している感じが残っている。
そうだ。さつきに撮ってもらった写真だ。
――いつのだっけ。
考えなくても、分かっていた。
あの頃だ。
忘れたつもりで、どこかに押し込んでいた時間。
触れなければ、もう思い出すこともないと思っていたのに。
指先に、わずかな震えが伝わる。
「パパが高校生の頃の写真だよ」
それだけ答えて、写真を箱の上に置いた。
それ以上、何も言わなかったし、言えなかった。
息子が何かを言いかけた気配だけが残って、やがて部屋は静かになる。
遠くで、車の音が一度だけ聞こえた。
駿はもう一度、写真に目を落とした。
その瞬間、記憶は、音もなくほどけていった。
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コーヒーの匂いが、ゆっくりと鼻に抜けていく。
小さなカフェだった。
駅から少し歩いた先にある、目立たない店。
看板は色あせていて、知らなければ通り過ぎてしまうような場所。それでも中に入ると、妙に落ち着く空気があった。
昼下がりだというのに、客はほとんどいない。
奥の席に、年配の男が一人いるだけだった。
カウンターの向こうでは、店主が静かにカップを拭いている。
皿の上には、冷めかけたスパゲッティ。
フォークを持つ手は、なかなか動かなかった。
向かいに座っている彼女が、写真を覗き込んでいるからだ。
「これ、ちょっと顔変じゃない?」
そう言って、くすっと笑う。
写真の中の自分たちは、どこかぎこちない。
笑っているのに、ちゃんと笑えていないような顔をしている。
「変かなぁ……普通じゃない?」
「普通かなぁ」
彼女は首をかしげて、それでも嬉しそうにもう一度写真を見る。
指先で、写真の端をなぞる仕草が、やけに丁寧だった。
こうして向かい合って座っていると、不思議と落ち着いた。
会話が途切れても、気まずくならない。
むしろ、その沈黙すら心地よかった。
窓の外を、ゆっくりと自転車が通り過ぎる。
遠くで踏切の音が鳴っている。
ありふれた午後だった。
でも、そのありふれた時間が、やけに大切に思えた。
彼女――遥と出会ったのは、あの日だった。
マーチングの全国大会。
結果は、準優勝。
最後の大会だった。
優勝常連校として期待されていた分、悔しさは大きかった。演奏が終わったあとも、どこか現実感がなくて、ただぼんやりと人の流れを見ていたのを覚えている。
そのとき、声をかけられた。
「残念だったね」
振り返ると、見覚えのある顔があった。
有村さつき。
地元の親友の妹で、昔からマーチングをやっていた。
大会で顔を合わせることもあったし、こうして話すのも不思議ではなかった。
「まあな」
短く答えると、さつきは苦笑いを浮かべた。
その隣に、もう一人、女の子がいた。
少しだけ離れた位置で、静かに立っている。
目立つわけじゃない。
むしろ、どこにでもいそうな普通の子だった。
それなのに、なぜか目が離せなかった。
丸い輪郭。
赤みのある頬。
ほとんど化粧はしていないのに、はっきりした二重の目。
背は高くないのに、全体のバランスが整っていて、すっとして見える。
「紹介するね」
さつきが言って、その子の方を見る。
「友達の遥」
名前を聞いた瞬間、胸の奥がわずかに揺れた気がした。
理由は分からない。
ただ、そのときにはもう、意識していた。
「こんにちは」
声をかけると、彼女は少しだけ間を置いてから、
「こんにちは」
と返した。
小さな声だった。
でも、その一言が妙に残った。
視線が合う。
ほんの一瞬なのに、時間がゆっくりになったような感覚があった。
――たぶん、そのときにはもう、好きだった。
あとから考えれば、一目惚れなんて単純な言葉で片づけられるのかもしれない。
でも、そのときの自分には、もっと曖昧で、もっと確かな何かだった。
遥は、駿のことを知っていた。
去年の大会で、一度だけ見ていたらしい。
そのときから、ずっと気になっていたと、あとで聞いた。
だから今回、さつきに頼んで紹介してもらったのだと。
そんなことは、このときの駿はまだ知らない。
ただ、目の前にいる彼女を見つめていた。
そのあと、三人で話しをして、さつきに写真を撮ってもらった。
汗がまだ引かなくて、シャツが肌に張りついていて少し恥ずかしかった。
ぎこちないまま、でも確かに同じ場所に立って。
シャッターの音が、小さく響いた。
連絡先を交換する流れになって、ちょっとだけ困った。
当時は、まだ携帯を持っていなかった。
持っている友達もいたけど、周りではまだ少数だった。
少なくとも、駿の家も、遥の家も、そう簡単に持たせてもらえる環境ではなかった。
だから、お互いに家の番号を書いた。
紙の切れ端に。丁寧な字で。
「かけていいのかな」
遥が、小さく言う。
「うん。大丈夫」
そう答えながら、内心では緊張していた。
家電にかけるということは、誰が出るか分からないということだ。
親かもしれないし、本人かもしれない。
それでも、番号を渡した。
渡したというより、手放したに近い感覚だった。
これで、繋がるかもしれないし、繋がらないかもしれない。
そんな曖昧な距離。
でも、それが当たり前の時代だった。
カフェの中で、遥はまた写真を見ている。
「ね、やっぱりちょっと変だよ駿の顔」
そう言って、笑った。
その笑顔を見て、駿も少しだけ笑った。
たぶんこの時間は、どこにでもあるものだった。
特別じゃない。
劇的でもない。
でも、その“普通”が、どうしようもなく大切だった。
このときは、まだ知らなかった。
この時間が、どれだけ限られているのかを。




