同盟国の崩壊
1943年7月26日。
午前3時。総統官邸の電話が鳴った。
俺は、浅い眠りから叩き起こされた。受話器を取る。
「……総統閣下、緊急の報告です」
副官の声。ひどく動揺している。
「……何があった」
「イタリアから電報が。ムッソリーニが――失脚しました」
俺は、ベッドから飛び起きた。
(……来たか)
7月25日。史実通りなら、ファシズム大評議会でグランディ決議が採択され、ムッソリーニは国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世に解任される。そして逮捕。
だが、今は26日だ。一日遅れている。
俺が、7月12日の閣議で「イタリアを見捨てる」と発言したことで、何かが変わったのか?
「……詳細を報告しろ」
俺は、執務室へ向かった。
30分後、ボルマン、ゲーリング、ヒムラー、ゲッベルス、カイテルが集まった。
「状況を説明する」
カイテルが、電文を読み上げた。
「7月24日、ファシズム大評議会が開催されました。グランディ伯爵が、『統帥権を国王に返還する』動議を提出。賛成多数で可決されました」
「25日、ムッソリーニが国王に拝謁。その場で解任を告げられ、逮捕されました。後任の首相には、ピエトロ・バドリオ元帥が任命されました」
ゲーリングが、机を叩いた。
「裏切りだ! イタリアは我々を裏切った!」
「まだ、裏切ってはいない」
俺は、冷静に言った。
「バドリオは、『戦争は続ける』と表明している」
「ですが、閣下」
ゲッベルスが、鋭い目で俺を見た。
「バドリオは、以前からムッソリーニと対立していました。彼は、連合軍との講和を探るでしょう」
「……わかっている」
俺は、地図を見た。イタリア半島。シチリア島には、すでに連合軍が上陸している。
(……史実通りなら、9月8日にイタリアは降伏する)
あと一ヶ月半。
「カイテル。北イタリアへのドイツ軍進駐を準備しろ」
「はい。すでに、ロンメル元帥がアルプス方面に展開しています」
「ムッソリーニの居場所を探れ。救出作戦を準備する」
ヒムラーが、頷いた。
「親衛隊の特殊部隊を派遣します」
俺は、窓の外を見た。ベルリンの夜明け。灰色の空。
(……俺は、ムッソリーニを救うべきなのか?)
史実では、ヒトラーはムッソリーニを救出し、北イタリアに傀儡政権「イタリア社会共和国」を樹立させた。だが、それは戦争を長引かせるだけだった。
もし、俺がムッソリーニを見捨てれば――イタリアは早く降伏する。連合軍は、イタリア半島から北上し、ドイツ本土に迫る。
だが、それでいいのか?
「閣下」
マンシュタインが、部屋に入ってきた。緊急招集に応じて、駆けつけたのだ。
「イタリアの件、お聞きになりましたか」
「……ああ」
「私の意見を述べさせていただきます」
マンシュタインは、地図を指差した。
「イタリアは、もう終わりです。バドリオは、必ず連合軍と講和します。我々がすべきことは、イタリア半島での防衛線構築です」
「ムッソリーニは?」
「……救出する必要はありません」
マンシュタインは、きっぱりと言った。
「ムッソリーニを救出し、傀儡政権を樹立しても、それは戦力の無駄遣いです。それよりも、アルプスからバルカン半島にかけて、堅固な防衛線を敷くべきです」
ゲーリングが、叫んだ。
「マンシュタイン! 同盟国を見捨てろと言うのか!」
「同盟国はすでに我々を見捨てました」
マンシュタインは、ゲーリングを見た。
「現実を見てください。イタリアは、もう戦う意志がありません」
俺は、マンシュタインを見た。
(……こいつの言うことが、正しい)
だが――
「マンシュタイン。もし、ムッソリーニを見捨てれば、どうなる?」
「イタリアは、早く降伏します。連合軍は、北上します。そして――」
マンシュタインは、地図のフランスを指差した。
「来年、連合軍はフランスに上陸するでしょう。そうなれば、我々は東部でソ連軍、南部で連合軍、西部でも連合軍と戦うことになります」
「三正面作戦、か」
「はい。不可能です」
沈黙。
重い沈黙が、部屋を支配した。
「……では、どうすればいい?」
俺は、マンシュタインに聞いた。
「講和です」
マンシュタインは、答えた。
「西側連合国と、講和する。それ以外に、道はありません」
「だが、西側は『無条件降伏』を要求している」
「ならば、条件を変えるしかありません」
マンシュタインは、俺を見た。
「総統閣下。もし、あなたが退位すれば――」
「待て」
ヒムラーが、立ち上がった。
「総統閣下の退位など、ありえない! 閣下こそが、ドイツの魂だ!」
「ドイツの魂よりも、ドイツ国民の命が大切だ」
マンシュタインは、ヒムラーを睨んだ。
「ヒムラー長官。あなたは、何万人のドイツ兵が死ねば満足するのですか?」
ヒムラーが、歯ぎしりした。
「貴様……軍人のくせに、敗北主義か!」
「敗北主義ではない。現実主義だ」
マンシュタインは、地図を叩いた。
「我々は、負けている。問題は、どう負けるか、だ」
その言葉が、部屋に響いた。
俺は、窓の外を見た。
(……どう、負けるか)
イタリアは、崩壊する。
ドイツも、いずれ崩壊する。
だが、その前に――少しでも多くの命を救えるか?
「……全員、退室しろ」
俺は、低い声で言った。
「俺一人で、考える」
一同が、困惑した表情で退室していく。最後に残ったのは、マンシュタインだけだった。
「閣下」
マンシュタインは、静かに言った。
「時間がありません。9月までに、決断を」
「……わかっている」
マンシュタインが退室した後、俺は一人、地図を見つめた。
イタリア半島。
ムッソリーニは、どこかの山中に幽閉されている。史実では、9月12日にドイツ軍の特殊部隊が救出する。
だが、俺は――
(……ムッソリーニを、見捨てるべきか?)
見捨てれば、イタリアは早く降伏する。戦争は、少しだけ早く終わる。
だが、それは――同盟国を裏切ることだ。
窓の外では、雨が降り始めていた。
ベルリンの街を、冷たく濡らしていく。
8月10日。
ヒムラーからの報告が届いた。
『ムッソリーニの居場所、特定。グラン・サッソの山中、ホテルに幽閉されている模様。救出作戦、準備完了』
俺は、報告書を握りしめた。
(……決断の時だ)
ムッソリーニを救うか、見捨てるか。
救えば、戦争は長引く。見捨てれば、同盟国を裏切る。
どちらを選んでも、地獄だ。
だが――
俺は、ペンを取った。そして、命令書に署名した。
『ムッソリーニ救出作戦、中止』
手が、震えた。
(……これで、いいのか?)
わからない。
だが、マンシュタインの言葉を信じる。
「どう負けるか」
できるだけ早く。できるだけ多くの命を救って。
窓の外では、雷が鳴り始めていた。
ベルリンの空を、激しく揺らしていく。
まるで、これから起きる嵐を予告するかのように。




