連合国
1943年9月15日。
ベルリン、総統官邸。
机の上の電報は、もう何度読み返したかわからない。
『イタリア降伏。9月8日、バドリオ政権が連合軍と休戦協定締結。9月9日、連合軍が本土上陸開始。ムッソリーニは幽閉先から消息不明』
紙を置く。指先に、わずかな震えが残った。
(……早すぎる)
いや、違う。
(史実通りだ。わかってたはずだろ)
喉が、やけに乾いている。
理解していた未来と、実際に突きつけられる現実は——ここまで重さが違うのか。
9月8日。イタリアは降伏した。
俺がムッソリーニの救出作戦を止めたことで、あの男は今もグラン・サッソの山中に幽閉されているはずだ。史実ではすでに救出されている時期だが、今回は違う。
イタリアは戦線を離脱した。完全に。
……だが。
(まだ、終わってない)
「マンシュタイン」
声をかけると、執務室の扉が静かに開いた。
入ってきた元帥は、無駄のない動きで地図を広げる。
「報告します」
「イタリアの状況は」
「連合軍は南部に上陸。現在、ナポリに迫っています。ただし——」
そこで、わずかに言葉を切った。
「イタリア軍はほぼ統制を失っています。部隊単位で投降、あるいは逃亡が続出。戦線として機能していません」
思わず、乾いた笑いが出そうになる。
「……予想通りだな」
信用など、最初からしていない。だが、いざ現実になると、胃のあたりが重く沈む。
「我々は北部に防衛線を構築中です。しかし兵力の再配置が追いついていません」
「ムッソリーニは?」
「依然としてグラン・サッソに。イタリア側の監視は混乱しており、奪還は可能と思われます」
一瞬、言葉が喉まで出かかった。
——救出すべきだ。政治的には。
だが。
「……放置しろ」
口から出た声は、思ったよりも冷たかった。
マンシュタインの視線がわずかに動く。
「よろしいのですか?」
「……必要なのはわかっている」
自分でも意外なほど、言葉が重い。
「だが、“今は”優先順位が違う。北イタリアの防衛線を固めろ」
短い沈黙の後、彼は頷いた。
「承知しました」
俺は机の引き出しから別の書類を取り出す。
「スイス経由の接触はどうなっている」
「アメリカのOSSと接触は継続中です。ただし——」
「無条件降伏、だろ」
言う前に、答えはわかっていた。
マンシュタインは静かに頷く。
窓の外を見る。灰色の空が、やけに低い。
(……やっぱりか)
講和交渉。そんなものは最初から成立しない。
それは、過去が証明している。
単独で飛んだ副総統も、結局は何も得られなかった。
——なら、やり方を変えるしかない。
(連合国は一枚岩じゃない)
そこに、わずかな隙がある。
「マンシュタイン」
「は」
「イギリスにメッセージを送れ。スイス経由でいい」
彼の眉がわずかに動く。
「講和交渉、ですか?」
「違う」
地図の東を指でなぞる。じわじわと押し寄せる赤。
「“選択を迷わせる”」
言いながら、自分の声が妙に冷静なことに気づく。
「ドイツを先に潰すべきか、それともソ連を止めるべきか——その判断を鈍らせる」
マンシュタインの目が、わずかに鋭くなる。
「……ソ連の脅威を強調する、と」
「ああ。我々が崩れれば、東欧はすべて飲み込まれる」
それは、誇張でもなんでもない。むしろ——
(かなり控えめなくらいだ)
「信じさせる必要はない。ただ、“疑わせればいい”」
数秒の沈黙。
「……試してみます」
彼が退室したあと、部屋はやけに静かになった。
地図を見る。
東では押され、西では準備が進み、南は崩れた。
挟み撃ち。言葉にすれば簡単だが、現実はもっと重い。
(……まだ手はある)
そう思うのに、胸の奥がざわつく。
鼓動が、少し速い。
(落ち着け)
だが、うまくいかない。
理由のわからない焦燥と苛立ちが、じわじわと広がっていく。
(これが……ヒトラーの感情か?)
ドアがノックされた。
「閣下、宣伝相がお見えです」
「……入れ」
入ってきた男の視線は鋭い。何もかも見透かそうとするような目だ。
「イタリア降伏の件、国民にはどう説明なさいますか」
少し考える。
“真実を言え”——そう言いかけて、やめた。
「敗北とは言うな」
代わりに出たのは、別の言葉だった。
「“後退”と表現しろ」
男の目が細くなる。
「そして敵を一つに絞る。ソ連だ」
「……なるほど」
短く、しかし深く頷く。
「ボルシェヴィズムとの戦い、ですか」
「ああ。我々が崩れれば、ヨーロッパは終わる——そう言え」
ゲッベルスはわずかに口角を上げた。
「調整いたします」
力強く扉が閉まった。
再びの静寂。
机に手をつくと、わずかに血管が浮き上がっていた。
テヘラン。
あと二ヶ月半。
その間に、どこまで状況を歪められるのか。
窓の外では、雨が降り始めていた。
大きな雨粒はベルリンの街を、静かに、冷たく濡らしていく。
それは空が、次に何を落とすかを、まるで予告するかのように。
俺はただ、その光景を見ていた。




