0-0-0。白骨と死体-Ⅰ-
「━━━━」
誰かが、泣いていた。
声を押し殺して、泣いていた。
それが、どうも気に入らなくて。
目覚ましのアラームを止めるかのように。
その耳障りな声を、ただ黙らせたくて。
僕は、その日。
誰かの手を、取ったのです。
「━━━━り。おい、新入り!」
誰かの声で目が覚めた。
目が覚めると、見慣れない車の中。一般的な車とは違う、手狭な副列シート。恐らくはミニバンの類だろうか。車内には煙草の残香と.....新鮮な発泡酒の安いアルコールの臭気がふわりと漂っている。
「お前、"初勤務"で先輩に運転させて、自分は後部座席でオネンネか?良い度胸じゃねーか、え!?」
怒鳴りながら、ハンドルをガンッと右の拳で叩きつけたのは、水島先輩だ。水と一文字目にあるというのに、その面からは柔軟だとか柔和なんてのは一切伺えない。
剃り込みの入った坊主頭に、袖無しシャツ。右腕には幾何学模様のタトゥーが幾十にも入れられている。確かこの人は1つ年上、彼が高校を卒業してから2年も経っていない筈だ。その人工的な傷口は、口に出来ない社会体系に馴染んでいる事を悠然と語っていた。
「.....寝てませんよ」
「寝てんだろ」
「休憩中の時間の使い方は自由では?」
「窓に頭付けて寝んな。歪んでたら殺す」
真っ当な指摘にぐうの音も出ない。
鉄砲玉一号みたいなツラしてるくせに。
休眠を諦め、1年ぶりに帰郷した街の景色に目を向ける。憂鬱な気分を誘う曇天だったが、それは空を見ても目が眩む事がない、ということであり。半開きの目を慣らす程度には丁度良かった。
「その、センパイ」
「"水島"先輩な。名前略すな」
「.....水島先輩。この辺り、確か1年前まではアーケード街でしたよね。何があったんですか」
舌打ちしながら、水島は正面以外の車窓からの景色を眺め始めた。咥えタバコをしていたせいか、彼が首を横に向けるたびに悪臭が後部座席に吹き込んできた。
「メトロベアは知ってるか」
「.....東京の地下鉄で起きた、あの?」
「あァ。何処からか地下鉄に熊が出て、何十人も食われて死んだっていう例の事件だ。俺は、アレが絡んでると見たね」
メトロベア事件。新聞やニュースを見ない自分でも、SNSで持ちきりになっていたから、その名前と事件の凄惨さは知っている。
都心部の地下鉄で発生した、前代未聞の獣害事件。現場目撃者曰く、唐突に人の中から熊が現れ、その場にいた人を襲い出した、のだとか。
ネットでは陰謀論が押し寄せた。新興宗教のテロリズム、諸外国による工作、果てには政府の実験だとか。匿名性と言論の自由に背を押され、稚拙な憶測が好き勝手にばら撒かれる。
「それと、何の関係が」
「見りゃ分かる。この仕事をすりゃ、嫌でもな」
「.....説明になってませんけど」
「うっせ、察しろクソガキ」
投げやりに語った彼の声には、苛立ち以外の何かが混じっていた気がした。悲しみではない。そんな高尚な知性があるものか。或いは哀れみ.....それも、この男が持つわけもあるまい。
諦念、だろう。何かを見て、こんな所まで来てしまった自分の身を憂いる暇もないと悟ったのか。安い煙草の煙よりも深い灰色が、その瞳を満たしていた。
「お前さ」
「.....あ、呼びました?」
「なんで、ンな仕事やろうとした。大学はどうした」
不意に投げられた質問に、答えられなかった。
大学に入って就職、だなんてのは贅沢な話だ。誰しもがそうしてる、だとか。マジョリティの回答だとはいえ、それが叶わない人間もいる。
水島から見た自分の選択は、与えられた玩具を自ら燃やすような暴挙に見えるのだろうか。ほんの少し、彼の気持ちも分かる気がした。
「.....金の為です」
「カネ?家庭教師でもやりゃ、そっちが儲かるだろ」
「直ぐに纏まった金が必要で」
「なんだそりゃ、大学生様が赤貧か」
よくもまあ、難しい言葉を知っているものだ。
品性の欠片もない見た目のクセして━━━
「後、全部顔に出てるぞ」
「マジすか」
「やっぱ寝とけ。その方がマシだ」
乱暴なブレーキ音と共に、ミニバンが停まる。
「着いたぞ。降りろ」
「.....路駐っすか」
「うっせ。帰り歩きてぇのか」
短く言い捨てて、水島が運転席のドアを蹴るように開けた。促されるままに外へ出ると、ひどく生温い風が頬を撫でる。
目の前に広がるのは、ひどく荒廃した湾岸倉庫街だ。
剥がれ落ちたトタン屋根、飴細工のようにひしゃげたシャッター、ひび割れたアスファルトの隙間から無秩序に伸びる雑草。かつては物流の要だったのだろうが、今はまるで巨大な災害でも通り過ぎた後のように静まり返っている。
時刻は日の入り前だというのに、空は分厚い鉛色の雲に覆い尽くされていた。夕暮れの鮮やかな赤色すらも、その重苦しい灰色の向こう側に完全に隠されていた。
「仕事道具だ、取れ」
「ええ、何でも.....っと。ゴルフクラブ?」
「覚悟はしてきたろ」
「多少は。でも、これ人殴るモンじゃ━━━」
車のトランクから鈍い金属音のするボストンバッグを引っ張り出しながら、水島が鼻を鳴らす。ずしりと重そうなそのバッグの中身は、今のところ聞かない方がいい気がした。
「行くぞ。俺たちが向かうのは『7番倉庫』だ」
やれやれと内心でため息をつきつつ、その背中を追って荒れた舗装路を歩き始める。
1番、2番と、放置された巨大な倉庫群の脇を通り過ぎていくたびに。どうにも、歩みを進めるごとに鼻をつく匂いが変わっていくのが分かった。
最初はただの潮風だったはずが、倉庫の影が濃くなるにつれ、奇妙な悪臭が大気を侵食し始めている。ツンとするような、古びた鉄錆の匂い。いや、なんだろう、これ。もっと変に生々しいというか。
「先輩」
「聞くな。あと名前」
「豚や牛じゃないでしょ、これ」
「口呼吸にしとけ。初日でゲロ吐かれたら、俺の評価まで下がる」
立ち止まることなく、低い声で言い返される。その顔を覗き見ると、忌々しそうに顔を顰めているのが伺えた。
やがて、他の建物と遜色ない倉庫の前に辿り着く。色褪せた外壁には、かすかに『7』という数字が塗られた形跡が見える。どうやらこの鉄錆の悪臭は、間違いなくここから漏れ出ているらしい。
「開けるぞ」
水島は答えず、ボストンバッグを肩にかけ直すと、両手を扉に掛けた。こちらは力仕事はガラじゃない、とばかりに肩をすくめてみる。あっ、睨まれた。ダメか。
渋々、並んで手を掛けた。鉄の扉は想像以上に重く、錆びついてるのかビクともしない。二人で掛け声を合わせ、全身の体重をかける。
「せーの、っ!」
「いっせー.....オイ、わざとだろッ!」
ギギギィィィ、と鼓膜を劈くような不快な金属音が響き、扉がゆっくりと内側へ滑り込んでいく。
開かれた闇の中から、外の悪臭を凌駕する濃厚な気が顔に吹きつけた。ツンとするような塩の匂い。そして、それを覆い隠すほどの、生温かい血の香りが混ざり合っている。
潮風と、鉄錆と、血。
平成初期にお似合いのフレーズだろうと、軽口を脳内で唱えた。
「で、先輩。ここで何を?」
「兄貴が、教会から奪った戦利品を隠してる。それを処分しろって命令だ」
水島は、薄暗い倉庫の中へ躊躇なく足を踏み入れた。何となく、彼の背中に続く。曇天が申し訳程度に中を照らしているおかげで、光源は必要無かった。
「教会?あの、鐘とか鳴らす方の?」
「ああ、合ってる」
「.....ヤクザがスピっすか」
「良い度胸だ、後で腹に一発な」
倉庫の奥へ歩みを進めていく。
少し見渡しただけでも、埃を被った木箱や、用途不明の機械類が乱雑に置かれているのが分かる。そして、中央の開けたスペース。そこに古びたドラム缶が一つ、無造作に置かれていた。
蓋は、最初から開いている。
「先輩、これ」
「確認しろ。中身、入ってるか」
言われるがまま。
ドラム缶の縁に手を掛け、中を覗き込んだ。
「━━━━━━━は?」
なんだ、これは。
視界に入ったものを、脳が正しく認識しようとしない。
暗褐色の染みがこびりついたドラム缶の底に、奇妙な色をした分厚い布のようなものが、何重にも折り畳まれて捨てられていた。
「.....先輩、これ」
「聞くな。いるのか」
「いるって、そんな。これが生き物みたいに.....」
なんだ、これは。
布じゃない。表面には、微細な毛穴のひだが無数に走っている。ウールだとか、綿だとか、そんな質感じゃない。黄色く変色したソレは、紛れもなく生体組織だった。
「.....ッ、こんなのが.....?」
端の方には、力なく丸まった指先の造形。そして、べっとりと頭皮に張り付いた黒髪。中身を綺麗にくり抜かれたかのように、骨も、肉も、内臓も、何もない。
ただ"外側"だけが、脱ぎ捨てられた衣服のようにクシャクシャに畳まれている。人間の形をしているが、人間の死体だと直感したが、明らかに人間の死に方ではない。
「知らん.....だが、こいつを処分しろって命令だ」
横で短い呼気を吐いた水島は、いつの間にかボストンバッグから、一本のガラス瓶を取り出していた。ラベルのない瓶の中で、透明な液体がタプタプと揺れている。
「先輩。それ、何?」
「酸だ」
彼は感情.....それと、嫌悪感と吐き気を殺した声で答え、ドラム缶の中に向かって、ガラス瓶の液体を躊躇なくぶちまけた。
ジュゥゥゥゥッ、という肉を焼くような悍ましい音と共に、ドラム缶の中からツンと鼻を突く白い煙が立ち上り━━━━同時に、底に沈んでいた皮膚の塊が、ビクン、と大きく跳ねた。
「.....今の」
「聞くな。嫌なら見るな」
生きていたのか、あるいは神経の反射か。溶解していく皮膚が、痛みに悶えるようにウネウネと奇妙な波打ちを繰り返す。ドロドロに溶け崩れていく音と悪臭。それに後退りはしなかったが、反射的に目を伏せてしまう。
「これで動かねえ.....多分な」
「.....多分て。生きてたら、どうなるんすか」
「どうもならねぇだろ」
水島は空になったガラス瓶をそのままドラム缶の中に投げ入れると、僕を振り返った。
「仕事だ。近くの埠頭まで、こいつを押して行く。そのまま海に投げるぞ」
言葉を返す余裕もなく、ただ無言で頷き、再びドラム缶に手を掛けた。強烈な酸の匂いが、むせ返るような血と潮の匂いに混ざり合う。
斜めに傾けたドラム缶は、空っぽの人間の抜け殻しか入っていないはずなのに、泥のように重かった。この不気味な塊を、海に捨てる。「割のいいバイト」は、完全に一線を越えてしまった。
人様に迷惑を掛ける事は覚悟していた。
自分が同じ場所に落ちる事までは想定していた。
だが、コレはそんなどころじゃない。
法律だとか、社会だとか、それ以前に。
人間としての種族の本能が、警鐘を鳴らしていた。
二人でドラム缶を転がし、薄暗い倉庫から這い出す。相変わらず夕暮れを食い潰したような灰色の曇天の下。ゴロゴロ、ガリガリと、錆びた鉄がひび割れたアスファルトを削る重苦しい音だけが、廃倉庫街に響き渡る。
「先輩」
「.....」
「.....その、さーせん」
水島も、それから一切口を開かなかった。ただ黙々と、ドラム缶を埠頭へ向かって転がし続ける。海に近づくにつれて、頬を打つ潮風が少しだけ強くなった気がした。
ようやくコンクリートの縁に辿り着き、暗く淀んだ海面を見下ろす。青というよりかは、藍色に鈍く輝いている。その中で波が岸壁を叩く音が、規則的に響いていた。
「よし。一気に押すぞ。いっせーの.....」
水島が深く息を吸い込むのを感じ、それに合わせて足を踏ん張った。最悪の証拠品を暗い海へ突き落とそうとした、まさにその時。
「.....何を、してるのかしら?」
鉛色の空の下。
黒と藍で淀んだ海の元。
酷く凛とした女性の声が背後から響いた。




